協会の運営は基本的にボランティアで行われています。
そう言う意味では社会一般の組織とはちがって「手作りの組織」、「アマチュアの組織」になります。
一番近い形態が「町内会」とか、せいぜいが「マンションの管理組合」と言ったところでしょうか。
そして運営は確かに低いコストで行う事が可能ではありますが、それゆえに「属人的な部分」がどうしても多く存在することになります。
そのことは協会のメリットでもありまた同時に弱点にもなっています。
そうして、残念ではありますがそのような会の運営方法では世間一般ではそれなりに常識である、ボトムラインとなる運営規則が抜け落ちる事にもなります。
さて結論はこうなります。
会の運営は出来る限り属人的にならないようにする。
そうして、キーポイントになる所は世間並みのルールに従う。
まあそういうことになるのでしょうね。
PS
町内会というのは互助会的です。
そうして、上部組織としての「市役所」がその上に存在します。
これもまた我々の組織形態と相似的です。
かつてはバパが各国の協会の上部組織でした。
バパ亡き後は「協会の国際組織」がその役目をしています。
そして、「国際組織の常任理事国相当の国」がそれをリードし、それ以外の国の協会はただ「お達し」を受け取る、つまり町内会と同様の存在に成り下がっています。
町内会がビジネスを始めた、と言う話は聞きません。
町内会が何か創造的な事を始めたという話もありません。
町内会というのはそういう事を目的としないからです。
しかしながら、各国の協会の在り方はまさに「町内会の組織運営をやりながら、なおかつ創造的な事をするのを目的とする」というような、「矛盾に満ちた存在」になっています。
そうであれば、なかなかその目的は達成される事はありません。
各国の協会は各々の国でのラティハンの普及に責任を持たなくてはなりません。
というよりも協会の存立基盤そのものが「ラティハンの普及」と同義語、as-isの関係になっているのです。
その事から目をそむけ、単にバパや上部組織のいう事のみに目を向けてきた結果が、今の日本の協会のありようを招いています。
そこには何の独自性も創造性もみられない様です。
ラティハンの成果というものが団体としての協会のありように反映されている、という本来あるべき姿からは遠いものになっているのが現状の様であります。
PS
少なくとも日本の協会の運営には「団体を代表する精神、ガイスト」が存在してはいない様です。
その時々の風でどちらにでも動いていく。
そういうありさまです。
本来は組織には精神・ガイストがあり、それを明文化した規則・ルールがあり、それにそって組織は運営され成果を出していくものでありましょう。
しかしながら、我々の協会には会則は存在しますが、そのバックボーンになっている精神・ガイストはなかなか見えてきません。
つまり「会則は形式的な物」にすぎず「団体の精神・ガイストを表現していない」のであります。
PS
ボランティアによる組織運営のもう一つの弱点は「私が善意で、無償でやってあげている」のだから、「これだけ会に貢献しているのだから」、「この事に関して何もしていないあなた方の批判はゆるさない」というものです。
何かを提案すると、すぐにそれを「自分に対する批判」として受け取るような「独善的な態度」に落ち込む可能性がそこにはあります。
そう言うものはどうやったら防げるのか?
やはり第一歩はコミュニケーションをとる、それについて話しをする、という以外に道は無いように思われます。
そうでありますから、「コミュニケーションすら存在しない」としたならば、その組織はもはや「停滞の中」「マンネリの中」にあり、行く先は「衰退」という事になってしまうのは世の中の常道であり、我々の協会もそのルールからは逃れる事は無いのであります。
PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク
そう言う意味では社会一般の組織とはちがって「手作りの組織」、「アマチュアの組織」になります。
一番近い形態が「町内会」とか、せいぜいが「マンションの管理組合」と言ったところでしょうか。
そして運営は確かに低いコストで行う事が可能ではありますが、それゆえに「属人的な部分」がどうしても多く存在することになります。
そのことは協会のメリットでもありまた同時に弱点にもなっています。
そうして、残念ではありますがそのような会の運営方法では世間一般ではそれなりに常識である、ボトムラインとなる運営規則が抜け落ちる事にもなります。
さて結論はこうなります。
会の運営は出来る限り属人的にならないようにする。
そうして、キーポイントになる所は世間並みのルールに従う。
まあそういうことになるのでしょうね。
PS
町内会というのは互助会的です。
そうして、上部組織としての「市役所」がその上に存在します。
これもまた我々の組織形態と相似的です。
かつてはバパが各国の協会の上部組織でした。
バパ亡き後は「協会の国際組織」がその役目をしています。
そして、「国際組織の常任理事国相当の国」がそれをリードし、それ以外の国の協会はただ「お達し」を受け取る、つまり町内会と同様の存在に成り下がっています。
町内会がビジネスを始めた、と言う話は聞きません。
町内会が何か創造的な事を始めたという話もありません。
町内会というのはそういう事を目的としないからです。
しかしながら、各国の協会の在り方はまさに「町内会の組織運営をやりながら、なおかつ創造的な事をするのを目的とする」というような、「矛盾に満ちた存在」になっています。
そうであれば、なかなかその目的は達成される事はありません。
各国の協会は各々の国でのラティハンの普及に責任を持たなくてはなりません。
というよりも協会の存立基盤そのものが「ラティハンの普及」と同義語、as-isの関係になっているのです。
その事から目をそむけ、単にバパや上部組織のいう事のみに目を向けてきた結果が、今の日本の協会のありようを招いています。
そこには何の独自性も創造性もみられない様です。
ラティハンの成果というものが団体としての協会のありように反映されている、という本来あるべき姿からは遠いものになっているのが現状の様であります。
PS
少なくとも日本の協会の運営には「団体を代表する精神、ガイスト」が存在してはいない様です。
その時々の風でどちらにでも動いていく。
そういうありさまです。
本来は組織には精神・ガイストがあり、それを明文化した規則・ルールがあり、それにそって組織は運営され成果を出していくものでありましょう。
しかしながら、我々の協会には会則は存在しますが、そのバックボーンになっている精神・ガイストはなかなか見えてきません。
つまり「会則は形式的な物」にすぎず「団体の精神・ガイストを表現していない」のであります。
PS
ボランティアによる組織運営のもう一つの弱点は「私が善意で、無償でやってあげている」のだから、「これだけ会に貢献しているのだから」、「この事に関して何もしていないあなた方の批判はゆるさない」というものです。
何かを提案すると、すぐにそれを「自分に対する批判」として受け取るような「独善的な態度」に落ち込む可能性がそこにはあります。
そう言うものはどうやったら防げるのか?
やはり第一歩はコミュニケーションをとる、それについて話しをする、という以外に道は無いように思われます。
そうでありますから、「コミュニケーションすら存在しない」としたならば、その組織はもはや「停滞の中」「マンネリの中」にあり、行く先は「衰退」という事になってしまうのは世の中の常道であり、我々の協会もそのルールからは逃れる事は無いのであります。
PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク