ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

ラティハン前の準備

2011-12-30 | 日記
バパにいわせれば、「ラティハン始めます。」ですべてそれまでの頭の中や感情の
ごたごたが止まることが大切となる。

言葉でいうのは簡単だけれどもなかなかそんなにかんたんには止まらない。

一日の仕事を終えたあとにラティハンをする時は本当にそうである。

仕事での「ああでもない、こうでもない」が頭の中をかけめぐる。

だから、ラティハン前に時間をとって静かにしていることが必要になる。


ちゃんとラティハンができた時は、ラティハン前の頭の中のごたごたが消えて
なくなっているものだ。

まあでも「頭の中をリフレッシュする為」だけにラティハンをやっていては
あまりよろしくはない。

本来は、「頭の中のごたごた」はラティハンに持ち込むものではないのだから。


本当に疲れている場合などは、ラティハンで緊張がゆるむと眠りこんでしまう。

でも、体の疲れは取れるかもしれないが、ラティハンにならないと注意されたものです。


その点、仕事が休みの時のラティハンは「静かにしている時間」が十分に取れるので
助かる。

少なくとも体と頭の中はリフレッシュした状態でラティハンに臨めますからね。

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ラティハン体験

2011-12-23 | 日記
ラティハンではいろいろな体験が与えられる。

いろいろなところへ出かけていって、いろいろな人と一緒にラティハンをする。

そうするといつもとは違ったラティハンが起こる。


海外に出かけていってラティハンをするのもいいかもしれない。

ラティハンに言葉はいらないから、気楽なものである。

地球上のどこででも「ラティハン始めます。」で始まってしまう。

まことに便利なものである。


最初のころは「自己催眠ではないか?」とうたがったものである。

それでもラティハンを重ねてゆくと「自己催眠でない確証」がでてくる。

こうなるとラティハンに対する「信頼」も大きくなってくる。


こういう「信頼感」ができてくると、ラティハンもまた一層受けやすくなるようである。

そうは言うものの、雨が降っても晴れてもラティハンするのが基本ですから、
あまり「めずらしい」あるいは「はなばなしい」体験を求めるのも少し違うような、、、。

本来は「ラティハンの成果」は日常生活の中で確かめられるもののようですので
「華々しい体験」はまあ自分の中にしまっておくだけで十分でしょうか。


PS
2代目に向かってしきりに自分のラティハン体験を語る人がいます。

2代目に話すぐらいですから、その人にとってはそれはもう飛び切りの体験でありますね。

それでその人はいったい何を求めて話しているのでしょうか?

自慢話ですか?

いいや、2代目の体験に比べれば自慢などはできないでしょう。

さて、そうするといったい何の為でしょう?


どうやらそれは「体験はしてみたものの意味が分からないので説明して欲しい」と。

あるいは「この体験は本物なのかどうかわからない」から「2代目からのお墨付きが欲しい」、、、と。

それはまるで「師匠に体験の認可を求めるお弟子さん」の様でありますね。


さて、「ラティハンというものは理解のレベルまで到達するもの」とはバパのコトバであります。

さあそうするとこれらの人たちは「感覚のレベルには到達した」ものの、少なくともまだ「理解のレベルまで達していない」ということが分かってしまうのでありました。


さらに言いますれば、バパが求めたラティハンの結果はそうした「神秘的体験を排除するもの」ではありませんが、それよりも「外から目で見て分かる結果」が必要でありました。

そうでなければその体験は単に「体験した者の主観的体験」になってしまうからでありますね。

そうして、そのような「主観的神秘体験を追い求める」ならば、それは「超能力を求めること」とほぼ同等のことになってしまうのでありました。
(15.7)

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ラティハンを始めるのに。

2011-12-16 | 日記
ラティハンを始めるにはお金はいらない。

自分の部屋で1人でもやれる。

会場に出かけて、2人でもやれる。

場合によっては、100人集まることもある。

世界大会では1000人規模のラティハンもありうる。

場所さえあれば、10000人規模、100000人規模も可能だろう。


ただし、最初にオープンを受けなければいけない。

昔からの言葉でいえば「イニシエーション」、あるいは「入学式」。

バパを「大先輩」として連綿としてつながる「オープン」のつながりの中に入ることが
必要である。


人によっていろいろな「たとえ」が可能だけれど、私は「炎」の「たとえ話」が好みである。

ラティハンをすでに始めている人の中にある「ラティハンの炎」がこれから始めようと
「決意」した人に「飛び移る」というイメージである。

「炎」はいくらでも飛び移れるし、それで元の「炎」が減るわけでもない。

但し、最初の「炎の飛び移り」がないと、新しい人は「ラティハン」が始まらない。


たとえ話ですから、「オープン」の時に実際に「炎」や「光」が移動するわけでもないし
そんな「イメージ」をもって「オープン」に臨んでもらってもこまる。

まあそうなのですが、説明というものはこうでもしないとなんとも出来ない。

これが「言葉の限界」ですね。


「炎」のたとえは、ラティハンをする人数によって「ラティハンが強くなる」事の
経験的な事実ともよく合う。

1本のマッチ棒が燃える「炎」より10本束ねて燃える「炎」の方が「強くて大きい」
というだけの話なのですが。

これが結構、やっぱり効いてくる。

百人規模のラティハンをはじめて受けたときは驚きましたもの。

ラティハンがとても強く感じられました。


とまあ、とんでもないものが「ラティハン」です。

不思議なものですね。


PS
オープンをお考えのあなたに。<--リンク

「万人に開かれる」ということ<--リンク

入口におかれた石ころ<--リンク

宗教団体<--リンク



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仕事というものは。

2011-12-09 | 日記
「背に腹は代えられない。」

まったくそのとおりで、この不景気に仕事があるだけでもありがたいとしなければ。

私もそうやってきましたし、これからもそうやっていくしかないとは思ってます。


そうはいいながら、あまりに内部が苦しむようだったら、別の事を考えるしかない。

「背に腹はかえられない」が「パンだけでも生きられない。」


そうはいいながら、ラティハンをやっていくと内部が成長してきます。

そうすると、それに合った仕事をするようになります。

同じ仕事をしていても、やり方が変わってしまったり、あるいは、本当に職業を
変えてしまったり。

そういうことが起こるようです。


内部が変わって仕事が変わっていく時はそんなに難しくはないようです。

ちょうど、こちらが閉まってあちらが開くようなもの。

狭いながらも、必然の道がそこには用意されているかの様になるそうです。


仕事は日常生活の中でかなりの時間を占めるもの。

この時間の過ごし方というのは、なかなかに大変なことですね。

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ラティハンだけよくすることはできない

2011-12-02 | 日記
ラティハンのやっかいなところは、ごまかしがきかないところ。

ラティハンの時だけ取り繕うことはできない。

ラティハンにテクニックがないということは、ラティハンそのものは難しくないということ。

こちらで「ああして、こうして。」がないのだからそうなる。

しかし、うらがえすと「ごまかしようがない。」となってしまう。


1回のラティハンでは、たいていほんのわずかな「修正」があるだけ。

そのわずかな「修正」を大事にして、次のラティハンにつなげる。

そういうことがわかってくると、「うーん、こいつはあなどれん。」とこうなる。


わずかづつの修正の積み重ねが、その人を運んでいく。

あんまり早く修正しすぎると、バランスをくずしてろくな事がない。

そのあたりは、ちゃんとラティハンが面倒みてくれる。


頭で考えると、「これでは遅くて大変だ。」となるが、そこは「頭」の言う事を聞かずに
ラティハンのいうことを聞く。

まあそうやって、一歩一歩前に進む。

そうやって歩いてゆくのがこの道の歩き方になる。


すぐに「成果」を求める今時の人にはそこが難しい。

しかし、故人も言ってます、「急がばまわれ」と。
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