ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

バパのリンカネーション論(輪廻転生論)/

2017-11-30 | 日記
バパはどうやら輪廻転生、リンカネーションを認めていた様です。

そうしてそれはある特定の人について、たとえばダライ・ラマのような人についてだけ、というものではなく、すべての人に対してのものでした。

そうであればそれはまるでヒンドゥー教や仏教が認識している「生まれ変わり、死に変わりして生命(ジワJiwa:Jiva)が継続してゆく」という教えそのものであります。

さてバパは多くのトークでリンカネーションについて語っておられました。

そして今まではその事はあまり表には出てきていませんでした。

バパがイスラムであったせいか「これほどヒンドゥー教や仏教に近い認識を持つことはあるまい」という先入観があった為かと思われます。

しかしながら、そのような先入観はどうやら間違っていた様です。

そういう訳で、以下、バパのトークから関連する部分を引用します。

引用したトークのリスト
October 8, 1957 - Bapak
November 11, 1957 - Bapak
November 22, 1958 - Bapak
June 30, 1959 - Bapak
August 7, 1959 - Bapak
March 28, 1960 - Bapak
Q&Aの編集 1971 - Bapak
February 3, 1974 - Bapak
October, 16 1977 - Bapak
October 20, 1977 - Bapak
December 11, 1977 - Bapak
Febuary 3, 1980 - Bapak
April 8, 1984 - Bapak
April 21, 1984 - Bapak
July 8, 1984 - Bapak
June 11, 1985 - Bapak
2月27日 2015-Ibu
2月5日 2016 -Ibu
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October10月8日, 1957 - Bapak
だから、完璧に達した人間は、神の恵み、神の贈り物を受けた人は、死ぬ時に死ぬことはなく、むしろ生きることが始まったと言われています。

あなたが忘れることのない例として、私の子供たちよ、それはキリスト教の中で語られています。
そこではイエス自身が預言者です。
預言者イエスが死ぬことはありませんでしたが、彼は終わりのない生命を生き続けました。
これは単なる例です。
(そしてそれは)バパが言っていることが真実であるかどうかを判断する際に考慮できる点です。

しかし、まだそのレベルに達していない人、またはバパが言っているように、彼らが死んだときに欲望の体(nafsu)を持っている人は、事実を全く理解できません。
その人は死んだことに気付かないでしょう。
これは、そのような人の内部は彼らの起源に戻り、本来の人間のレベル(ロハ二)に戻らないのです。
もともとその人はそのレベル(ロハ二)より下から来たからです。
その結果、彼らの欲望(ナフス)と共に残された人間は、想像していたものの中をさまよい、彼らが地上にいたときに彼らが多く考えた事柄の中でさまよいます。
(注:幽霊といわれる存在になる、とバパは言います。)

それはそうです。
それが、仏教において、生まれ変わり(reincarnation)が事実であると言われている理由です。
確かにそうです。
しかし、それは神への道に迷った人、または完璧への道に迷った人にのみ適用されます。

このため、仏教には以下の教えがあります。
人間はすでに高いレベルに達していれば、その人は輪廻転生から自由になり、この世界から自由になります。
これは、彼ら(仏教徒)が少し前にバパが生命力と呼ぶ精神(ロホ)の本当の性質を理解しようとする理由です。
それは物質的物体、植物、動物、および普通の人間存在に由来するものです。

これらの力についての知識が不足しているため、(真の)人間の魂やそのような高レベルに達していない人の魂は、その魂よりも強い力(注:4つの低次の諸力)が働く場所では簡単に迷うことがあります。
これが生まれ変わりです。
しかし、私たち自身が望むことは、可能な限り、もし神がそれを許せば、 もし神が私たちにこの贈り物をもたらせば - これ(輪廻転生reincarnation)を体験しません。

私たちは真の人間のレベルよりも低い場所に私たちが戻って行かないように神に願います。
言い換えれば、私たちが本当にどこに帰るべきかを知りたいと思っています。
そしてそれは完璧な人間の起源の場所です - 人々が通常それをインカンカミルinsan kamil と呼ぶような、それは完璧な人間、私たちが現在生きているこの世界からは分離している人間を意味します。
私たちは、死後、私たちがこの世に再びではなく、本当のこの世の後の生命を経験することを願っています。
(注:そのような魂のレベルに上昇する為のこの世の生活のやり方、すごし方が重要であるとバパは言います。)

この世界はこの世の後の生命世界ではありません。
このため、人々は通常、天国を語ります。

我々は、人間以下の力(4つの低次の諸力)により圧迫される事なく、そして私たち自身の欲望(ナフス)から自由になった後、これらの天の領域に入ることができます。
そしてこれ(ナフス)は私たちのレベルよりも低いレベルのこれらの力(4つの低次の諸力)との関係を絶えず利用しています。

訓練(ラティハン)では、私たちはどんなものでも、自分たちの欲望や、私たちより下のレベル、そして過去に人間によって創造されたもの、つまり言い換えれば、願望の力によって作られた、「イズム(~主義)」、またはスピリチュアリズム(心霊主義)、またはそのように呼ばれる創作物との関係を持ちません。

これは、これらの欲望が、奇妙な能力を持つ人、他の人の力を上回る力を持つ人と見なされることを可能にすることを除いて、それ以外の目的はなく使い道はないからです。
このようなことの結果として、人は人間以下の力(注:4つの低次の諸力)に強く縛られ、非常に緊密に拘束されるようになります。
最後にそれら(注:4つの低次の諸力)が完全に道を塞ぎ、そうして完全な人間のために準備された天の領域に入ることができなくなります。

そういうものなのです。

November11月11日, 1957 - Bapak
このトレーニング(ラティハンlatihan)はそれとは対照的です。
これは崩壊し、内部から流出するので、あなたは徐々に人間の領域外の状態と接触しそれを知る様になります。
最終的にこの訓練(ラティハン)で、あなたはこの地球の外のものを知ることができます。

もう一方は、バパが言ったように、すべての種類の混乱を内部感覚にもたらします。
バパが似た様な例をあげるとするならば、すべてを自分の中に持っていくことは、あなたの家から物事がどのようになっているのか見る為に(外に)出て行くのではなく、家の中に入って自分を閉じ込めるようなものです。
それで、あなたが知っていることはすべてあなたの家にあります。

それが違いです。
ある日、あなたがそれを受け取ることができれば、あなたは自分自身で知り、この違いに気がつく様になります。
あなたはあなたの家から出て、この地球を包囲する生命の偉大さを知ることができます。
また(その時にはあなたは)この地球を越えるので、あなたは生まれ変わりの対象にはなりません。

私たちは長い間ここにいました。
私たちは疲れています。
それで、もしできるならば、出口を求めています。

もう一つのものは、瞑想の練習(注:バパが体験したもの)、そして自分自身を黙らせることは、本当に外に出る道を探しているのではなく、ホール(穴)への道を探しているのです。
バパが人間の自己(プリバディ)の内部のホールや家を指しているとき、バパは人間の自己(プリバディ)の中にあるものすべてを意味するのです。
人間の下にある諸力は、物質的または悪魔的、野菜または植物の力、動物、そして人間です。
(注:4つの低次の諸力の事)
これらのために、生まれ変わりがあります。

あなたがあなたの家の中だけにいて、後で死ぬと、あなたはここにいるかもしれません。
植物のレベルにいるかもしれませんし、動物レベルにいるかもしれないし、人間のレベルにいるかもしれません。
言い換えれば、ここに戻ってきます。(注:この地球という世界に戻る)
そしてあなたは正しい形ではなく間違った形で戻ってきます。

(しかしながら)あなたが受け取ったものはそうではありません。
それは内部からきれいにしていきます。
もちろん、きれいにする事は家の中に何があるかによって異なります。
すべての種類のものが積み重なっていて、家の中に猫、ねずみ、犬、牛、水牛、花の鉢が並んでいるなら、当然のことながらきれいにするには多大な労力が必要です。

November 22, 1958 - Bapak
人間の内部にある魂の病気をどうやって表現することができますか?
魂は人間の中の内的な内容です。
それは人間が思考し、感じ、行動し、それを行うことを可能にする内容です。
しかし、人間のこの内容が本当に(完成された)人間の魂である、ということは決して確かな事ではありません。

これは、非常に高度なレベルで学んだり、すべての種類の資格や地位を持っているにもかかわらず、少なからずの人たちは、無意識のうちに、人間の行動規範に反して違反する行為を行うのであり、賢明な人ではないという証拠があります。
その理由は、自分たちの存在の内容、すなわち魂は、本当に神への約束を守ることができる(完成された)人間の魂ではないということです。

それは間違った低い魂で満たされています。
彼らの過失のために、彼らの強要され、妨害された行動のために、彼らの存在の中には間違った内容や魂、すなわち(完成された)人間(のレベル)に至っていない魂があります。

これは仏教で言及されています。
それは彼らが生まれ変わりと呼ぶものです。
つまり、人間の魂にはレベルがあり、人間の状態がまだ完全ではない場合、彼はおそらく上昇することはできず、また生まれ変わります。

ですから、これは重要なことですが、私たちを再び生まれ変わらせるブロックは取り除かなければなりませんが・・・(聞き取れない)・・・この世のものよりも万能です。

さて、なぜイスラム教とキリスト教には、生まれ変わりのようなものはないのでしょうか?
その理由は、キリスト教とイスラムという名前が「完全な人間の状態」を意味するからです。

しかしながら、これらの宗教に従う人々はまだ(完全な人間ではありません)。
したがって、宗教は本当に生まれ変わりを好みませんが、かといってその信者は自分の宗教が必要とするものを常に完全に行う、と言う事ができている訳ではありません。
(注:つまり死に臨んで輪廻の輪から逃れられるかどうかは定かではない、、、と言う事になります。)

June6月30日, 1959 - Bapak
物質から人間まで - レベル1から4まで - 私たちは、思考の心、私たちの感情心、そして欲望を静めることによって、これらの4つの力を実際に見極めることが可能です。
これらの力は依然として人間の意志と結びついているからです。
だから、人々がまだ感情心と頭脳の力を利用している限り、彼らは元に戻って再び人間になる必要があると言われています。

これについてはあなたが読んでいるかもしれないのですが、生まれ変わりと呼ばれるものです。

しかし、あなたが神によって祝福され、より高いレベル(普通の人間より高貴な第5レベル)に上がることができるなら、あなたはこの世界に戻って再び人間になることを望まないでしょう。

実際には、人間は皆、あなた方もそうですが、満足感を持っていません。
あなた方に触れるすべてのものの影響を受けるからです。
たとえば、あなた方は寒さの影響を受け、冷たいものによって影響を受けます。
熱によって、熱いものによって、あなた方はこれとその影響を受けます。
あなた方はまだこれとそれに苦しんでいます。

August8月7日, 1959 - Bapak
物質力からロハ二まで、それらが働いた時に、それらが影響を内部感覚に与えた時にどのようになるかを感じ取る。
その世界に引き込まれた時にどうなるかを前もって知る事ができる。

このような仕方で私たちは、これらの力のそれぞれの世界に住むこと、その世界に滞在する事は、どの程度に心地よいかという真実を感じ、知る事ができます。
またこのような仕方で、あなた方はそのうちのどれが他のものと比べて、自分にとってより心地よく幸せであるかを間違いなく選ぶ事ができるでしょう。
ですからじぶんでは気がつかない内にある物体に、ある植物に、ある動物に、またはある人間に強制的に生まれ変わらせられるということにはならないでしょう。
その代りにあなた方は人々が完成した人間の世界と呼んでいる、あの祝福された世界(ロハ二)に帰還する事ができるでしょう。
(注:ロハ二の力を感じ取るには、その人がすでにロハ二 レベルに到達している事が前提となります。)

March3月28日, 1960 - Bapak
すべてがきれいで良ければその場合のみ、私たちはロハニ精神(ロハニ スピリット)を見つけることができます。
その場合のみこの精神が私たちの内部感覚に現れ、私たちがまだこの世にいる間に、我々は実際に私たちの人生がどのようであるのか、この世界についてだけでなく、死後に私たちの人生がどのようになるのかを体験することができます。

だから、一般的な人々の場合、あなた方の様に、まだ清潔ではなく、依然として欲望、感情心、思考心によって非常に支配されている場合は、ロハニの力を受け取り、感じることは本当に非常に難しい。

あなたがまだ低次の諸力、すなわち物質的、植物的、動物的、身体的な人間の力の影響を受けている限り、あなたが死ぬときにあなたは上ることができなくなります。
あなたが死ぬと、あなたが上ることは不可能です。
あなたはまだここに戻らなければなりません。

そしてここに戻ってきたら、あなたが人間として戻ってくることは確かではありません。
たとえばあなたは物質的な物体、植物、動物として戻ってくるかもしれません。

だからこそ、ここ(カルカッタ:インド)や他の場所で、動物は特別な扱いを受け、聖なるものとみなされます。
登ることができず、この地球に戻って動物の体に入った人の精神によって動物が占領された可能性があるからです。
これは通常、生まれ変わりと呼ばれるものです。

多くの人がいます 。
バパは彼らを非難しているわけではありませんが、まだ石を崇拝する人がたくさんいます。
彼らは自分の想像力で石を描き、それらのことを考え、自分たちよりも高いと考えます。
それで彼らは石を礼拝する。
それはそれらの(崇拝対象となっている石の)祝福、恵み、恩恵、祈りを求めることを意味します。

これはなぜですか?
登ることができない人が石の中、物質的な物の中に戻ってきたことが本当に起こったからです。
その石にはある種の力があります。
しかし誰が石を強力にするのですか?
かなり単純に(言えば)、人々自身です。
特に偶像(石や金属、木材でできた聖なる者の像)の場合。
毎晩あなたはそれの前に自分自身を伏せ、花と香を置く。
毎晩あなたが眠りにつく前に、あなたはこれらのことを行い、結局それはあなた自身よりも強力になります。
・・・・・
それが、宗教において、神が使徒たちに、人々がそのように行動すべきではないという指示を授けた理由です。
彼らは人間としての自分自身のことにもっと注意を払うべきだということです。
人間の生死は自分の体の中にあります。

だから、あなたの体を外側から内側に、内側から外側に向けて見ないと、あなたの自己(プリバディ)は、人間の目にも、神の力の前にも、何の価値もありません。
だから、私たちの内部感覚の観点からすれば、この人体はまったく役に立たないという事になります。

そして、この世界において、物質的なもの、植物、動物、そして人々自身の身体的な生命力よりも賢明で、より能力があり、より知性的なこのような完璧なからだ持つ神の創造物という人間存在を作り出した意味がなくなります。
これらが、なぜこの世界の一部の人々の生活が暗くなっているのかの理由、そしてなぜ彼らがこの世で生きて幸せになるかについて、彼らが失敗しているのかの理由です。

実際、人間は知性と良心を持つ存在としてこの世界に創造されてきましたが、これは私たちがより多くのことを成し遂げることができ、他の存在よりも崇高な性格を持つことができるということを意味します。
他の存在とは、すなわち、物質的な対象物、植物および動物の事です。


Q&Aの編集 1971 - Bapak
A Compilation
生まれ変わりとラティハン

バパはあなたがラティハンで受け取ったような経験が実際に協会に存在することを確認します。
インドネシアや海外の多くの兄弟も同様の経験をしています。
これは我々のラティハンが非常に幅広く、すべてが自分の本性と合致することで満たすことができるからです。

あなたがすでに知っているように、ラティハンでは我々は、全能の神の力によって動かされます。
そしてラティハンの本質は、粗い部分から細かい部分へ、それからジワまで、全体を生き生きとさせることです。
それは最も低い位置から始めて最も高い位置に達します。
これは、私たちの体、粗い部分と微細な部分の両方が良好になることができるように、また私たちの欠点のために(本来あるべき位置から)陥落したジワdjiwaの為にも必要です。

私たちの生命の発展から、上記のように神から進んで、私たちは自動的に完成に向かって自分自身の変化と改善を体験します。

例えば、私たちがラティハンの中で受けたのは、以前は私たちが王、司祭、非常に豊かな人などとして住んでいたことがあれば、 あるいは以前は象、牛、蛇、虎、猿など動物としても生きていたと言う事です。
これらのすべては、私たちの内面的な性質が完璧な状態に改善できるように、きれいにされ、修理される必要があります。
そして最終的には私たちは過去の様に(昔生きた姿で)再び生きる必要はありません。

生まれ変わりについて教える宗教的な社会がありますが、生まれ変わりは実際には段階に過ぎません。
なぜなら、それは言われているように、もし人が美徳の段階にまで達したなら、彼は全能の神によって必要とされない限り、人として再び生まれ変わらないでしょう。

このすべてから、転生の問題は協会のラティハンに存在するが、以下の違いがあることは明らかです。
協会での生まれ変わりは、人間の生命過程であり、人間の欲望ではなく、神の力の働きで行われます。
それで、私たちは自分自身で簡単に浄化と改善を体験することができます

これの証拠はすでにラティハンで与えられている。
(ラティハンの中で)多くの兄弟たちが司祭、富豪、有名な男、貧しい男性、愚かな男性などとして自分自身を表している。
そして野生動物であったり、飼い慣らされている動物として(自分自身を)表している人たちもごく少数ではありません。

これらはすべて霊的な経験であり、本当に浄化される必要があります。
そして最終的には完璧な状態に達することができます。
それはすべて私達が今受け取ったラティハンに関連して目撃するかもしれない生まれ変わりの主題に関するものです。

したがって、あなたがこの問題のあなたの経験を(他の人に)説明したいのであれば、そうして下さい。
但し、それらが経験のみで構成されていることが明らかにされている場合に限ります。


February2月3日, 1974 - Bapak
古代史では、化身(incarnated)と呼ばれるものがこれに似ています。
しかし協会では、化身は固定的な確実性ではありません。
いいえ。この化身は現実に存在する必要がある種類のものではありません。
したがって、化身の性質は落ちる可能性があり、上昇する可能性もあります。
何故ですか?
この種の化身は自分のカルマによって引き起こされるからです。

(他方で)ラティハンでは、それはカルマのためではなく、自分の欠点のためだと(主張します)。
(通常の状態では人は)人を覆っているもの(ナフスnafsu)から分離して受け取り、感じることは決してできません。

October,10月16日 1977 - Bapak
たとえば、ブッダ。
仏教では天国に行く人の事は誰も聞いていません。
あなたはブッダが天国に行くという事は聞きません。
仏教で経験していることは、あなたがこの世界に再び帰ってくることです。(注1)
これはまた、生まれ変わりとも呼ばれるものです。

したがって、アンワスと感情心と思考心と自分自身の力を使いたい人が達成したことは、常にこの世界に限られていることは明らかです。(注2)

しかし、アンワルの子孫はまったく異なっています。(注2)
なぜなら、彼らは全能の神の意志によって本当に天国に行くことができたからです。
そして天は想像上のものではなく、彼らが体験できる本当の天国でした。

例えば、イエス・キリストです。
3日後に十字架につけられた時、彼は大きな輝きと大きな光を経験しました。
これには誰もが見ることができる出来事が伴いました。
地球が揺れ、激しい嵐が起きたのです。

October 20, 1977 - Bapak
神を礼拝する際に彼らの感情心と思考心を使って得たものは本物ではなく真実ではありませんが、逆にそれは人間の内部自我に損害を与え、人間は悪魔の世界に失われます。
そしてそれは物質的な生命力の世界です。

これはそういうことなので、兄弟姉妹の皆さん、バパはあなた方にそのような影響が及ばないようにあなた方に思い出させるだけです。
これらは物質的な影響、物質的な力の影響です。

それが仏教徒が生まれ変わることを望む理由です。
彼らはまだこの世界に戻ることを望み、そうして彼らは、彼らが望むすべてを持っている人のような、豊かな人のような、権力を持つ優れた人々として戻ってくることができます。(注3)

December12月11日, 1977 - Bapak
私たちのラティハンは、この世に存在するものを超えて、この世界を超えてあるものを目指しているものです。

ラティハンでは、感情心と思考心がこの世界に限られており、それを超えて行くことができないため、私たちは感情心と思考心の不活性化を経験します。

バパがあなたに説明したサン ヒヤン シスSang Hyang Sisと同じように - 彼は自分が望むものを得たにもかかわらず、そして非常にすばらしい、非常に強力で非常に輝かしいものになったが、それはすべてこの物質世界の中のものでした。(注2)

これが彼の足跡と彼の方法に従う人、サン ヒャン シスに従う人が常に生まれ変わりを必要とする理由です。(注5)
彼らはいつもこの世に戻ってくる必要があります。

これは、例えばチベットで新しいリーダー、新しい王または新大祭司、あるいはダライラマと呼ばれる方を探しているとき、彼らはいつも最後のダライ・ラマが亡くなったその時刻に正確に生まれた赤ちゃんを見つけようとするのです。
そうやって、ダライラマの精神や魂の生まれ変わりの果実を得ることができるのです。(注6)

これが私たちが受け取ったものとの違いです。

それはもちろん、インドでも同じです。
彼らは、人々は常に良い人生を送るべきだと常にアドバイスしています。
彼らはこの世で禁欲主義と自己否定を練習し、夜には断食と祈りと覚醒を続け、本当に「ミカMika」である人になるかもしれません。(注4)
ミカになった人は死んだ時に、この世界を離れることができます。

しかしそれらが意味することは、彼らがこの世界に戻ったときに彼らが行く場所を選ぶことができるという立場にあるということです。
彼らは自由に選ぶことができます。
だから次回は、この世では非常に裕福になるか、非常に成功する、あるいは非常に高い地位になる、あるいは多分王になることが運命づけられているような、赤ちゃんや胚、あるいは彼らが見ることができるものならなんでも、そういうものを選びます。(注4)

しかし、当然のことながら、今日は多くの王がいないので、大統領になるか、そういうような人になるだろう。
だから、いつも生まれ変わりに頼ってこの世に戻ってきます。

例えばイスラム教やキリスト教、あるいは他の宗教では、それはまったく異なっています。
生まれ変わりはありません。
イスラムは生命を意味します。
私たちが知っている宗教は、イスラム教やキリスト教のように、生命を意味します。
(注:ここでバパが言っている宗教とは、アブラハムの宗教と言われている系列のものの様です。)

つまり、理論的には(そういう事になっています)。
宗教は永遠の命ですが、そしてそれはまだ実践されていますが、多くの人々はそれを実践する方法を知らないのです。
彼らは理論にとどまるだけで、バパが今説明したように、彼らはまだ普通のやり方で物事を実践しています。
(注:ここは「それぞれの宗教に従う多くの人たちには、しかしながら現実が伴っていない」という主張になっています。)
・・・・・
それは、神の力が実際には「感覚ラサrasa」であることを思い起こさせることです。
「感覚ラサrasa」の中に、あるいは「感覚ラサrasa」を通じての感覚フィーリングです。
そして、これは今私たちが全能の神の恵みによって受けたものです。
つまり、このラティハン・クジワワンで神の意志によって神の力との接触を受けました。

そして、この目的は、神の力との接触を感じることができること、私たちがジワjiwaの生命を感じること、つまりこの世界でまだ生きている内に感情心と思考心の影響から解放された生命の振動を感じることです。
なぜでしょうか?
その目的は、この世界での私たちの人生に対するこのような理解をジワに移すことができるということです。
その結果、私たちが死ぬ時、感情心と思考心がもはやそこになくなる時に、ジワが奇妙に感じることはありません。

(注:人が生きてきた記憶をジワに転写し保持できる、つまり死後も個性が保存される、という主張です。)

それは(ジワが)この世界での経験やその人生の現実を得ているので、(死に臨んでも)私たちは依然として意識を持ち、気が付いている事ができます。
(注:通常の場合は人は死に臨んだ時に、無意識に落ち込むか、あるいは意識がなくなります。)

Febuary2月3日, 1980 - Bapak
しかし、人々が夢を見て努力して達成することは、これらはイスティジラットistijratです。
したがって、人々が超自然的な力を身につけ、不死身になることそれはイスティジラットistijratです。

彼らが死ぬと、これらの人々は次の世に行くことができません。
彼らはそれをすることはできません。
そのような人々はこの世界に属します。
彼らが生まれ変わったのはそのためです。

したがって、バパの場合、バパの受けた事によると、バパは死んだときに生まれ変わることはありませんが、(生命は)継続します。
・・・・・
神の意志であり、神があなたを導いているなら、起きているか眠っているかを問わず、あなたがしているすべてのことにおいて、すべてのあなたの活動、すべての行動において、あなたは全能の神の導きと指導を感じるでしょう。
あなたは、神の力が本当にあなたを内側と外側の両方で囲んでいるという証拠を得るでしょう。

人々が通常は「人生の危機」とみなす死は、そのような人々にとってはそう感じることはありません。
そのような人々とは唯一全能の神からワヒュー(wahyu:恩沢)を受け取った人々です。
死後の世界は、すでにこの世界と一つになっているので、それらの間には何も立っていないでしょう。
(注:死後の世界とこの世はひとつづきである、障害物はない、という主張です。)

April4月8日, 1984 - Bapak
宗教では、絶望する人は醜い、罪深い、神を信じない人とされるために、人間は絶望することが許されていないとすでに説明されています。

例えば、彼はこれを探してそれを見つけることができない、彼はそれを探してそれを得ることができない、彼はこれで働きたい、そして彼はできない、彼はそれで働きたい、そして彼はできない。

だから彼は言う。
「私はもう死ぬかもしれません。なぜなら人が言うように、あなたが死ぬとそれが終わり、私たちの人生の話の終わりだからです。」

全く違います!
イエスは自分自身でこう言いました。
「死は生命の継続です。」
だから、死は終わりではなく、生命は続くということは明らかです。

問題は、どの道にそれが行くのか?です。
それは後ろ向きに行くのか、それとも先へ進むのでしょうか?
それは上向きになっていますか、それとも下向きになっていますか?

これも仏教において説明されており、それは「生まれ変わり」と呼ばれています。
(他方で)イスラム教にはそのようなものはありません。
イスラムは生まれ変わりを望んでいない、彼らはもし可能ならばそれを避けたがっています。

しかし、イスラム教徒がバパがちょうど述べたように、彼らは同じ宗教で同じ人種であるにもかかわらず、お互いを殺し合っているのであれば、誰が最後に彼らを上げることができるでしょうか?
そこには、そのような人々のための余地はありません。
地獄は天と呼ばれるものに比べて小さいが、それでも多くのものを含むことができるほどの大きさはあります。

だから悪い人、醜い人、貧しい人は金持ち、知的な人、学部長である人よりもずっと多いということは大事です。
それが神の定めです。
それにもかかわらず、兄弟姉妹の皆さん、神は人にそのような運命を離れさせることを可能にします。
あなたが神の助けを受けるならば、その場合のみあなたがそうすることができるということを忘れないでください。

April4月21日, 1984 - Bapak
私たちは裸で生まれました。
後で私たちが死ぬ時、私たちが帰る時、再び裸になるでしょう。
そして、私たちがこの世界を離れるとき、私たちは何も持っていけません。
それでも、オランダの諺にあるように、死はまさに人生の継続です。

それは私たちが間違いを見て死ぬ時にそうなります。
私たちは物質にこだわって、野菜にこだわって、動物、人間につかまった。
なぜ私たちは物事に取りつかれ、食事をしたり、他の人との関係につまずきましたか?
人生に付随すると思われるまさにその力(4つの低次の諸力)を避けることによって得る結果は強みではなく弱みです。
意図した通りこれらの力(4つの低次の諸力)よりも上に上がるのではなく、(死後に)それらの下に落ちます。
(注:この部分はバパの禁欲主義的な修行方法への批判になっています。)

そしてそれは、兄弟姉妹の皆さん、私たちの間違いの結果として、生まれ変わりと呼ばれるものが起こるのです。
(注:これがバパの生まれ変わりに対する結論の様に見えます。)

化身(incarnated:肉体化)とは、インドで起こると言われているものを意味しています。(注9
インドでは、人間の魂を持つ牛がいると言います。
彼らはそこに「その牛は人間の魂を持っている」と言っています。
しかし、人間の魂が牛だけに生息するだけではありません。
木はまたその中にそのような魂を持つことができます。
物質的な物も(魂を持ちうる)。
これはインドに関連するものです。

それはアラジンAladdinの(魔法の)ランプの物語のようなものです - ランプをこする人は悪魔の住居に吸い込まれます。
なぜ?
人間自身の間違いのために。

なぜこれはすべて起こるのですか?
思考、感情心、思考心を間違った方法で使っているからです。
これが、バパがあなたにある事を伝えたい理由です。
バパが最近ジャカルタ外のメンバーに言ったことですが、ここ(チランダ)でも繰り返す価値があります。
少なくとも、他の人を傷つけたり傷つける心や意欲を持たないでください。
復讐感や憎しみをはるかに少ないように。
これは絶対に許可されていません。

神聖なコーランの詩では、それは言われています。
イスラムの人は、別のイスラム教徒に対して嫌悪感や復讐感を感じてはいけません。
恨みの気持ち、恨みの抱きしめ、復讐の意志は、その気持ちを持っている人が、復讐する人、場所、物に、つまり、彼が憤慨しているまさにそのような人へと肉体化(incarnated)されることを意味します。
これが現実です。

あなたが男であり、あなたが結婚していて、あなたの妻が妊娠して子供を運んでいる場合、あなたが誰かを憎むようになったら、あなたに生まれる子供は、あなたが嫌う人のようになります。
はい。あなたが軽蔑する人が知的で親切で美しいものであっても、(あなたが持つ子供は)知的ではなく、親切ではなく、善良でもありません。

そのように登録されます。
そしてこれ(間違い)はすべて人間自身が作り上げたものです。

July7月8日, 1984 - Bapak
この世においては、我々は尚、食物を必要とし、人々が私たちを好まない場合にはそれが気にさわります。
私たちは尚、自分たちが何かを作り、人々がそれをけなしたならば腹が立ちます。
何故ならば、私たちは尚、この世にあるものと結び付けられているからです。
そして若しも、私たちがずっとそういう風に結び付けられたままでいれば、最後には古代のジャワ人のようにバパが前にも話したような存在となってしまうでしょう。
つまり、彼等は尚もこの世に住んでいます。
彼等は尚ここに居てそして働いています。
(注:通常、我々が幽霊と呼ぶ存在の事)
何故なら、この世に存在するものとの結び付きの故であります。
これが生まれ変わり、或は、転生と言われているものです。
これが輪廻転生へと人々を導くものです。  

イスラムにおいては人々は輪廻を好みません。
彼等はそれを好まないのです。
けれどもしかし、 どうしたらそれを脱することができるかを理解していません。
問題なのは、殆どの宗教が尚、フアンタジーであるということです。
というよりは人々の宗教に対する信仰が尚、フアンタジーの領域にあるということです。  

丁度、それは回教徒がこう言っている場合のようなものです。
あなた方は一日の断食が明ける時にナツメヤシを食べますが、その度ごとに、つまり、あなた方がより沢山、そうやってナツメヤシを食べる度に、そのナツメヤシは来世に植えられて、そしてあなたは天国に行けるのですよと。
そして、あなたは自分が断食をして、その断食明けに食べたナツメヤシの数だけ、天国でナツメヤシの木を持つことになるでしょう。
ですから、できるだけ多くのナツメヤシを食べなさいと、こういう風に言います。

人々は勿論、この話は単にアラビヤの輸出を推進するためのものであることを知らないのです。
そしてこれは、単にイスラムを広めた人々の関心事であって、宗教とは何の関係もないことを知りません。

June6月11日, 1985 - Bapak
ラティハンの性質は、私たちの起源を示すことです。
私たちがどこから来たのか、私たちの祖先はどこか、私たちの内的な内容はどこにあるのかを示すことです。
象や牛、ヤギなどが何であれ、そういうものが私たちの中にいるかどうかがわかります。
これらはすべて本当のものです。
そして象やヤギのようなものなら、少なくともあなたはそれを見ることができるので、それはそれでいいのですが。
しかし仮に、あなた方が 一匹の蚊であるとしたら、あなたの経験の中には実体らしいものが何もないということになります。
ですから皆さん、あなた方が一つの階段から次の階段へ、物質から植物へ、そして動物へ、そして人間へと行くということ、つまり、生まれ変わりがあるというのは本当に真実のことなのです。

そこで、次のようなことが重要だということになります。  
さて、あなたは今人間のレベルにいる。
少なくとも後戻りして、牛やら山羊やらにならないようにしなさい。
仮に前に進むことができないにしても、少なくとも今あるままに留まるように努めなさい、ということです。(注7)

2月27日 2015-Ibu
まあ、それは起こる。
彼は影響を受ける傾向があります。
彼の祖先は彼に影響を与えます。

実際、協会では、生まれ変わりは適用されません。
しかし、まだ(神によって)受け入れられていない霊があります。
ほとんどの場合、誰かが協会にいる場合、浄化は十分です。
彼らは再び生きる必要はなく、また戻ってくることもありません。(注8)

2月5日 2016 -Ibu
「協会にはいっていれば、私たちはみな天国へ行くだろう」などと言わないで下さい。
なぜあなた方はそのように考えるのですか?

「バパが私たちをそこへ連れて行ってくれるでしょう」
そんなことはありえません。
バパはあなた方を天国へ連れて行くことはできません。
あなた方各人がその努力をしなくてはならないのです。
バパは単に方法を提供しました。
バパはあなた方をおんぶして天国に連れて行くつもりはありません。
あなた方は自分で努力する必要があるのです。
(注:これがラティハンと宗教でいう所の「神との契約」との違いになります。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上記バパのトークの部分についての英文トークからの引用は以下を参照願います。
・Bapak's Theory of Reincarnation Part 1<--Link
・Bapak's Theory of Reincarnation Part 2<--Link
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
注1
仏陀は天国にはいかなかったかもしれませんが、転生はしませんでした。
輪廻からの解脱者としてmokṣa(モークシャ)あるいはニルヴァーナ(梵: nirvāṇa, 涅槃)に上ったと言われています。<--リンク

そうしてこれが良く知られているように、仏教の目指す所であります。
仏教ではバパが言うように「良い暮らしをするために現世に戻るのが目的」とは言っていない様です。

注2
アンワス、アンワル、サン ヒャン シスSang Hyang Sisについてはこちらの記事を参照ねがいます。<--リンク

注3
仏教ではこの世を「苦」とみます。
そうして、この世からの離脱、輪廻転生からの離脱を希望するのです。<--リンク

そうであればどのような理由をもってバパは「仏教徒は現世に戻りたがる」と言うのでありましょう?
そのような主張をするバパについては理解に苦しむものであります。

注4
ミカ(Mika)については探しましたが、分かりませんでした。
現時点では詳細が不明なコトバです。

加えて「インドでも、アンワスの道は行きわたっています。」というのがヒンドゥー教の事をさすのであれば、「良い暮らしをする為に現世に戻りたがる」という指摘は誤解でありましょう。
ヒンドゥー教の生まれ変わりについてのスタンスはこちらの記事を参照願います。<--リンク

その記事にあるように『輪廻転生からの解放を達成し、ブラフマンの不滅の世界に入り、彼らが最高自己Supreme Selfとの統一の状態で永遠に解放される』のが目的である事が分かります。

注5
ここでバパは仏教やヒンドゥー教がサン ヒャン シスと呼ばれる事になったアダムの孫にあたるアンワスが起源である、というジャワの伝説、あるいは神話をもとにした話をされています。
しかしながらそれはジャワにイスラムを広めるために作られた話の様であります。

この件、内容詳細につきましては注2のリンク先の記事を参照願います。
(但し、バパはアンワスといいますが、多くの記録ではアンワルがサン ヒャン シスになったとしています。)

注6
ここの文脈ではダライ・ラマが「サン ヒャン シスの道に従う人」で「権力を持つ優れた人々として戻ってきている人」の例の様に扱われています。
さて、この指摘は本当でありましょうか?

ダライ・ラマの「輪廻転生制度」については以下の様にHPで説明されています。

・14世ダライ・ラマ法王発見の経緯と輪廻転生制度<--リンク

あるいは、次の様な記事もあります。
ダライ・ラマ14世「私でダライ・ラマ制度は終わりにしたい」<--リンク

転生を繰り返すダライ・ラマをHPが主張するような「菩薩行」とみるか「今の地位を求めて常に現世に戻りたがる人,良い暮らしを求めて転生する人」と見るかは、読者の判断にお任せしたいと思います。


他方で、チベット仏教では仏教徒は現世に戻りたがっているのでしょうか?
チベット仏教で特徴的な「死者の書」からその様子が伺われます。<--リンク

そこから分かるのは、やはり「輪廻からの解脱をめざいている」という事でありましょう。
そうしてこれは個人的な認識ではありますが「解脱ができないならば、せめてまた人に生まれ変わること。」がチベット仏教では次に希望されている事であると理解しています。

注7
ここでのバパの立場は「輪廻転生から離脱出来ないのであれば、せめて人として転生するようにしなさい」というものであります。
これはリンカネーションを認めるバパでありますれば、当然そのようなアドバイスになるかと思われます
そうしてまた、このスタンスはまったくチベット仏教徒のスタンスと同じであるようにも見えます。

注8
『ほとんどの場合、誰かが協会にいる場合、浄化は十分です。
彼らは再び生きる必要はなく、また戻ってくることもありません。』

ここでは2代目は「8割~9割がたの会員は輪廻を離れる」と主張されているように見えます。
そうして、「輪廻を離れるのはロハ二に到達した会員だけ」とするバパの説明からすれば、我々の協会の8割の人はロハ二レベルだと言う事になります。
しかしながら、そのような事はどうやら現実ではない様です。
とするとこれは会員へのリップサービスかな、とも思ってしまうのでありました。

注9
ネパールでの化身(incarnated:肉体化)の例です。
ご参考までに。
・生き神「クマリ」に選ばれた3歳児、儀式経て任命 ネパール<--リンク

まとめ

バパがトークで「Tuhan Yang Maha Esa」(唯一の神)と言います。<--リンク
それを英訳者が「God Almighty」と英訳します。
そうして和訳が「唯一全能の神」となります。

バパは「イスラムだ」といます。
我々はそれを「バパは(オーソドックスな)イスラムだ」と理解します。
しかし実態はバパのイスラムはジャワ・イスラム(ジャワ伝統的イスラム)です。<--リンク

バパがアダムの話をします。
我々は「バパは旧約のアダムの話をしている」と理解します。
しかし実態はバパはイスラムでのアダム、そうしてジャワにある伝説・神話としてのアダムの話をしているのでした。<--リンク

さて、そういう訳で我々は「イスラムであるバパが仏教やヒンドゥー教が言っているような輪廻転生を認めるはずがない。」と自分たちで勝手に判断します。
しかしながら実はバパは輪廻転生を認めており、多くのトークでその事を語っていました。

論点整理(バパが言った事)

・輪廻転生は存在する。
・全ての人は輪廻の輪の中にいる。
・カルマによる転生(化身?)もある。
・バパは「人は自分の間違いによって転生する。」と主張している。
(注:間違いとは・・・地球上で使う力のみしか知らず、その結果、自分を地球と強く結びつけてしまう事)
・いままで積み重ねてきた間違い(カルマ)はラティハンによってきれいにできる。
(注:但し我々がラティハンによる浄化の邪魔をしない、という条件がつく。<--リンク)
・ラティハンによってロハ二 レベルまで到達すれば輪廻から離れる。

・四つの低次の諸力は地球上のみに限定されている。
・したがってそれらを主に使った修行方法では地球を離れる事は(輪廻を離れる事は)できない。
・サン ヒャン シスというのはそのような道の象徴である。

・仏教徒、ヒンドゥー教徒は輪廻からの解脱を目的とせず、常に良い暮らしのできる人間に転生する事が目的である。
(注:これはバパの誤解であると思われる。)

・四つの低次の諸力しか知らず、それだけを使い、人生を過ごした人が輪廻から離れる事はない。

・イスラム、あるいはキリスト教、あるいはそれ以外のアブラハムの宗教は輪廻転生を好まない。
・しかしながら、それらの宗教に従う人たちはどのようにしたら輪廻から離れられるのかをしらない。
(注:したがってそれらの宗教に所属している人たちが輪廻を脱するかどうかは確実ではない。)

PS
こうしてバパの中では「唯一の神」という存在と「輪廻転生」という事柄が何の矛盾もなく共存しているのであります。

そうして実際にそれは、我々の常識的な考え方、あるいは広くよく知られている考え方とは違いますが、それにも関わらず、この二つのものが同時に存在する事はできない、とするような合理的な、あるいは妥当な理由はどこにも見当たらない様に思われます。


さて、ラティハンは性別、人種、思想、宗教を差別しません。
そうであればその先にある「天の領域」もまたそうでありましょう。

バパはそこをロハ二 レベル以上のジワ(魂)の行く先としました。
そうして人々はいろいろな名前でそこを呼びます。

いわく、天国、ロハ二のジワの天の住み家、輪廻から離れた魂(ジワ)の行く先、mokṣa(モークシャ)、ニルヴァーナ(梵: nirvāṇa, 涅槃)等々。

バパが言うように、ジワが永遠のものであり、なおかつジワが輪廻転生をするのであれば、その輪廻を離れたジワが行く先も一つでありましょう。

そうして、その行く先の名前について言いあらそってみた所で、得るものはないもない様に思われます。


そうしてラティハンというものは人間のカルマを浄化し消滅させることにより、輪廻から離れる事を可能にするような、具体的で自然な、そうして強力な手段、方法であると見なす事ができそうです。

少々補足すれば「具体的である」というのは人間の想像力や集中力を使って人が何かを作り出す、何かを達成する、という必要はなく、ラティハンそのものが実体的であり人に求められる事は「それを受け取る」と言う事だけである、という意味になります。

「自然である」と言う意味は、ラティハンが本来の自分を目指すものであって、自分と違うものになる事を目指していない、という意味になります。

そうして「自然でありながら強力である」と言う事は、ラティハンが目指している方向、ラティハンがもたらしてくれる浄化の方向を自分が進むべき方向である、として認め「その方向でよし」とするならば、ラティハンは最終的にはその人を解放にまで導くほどに強いものである、という意味になります。

しかしながら、「いいやその方向は違う」といって自分の現状の姿を「是」とするならば、ラティハンが浄化したものを、また自分で元に戻すならば、そこで浄化は足踏み状態となり、ラティハンがそれ以上の浄化を強制的に行う、ということはないという事になります。(注10

つまりラティハンの道行きの中では「人の自由意思は尊重される」ということであり、一切の強制力は働きません。


余談になりますが、この事はこの世の成り立ちに深く関係している様にみえます。

つまり、輪廻転生というものはつまるところ自己責任での転生を認める、という世界構造であり、その大前提は「人の自由意思は尊重される」という事であると思われます。

注10
もちろん我々が感情心や思考心、あるいは通常ペルソナと呼ばれているような自我によって欲望される、あるいは希望されるような方向にラティハンの浄化の方向を導くという様な事は基本的に不可能です。
それゆえにラティハンの浄化、あるいは進歩を早めようとして、「よかれ」と思って我々が能動的に行う「すべての修行行為」は無駄であり、それどころかラティハンの邪魔をする、という結果に終わってしまうであろうとバパは言うのであります。
(但しこの内容は、ラティハンと切り離して行う、ラティハンの浄化や進歩とは関係を持たずそのような意図を持たない、精神的なあるいは身体的な練習、訓練、エクササイズの実習を妨げるものではないと思われます。)

PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク

PS
文字サイズはページ右上で変更できます。

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

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バパの結婚と礼拝の論/

2017-11-16 | 日記
以下バパの「夫婦の性的合一は礼拝という行為にまで至らなくてはならない」という議論の為に、関係するトーク類を再掲示します。<--リンク

(5月3日1968 バパ)
神がアダムに告げて曰く
「イブとは、あなたが彼女と違っていること、そしてあなたの魂が彼女のものとつながっていることを理解したら、イブとの性交というのはあなたが天国にいたときの状態と似ている事を感じるでしょう。」(注1
・・・・・
彼は感じて、経験した、「ああ、これは神が意味したものです。
これは私が天国にいたときの感じとほとんど同じです。」
そして、妻と性行為をした後、彼らの合一は「人間の本質または種」で満たされました。

それで神はアダムに言った、「アダムよ、私があなたを地球に送った方法をあなたは理解していますか?
そして後で地球をどのように離れるのでしょうか?
あなたはあなたの妻と性行為をするたびにそれを認識しなければなりません。」

アダムは答えました、「神様、それは本当です。
私は、神が私のために妻を持つことを通して道を提供して以来、私は神との親密さが現実のものであることを認識しています。」(注1

だから間違いなく、女性は道です。
あなたの人生や生命の道 - 男性だけでなく、女性にとっても同じです。
それが宗教が女性のことを言う理由です。
天国は女性の中にあります。
そうしてまた、兄弟姉妹の皆さん、地獄は女性の中に見られるのです。
女性のおかげで男は偉大さ、幸福、知恵を達成することができます。
そうしてまた逆に、男の偉大さ、高貴さは女性のために崩れることがあります。

(13章・ダンダングラ 16~17)
(現在では非常にまれな事となっている、二人の人間力に満たされた男女が結婚することが出来た場合についての記述)
16、このような結婚の結果、平和と調和がもたらされるばかりでなく、さらに生活の繁栄への道が開かれる。
もしも彼らがこのような結婚で子供をもうけると、男性の自我を通って訪れる「人間の種子の力」で、彼の身体感覚が呼びさまされよう。

17、そして感覚がこのようにして呼び覚まされると、その欲望がどこから来ているのか彼には直ちに感じられ、さらに彼は合一の間の自分の状態に気が付いていることもできるであろう。
従ってそれは、彼にとって一つの内的な覚醒となるであろう。(注1

(5月1日1965 バパ)
バパはあなたに尋ねる必要はありません。
あなたがすでに結婚した理由は、(成長すれば)あなたのような(人になる)「人間の種」を得るために、そして子供を持つことです。
これは、あなたがこの世の人生を永続させるために神の代理者になることを意味します。(注1

(8月9日2003 イブ)
神は現実には男女を神聖な仕事のために創造したからです。(注1
それはなぜ神聖と考えられるのですか?
人間は完全な人間として生まれる事になる「人間の種」を渡すことが期待されるからです。

(5月20日1958 バパ)
バパはあなた方のせいとは言いませんが、一般的にはあなた方は結婚しており、あなたの欲望を満足させ、満たし、子供を抱えていますが、非常に秘密にされている事柄についてはあまり実行されていません。
あなたはあなたの子供の中に何があるのか​​、あるいは自分が存在するようになる前に自分がどのようになっていたのかを理解していないのです。
このため、イスラム教では人々が結婚することが不可欠であると考えられています。
結婚を通して、人間は人間の創造と存在を継続するための神の代理者であることを認識します。(注1
・・・・・
しかし、彼らは自分の欲望を満たすために、そして心の喜びのために結婚したいだけで、彼らは意図されている真の意味を失います。(注1
結婚の本当の意味は、結婚を通じて人間は自分自身の中で反復のようなものを得ることができるということです。
これがあなたがラティハンを行い、思考の心、意志と欲望の外で働き始めることができるように訓練されており、結局は男とその妻の結婚の秘密を知ることができるようになっている理由です。(注1
また、あなたがどのように食べるのか(注:食べたらいいのか)を知ることができるようにもなっています。

(6月13日1963 バパ)
宗教では、イスラム教とキリスト教の両方で、そしておそらく他の宗教においても、タリーカ tariqah[アラブ、道、方法]と呼ばれる教えがあります。
タリーカTariqah - インドネシアでは、それをタリカットtarikatと呼んでいますが - それは教えを意味します。
それはあなたが勉強するものです。
タリーカTariqahは、これがどこで、どこにあるのかを記述しています。
それは神がどこにあるのか、そして神の仕事が何であるかを記述しています。
イスラム教とキリスト教にはタリーカTariqahがあります。
しかし、それはすべて研究という形であり、心と思考から来る教えです。
・・・・・
真実は、タリーカTariqahすなわち「神の領域と魂の領域の研究」には大きな誤りがある、というのも、二つの異なるものを同じものとして扱うからです。
タリーカTariqahは神の恵みを受けた人とそれをまだ受けていない人とを同じように扱います。
・・・・・
性交の器官は、バイタル ムカダスbait al-muqaddas [アラブ:浄化された家]と彼らは言いいます。
バイタル ムカダスbait al-muqaddasは性器であり、最も小さい家です。
・・・・・
[小さな家]では、人は「人間の種子」を受け取ることができます - あなたは確かにこれに精通しています - 「完璧な人間の種」、それは聖霊を運ぶ人間です。(注4
それが彼らの教えです。
だから、この教えに従うのは誰でも、バイタル マームル bait al-ma‘mur、バイタル ムハラム bait al-muharramそうしてバイタル ムカダスbait al-muqaddasを持っていると信じています。
誰もがそれらを持っている、、、と。
しかしそれは彼らの間違いです。
・・・・・
そしてタリーカTariqahに従ってそれを研究する人は、「男と女の合一は神の礼拝である」と言っています。注2
実際、男女の合一は、兄弟姉妹の皆さん、本当に人間と神の間の礼拝の行為です。注1
しかしそれは、誰でもそうであるのではなく、神の恵みを受けた人間にのみ適用されます。(注3
それ以外の人では礼拝にはならず、喜びの行為になるだけです。
それは彼らの動物力の欲望、彼らの植物力の欲求、そして彼らの物質力の欲求を満足させる方法です。
それは一般的に、つまりは男と女の合一は礼拝の行為ではないということです。
・・・・・
それでバパが言ったように、人体の性器に存在するものはまだ神の恵みではありません。
一般的にはまだヤギ、イヌ、ニワトリ、アヒルまたはウシです。
そしてそれは良い方です!
(動物力なら良い方だと。)
幾人かの人々のそれは物質力です。

(8月23日1971 バパ)
・・・・・
前にBapakが言ったように、夫と妻の性的合一は、受けること、あるいはある種のラティハンです。
だから既に結婚している男性は、自分の妻と性的合一にあるときに、生命のラティハンllife latihanを行います。

夫と妻の性的合一の特徴が喜びであると感じたり、受け入れたりしないでください。
それでは正しい方法を見つけることを妨げるでしょう。

夫と妻の組合は、本当にあなたがムトマイナmutmainahと呼ばれるナフスnafsuを持つことを可能にする生命のラティハンllife latihanです。
そしてそのような性的な合一はあなたが行う神の礼拝をたやすくします。

あなたの気持ちは純粋になり、あなたは仲間の人に思いやりと同情を持ちます。
あなたがそのようになることができれば、他の人たちはあなたのために思いやりを持ち、あなたが会うすべての人に愛されるでしょう。

その様な人は世間では非常に尊敬されています。
・・・・・
その理由から、夫と妻の性的合一が満足感の手段であるとは信じてはいけません。
生命を知る方法、それであなたがナフス ムトマインナnafsu mutmainahを持つ事を可能にする方法であると感じてください。

(London 1959/8/11)バパ
そして、ムハンマドと彼の妻との性的合一が真実になって神に向かって礼拝する行為になったので、ムハンマドが神を礼拝することがより容易になりました。

男性と女性の性的合一は、真の礼拝行為であると神によって定められました。

これは、イスラムの宗教に従って、モスクで行われた結婚式で示されています。
ここで、男女は真の夫と妻になることを宣言して確認するために、「アッラーフ(神)の他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である。」という信仰告白を唱和する必要があります。
この行為によって、夫婦は彼らの存在を神に誓うこと、そして彼らは神の目撃者であることを認めています。

これはそれがどのように実践されたかです。
ムハンマドの追随者や他の多くの人間が、夫と妻の性的合一を純粋にし、礼拝の行為をしました。
それで彼らは真実、神を礼拝することができました。

しかし、バパは再び、人間は人間のままであると言います。
とても素晴らしく幸福な崇拝行為にもかかわらず、彼らは再び、彼らの楽しみと喜びの中で、彼らがこの世界の環境の影響力と圧力にさらされていること、そして低次の諸力の侵入、それは人間が純粋な目標を達成するのを妨げる傾向があると言う事を忘れてしまいました。
だから、ほとんどの人にとって、男女の合一は、礼拝の行為ではなく、再び彼らの情熱の喜びに過ぎなくなりました。

現実には、性的合一の真の性質は要約(繰り返し)というものであり、それを通して人間は「存在する前と後の両方で自分の状態を認識して知ることができなければならない」というものです。
あなた方は本当にそのように認識しなければなりません。
そうでなければあなたは単に車が通り過ぎた道のようで、その車がどこから来たのか、どこに行ったのか知ることがありません。
それは本当に失望する事であり、本当に全能の神を悲しませています。
なぜ人間はこれを理解できないのですか?

それで兄弟姉妹の皆さん、あなたの子供がどこから来たのか、あなたの子供があなたを通過しても何が起きるのか、皆さんは知らないのです。
子供はどこから来たのですか、そしてどこに行くのですか?

しかしあなたがこれを意識すると、「私が存在する前に私はどのようになったのか?」を意識していることになるでしょう。
そして、「後で(地上を、現世を)離れる時にはどうなるのか?」がわかります。
(注:死後の自分の状況を前もって知る事ができるという主張です。)

以上のように、これらはアブラハムからムハンマドまでの預言者たちが受けた戒めがどれほど優れているかという事です。
しかし、人間は人間のままであり、世界の雰囲気にとても容易に左右されます。
何が起こっているのかを意識することなく、時間が経つにつれて、彼らは自分たちの欲望、意志、思考心、そして心の力に従うことをますます重要にしていきます。

(8月18日1959 バパ)
それはバパが個人的な場所、人間のセックスの場所として言及する第3の家と同じです。
これは人間が「本当の人間の魂(ロハニrohani)」、あるいはそれを超えるもの(ラフマニ)を持っている子供たちを創造する(宿す)ために神の命令を受けることができる臓器です。
そして彼らは人類の助言者になることができる子供たちです。

  「実際の所、私は誰ですか?」
それは、人の魂の個人的な意識と理解が開かれ、経験できることです。
彼らは、彼らが「高い人間の種」を世界に送り届ける神の願いのための通路になったことを認識しているからです。(注4

まだ神から正しい方法を受けていないので、そのような事をまだ認識していない人にも子供がいる。
しかし、彼らはまだ外界からや彼らには起源が分からない生命力からの影響を受けている。
これらの人間力未満の生命力は、人間の思考、心、欲望を介して働くため、必然的に人間の性的臓器に入り、その結果生まれた子供には人間の魂は含まれず、そうしてその魂の起源は不明である。
そうしてそれは主に物質的な魂、または動物の魂になります。
・・・・・
男性がバパが話したレベルに到達した場合、つまり、バイタル マームル bait al-ma'mur、バイタル ムハラム  bait al-muharram、バイタル ムカダスbait al-muqaddas(というレベルに到達した)- その後、彼の妻との合一の前に、神は彼に「人間の種」を世界に持ち込む目的と働きを考えさせることになるでしょう。(注1
・・・・・
人間の場合、それが作られる場所はバイタル ムカダスbait al-muqaddasであり、創造は男女の合一によって行われる。
・・・・・
本当に、男が現実化された思考、愛、性的合一を流すチャンネルであり、女性は受容者を表すというのは、人間の本性である。

(6月30日1957 バパ)
これは、あなた方のすべてが、あなたが訓練(latihan)をしたときに受け取るものです。
あなたが受け取っているプロセスが完了すると、あなたは「本来のあるべき人間の種子」から子孫を持つことができるようになり、往々にして高等教育を受けるためのチャネルを提供することができるようになり、子どもたちは最終的に人間社会の中で神の有益かつ価値ある生き物である人間になり、その結果、平和と繁栄はこの世界の人類の家族に来るかもしれません…(注4)

(17章・パンクール 43~44)
(ラティハンが進歩するにつれて、、、)
43、この段階を通って、彼はその後ますますそれをより明瞭に、また確実迅速に行う事ができるようになる。
その結果、妻との性的合一において、彼は「完全な人間の種子」という中身を注ぎこまれるうつわとなることができる。(注4

44、「完全な人間の種子である中身」とは、やがて時が満ちれば高貴な性質をそなえた人間となり、また人生および人間と社会の在り方にとって、真に価値ある人格を生み出すような中身という意味である。(注4

(5月21日1977 バパ)
それで、「人間の種」を抱くのは男です。
しかし、人間の種は、それが女性に与えられなければ、人間になることはできません。
・・・・・
 したがって、ロハニア rohaniahの生命力、イスラムの人々はそれらをムーミン mu’min (本当の信者)であるワリ達walis (聖人)の生命力と呼びます。
ワリwaliとムーミン mu’min と呼ばれるものは男の、男性の力です。

それ以外にも、ロハニア rohaniah(ロハニrohaniの生命力)以上の生命力があります。
しかしそれをあなたが受け取ったり感じたりすることはできませんが、それは物事の定められた順序です。

彼がジャスマニアjasmaniah(人間力)、へワニアkhewanaiah(動物力)、ナバディアnabadiah(植物力)、ラエワニアraewaniah(物質力)の生命力によって重圧を受けたり影響を受けたりしていない時に「人間の種」を受けた場合はロハ二アの生命力を受け取ることができます。(注4
上記条件のもとでロハニの生命力は、「人間の種」を受けた人が受け入れることができます。

(8月18日1959 バパ)
なぜなら、あなたの情熱、思考心と感情心の意志に従えば、それは最高の生命力をあなたに近づけることはできませんし、それがあなたの進歩を妨げる低い力です。
情熱、感情の心と思考の心は、低次の力が私たちに入る道です。
しかし、私たちが自分の能力と理解力を上回る生命力(ロホ イロフィ roh ilofi)に降伏すれば、私たちは低次の力が私たちに入る道を閉めます。(注5
これは、神の意志によって、私たちが訓練している霊的な方法(ラティハン)であり、私たちが完璧な人間の魂を取り戻し、私たちの原始的な起源、それは「人間の種子」からの最も初期の始まりであり、またそれは高貴な生き物の種でもありますが、そこに戻ることができるようにする方法です。

注1:バパの「夫婦の性的な合一は礼拝である」という主張のいろいろな表現。

注2:タリーカTariqahーー>PS参照のこと。

注3:ムハンマドによって伝えられたもの

注4:夫婦の性的合一が礼拝にまで高められた時に起きる結果、あるいはロハニレベルへの到達の仕方。

注5:これは「ラティハンで本当に起こる事は、夫婦の性的合一が礼拝にまで高められた時に起きる事と同じである」という主張の様に見えます。

PS
関連して、以下の様なトークもあります。

April4月21日, 1984 - Bapak
私たちは裸で生まれました。
後で私たちが死ぬ時、私たちが帰る時、再び裸になるでしょう。
そして、私たちがこの世界を離れるとき、私たちは何も持っていけません。
それでも、オランダの諺にあるように、死はまさに人生の継続です。

それは私たちが間違いを見て死ぬ時にそうなります。
私たちは物質にこだわって、野菜にこだわって、動物、人間につかまった。
なぜ私たちは物事に取りつかれ、食事をしたり、他の人との関係につまずきましたか?
人生に付随すると思われるまさにその力(4つの低次の諸力)を避けることによって得る結果は強みではなく弱みです。
意図した通りこれらの力(4つの低次の諸力)よりも上に上がるのではなく、(死後に)それらの下に落ちます。
(注:この部分はバパの禁欲主義的な修行方法への批判になっています。)

そしてそれは、兄弟姉妹の皆さん、私たちの間違いの結果として、生まれ変わりと呼ばれるものが起こるのです。
(注:これがバパの生まれ変わりに対する結論の様に見えます。)

化身(incarnated:肉体化)とは、インドで起こると言われているものを意味しています。
インドでは、人間の魂を持つ牛がいると言います。
彼らはそこに「その牛は人間の魂を持っている」と言っています。
しかし、人間の魂が牛だけに生息するだけではありません。
木はまたその中にそのような魂を持つことができます。
物質的な物も(魂を持ちうる)。
これはインドに関連するものです。

それはアラジンAladdinの(魔法の)ランプの物語のようなものです - ランプをこする人は悪魔の住居に吸い込まれます。
なぜ?
人間自身の間違いのために。

なぜこれはすべて起こるのですか?
思考、感情心、思考心を間違った方法で使っているからです。
これが、バパがあなたにある事を伝えたい理由です。
バパが最近ジャカルタ外のメンバーに言ったことですが、ここ(チランダ)でも繰り返す価値があります。
少なくとも、他の人を傷つけたり傷つける心や意欲を持たないでください。
復讐感や憎しみをはるかに少ないように。
これは絶対に許可されていません。

神聖なコーランの詩では、それは言われています。
イスラムの人は、別のイスラム教徒に対して嫌悪感や復讐感を感じてはいけません。
恨みの気持ち、恨みの抱きしめ、復讐の意志は、その気持ちを持っている人が、復讐する人、場所、物に、つまり、彼が憤慨しているまさにそのような人へと肉体化(incarnated)されることを意味します。
これが現実です。

あなたが男であり、あなたが結婚していて、あなたの妻が妊娠して子供を運んでいる場合、あなたが誰かを憎むようになったら、あなたに生まれる子供は、あなたが嫌う人のようになります。
はい。あなたが軽蔑する人が知的で親切で美しいものであっても、(あなたが持つ子供は)知的ではなく、親切ではなく、善良でもありません。

そのように登録されます。
そしてこれ(間違い)はすべて人間自身が作り上げたものです。

PS
以下、上記本文でバパが言う所の「タリカットtarikatの例」を見てゆく事にします。
『そしてタリーカTariqahに従ってそれを研究する人は、「男と女の合一は神の礼拝である」と言っています。(注2)(6月13日1963 バパ)』

まずはガザーリーAbu Hamidal-Ghazali(~d.1111)の婚姻論から始めましょう。
ガザーリーの婚姻論 青柳かおる<--リンク
『・・・・・
以上の前提のもとで,婚姻生活において合法的性交が行われる。
性交の際もドゥァーによって神への依存性を表し,神について思念することが求められる。
ガザーリーによれば,神の名前によって始めるのが望ましく,「言え,これぞ神にして唯一者」(クルアーン112章1節)と言い,「神は偉大なり」,「アッラー以外に神なし」,そして「いと高き偉大な神の名において,神よ,彼女によい子孫を与えたまえ,… … 」と言う。
ガザーリーによれば,性交は現世において子孫を残すという意味で重要であるが,それだけではなく来世においても重要である。

(以下、婚姻論からの引用)
欲望の中には,子供を作ることへの要因以外に,他の叡智hikmahがある。
それは,もしその(現世的)喜びladhdhahが続いたとしても,それ(欲望)の満足において,対比され得ないほどの喜びである。
それは天国に約束された喜びを示している。
実際に体験できない喜びに(向けて人を)促すことは無益である。
… …
現世的喜びの一つの利益は,それが天国でも続くように欲することであり,神への崇拝への原動力ba'ithとなることである。
(引用終わり)

現世での性的快楽は,来世での快楽を類推するためにあるというのである。
婚姻生活における合法的性交によって,姦通を防ぐ,子孫を残す,性的快楽を得るという三つの利点が生じるが,この中で性的快楽は,心を安らかにするのと同様,神への崇拝への原動力となるのである。
・・・・・
但し同論文の「Ⅴ.マッキーの婚姻論」の部分ではマッキーAbu Talib al-Makki (d.998)による、上記とはまた違う意見が述べられています。
・・・・・
最後に結婚すべきか,独身でいるべきかという議論がまとめられている。
マッキーは婚姻を勧める根拠として,クルアーン24章32節や「気に入った女を二人なり,三人なり,あるいは四人なり娶れ」(クルアーン4章3節)などを引用し,婚姻によって,男性の女性に対する視線を避け,陰部を守ることになるとしている。
しかしマッキーによると,神は結婚も,独身も人間に課してはいないma iftaradaのである。
神が課しているのは,心の平安salah al-qalb,信仰の健全さsalamah al-din,魂の静けさsukun al-nafsである。
したがって,結婚して心が安らかになるなら結婚したほうがよいし,女性を遠ざけ,来世について心を空しくするために一人でいるほうがよければ,独身のほうがよい。
このように,結婚するか否かは個人の状況によるのだが,マッキー自身は,このわれわれの時代には独身によって得られる心の平安のほうがよいと言う。
そして,もし姦通の恐れがあるなら結婚したほうがよいとしてから,サウリーSufyan al-Thawri(716-778)の独身を称える詩でマッキーの婚姻論は終わっている。』

次は「ガザーリーにおける二つの欲望 青柳かおる」からの引用です。<--リンク
「・・・・・
ガザーリーは以下のように言う。
『第一に、その快楽(ladhdhah)を知覚することによって、来世での快楽を類推することができる。
というのは、火で焼かれる苦痛(a - la-m)が、身体的に最も強い苦痛であるのと同様に、性的快楽は、もしそれが続くならば、身体的に最も強い快楽だからである。
促進力と抑止力(targh b waal-tarh b)は、人間を幸福へと導くが、それらは感覚的な知覚できる苦痛と快楽によってしかもたらされないのである。
というのは、経験によって知覚できないものは、決して欲求されることはないからである。
第二の利点は、子孫を残し、存在を存続させていくことである。
これらが性欲の利点である(Ih. ya- ’, Vol. 3, 159)。』

このように性欲には、
1性的快楽によって来世での快楽を類推することにより、来世での快楽のために努力する、
2現世に子孫を残す、
という利点がある。
しかし、性欲には害もあり、性欲を制御できない場合、宗教においても現世においても破滅をもたらす(Ih. ya- ’, Vol. 3, 159)。
性欲には、大きな利点があるが、それを制御できなければ姦通などの罪を犯し、地獄に落ちることになる。
よって性欲は、多すぎても少なすぎても非難され、中庸が称賛される。
性的快楽を原動力として、神への崇拝に励むことができるからである。
・・・・・」

次に「イスラームの婚姻論比較研究 青柳かおる」はガザーリーとイブン・アラビーの婚姻論の比較になります。<--リンク

ガザーリーの婚姻論は上記で見てきましたので、ここではイブン・アラビー(Ibn al-‘Arabī 1240年没)の婚姻論を引用します。
「・・・・・
しかし、イブン・アラビーにおいて、スーフィーにとって性行為の目的は、女性の中に神の聖霊を認め、神との一体性を悟ることである(Hoffman 1995, 235–238)。
『叡智の台座(Fuṣūṣ al-Ḥikam)』の第二七章にはイブン・アラビーの女性観が述べられている。
それによれば男性は、最も完全な神の顕現である女性の中に、神 ─ つまり自分自身、自分の本質 ─ を見ることによって、神を二つの側面から見ることができる。

『男性が、女性の中に神(真実在)を見る(shāhada)とき、(影響を受ける)受動者(munfa‘il)の中に神を見ているのである。
男性が、女性が彼自身から顕現したものとして、彼自身の中に神を見るとき、彼は、能動者(fā‘il)の中に神を見ているのである.
男性が、彼自身から生まれたものに関心を持たずに、彼自身の中に神を見るとき、仲介なしに(影響を受ける)受動者の中に神を見ているのである.
しかしながら、女性の中に神を見ることは、最も完全で完璧である.
というのは、彼は、神は能動者であり、受動者でもあるとして、神を見るからである(Fuṣūṣ,Vol. 1, 217; Austin 1980, 275)。』

 男性(アダム)は、自分(神の顕現)の能動性(イブを生み出した創造者)と受動性(神の被造物)を自分の中に同時に見られない。
よって女性(神の顕現=男性=創造者、男性から派生した=被造物)の中に自分自身を見る。
女性を見ることは、神の能動的側面と受動的側面両方を見ることである。
神と世界は一体であり、性の神秘的意味は、神(女性)と世界(男性)の結合の一体感を感じることである。
性的結合により、神と世界との一体感を会得することが、イブン・アラビーにおける性の大きな意義なのである。
・・・・・」

次は、『イブン= アラビーにおける「自然本性(ṭabīʿah)」について』 小野純一<--リンク
「・・・・・
能動と受動の関係を実在の顕現に関連させるときに男性原理と女性原理に不可避的に言及せざるを得ない興味深い箇所を『叡智の台座』は提供する。

(注:以下『叡智の台座(Fuṣūṣ al-Ḥikam)』からの引用)
『男が女(marʾah)のうちに実在者を目撃するとき,目撃(šuhūd)は受動(munfaʿil)のうちにある。
男が実在者を実在者自身のうちに目撃するとき,実在者からの女の顕現(ẓuhūr)という観点からすると,男は能動(fāʿil)のうちに実在者を目撃している。

もし実在者から存在化するところの形相の現在化(istiḥḍār)なしに,男が実在者を実在者自身のうちに目撃するなら,男が行う目撃は媒介(wāsiṭah)なしに実在者からすれば受動(munfaʿil)のうちにある。
ゆえに,女のうちに実在者を男が目撃することはより完璧にしてより完全である。
なぜなら,実在者が能動かつ受動であるという観点でもって,男は実在者を目撃するからである。
それゆえ預言者(神が彼を嘉みし安らかならしめんことを)は,男が実在者を両側面において目撃することが完全であるので,女性(nisāʾ)を愛したのである。
というのも,相互的愛情(muwādd)から離脱(muǧarrad)しては実在者は決して目撃されないからである。
なぜなら,神はその本体(ḏāt)において諸世界を必要とはしない。
それゆえ,この観点[神の本体において神を直観すること]で事は不可能で,また,目睹(šahādah)は質料(māddah)においてしかありえないゆえに,女性(nisāʾ)のうちに実在者を目撃すること(šuhūd)が最も偉大であり,その目撃は最も完璧なのである17。』

目撃や目睹は特殊な表現に思われるが,これは神を垣間見るという観照体験といえるだろう。
目撃そのものは受動性のうちで生起するが,実在者に比定される目撃の主体は能動性として特徴付けられているものの,これは存在顕現という段階的流出の成立後からの観点だと理解すべきだろう。
神の本体において神を見る事は不可能だが,質料においてのみ人[=男]には可能であるため,神を見る事を可能にさせるのが女性,自然本性,質料である。
・・・・・」

そして次は『ガザーリーの「婚姻作法の書」にみられる妻と子供 青柳かおる』<--リンク
『・・・・・
ガザーリーは、「婚姻作法の書」の第一章「結婚の利点と欠点について」のなかで、子供について述べている。
ガザーリーは、結婚には五つのメリットがあると言う。
第一の利点は「子供」、
第二の利点は「性的欲望(shahwah)の消滅」、
第三の利点は「妻との親しさの増加」、
第四の利点は「家事の管理」、
第五の利点は「妻子を養うことによる魂の努力」
である。
これらのうち、第二の利点は夫の姦通(婚姻外の性交)を防ぐために重視されており、妻には結婚生活における合法的性交によって、夫の性欲を静め、性的快楽を与えるという役割がある。
この側面については、筆者はすでに研究したので、本稿では日常生活の側面に焦点を当てる。
普段の生活には、第三~第五の利点が関係してくるが、第三、第四の利点は妻に関するもので、子供については触れられていない。
この章では第一の利点である子供の役割について述べ、第二章で、第五の利点における妻子の役割を明らかにしたい。

ガザーリーによれば、婚姻の第一の利点は子供を持つことである。
より詳細に分類すると
第一に子孫を残すこと、
第二に神の使徒(預言者ムハンマド)を称える者を増やすこと、
第三に死後、自分のために祈願してくれる正しい子供を残すこと、
第四に自分より先に子供が死んだとき、とりなしてくれる者を持つこと
の四つの利点があるとする。
(引用注:第三と第四番目については表現方法は異なりますが、バパも似たような内容の事をトークで言っておられます。)

1)「子孫を残すこと」は、神が人間に与えた生殖に関わるもの、つまり、精子、子宮、欲望などを無駄にしないことにつながると考えられている。
ガザーリーは、結婚せずに神に与えられた生殖器官を使わない者は、神が創造して用意した道具を使っていないことになり、神の嫌悪と非難に値すると言う(Ih. ya- ’,Vol. 2, 40-41)。
そして、生殖器官が与えられたのは、子孫を残すことができるようにという神の愛なのだと主張する(Ih. ya- ’, Vol. 2, 41)。

2)「神の使徒を称える者を増やすこと」は、預言者ムハンマドの愛と満足のために努力することである。
ウマル‘Umar ibn Khat.t.a -b (d. 644 )は何度も結婚し、「私は子供のために結婚する」と言ったし、また不妊の女性への非難を表明したいくつかのハディース(預言者ムハンマドの言行録)がある。

3)「死後、自分のために祈願してくれる正しい子供を残すこと」により、親は子供の祈願と善行のために来世で褒美を与えられる。

4)「自分より先に子供が死んだとき、(神に)とりなしてくれる者を持つこと」については、預言者ムハンマドのハディースがあり、以下のように言われている。
「子供は両親を天国に連れて行く。」
「子供は親の服をひっぱる。今、私があなたの服をひっぱっているように。」
「子供は最後の審判のときに「天国に入りなさい」と天使に言われるが、天国の門の前で「両親がいない」と言って騒ぎ立てる。
すると騒ぎに気づいた神が「両親も彼と一緒に天国に入れてあげなさい」と仰せになるのである(Ih. ya- ’, Vol. 2, 43)。」
そしてガザーリーは、「欲するままにおまえたちの田畑に行け。ただし、自分自身のためにあらかじめ配慮しておけ(クルアーン2章223節)」という神の言葉の解釈の一つは、子供は来世のための配慮だという意味であると言う(Ih. ya- ’, Vol. 2, 44)。

以上のように、子供を残すことが神の意志であり、生きている子供の善行が来世で親によい影響を与え、子供のとりなしによって、親は死後、天国に行かれると信じられていることが、子供を持つ大きなメリットだと言えよう。
・・・・・』

結論
以上引用した5つの文献から、スーフィーたちの結婚、性的合一に対するある程度の考え方を知る事ができます。
そうして、その中では明らかに「夫婦の性的合一は礼拝という行為である」と主張していると理解できるものもあります。
そうであれば確かにバパが言うような「夫婦の性的合一は礼拝である」という主張は、現在の我々が感じるほどには唐突なものではない事が分かります。

しかしながら、その結果誕生する事になる子供についてバパが期待している事、「完全な人間としての存在(ロハニ レベル)」を誕生させることについての記述はどの文献にも見当たらない様であります。
そうなりますと、この「ロハニレベルの人間存在を誕生させることが結婚の重要な目的である」という主張はバパ独自のものである、ということになるのであります。

ちなみにバパは「Concerning Subud」のベンネットBennettさんとの会話の中で以下のように述べておられます。
第8章 完全な人間(P107)<--リンク
『バパは「次のエポック(新時代)には7万人のロハ二レベルの人類が地上に誕生する可能性がある」と言いました。
「この可能性が満たされれば、地球上の人間の存在は、人間が引き起こす愚かな災害から守られますが、そうでなければその災害は人類を打ちのめすかもしれません。」と。』
Pak Subuh has said that during the coming Epoch there is the possibility that seventy thousand men of the fifth degree will appear on earth.
If this possibility is fulfilled, human existence on earth will be protected from all disasters that human folly might otherwise bring down upon the race.
グーグルによる全文訳にはこちらから入れます。<--リンク)

PS
以下、青柳かおる まとめによる、スーフィーズムの説明資料となります。
イスラーム神秘主義(スーフィズム)の思想と実践 青柳かおる<--リンク
ご参考までに。

PS
文字サイズはページ右上で変更できます。

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

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