ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

スシラ ブディ ダルマ・2章 ナフスamarah(怒り)とナフスaluamah(貪り)・・

2017-04-25 | 日記
バパは基本的に物質力にはナフスamarah(アマラ)を植物力にはナフスaluamah(アルアマ)を対応させて話をされます。

しかしながらこの対応が逆転した時期が二回ほどありました。

というわけで、この対応関係の歴史的な経緯をまずはレビューします。


1950年6月 バパ Sinar Pribadi ( The Light Of The Inner Self ) 和名「内なる我の光」 脱稿
但しこの書物の中にはナフスそのものが登場しません。

1952年 スシラ ブディ ダルマ  脱稿
ナフスは登場するものの、「怒りと貪りと忍耐と受容」の四つのナフスであり、この時点ではそれぞれのナフスには名前は与えられていない。
(第十一章 アスマランダーナ 48節)
今もし名前を与えるとするならば「怒りー>ナフスamarah」、「貪りー>ナフスaluamah」、「忍耐と受容ー>ナフスmut-mainah」となりましょう。

次は関連する一連のトークです。<--リンク

4月4日 1968- Bapak
その光または色は赤です。
その情熱はammaraです。
これは野菜の生命力です。

12月5日 1970 - Bapak
野菜の生命力から生まれるナフスnafsuはアルアマaluamahである。

11月26日 1972 - Bapak
次にあなたはまたナフス・アルアマnafsu aluamahによって満たされるか、または力が供給されています。
これはナバティアnabatiah又は植物の生命力から生じます。

4月24日 1984 - Bapak
それ(ナバティ:植物力)は怒りの情熱ナフス・アマラnafsu amarahを生じさせます。

1月19日 1985 - Bapak
ロホ ナバティ(植物力)、
それは、ナフス・アマラnafsu amarahを体現します。

5月9日 1985 - Bapak
そして植物の生命力からナフス・アルアマnafsu aluamahは人間の存在内に具現化され、あなたがまだ生きている間にあなたはそれを取り除くことはできません。

6月24日 1985 - Bapak
さてこんどはナフス・アルアマnafsu aluamahについてです。
これは、野菜や植物の生命力に由来します。

6月25日 1985 - Bapak
これらはナフス・アルアマnafsu aluamahと呼ばれるものであり、それは植物の世界から来ています。
ーーーーーーーーーーーーーーー
上記バパのトークの部分についての英文からの引用は以下を参照願います。
Chapter 2 nafsu Amarah (anger) and nafsu Aluamah (greed)<--リンク
ーーーーーーーーーーーーーーー

以上をまとめます。

1952年 スシラ ブディ ダルマ  ナフスには言及あり、しかしそれぞれの名前は表現されず。

1968年4月4日 時点では 
バパの認識は「植物力ー>ナフスamarah」

1970年12月5日 ~ 1972年11月26日 アマラからアルアマに変化
バパの認識は「植物力ー>ナフスaluamah」

1984年4月24日 ~ 1985年1月19日 アルアマからアマラに戻る
バパの認識は「植物力ー>ナフスamarah」

1985年5月9日 ~6月24日~6月25日では再度アマラからアルアマに変化
バパの認識は「植物力ー>ナフスaluamah」


こうしてみますと植物力に対応させるナフスがamarahとaluamahの間で行ったりきたりしている事がわかります。
(当然ですがバパが植物力にナフスamarahを対応させている時は、物質力にはナフスaluamahを対応させている事になります。)

そうして、このような状況は単に「バパの言い間違い、思い間違いである」とはとても考えられない、それぞれの文脈で起きています。
(但し言い間違い、思い違いである、としてもそれはそれで結構重要な問題にはなりますが、、、。<--リンク)


それでは上記のような状況を「言い間違い、思い違いではない」としたら、それをどのように解釈したらよいのでしょうか?

例えばこのようなトークが手掛かりになるものと思われます。

6月26日 1984 - Bapak
ハートとマインドのnafsuの性質は、アルアマaluamahとアマラamarahで、貪欲のnafsuと怒りのnafsuです。


この主張がバパの基本的なスタンスを表している様にみえます。

そうしてそれは「この2つのナフスは必要なものではあるが、その位置は低い」という認識です。

そうであれば「この2つのナフスを生命力のステージと結びつけるならばそれは物質力と植物力が相当である」ということになります。

さてそうなるとどちらをどちらに結びつけるのか、という問題が残ります。

インドネシアの伝統(ワヤンなど)に従うのであれば、アルアマaluamahが最初でアマラamarahが二番目となります。

しかしながらアルアマaluamahは食欲(食べること)に関係つけられた内容も持っていますので、その意味では植物力に結びつけた方が妥当である、、、とも考えられます。<--リンク

、、、などなど「バパもそのあたりでいろいろと考えて迷われたのではなかったのか」と推定する事も可能な状況ではあります。


さて、ナフスとロホの一対一対応の件、この辺りの事はバパも少々無理をされた様にみえます。

もともと「ナフスとロホはその出自が違っている」ということは以前の記事で指摘した通りです。<--リンク

したがって、「生まれが違っているものを一対一対応させる」と「やはりどこかに無理が生じることになる」というのがここでの結論の様に思えます。

しかしながら他方でロホもナフスも人の内部の生命構造の話であり、そうして人体はこの世界に一種類しか存在しませんから、インドネシアにおいてはどこかの時点でこの2つの概念が出会う、ということはある意味、必然の事なのでありました。


ちなみに二代目がバパが何度も説明してきたこの「ロホとナフスの1対1対応を語らない」のは何故でありましょう?

そうしてほぼ同様の内容を伝える為にバパがあまり使われなかった「ジワ(Jiwa)とスクマ(Sukma)の関係」(59,8,7:注1)を用いて説明をされるのは何故でありましょう?

そのような二代目の説明の仕方では4つの諸力の各々の力には言及する事なしに、それらをひとまとめにしてジワ(Jiwa)と呼びますから上記のようなアマラとアルアマの混乱した対応関係の説明を回避できるのであります。(注2)

そうしてその状況がさらに進みますれば「4つのナフスを低次の諸力」(2,14,2003)と表現するところまでに至り、ロホとナフスの1対1対応関係は完全に見えなくなる、隠されてしまうのでありました。<--リンク

もしこのような二代目の説明の仕方が、上記本文にあるようなバパの「ロホとナフスの1対1対応のさせ方が時期によって変化している」という事実から我々の目をそらす為のものであるとするならば、それはあまり愉快なもの、誠実な行為であるとはいえないでありましょう。

そして、そのような意向があったとするならばそれは「バパは間違う事がない」という主張が否定されるのは困る、と考えたからであると思われます。

但し困るのは「バパは常に正しい」「トークには間違いがない」と主張したい人たちであって、当のバパは「バパの話を単純に信じないでください。あなた方が体験した事を信じてください。」といわれていますので、仮にトークに間違いがあっても「あっ、そう。」で済んでしまう話なのでありました。

注1:(59,8,7)バパ トークより
「ですから、魂(ジワ)はこれ(精妙体:fine body)を満たし、目覚めさせ、命を与える生命力です。
それによってそれ(精妙体)はほんとうに動くのです。
そしてスクマ(Sukma)は、この粗い肉体の精妙体です。
実際には、精妙体は一つだけでなく五つあります。
ですから(ジャワでは)5人の兄弟について話すのです。
第一は黒、第二は赤、第三は黄、第四は白、第五は褐色です。
・・・・・
これら五人の兄弟は、人間のハート(心:感情)を占拠、あるいは住み家としていると言われ、パッション(ナフス)を代表しています。
それらは、aluwamah、第二はamarah、第三はsupiah、第四はmutma'inah、そして第五はナフスではなく清浄さの状態です。
(そして)第五は(前の四つの)集合体、結合体でもあります。
それはユニティ(Unity:一体性)を形つくります。」

注2たとえば二代目トーク(12,20,1999),(1,20,2001),(4,22,2001)などのJiwaとSukmaの一連のシリーズがあります。<--リンク

PS
以下、(4,22,2001)から引用しておきます。
4月22日2001 Ibu
人間存在には2つのものがあります…2つの内容物があると言うことができます。
私はそれらを記述するためのよりよい方法を知りません。
インドネシア語ではジワJiwa [魂soul]とスクマsukma [微細体fine bodies]と呼んでいます。
スクマsukmaは微細で形がはっきりしない体を持ちます。
(他方で)肉体は私たちのコォース・ボディーcoarse body(粗体)です。

人間の魂human soul は、それが私たちの生命力であるため、私たち自身に入る最初のものです。
ファイン・ボディー(微細体)は私たちの魂soulの後に入ります。
というのも、ファイン・ボディー(微細体)は私たちの生活の道具なのですから。

それらのファイン・ボディー(微細体)はそれぞれが異なる5人兄弟です。
1つは黒、1つは赤、もう1つは黄色、1つは白、もう1つはこれら4つの色の混合物で褐色です。
そして、それぞれの色はそれぞれの性質を持っています。

最初のもの、黒いものはエネルギーを放出し、あるいはその本質は私たちにエネルギーを与えます。
赤いものは私たちが働きたく、動きたくさせます。
黄色いものは人生について知りたくさせます。
4番目のものは人の人生の中で判断することをしたいので、心の中のすべての考慮事項のために、人生において注意深く行動することを主張します。
そして5番目のものはそれらの色の組み合わせです。
誰かが経験したことの中で意味を見つけることができた後で、彼らは彼らの人生の中で平和を見つけます。

この5人の兄弟姉妹は、それぞれ独自の性質を持ち、人間の心に基づいています。
だから私たちがスクマsukmaと呼んでいる、それぞれが自分の性質を持つものは、全能の神が私たちの中に入れてくれた助力者になります。
そしてそれらは私たちがこの世界で私たちの生活のために必要なものを得るために必要な助力者です。
これらの助力者は人生の助手ですが、それらは私たちの低次の諸力とも呼ぶことができます。

私が低次の諸力という言葉で意味するのは、私たちの人間の魂human soulよりも低いものでありながら、もし私たちが自分たちの(人間としての)存在の地位を管理したり維持したりすることができなければ、私たちの存在を(私たちに代わって)引き受ける事が出来るというものです。
(注:人間の魂に代わって低次の諸力が人間を支配することができるということです。)

だから、これら2つの内部にあるものについて、1つは神の意志によって生きるもです。
それは自分の中にある神の本質(エッセンス)によって支配されています。
もう一方の内部にあるものは、私たちがスクマsukmaと呼ぶもの、ファイン・ボディー(微細体)は、人間の心によってかじ取りされ、制御され、操作されます。

この事は、魂soulが神につながる生命力であることを意味しますが、他方で私たちはファイン・ボディー(微細体)を使ってこの世界で物事を達成します。
ファイン・ボディー(微細体)を使うことで、スクマsukmaの力から引き出された力を得ることによって、人は何かを達成することができます。
しかし、神への道を見つけることになると、人間の魂human soulのみが私たちを神に近づけることができます。
それで明らかに、ファイン・ボディー(微細体)自体がこの世界を超えて行くことはできないので、あなた方はスクマsukmaを使う事で、ファイン・ボディー(微細体)の力で、この世界を越えることはできません。

しかしこれらのファイン・ボディー(微細体)は、この世界であるいは仕事や信仰において必要なものを得る時には、人々を助けることができます。
たとえば、催眠術、スピリチュアリズム、およびその他の訓練などによって。
彼らは、私たちが私たちの中にあるものから得た助けに似ているようです。

しかし、2つの異なるソース(源)があります。
異なるソース(源)によって、私は一つの源が神の本質(エッセンス)であることを意味します。
他の源は人間の心(ハート)です。
彼らは似ているようです。
時にはその違いを見つけることができません。

もちろん、これらの力(ファイン・ボディー(微細体)の力)を使う事は間違いではありませんが、これらの力を使う人が自分が何をしているのかを知っている必要があります。

PS
最終的に二代目が黙認する事になったロホとナフスの対応関係については、以下の記事を参照ねがいます。
・雑記帳39・ナフスnafsuについての注釈@トーク翻訳チーム<--リンク

PS
以下ジャワの伝統的な教えの中のナフスについての説明です。ご参考までに。
Gumelaring Jagad 第41節に4つのナフスについての記述があります。<--リンク
(上記リンクが不調の場合はこちらからどうぞ。<--リンク)

同様に「ジャワの4人兄弟の教え」についてです。
Cipta Tunggal 第16節を参照ねがいます。<--リンク
ちなみに4人兄弟に本人を加えた5人で、一卵性の5人兄弟となります。
(上記リンクが不調の場合はこちらからどうぞ。<--リンク)

PS
以下ご参考までに。
・ケジャウエン、ジャワの伝統的な精神的な教え<-ーリンク


連載「スシラ ブディ ダルマ」にはこちらから入れます。<--リンク

PS
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ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

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バパのカルマ論/

2017-04-22 | 日記
「最初の人間はアダムである」という、これはアブラハムの宗教の体系の基礎であります。

そしてムスリムであるバパも当然ながらこの立場をとります。

そうしてイスラムは「人の原罪」を認めませんから、バパにとっては「完全な人」の象徴としては「アダム」ということになります。(7月10日,1980)

さてそうではありますが、現在の我々の社会、人間のありようをみますればとても「我々は完全な人である」とはいえないありさまです。

そうなりますと、どこかで人は「堕落した」あるいは「劣化した」とするしかありません。

その原因は何か?

「それは人の間違った行動の結果である。」というのがバパの答えです。

そうしてそれをバパは「カルマ( karma)である」と呼ぶ場合もあります。(7月10日,1980)


アダムが「完全な人」ならば、その行動も完全であって、カルマを積むことはなく、したがってアダムの子供たちも「完全な人」ではなかったのか?

そのような疑問は当然のことながら問われる事になります。

答えは「完全な人であっても、人間である事の制約はまぬがれない。」というものでありましょう。

つまり「カルマは積まれる。」という事になります。

そういう訳で、子孫が増えるに従って、代を重ねるにしたがって「間違いの総量は多くなり、それが子孫に順次伝えられていく」というのが「バパのカルマ論」となります。

この「間違いの総量」、あるいはカルマがまずはラティハンの浄化対象となります。

そうして、この「代々にわたって伝えられてきたものの大小が、多い少ないがラティハンの進歩の状況をも左右しているのだ」とも言われています。(たとえばスシラ ブディ ダルマ など)

これがきれいにならないと、言葉を変えますれば「アダムの状態」にもどらなといけません。

そのためにこの時代にラティハンが現れたのであります。(3月13日,1965)、(6月18日,1981)、(7月17日,1981)


さて、「人が積むことになる間違い」というのは何であるのか、トークから引用しましょう。

「間違っている」とは、他の人々を傷つけたり、他の人々の自由を奪ったり、心の安らぎを奪ったり、などをすることを意味します。
あるいは、他の人に属するものを(自分のものとして)取りあげることです。(6月18日,1981)

そのように行動しないことは、現代社会においては非常に難しいことになっています。

時代が進歩するにつけ、社会が複雑になるに従い、我々が自分の利益を優先する程度につれてこのように行動しないことはより一層難しくなるばかりであります。

さて、そうでありますれば、時代の進歩というのは「良くない事」なのでありましょうか?

時代は進歩せず、アダムが誕生して、そのまま「知恵の実」を食べずに、ただただ「イノセントでいた」方がよかったのでありましょうか?


それでは「今の様に宇宙が進展してきたという事実に意味はない」ということと同じでありましょう。

「ビッグバンは不要であった」と主張するようなものであります。

地球が誕生し、人が生まれ、そうして社会が発展することに、したことに意味がある、、、とするならば、ラティハンはただ単に「アダムの時代に帰れ」というものではありますまい。

そうではなくて、我々の社会がこのように発展した、その中にあってなおかつ「アダムのような内的状態である事」に意味があるのでありましょう。

それが「この時代に現れたラティハンの持つ意味」であると思われます。

追記:「人間の初源の状態は高貴でありそこに戻らなくてはならない」という考え方はジャワの伝統の中にも見いだせるものです。
これについては・Gumelaring Jagadの第1節を参照願います。<--リンク

PS
バパはイスラムでありながら転生を認めたり、カルマを認めたりしています。<--リンク

そして転生やカルマというのは極めて仏教的、ヒンドゥー教的な世界観であります。

これはやはり仏教やヒンドゥー教がまずはジャワを席巻し、そのあとでイスラムが広まって現在に至っているという歴史的な経緯によるものでありましょう。<--リンク

そうして「バパのイスラム」はそれほどに包容力が大きいという事ができそうです。<--リンク


ところで、バパが主張するような「親から子供に引き継がれるカルマ」という考え方はもともとの仏教やヒンドゥー教にあるカルマの考え方の中には無いようであります。

これは日本では俗説として「親の因果が子に報い」とも言われているものでありますが、それは誤解の様であります。<--リンク

本来のカルマというものは徹底して個人的なものであって、親のカルマと子供のカルマは独立した存在であるというものの様です。<--リンク


しかしながら、このカルマについてのバパの認識というものは一概に「間違っている」とは言えないと思われます。

その状況というのは、いわゆる遺伝学でいわれている「表現型=遺伝因子(DNA)+環境因子」というものと相似的です。

つまり現実に我々が抱え込んでいる「間違いの総量」というものは、カルマと言われるような「個人的な因果律によるもの」と、暮らしている国や社会、そうして両親が作る家庭環境などの「環境要因」の和になっていると思われるのです。

式で表せば「間違いの総量≒個人的な因果律によるもの+暮らしている環境要因」とまあ、こんな感じでしょうか。

そういう訳で、両親の影響というものは無視できるようなものでは無いことは明らかなのであります。


さてそうではありますがバパが主張している様な「生まれてくる子供は両親からの過ち(カルマ)を引き継いでいる」という考え方は一般的なイスラムの中にもない、という事には注意しておく必要があります。

イスラムでは「生まれてくる子供には何の罪、汚れもない」としているのであります。<--リンク

PS
通常は輪廻転生と対になって使われるカルマというコトバですが、バパがつかう「カルマ」ということばの中にはカルマによって必然的に引き起こされるような仏教、あるいはヒンドゥー教が想定しているような輪廻(サンサーラ)というものは含まれていない様です。(2,3,1974)<--リンク

しかしながらそのことばには「因果応報」という意味合いは含まれているのです。(3,17,1983)、(7,25,1977)

追記(9.21.2017)
上記(2,3,1974)トークの解釈にミスがありました。

基本的にバパは「全ての人は輪廻している」、つまりサンサーラは存在している、という認識の模様です。<--リンク

但しその原因をバパはカルマとは呼ばずに「その人の間違い」と呼んでいます。

PS
ジャイナ教でのカルマの扱いは「非常に微細な物質であって霊魂に浸透して霊魂の本来の透明で純粋な性質を曇らせるとも考えられている。
カルマは一種の汚染であって、霊魂を様々な色(レーシュヤー leśyā)で汚染するとされる。」<--リンク

つまりはカルマとは「汚染」あるいは「汚れ」であるとしています。

他方でバパがいう所の「内部感覚(inner feeling)に積もり積もった間違いの総量」というのはそのような物質的なイメージではありません。<--リンク

それは当初はちゃんと整理整頓されていた広い場所が乱雑にものがちらかった状態になった、というイメージであります。

すこし固く言うと「エントロピーが増えた状態」ともいえます。

それは何か「汚れ」というものが外から持ち込まれた、、、というのではなく、前はきれいなパターンをしていたものが、ぐちゃぐちゃのパターンに変化してしまった、というようなものであります。


さて、この状態から元の「きれいに整頓された」、あるいは「きれいなパターン」に戻さないといけないのですが、これを人がやるのは無理であろう、、、とバパは言います。

なにせどこからどう手を入れて直していけばいいのか、目の前のものをどこに戻せばいいのか、皆目見当がつかない状態でありますれば。

とうてい人の手におえる代物ではありません。

いや、たとえば「これをこう直すのがよかろう」と人が直したつもりになっても、それは「修正」にはなっておらずかえって「改悪した」という結果になる事が予想できます。

まあそういうわけで、ここはラティハンにまかせるより他に手はないのであります。


そうしてラティハンの出番になるのですが、「ここをこう直しましたよ」と逐次の報告が上がってきます。

そのとき我々は「おおそうか、それでOKだ。」というのであれば、物事は速やかに進行していきます。

しかしながら「いいや、それではだめだ。気に入らない。」とナフス君がでしゃばるとそこでストップがかかりますね。

「これまでやってきたように行動するのが私のポリシーだ」という訳であります。

そして通常の日常行動は基本的に「ナフス君の管理下にある」のでありますから、ラティハンはそこまではでしゃばりません。

こうやってラティハンがせっかく修正したものを我々はまた元に戻すのでありました。

そうしてこの事を我々は「人間には自由意思がある」と表現するのであります。

その結果と言いますれば、結局のところラティハンを受けていようがいまいが、人は自分の認めたところ、意図したところまでにしか到達しない、到達できない、ということになるのであります。<--リンク


そしてカルマですか。

当然ながらそうして残念ながらそのような状況の下では、なかなか減少する、解消するという訳にはいかない様であります。

追伸
多くの人と人が「袖をすり合わせる」様にして暮らしているのが現代社会です。

そうして、そのような状況下では単なる思い違いによってでさえ簡単に社会全体がかかえる悪意、カルマの総量は増えてしまいます。

たとえばそのような例で、かつ身近に起こっているものを一つ紹介します。<--リンク

PS
以下(3,13,1965)トークから、カルマとその解消についての引用になります。
・・・・・
この先祖から別の者に、また別の者に、そして最終的にあなたに届いた間違い。
だからあなたの現在の状態はそういうもののすべての継続です。
そのように作られた間違いは繰り返し起こり、まだ限界に達していません。

そしてそれらがあなたに届く時には、それらの間違いあなたの個性に浸透し、それはしばしばカルマと呼ばれますが、それらはあなたの元々の自己の一部であるかのように感じられます。

それは砂糖とその甘さのようなものです。
あなたが甘さを砂糖から取り除くなら、それはもはや砂糖ではありません。
この場合、あなたの外観は砂糖ということですが、あなたの存在に浸透した間違いはその甘さになります。

それで、あなた自身の力であなたの存在における過ちを取り除きたいなら、それはあなた自身の自己を取り除くことを意味します。
そうして、それは死ぬことを意味します。
・・・・・
 私たちがしなければならないことは、私たちの個性の中に入ったそのような間違いを取り除くことです。
そうすれば 私たちの個性は、最初にあったように元に戻ります。
つまり、それは再び完全な人間の個性になります。
しかし、もしそれを強制するなら、私たちは死ぬでしょう。
・・・・・

さてそういうわけで、「そのような間違いを安全に、かつ速やかに解消するにはラティハンによるしかない。」というのがバパの主張になります。

PS
ベネット(John G. Bennett)さんはグルジェフの高弟としてグルジェフの体系での修練にいそしんでおられました。<--リンク

そうしてそこにラティハンがもたらされました。<--リンク

当初はベネットさん、ラティハンに満足されていた様子でしたが、次第に飽き足らなくなり、グルジェフの体系とラティハンとを共用する事を始めます。

要するに「グルジェフの体系を能動的に用いることによりラティハンの進歩を加速することができる」と考えた訳であります。

しかしながら結果はベネットさんの予想に反して「グルジェフの体系はラティハンの進歩に寄与しなかった」模様であります。

そうして、バパによれば「ラティハンの進歩を早めることができるような、いかなる訓練体系も存在しない」のであります。

そのような状況下で我々にできる当面の事は「ラティハンが浄化したものを極力元に戻さない」という「受動的な立場の協力」しかありえません。<--リンク

そうしてプアサ(断食)であれプリハティンであれ、「ラティハンが許容する限度までしか」行えないのであります。

その限度を超えた場合は「ミックスmix」といわれている「ラティハンと他の修練体系を一緒に用いる事の間違い」として指摘される事になります。

ちなみにベネットさんの立場は「アダムが人間の完成形である」というものではなく、「宇宙を作り出した意思の下で霊的にも人間は順次進化していく存在である」というものの様でした。

それゆえにベネットさんの立場というのは上記のようなバパのスタンスとは方向が反対のものであったことになります。(そうしてそれは多分グルジェフからの影響もあったと思われます。)

PS
以下ご参考までに。
・獲得形質は遺伝する?<--リンク
・ミーム(人類の文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報)<--リンク

PS
文明が発生し、社会が発展するのに従って我々の性格、個性、気質もまた変化してきたものと思われる。

たとえば農耕が主な社会では農耕にあった性格、気質を持つものが「すぐれたもの」として認められたでしょう。

そうなるとそのような気質、性格がその社会の中では選択圧となり、最終的にはDNAレベルまでの変化として固定されます。

同様に遊牧を生業とする社会ではその社会に適応した性格、個性が生き残ります。

こうして社会の在り方が人の性格や気質に影響をあたえ、そのなかのある部分はDNAによって固定されます。

そうやって社会が進んでいき、工業化、商業化、情報化、そうしてマネー化した現代社会では、人の持つ性格や気質が前の時代とは異なったものにになっているのは、ある意味「歴史の必然」でありましょう。

人類全体がそのようにして受けてきた影響、変化と言うものは明らかに我々が持っている「内部感覚」にもそれなりの影響を与えてきた事は明らかであります。

そういう部分まで含めての「内部感覚にたまった間違いのすべて」がラティハンでの浄化対象になっているものと思われます。

しかしながらそのような負債、「社会の変化に従って必然的に生じてくるような誤り」というものの責任を単に「両親の行動の誤りの結果である」としてしまう見方というのは、少々人間にとっては厳しすぎる判断基準の様に思われるのであります。

追伸
社会の進展に伴って生じる内部感覚の変化については6月6日1963年のリオデジャネイロ トークにも記述があります。

PS
さて仏教、あるいはヒンドゥー教、そうしてジャイナ教でもカルマによる輪廻(サンサーラ)、それも終わる事のない輪廻を説きます。

そうして、カルマによる輪廻という考え方の本質はなんでありましょうか?

それは「行動の選択ができる主体がいる。」ということであります。

そうでなければ、すべては事前に決定された、単なるお話の再現にしかなりません。

そうではなくて、「舞台の上の主人公の主体的な選択が可能である」、という世界構造でなければ「カルマによる輪廻」という構造は意味を持たないものになります。

さて、人はとりあえず主体的な選択はできそうです。

ところで動物は主体的な選択が可能なのでありましょうか?

動物に輪廻転生することもある、というカルマ論であるならば「YES」と答えるほかに選択はありません。

さて、本当に人間以外の動物に主体的な選択ができるのでしょうか?

このことは動物界を含んだ輪廻を想定している、カルマー輪廻論がもつ、大きな疑問点の一つであります。


ところでバパによりますれば「我々には自分自身の間違いによって動物力の世界に落ち込む可能性もある」とされています。

しかしながら、「動物力の世界に落ち込んだ我々の意識はその世界に適応したものになり、人間であった時の様な認識力や判断力を持たないであろう」とされています。

つまり「自主的に判断を行えるような自由意思は持たなくなる」というように理解されます。

このことをカルマー輪廻論に当てはめると、「動物はカルマを積まない、積めない」ということになります。

つまりそこで固定されていることになり、何らかの外部からの働きかけがない限りその状況はいつまでも継続されていくもの思われます。

さて、その外部からの働きかけというのはなんでありましょうか?

それが実のところ、このラティハンになるのでありました。

追記
仏教、あるいはヒンドゥー教、そうしてジャイナ教でもカルマによる輪廻(サンサーラ)を説きます。

しかし、その世界観の中心にあるのは人間の様です。

人間のレベルでは「よいカルマもわるいカルマ」も作る事ができ、良いカルマは人を「天人の世界」に転生させ、悪いカルマは人を動物界に落とします。

しかし、転生した先の世界では人はカルマを積まず、ただカルマを消費するのみの様です。

そうして時がたちカルマが消えてしまうとまた人の世界に転生する、というのがその世界観になります。

他方で、バパの説くカルマは時間によって消費されることはなく、一方的に積み重なるのみの様です。

そうして、時たま現れる預言者がもたらす福音、啓示、導きによって一時的に状況は改善される様ですが、それも長続きはせずに、現代に至っている、と言う様に説明されています。(4月、2017年)

PS
バパによる「人の誕生の説明から見たカルマ論」

夫婦が子作りの行為によって子供をさずかる場合にいわゆる受精卵に魂(Jiwa)がやどると説明されています。

さてその場合に、その魂(Jiwa )はどこから来るのでしょうか?

一つの可能性は「転生すべき魂である」というものです。

バパは特定の条件下での魂(Jiwa)の転生を認めておられます。

もう一つの可能性は、「いまだ人と言う存在になったことがない魂(Jiwa)が供給される」というものです。

バパによれば、いずれにせよ「魂(Jiwa)というものは神の手作りのものであって、それは永遠のものである。」ということになります。


さて、人の形になる為には肉体とその人の魂(Jiwa)だけでは不足であります。

そこに追加される必要のあるものは、内部感覚と物質力から人間力に至る4つの諸力のパッケージです。

そうしてこの2種類のパッケージはどうやら両親から伝えられるものの様です。

両親から贈られる内部感覚がなければ人間としての存在になりえませんから、それは必要なのでありますが、その時に両親が犯したであろう間違い、さらにはその先の先祖が犯したであろう間違いの痕跡も引き継ぐ事になります。

こうしてバパがカルマと呼ぶものが親から子供に代々引き継がれてゆくことになる、そのように説明するのが「バパのカルマ論」となります。

ちなみに両親に供給される子供の魂(Jiwa)のレベルは通常は子供が持つ事になる内部感覚のレベルに適合したものになっている模様です。

それから両親から伝えられた4つの諸力のパッケージが内部感覚の中を還流することで、その子供の人生に必要となる4つのナフスが生まれる事になります。<--リンク

追記
このような記事があります。
・4年前に死んだ夫婦に赤ちゃん誕生!<--リンク

さて、この子の内部感覚はだれから引き継ぎ、そうしてどこの家系のカルマを引き継いだのでしょうか?
両親の家系のカルマですか?
それとも代理母の家系のカルマ?

こうして現在の生殖医療の状況はすでにバパの予想をはるかに上回ってしまったかの様であります。(4月2018年)

追記
このような記事があります。
・児童虐待、被害者に残る「分子の傷跡」 研究<--リンク

外から受けたダメージがDNAレベルで記録される、という話です。

そのダメージが次世代に持ち越される、としたら、それはまるでカルマの様であります。(2018年10月)

PS
個人が背負っているカルマ(間違い)の総量について

バパは7代までの先祖とはリンクがある、という主張をされます。
(何故に7世代なのか、バパは根拠を提示されませんが、俗に日本仏教では「7代たたる」とかいいますね)

両親からはじまってその先祖7世代、7世代目には128人(64夫婦)になります。

それを全て合計しますと両親までで254名となります。

さてそうしますと我々は254名が犯した間違いをすべて背負わないといけないのでしょうか?
(間違いの相続率が100%ですとそうなります。)


いやいや、そいつは少しむごすぎますね。

両親が犯した間違いの総量を2として、そのうちの半分の1が子供に引き継がれるとします。
(間違いの相続率を50%と仮定していることになります。
この仮定は、両親の内部感覚の平均的なレベルがその子供に受け渡される、という推測と整合的です。)

そうしますと7世代合計でその間違いの総量は254、、、ではなく7になると思われます。

つまり各世代ごとの間違いの総量は2でそのうちの半分の1が子供に引き継がれるという事になります。

この考え方での計算結果詳細はまた後日にでも追記しておきます。

間違いの相続率を50%にしてもラティハンを始めるまでに我々が犯したであろう間違いの総量1に対して、身に覚えのない間違いが7はある、、、ということになりますので、さて恐るべきはカルマの蓄積であります。

追記
解けない謎!6代でも8代でもなく、なぜ7代なのか?
そうして、本州のみならず沖縄でも、加えてインドネシアのバパまでが「7代」という理由は何?

答え1<--リンク
人間が一度に感知することの出来る数の限界が七つだからです。
つまりその場合の七には「最たるもの」という意味があります。

ちなみにこの七を超えた数である八には「数えきれないほど多い」
という意味があります。

八百万の神、大江戸八百八町、八百屋、嘘八百に
使われている八はそういう意味です。


大辞林 第三版の解説<--リンク
ねこをころせばしちだいたたる【猫を殺せば七代祟る】
猫は執念深い動物なので、殺すと子孫七代までも祟るという俗説。


祖霊<--リンク
家系と祖霊[編集]
祖先の霊から共同体の神へ
沖縄地方では7代で神になるとされていた

追記
7代までは霊的なリンクがある、と。
それでは7代(おおよそ地球時間で200年)をこえたらどうなるのか?
そのジワはフリーになる。

バパによれば「ジワは永遠のもの」だとか。
さてそうなると、そのようなジワが次にたどる道は、今いる所に永遠に留まるか、それとも転生して現世にもどるか、そのどちらかと言う事になりそうです。
そうして、そのようなジワは決して「前世の記憶を保持している」という事は無い様です。

PS
バパは「ラティハンには高徳がありそれによって祖先の霊が7代までにわたって良い影響をうける」というような主旨の事をいわれています。

この「生きている人の徳を積む行為はその人だけでなく、その先祖に対して影響力を持つ」という考え方、慣習は上座部仏教国のタイで見られるものと形式上は似ています。

以下Wiki「タイの仏教」から引用<--リンク

『・・・また庶民の仏教観念としてタンブンというものがある。
タンブンとは徳を積む行為のことである。
タンブンと言う言葉は広義には人や動物を助けたりする行為が含まれるが、狭義には寺院や僧への寄付のことになる。
タンブンの観念は輪廻転生の思想が影響している。
生まれ変わることを前提としているタイの仏教思想においては低いとされている身分や動物、地獄に生まれ変わることはブン(徳)が足りないからだと説明され、現在金持ちなのは前世のブンが多いからと説明される。
・・・・・
ブンは興味深いことに、タイにおいては他人に転送可能であると考えられている。
たとえば、寄付する際、領収書に親や恋人の名前を書くことで自分のブンが他人に転送されると信じられている。
またこの転送は死者にも可能と考えられている。
昔話などにも息子にブンがあったことで、(親が)閻魔から救出されたとする話もある。
このようなブンの観念は仏教徒のタイ人(男性)ほとんどが人生に一度出家を行う理由の一つとされる。
・・・・・
出家の要因
1、成人するため。
2、ブンを両親に献上するため。
3、宗教的な行為を通して良い仏教徒になる。
4、罪の消去(刑務所を出てから一時期間、僧になる習慣がある)。
・・・・・』


PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク

PS
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ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

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