ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念・3 植物の魂(植物力)-1

2016-10-07 | 日記
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P102
さて今度は野菜の魂についての彼の概念に進みましょう。

バパによれば、材料・物体の魂の上に植物あるいは野菜の魂が存在します。

これに関連して、彼は以下の様に言います。

「以上が物質の魂の意義の説明である。

そうして別のカテゴリーは、これから議論されることになるが、野菜の魂と呼ばれるもの。

その魂も(物質の魂と同様に)地球上の人間の生活の中で人に従属する力である。」


「人間は食べ物を必要とするため、植物に起因するこれらの魂は、物質の魂よりも人間の生活に大きな影響を及ぼし、それらなしでは人間はどのような強さも持つ事ができず、また人間は人間の体(物理的な人体)を持つ事はないでしょう。」

「植物の魂は人間の始まりの時から、生命のために不可欠である。

まだ自分の母親の子宮の中にいる時に、すでに彼女の仲介を通じて野菜の要素を受けとり、誕生の瞬間までそれらから分離される事はありません。」

P103
「野菜の魂の要素は、実際には人間自身の一部です。

彼らは、目の感覚では検出できない状態になっています。

そして徹底的に浄化された内部感覚によってのみ知ることができます。

そのような(浄化された)内部感覚は、思考の心によって汚染されていません。

人間がこの状態にあるとき、植物由来の食べ物の本質が人間に入ります。

そして、栄養を与え、人間の身体の状態を強化するのに役立ちます。

このようにして、食べ物は、外側と内側にある植物の魂の接触点となるのです。」


「このような外側と内側との接触は、水がその源に戻っていくありさまに対応させることができます。

この両者の間に違いはありません。

そして外側と内側との接触に生じるどのような不調和であれ、それはひどい結果をもたらす可能性があります。」


「接触は食べる瞬間に起こります。

リアリティーの観点から見た場合に、人間は既に内部にある野菜の魂と外側にある野菜の魂とを接触するようにさせる単なる仲介者にすぎません。」


「食べ物が人間に食べられるたびに、そこには二つの重要な利点があります。

食べ物はその原点に戻り、そして人間は神の賢明で高貴な創造物としての人間の義務を果たしています。」

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「そのような人は当然のことながら人の中にある、あるいは人の外にある野菜の魂にとっては崇拝の対象となります。

それらは長い間、「食べる」という行為で楽園への道を開くことができるような、そのような人の助けを待っていました。」


「外側と内側の野菜の魂の間の接触は、長い間(離ればなれになっていた)夫と妻の間での待ち焦がれていた再会に似ています。

その経験される歓喜の気持ちはたやすく想像できるので、説明する必要はないでしょう。」


「これらの願望は、ある期待をもって死を待つ人のものと決して異なるものではありません。

その期待とは、「自分達は人生の中で正しい道をたどったがゆえに、永遠の栄光の世界に戻ることができる」というものです。」


「植物は人間の仲介によって接触ができ、そして高貴で高尚な世界に戻るという運命にあこがれる。」

「植物の本質にとってはそれゆえに、地面に投げ出され腐ってしまう、あるいは単に動物のえさとなるよりは人間によって食べられる方がはるかに良いのです。」

「確かに植物は大いに喜び賞賛し、そしてそのような高貴な死を与える人間に感謝します。」

「それゆえに子供たちよ、植物の本質的な状態は、すでに述べた物質・物体の本質と同様です。

二つのエッセンス(本質)の違いは、物質の魂はただ人間の心に影響を与えますが、野菜の魂は人間の存在のすべてに渡って影響を与えるということです。」
・・・・・
ここまで、英文はこちらを参照願います。<--リンク

原典はこちら、THE PATH OF SUBUD (1969) Author: Drs Kafrawi : Kafrawi McGill University Montreal.<-- Link

PS
上で述べられている様な、植物性食品のエッセンスをその希望する場所に送り届けるような事が出来る人というのが「植物力を制御・統御出来ている人」になる訳であります。

そしてそれが「適切なチャンネルにそれぞれの諸力を流す」という行為であると解釈できます。

しかしながら、単に人間であればどのような人でもそれが出来ている、、、という訳にはいきません。

上記より「・・・そのような(浄化された)内部感覚は、思考の心によって汚染されていません。

人間がこの状態にあるとき、植物由来の食べ物の本質が人間に入ります。・・・」

まずは内部感覚がラティハンによって十分に浄化されている事が前提になります。

そうでない場合は、単に動物が食事をしているのと大差ない状況、物理的な自分の体の為に栄養を取りこむ為の食事になっています。

そうして、「そのような状況ではだめですよ」とバパは言っているのであります。


さてこれは余談になりますが、そのように植物力を扱える人は一生の間、食べ物に困るということはないでしょう、、、とバパは言います。

食べ物のほうからその人を求めて訪ねてくるからであります。

同様に物質力を上手に扱える人はお金に困ると言う事はないとバパは言います。

お金がその人を追いかけてくる、、、と。

我々のようにお金を追いかけるのではなく、お金がその人を追いかけてくると、話がまるで逆になる訳であります。

追伸
バパはトークの中で「植物を食べ物として認識でき、そうして体の中に取り入れて身体を作り上げる事が植物力の助けで出来ている。」と述べています。

さて植物力のこの働きは人間のみならず動物一般に対して当てはまることでありますれば、「動物には基本的に植物力がそなわっている」、ということになりそうです。

しかしながら「内にある植物力に外から入ってくる植物のエッセンスを引き合わせる」と言う事が出来るのはどうやら人間のみ、しかも「それなりのレベルに到達した人のみが可能である」という事になります。

PS
さて、これは少々先取りの話なのですが、「内にあるものと外から来るものとの調和」、あるいは「外からの諸力をその希望する場所に届ける」ということについて少々。

これは宮沢賢治の「よだかの星」で扱われているテーマでもあります。<--リンク

以下、ページから引用です。

「・・・自分が生きるためにたくさんの虫の命を食べるために奪っていることを嫌悪して、彼はついに生きることに絶望し、太陽へ向かって飛びながら、焼け死んでもいいからあなたの所へ行かせて下さいと願う。・・・」

そのように考えてある人々は肉食を避けて菜食主義者になります。

しかしながら、本来は「命あるものを食べて、それを天国、あるいは極楽へ届けるのが人の役目である。」というのがバパの主張になります。

つまり「食事をするならば、ちゃんと引導を渡せ」ということになるのであります。<--リンク

PS
上記の様に「食事というのは、精神的、霊的、身体的におろそかにできないもの」であります。

そうでありますれば、古今東西においていろいろな食前の祈りが行われてきました。

以下、ご参考までに。

・五観の偈(ごかんのげ)<--リンク

・高野山真言宗教学部発行の『仏前勤行次第』<--リンク

PS
野菜の、あるいは植物の魂、、、といわれてもあまり我々にはピンときません。

これがご神木などの巨木ですと「うーむ、さもありなん」という感じになるのですが、、、。

「魂」というコトバに対する我々の常識(?)的な感覚の為でしょうか。

という訳で、「魂」というよりは「ある意図をもった力の流れ、あるいはある種の生命力」というような表現の仕方の方がまだ我々にとっては理解しやすいように思われます。

そうして多分Jiwaというコトバは「魂」という意味合いと「生命力」と言う意味合いの両方にまたがっているコトバであると思われます。

PS
「バパの魂(jiwa)あるいはロホ(Roh)の概念」一覧にはこちらから入れます。<--リンク


PS
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