ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

ラティハンは十人十色

2011-10-28 | 日記
ラティハンは十人十色。

動き方が決まっている訳ではないのだから。

まるでその人の顔つきや性格のようなもの。

それで、そのラティハンが時間とともに変化してゆく。

あたかも植物が成長するかのように。


だれがどのあたりまで行ったのかは、まるでわからない。

当の本人にだってわからない。

それでもある時に、「ああ、そういうことか。」とわかる時が来る。

だから、だれに教えてもらう必要もない。


おおまかな「地図」は、バパが説明してくれた。

でもそれは本当に「おおまかな地図。」

しかも、自分のラティハン体験がないと「読めない」地図ときている。

まあそれでも、北にいくつもりが南に行っていたようなことはなくせる。

「次の目的地がここか」ぐらいは読める。


でも、近道はのってないし、なにより「ラティハンを続けること。」の道案内板しか
出ていない。

おまけに、この道は急ごうと思って走ると、かえって進みが遅くなるという
とんでもない道。

それじゃ止まってればいいかといえば、それじゃどこにも行きつかない。

歩いていないと、いつのまにか後ろに戻ってるような道。


歩き方は簡単。

ラティハンをやって、真面目に日常生活をする。

でもこれが「心」にとっては大変な事。

「何か目新しいものはないの?」とか、「まだつかないの?」とかうるさいことしきり。

「はいはい、もうじきですね。」とかなんとかいって、ラティハンを続けてゆく。

難しいことなんか、なにもない。

道はまっすぐ。

でも、脇道にはいりたがるのが「心」です。

おりあいをつけながら、歩いていきましょうかね。

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ラティハンを「やること」はできない。

2011-10-24 | 日記
ラティハンは受けることができるだけである。

けして我々が「やる」事はできない。


「自力」と「他力」と言った人がいた。

なるほど、自力と他力だわい。


ラティハンをするその直前までは、自分の力でなんとか体勢を作らにゃいかん。

仕事を時間までに終わらせたり、あまり怒らんようにしたり、会場に足をはこぶこと。

こういうのは自分の努力でなんとかする。


そうしておきながら、今日、どんなラティハンができるのかは全くこちらの力の
及ばないところにある。

一生懸命に努力しても調子の悪い時もある。

そんな時には「調子が悪いので、ラティハンだめだろうなあ。」などと思っていても、
さて、ラティハンになるとこれが思いのほか良かったりする。

「絶好調」みたいな時には、まるで動かず、「立ちダルマさん」状態で終わることもある。

ラティハンそのものはまるで「他力」だからである。


そうは言ってもこの「他力」、こちらがぼけーっとしていては何にもならない「他力」で、
「やる」ことはできなくても、見張っていなくてはならない「他力」である。

いや、見張るというよりは、起きて、目覚めて見ていることが必要なものである。

時々、疲れているときなどラティハンで精神の緊張がゆるむと途中で眠ってしまう
ことがあるが、それでは体は休まるがラティハンにはなっていない。

起きて、目覚めていることが必要なのである。


こちらのやることと、あちらさんがやってくれること、この2つの絶妙の組み合わせが
ラティハンであり、また人生となってゆくもののようである。

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巡りあえたということ。

2011-10-21 | 日記
ラティハンをやったからといって、次の日からなんでもわかったり、良くなったりする
訳はない。

そんなことは誰でもわかっているけれど、わからないのは、いつになったら「その日」
が来るのかということである。


オープンされて、しばらくたつと自分の意志でもないのに「体が動き始める。」

最初のころはそれで十分に満足している。

でも、そのうちにそれでは満足できなくなってくる。


「ラティハンの成果」というものは、いったい何なんだという話になる。

それからが長い長い。

この長さに耐えきれなくて、人はせっかくのラティハンをやめていってしまう。


いままで生きてきた中で、何が残っているのかと言えば、ラティハンに連れてこられた
もののみである。

あとは、その時その時に「これがなくては一大事。」と思っていたものの、
振り返ってみれば人生のひとコマをなすものばかり。

連綿として続いてきているものは、ラティハンのみ。


バパにいわせりゃこの「続き」は「死を超える」ものだとか。

それがウソか本当かわからないけれど、バパが「こうだ。」といままで説明したことで
違っていた事例を私は知らない。

自分の理解よりはよほど「バパの説明」の方が信頼できる。


そのようなラティハンに巡りあえたということは、感謝すべきことなのだろうと
思っているじゃらんじゃらんでした。

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