ラティハンは十人十色。
動き方が決まっている訳ではないのだから。
まるでその人の顔つきや性格のようなもの。
それで、そのラティハンが時間とともに変化してゆく。
あたかも植物が成長するかのように。
だれがどのあたりまで行ったのかは、まるでわからない。
当の本人にだってわからない。
それでもある時に、「ああ、そういうことか。」とわかる時が来る。
だから、だれに教えてもらう必要もない。
おおまかな「地図」は、バパが説明してくれた。
でもそれは本当に「おおまかな地図。」
しかも、自分のラティハン体験がないと「読めない」地図ときている。
まあそれでも、北にいくつもりが南に行っていたようなことはなくせる。
「次の目的地がここか」ぐらいは読める。
でも、近道はのってないし、なにより「ラティハンを続けること。」の道案内板しか
出ていない。
おまけに、この道は急ごうと思って走ると、かえって進みが遅くなるという
とんでもない道。
それじゃ止まってればいいかといえば、それじゃどこにも行きつかない。
歩いていないと、いつのまにか後ろに戻ってるような道。
歩き方は簡単。
ラティハンをやって、真面目に日常生活をする。
でもこれが「心」にとっては大変な事。
「何か目新しいものはないの?」とか、「まだつかないの?」とかうるさいことしきり。
「はいはい、もうじきですね。」とかなんとかいって、ラティハンを続けてゆく。
難しいことなんか、なにもない。
道はまっすぐ。
でも、脇道にはいりたがるのが「心」です。
おりあいをつけながら、歩いていきましょうかね。
動き方が決まっている訳ではないのだから。
まるでその人の顔つきや性格のようなもの。
それで、そのラティハンが時間とともに変化してゆく。
あたかも植物が成長するかのように。
だれがどのあたりまで行ったのかは、まるでわからない。
当の本人にだってわからない。
それでもある時に、「ああ、そういうことか。」とわかる時が来る。
だから、だれに教えてもらう必要もない。
おおまかな「地図」は、バパが説明してくれた。
でもそれは本当に「おおまかな地図。」
しかも、自分のラティハン体験がないと「読めない」地図ときている。
まあそれでも、北にいくつもりが南に行っていたようなことはなくせる。
「次の目的地がここか」ぐらいは読める。
でも、近道はのってないし、なにより「ラティハンを続けること。」の道案内板しか
出ていない。
おまけに、この道は急ごうと思って走ると、かえって進みが遅くなるという
とんでもない道。
それじゃ止まってればいいかといえば、それじゃどこにも行きつかない。
歩いていないと、いつのまにか後ろに戻ってるような道。
歩き方は簡単。
ラティハンをやって、真面目に日常生活をする。
でもこれが「心」にとっては大変な事。
「何か目新しいものはないの?」とか、「まだつかないの?」とかうるさいことしきり。
「はいはい、もうじきですね。」とかなんとかいって、ラティハンを続けてゆく。
難しいことなんか、なにもない。
道はまっすぐ。
でも、脇道にはいりたがるのが「心」です。
おりあいをつけながら、歩いていきましょうかね。