まずはWikiより「カリスマ」についての引用<--リンク
1、語源
カリスマ は古代ギリシア語において (恵み)、もしくは(好意)、(喜び)から派生した語とされる。
2、社会学用語としてのカリスマ
カリスマはヴェーバーが科学概念として持ち出し普遍化した語であり、情動的帰依によって成り立つ支配の根拠である。
3、カリスマ的支配
ヴェーバーは何ゆえに支配は正当化されうるのかという観点から、カリスマ的支配を合法的および伝統的支配とともに支配の三類型として構想した。
カリスマ的支配とは「特定の人物の非日常的な能力に対する信仰」によって成立している支配で、その正当性は、カリスマ的な人物の「呪術力に対する信仰、あるいは啓示力や英雄性に対する崇拝」に基づく。
そして「これらの信仰の源は、奇跡あるいは勝利および他の成功によって、すなわち、信従者へ福祉をもたらすことによって、そのカリスマ的な能力を実証することにある」。
4、日常化
カリスマ的支配は、カリスマの不安定な性質(非日常性)のために、ただ一時的にのみ存在する。
ここからカリスマの日常化が始まる。
「カリスマ型支配は持続することはできず、伝統化されたものへまたは合理化されたものへ、あるいは両方の結合したものへ変化する」。
カリスマが世襲によって伝統化される場合は「血統カリスマ」となる。
カリスマが成文化された手段によって合理化される場合は「制度カリスマ」と呼ばれる。
あるいは、カリスマが、伝統化および合理化の結合によって非人格化される場合は「官職カリスマ」となる。
この「血統カリスマ」、「制度カリスマ」および「官職カリスマ」はカリスマ本来の非日常性的性質が失われ日常化したものである。
5、問題点
カリスマ的先導者の失敗はカリスマ信仰への裏切りとなり、往々にして追従集団の急速な解体が生じる。
にも関わらず現代に至るまで人がカリスマを強く求めるのは、超常現象(不思議現象)に強く惹かれることに由来するからであるとされる。
人は繰り返す日常に退屈しやすく、絶えず非日常へと誘われる性質を持っている。
そしてカリスマは非日常への誘いとなる。
・・・・・
そしてカリスマに引き寄せられた者は、自己と向き合うことを避け、検証能力を持たなくなる(カリスマに自己を委ねる)。
カリスマが批判された場合は、それをカリスマの聖性の証明と受け取る。
この時点で日常的判断は手放され、カリスマ的人物の意向のまま徹底して信者は追従していくこととなる。
・・・・・
退屈な“終わりなき日常”を変革し得るのは、自己の意識のみである。
過敏な感性は先天的だが、豊かな感性は学習によってしか生み出されず、また豊穣な個人的体験は、その個人の社会への参加水準に比例しているという。
以上、Wikiよりの抜粋です。
さて、協会の霊的権威はバパから2代目に引き継がれたかのようであります。
これは上記文脈に沿って言うならば、「カリスマが世襲によって伝統化される場合は「血統カリスマ」となる。」に相当するものと思われます。
しかしながら、2代目の後を引き継ぐものは現われていないようでありますので、協会は今後は「カリスマが成文化された手段によって合理化される場合は「制度カリスマ」と呼ばれる。」に順次移行してゆくものと思われます。
そうして上記に書かれたような「制度カリスマはカリスマ本来の非日常性的性質が失われ日常化したものである。」という状況に落ち込むのか、それとも生きてそこにあるラティハンによって、協会が持つべき霊的生命力が維持されるのかは、我々に残されたバパからの宿題となる訳であります。
PS
上記より、「カリスマ的先導者の失敗はカリスマ信仰への裏切りとなり、往々にして追従集団の急速な解体が生じる。」。
日本の場合は1970年代に活動的会員、いわゆるアクティブ会員数が250名ほどでしたが、その後世界各地での協会の運営の失敗などがあり、バパのカリスマ性に傷がつきました。
そうして、そのような事を契機として、結果的に70名ほどの会員が協会を離れた模様です。
PS
バパがカリスマの特性をそなえていたことは明らかなことであり、論を待ちません。
そうして、カリスマの寿命が永遠であればそこに問題は無いのでありますが、いかんせん人の寿命は限られております。
くわえて、バパがカリスマであった為にバパ自身には見えない問題がありました。
バパにとっては何の苦労もなく実行可能であったことが、普通の人間にとってはどれほどに難しいことであったか、なかなか認識できなかったと思われます。
くわえて、バパの周辺では普通の個人の霊的状況が引き上げられる為に、バパにとっては「会員はここまで成長できた」と誤解した面もあったかと思われます。
しかしそのような一時的な引き上げ効果はバパがいなくなれば、その国を離れれば消えてなくなり、残ったのはまた元の状態の我々でありました。
それらのことはエンタプライズの実行段階でのいろいろな問題の発生につながりました。
また会員募集というテーマについてもバパにしてみれば「特に宣伝などしなくても人は集まってきた状態」でありましたから、「宣伝はいらない」と言えたのであります。
しかしながらカリスマの吸引力が消えてしまった現在ではそのような態度では協会の将来は開けないものと思われます。
こうして時代の経過にともなって、状況は変化していくものであります。
そうであれば協会はその変化に対応していくことは必然なのでありましょう。
「バパがこういったから未来永劫、それを守る」という頑固な態度ではやっていけないものと思われます。
PS
カルトについてこんなことを言っている人もおります。
・・・・・
すべての問題について解き方や考え方を理解しろというのも無理な話だ。
問題は解き方や考え方を知らないことではなく、知らないままで満足してしまうことだ。
問題について答えを知っただけでよしとするのがいけないのだ。
宗教にとって教義や経典は答えである。
質問に対して経典のココにこう書かれていると答えるのは質問に対して答えだけを述べていることにあたる。
答えだけを言ってもしょうがない。
その答えに至る考え方も述べないといけない。
考え方というのはどこかに書かれているものではなく、自分の言葉で語るものである。
まとめよう。
カルトでは、質問に対して書物を引用することしかできず、自分の言葉で語ることができない。
それは、その人がその教えを本当にわかってはいないからである。
そして真の問題は、わかっていないのに書物を引用するだけで答えたつもりになってしまうところである。
・・・・・
宗教はカルトのことでも儀式や団体のことでもない。<--リンク
PS
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1、語源
カリスマ は古代ギリシア語において (恵み)、もしくは(好意)、(喜び)から派生した語とされる。
2、社会学用語としてのカリスマ
カリスマはヴェーバーが科学概念として持ち出し普遍化した語であり、情動的帰依によって成り立つ支配の根拠である。
3、カリスマ的支配
ヴェーバーは何ゆえに支配は正当化されうるのかという観点から、カリスマ的支配を合法的および伝統的支配とともに支配の三類型として構想した。
カリスマ的支配とは「特定の人物の非日常的な能力に対する信仰」によって成立している支配で、その正当性は、カリスマ的な人物の「呪術力に対する信仰、あるいは啓示力や英雄性に対する崇拝」に基づく。
そして「これらの信仰の源は、奇跡あるいは勝利および他の成功によって、すなわち、信従者へ福祉をもたらすことによって、そのカリスマ的な能力を実証することにある」。
4、日常化
カリスマ的支配は、カリスマの不安定な性質(非日常性)のために、ただ一時的にのみ存在する。
ここからカリスマの日常化が始まる。
「カリスマ型支配は持続することはできず、伝統化されたものへまたは合理化されたものへ、あるいは両方の結合したものへ変化する」。
カリスマが世襲によって伝統化される場合は「血統カリスマ」となる。
カリスマが成文化された手段によって合理化される場合は「制度カリスマ」と呼ばれる。
あるいは、カリスマが、伝統化および合理化の結合によって非人格化される場合は「官職カリスマ」となる。
この「血統カリスマ」、「制度カリスマ」および「官職カリスマ」はカリスマ本来の非日常性的性質が失われ日常化したものである。
5、問題点
カリスマ的先導者の失敗はカリスマ信仰への裏切りとなり、往々にして追従集団の急速な解体が生じる。
にも関わらず現代に至るまで人がカリスマを強く求めるのは、超常現象(不思議現象)に強く惹かれることに由来するからであるとされる。
人は繰り返す日常に退屈しやすく、絶えず非日常へと誘われる性質を持っている。
そしてカリスマは非日常への誘いとなる。
・・・・・
そしてカリスマに引き寄せられた者は、自己と向き合うことを避け、検証能力を持たなくなる(カリスマに自己を委ねる)。
カリスマが批判された場合は、それをカリスマの聖性の証明と受け取る。
この時点で日常的判断は手放され、カリスマ的人物の意向のまま徹底して信者は追従していくこととなる。
・・・・・
退屈な“終わりなき日常”を変革し得るのは、自己の意識のみである。
過敏な感性は先天的だが、豊かな感性は学習によってしか生み出されず、また豊穣な個人的体験は、その個人の社会への参加水準に比例しているという。
以上、Wikiよりの抜粋です。
さて、協会の霊的権威はバパから2代目に引き継がれたかのようであります。
これは上記文脈に沿って言うならば、「カリスマが世襲によって伝統化される場合は「血統カリスマ」となる。」に相当するものと思われます。
しかしながら、2代目の後を引き継ぐものは現われていないようでありますので、協会は今後は「カリスマが成文化された手段によって合理化される場合は「制度カリスマ」と呼ばれる。」に順次移行してゆくものと思われます。
そうして上記に書かれたような「制度カリスマはカリスマ本来の非日常性的性質が失われ日常化したものである。」という状況に落ち込むのか、それとも生きてそこにあるラティハンによって、協会が持つべき霊的生命力が維持されるのかは、我々に残されたバパからの宿題となる訳であります。
PS
上記より、「カリスマ的先導者の失敗はカリスマ信仰への裏切りとなり、往々にして追従集団の急速な解体が生じる。」。
日本の場合は1970年代に活動的会員、いわゆるアクティブ会員数が250名ほどでしたが、その後世界各地での協会の運営の失敗などがあり、バパのカリスマ性に傷がつきました。
そうして、そのような事を契機として、結果的に70名ほどの会員が協会を離れた模様です。
PS
バパがカリスマの特性をそなえていたことは明らかなことであり、論を待ちません。
そうして、カリスマの寿命が永遠であればそこに問題は無いのでありますが、いかんせん人の寿命は限られております。
くわえて、バパがカリスマであった為にバパ自身には見えない問題がありました。
バパにとっては何の苦労もなく実行可能であったことが、普通の人間にとってはどれほどに難しいことであったか、なかなか認識できなかったと思われます。
くわえて、バパの周辺では普通の個人の霊的状況が引き上げられる為に、バパにとっては「会員はここまで成長できた」と誤解した面もあったかと思われます。
しかしそのような一時的な引き上げ効果はバパがいなくなれば、その国を離れれば消えてなくなり、残ったのはまた元の状態の我々でありました。
それらのことはエンタプライズの実行段階でのいろいろな問題の発生につながりました。
また会員募集というテーマについてもバパにしてみれば「特に宣伝などしなくても人は集まってきた状態」でありましたから、「宣伝はいらない」と言えたのであります。
しかしながらカリスマの吸引力が消えてしまった現在ではそのような態度では協会の将来は開けないものと思われます。
こうして時代の経過にともなって、状況は変化していくものであります。
そうであれば協会はその変化に対応していくことは必然なのでありましょう。
「バパがこういったから未来永劫、それを守る」という頑固な態度ではやっていけないものと思われます。
PS
カルトについてこんなことを言っている人もおります。
・・・・・
すべての問題について解き方や考え方を理解しろというのも無理な話だ。
問題は解き方や考え方を知らないことではなく、知らないままで満足してしまうことだ。
問題について答えを知っただけでよしとするのがいけないのだ。
宗教にとって教義や経典は答えである。
質問に対して経典のココにこう書かれていると答えるのは質問に対して答えだけを述べていることにあたる。
答えだけを言ってもしょうがない。
その答えに至る考え方も述べないといけない。
考え方というのはどこかに書かれているものではなく、自分の言葉で語るものである。
まとめよう。
カルトでは、質問に対して書物を引用することしかできず、自分の言葉で語ることができない。
それは、その人がその教えを本当にわかってはいないからである。
そして真の問題は、わかっていないのに書物を引用するだけで答えたつもりになってしまうところである。
・・・・・
宗教はカルトのことでも儀式や団体のことでもない。<--リンク
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