ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

ラティハンと心

2011-11-04 | 日記
よく理解できる頭、努力する心は、この世の生活には必要なものです。

社会的に評価されるようなものをつかむためには、人は一生懸命に努力しなくてはいけません。

そのような「教育」を学校でも社会でも我々に対してしています。

社会に適応する為には、それは必要なことですね。


でもラティハンと向き合った時には、そのような「心」や「頭」は全く必要ありません。

「立派な心」や「ピカピカな心」、「元気いっぱいの心」などは必要ないのです。

「ありのままの心」、でいいのですが「悲しみ」や「悩み」がいっぱいの時は心が波立っているのでこまります。

また、「目的」にあまり執着した心は固くなりすぎて余裕がないのでこれもこまります。


必要な心は、ただ「ラティハンを信頼する」という気持ちが入る余裕のある心。

緊張してない、ゆったりした心がいいのです。


最初の内は「信頼しろ」といわれても無理なところがあるので、「ラティハンにまかせるよ」という程度でいいのですが。

ラティハンがしたいようにすることを「許す」という程度でいいでしょう。


「人に対して思いやりがある心」や「やさしい心」もラティハンにはあまり関係なさそう。

「静まった、静かな心」は必要ですね。

ラティハンの直前には、世の中の喜びや憂いから離れていなくてはいけません。

「離れろ」と言っても、なかなかできませんので、「静かにしている時間をとる。」でいいでしょう。


「十人十色」のその人の性格やら心やらに合わせて、ちょうどいいラティハンが起こりますので、心を「ああして、こうして。」はありません。

鼻の頭の先を注視する必要もなければ、腹式呼吸をする必要もないのです。

「姿勢が悪い」といわれることもありません。


ラティハンそのものにテクニックはありませんから、「うまい、へた」はありません。

そのかわり、いままで生きてきた自分の生き方の結果や親から引き継いだものは自分のものとして持ってゆかねばなりません。

自分がやったことは「自分の責任」というのはわかりますが、「親からもらったもの」も責任をとらされるのはなかなか納得がいきませんが、そうなっているのですからしかたありません、あきらめましょう。


そういうもの、「ごたごた」や「重み」や「汚れ」はラティハンが洗ってくれる対象物です。

「汚れ」が多い内はなかなかラティハンを実感できない場合もありますが、そこが忍耐です。

急きたてる「心」をなだめて、すこし「アホ」になって、ゆっくりと行きましょうや。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ラティハンは十人十色 | トップ | ラティハンは気長な道  »

日記」カテゴリの最新記事