ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

インドネシアのクバティナン事情2

2015-12-28 | 日記
1、パティ県での公認クバティナン宗派

「ジャワの宗教と社会」福島真人著の記述内容にそって、パティ県のクバティナンの状況を見ていきましょう。

パティ県における公認クバティナン17宗派(表2-1 P111)
                                    本部 
サプト・ダルモ (Sapta Darma)・・・七つの義務        ジャカルタ
パンゲストゥー (Pangestu)・・・祝福              ジャカルタ
スマラー (Sumarah)・・・服従                  ジャカルタ
スブド (Subud)・・・徳、善行                   ジャカルタ
PKKP      ・・・主の運命の知               ジャカルタ
スチ・ラハユ(Suci Rahayu)・・・聖・健康            パティ
ブディ・ルフール(Budi Luhur)・・・高貴なる思慮       パティ
トゥングル・サプド・ジャティ(Tunggul Sabda Jati)真の言の旗  ゴンボン
Kasampurnaan Jati    ・・・真の完成            パティ
パンブコ・ジウォ(09 Pambuka Jiwa)・・・09 魂の開示    ブリター
Nukat Ghoib    ・・・霊的種                  パティ
パヌンバー・ジャティ(Panembah Jati)・・・真の礼拝     パティ
Hasta Brata    ・・・八つの義務               パティ
プラモノ・スジャティ(Pramono Sejati)・・・真の光       パティ
Sastra Jandra    ・・・聖なる書               ジャカルタ
ラティハン・クジワワン(Latihan Kejiwaan)・・・魂の訓練  パティ
サストロ・チュト(Sastra Cetha)・・・明らかな文字      パティ

ただしLatihan Kejiwaan(魂の訓練)はスブドのパティ支部長が本体から分離して作ったグループで、基本的にはスブドと全く同じである。(P110)

それから、現在のインドネシアでは公式には身分証明書の宗教の欄に「公認クバティナンに所属している」という意味の記号(-・-)を書けばそれが「公認宗教に所属している」と同等の評価になるはずなのです。

つまり憲法の前文が要求している「全ての国民は宗教に所属しなくてはならない」の解釈が「公認クバティナンでもよい」となった訳であります。

それが「公式の政府の指示」なのですが、実質上はほとんど認識されておらず、機能していない様であります。(P180、P381)


2、パティ信仰協会(Himpunan Penghayat Kepercayaan terhadap Tuhan Yang Maha Esa :HPK 唯一なる神への信徒協会

信仰協会はさまざまな活動を行うが、その一つとして月に一度の会合がある。

この会合には、前述した中小クバティナン諸派(7~9グループ)が参加する。

会は基本的に各宗派間の持ち回りで開催され、各宗派のリーダーに加え、その時主催した宗派のメンバーが多少参加するというのが平均的な形式である。

そこではたとえば、以下のような議論が行われている。

・・・まず信仰協会という組織自体の必要性をはっきりさせること。

そして、ちゃんとした基礎を持ち目的のために自を犠牲にするという精神といったものをちゃんと考える必要がある。

アニミズムの時代にもすでに信仰の徒(Penghayat)はいたわけだし、その時代にすでにパンチャシラの基礎はあったのだ。

ただ石などの呪物に対する崇拝というのは、そうしたアニミズムの時代固有のものであり、我々の基礎はあくまでも「唯一なる神」(Tuhan Yang Maha Esa)である。

そして信仰協会というのは、お互いの差異を問題とせずに一体となる(manunggal)ということだ。

そしてそれが神人一如の基礎なのだ。・・・(P162~164)


3、スチ・ラハユ(Suci Rahayu)の例

さて、上記17の中からパティ信仰協会で中核的なグループのひとつであるスチ・ラハユ(Suci Rahayu)の例を取り出して見ていきましょう。

スチ・ラハユは比較的整備されたコスモロジカルな教義をもっているが、それはスチ・ラハユの開祖たち(1932年ころ)が、基本的に「神智学」の影響を強く受けているからである。

神智学とは、いわゆる「神智学協会」(Theosophical Society)によってとなえられた教義体系をしめしている。

・・・この神智学経由の死生観によれば、我々人間はまずもって神(Allah)によって生まれ、神のもとに回帰する。

さらに我々の身体を構成すつ4つの要素、つまり火(geni)、地(bumi)、水(banyu)、気(angin)、そしてそれを統括する生命の素(zat urip)があるが、死後神のもとに帰ってゆくのはこの生命の素である。

死後の世界は7つの層に分かれているとされ、それぞれ霊界(alam sukma)、魂界(alam nyawa)、光界(alam nur)、力界(alam daya)、権界(alam kuwasa)、神界(alam Allah)と呼ばれている。

死後、生命の素は、究極的には神界に達するのを目標としているが、多くの罪をおかすとこうした上昇は許されず、最下層の霊界に置いておかれ、そこで老年から逆行して幼児にもどり現世に再び回帰するか、あるいはその罪の大きさによって、動物、あるいは石にまで再生(nitis)する羽目になる。

こうした再生の運命をさける為には、一段上の魂界に至る必要があり、そのために各種のトレーニングが必要とされる。

人はできるだけ高次のレベルに進むことが期待されているが、たとえば光界において、そこでの振る舞いが十分に善きものでない場合、神の意志によってそれらの霊魂(roh)は集められ、太陽として再生すると考えられている。

そして、最後の3レベル(力界、権界、神界)は実は一つであり、ここに到達するのが、ジャワ神秘主義のある種のライト・モチーフ(通奏低音)のようになっている「神人一如」(Manunggaling Kawula-Gusuti)の究極的状態と定式化されている。

・・・この死後の階層レベルを上位に登っていくためにも、現世では各種の内的な能力を開発することが強調されている。

そのために用いられるのが、ほとんどヨガ的と言っていい、呼吸のコントロールと、それによる「大地の精」(sari-sarining buwana)と呼ばれるエネルギーの吸収、蓄積である。

この大地の精を体内に循環させ、体の七か所に存在するとされるさまざまな「星」(lintang)を発火(murub)させることによって、それに関連した能力を開発することができるとされている。

・・・これら能力の開発は日常的に行われる瞑想(semedi)と呼吸訓練(olah napas)によって行われる。(P112~113)

(引用注:これはほとんどクンダリーニ・ヨガで言う七つのチャクラの開発と同じでありますね。)


4、死生観のバリエーション

ブディ・ルーフルは再生(nitis)を教義の中心にしている。

スチ・ラハユは再生と昇天の折衷型。

プラモノ・スジャティは現世以外を全面的に否定。

サストロ・チュトは生命は永遠と言いながら、来世その他についての思弁は拒否する。

参照する宗派のサンプルを増やせば、当然のことながらこうした多様性はより拡大する訳だが、一方この四宗派を見るとある種の共通点も見いだせる。

ひとつは何らかの形で生命(urip)という概念が通奏低音になっており、生命についての解釈が教義の核になっているという点である。

前者二つはそれをあるエネルギーの源のように考え、いっぽうプラモノ・スジャティはそれを光として表象しサストロ・チュトは文字の中にその秘儀を見出す。

そして、何らかの形でその生命と関連した諸能力を向上させようとするのが、それぞれに特有の教義となって表れてくるのである。(P131)


5、「霊力の道具的使用」という問題

ジャワには一般にドゥクン(dukun)と総称させる一連の呪医ー民間医療従事者がいる。

一般の人にとっては各宗派の代表は何らかの形で呪医的な活動を行っていると見なされており、彼らの家には治療や薬を求める人々が列をなしている場合が多い。

彼らの「霊力」についてはそれなりの評判もたっており、こうした期待が周囲の人々を誘い続けてきた。

・・・ここで争われるのは、瞑想その他によって獲得された力を他者の治療等に用いてよいのか、という点である。

この点については、前述した四大教派の間でも意見の対立がある。

クンダリーニヨガ風のサプト・ダルモ、およびエクスタシー型のスブドといったグループでは、上級のメンバーが、祈祷によりこうした治療活動に加わることをある種の義務としている。

一方、理知主義的な傾向の強いパンゲストゥーはこうした治療行為を強く否定し、それは神によって定められた秩序に人間が勝手に介入することになり、結果的には「聖なる力」(pusaka)や墓等に対する信仰へと堕落するようになる、と警告している。

ミュルダーによれば、同様の論争は、くじ引きに関する予言等にもあり、明らかに金銭や低次元の欲望と関係するクジについて、瞑想やその他の高次元の精神的活動の結果を使用してよいのかといった点で意見の対立があるという。(Mulder 1978:33-34)

・・・しかしこのことは彼らが一般に「自らを呪医として認めている」ということを意味せず、実際はこうした呪医視に対して、激しい拒否反応を示すことがある。・・・

・・・このような呪医についての否定的見解の裏には、呪医がある力を自らの欲望(hawa napus)に従って無制限に使用するようになるという事態への警戒心がある。・・・

・・・だがこうした制限があるにせよ、スチ・ラハユやブディ・ルーフルは、獲得されたエネルギーを用いて他者の治療を行うこと自体を否定している訳ではない。
・・・・・

これらの諸派は、ドゥクン(dukun:呪医)という言葉を、ある特定の教義によって十分にコントロールされていないまま力を乱用する者達、と解釈しており、その意味での呪医は否定するものの、自分たちの「正当なやり方」によって蓄積された霊力を他人の役に立つように使用するのは問題ない、としている。

こうした発想は、スブドやサプト・ダルモという大教団でも正当視されていたが、この見解に反対する人々もいる。(P131~133)


6、デゥオ・ルチの解釈学ーーー神人一如の思想

デゥオ・ルチ(Dewa Ruci)はワヤンと呼ばれる影絵芝居の物語の一つであるが、ジャワ起源であり、しかもクバティナン諸派に大きな影響を与えたものでもある。

(引用注:デゥオ・ルチ(Dewa Ruci)についてはこちらを参照ねがいます。<--リンク)

・・・巨漢のビモが思い切ってその耳の中に飛び込むと、彼の体内で様々な光沢を放つ光、虹のような光を体験し、最終的に自らの姿をそこに見出すのである。

これが自分の真の自己、あるいは真の師(Guru sejati)であるとビモは気が付く。

その瞬間、デゥオ・ルチは自らの神格を呈示し、体内からでてきたビモは、デゥオ・ルチに対して、あなたこそが自らの真の師であると誓うのである。

そして、ビモは人間の世界に帰ることを命ぜられ、それ以降ビモは聖なるビモ(Bima Suci)と呼ばれるようになるのである。


この話に関してはさまざまな解釈が可能であるが、クバティナンの一般的な傾向の中でも、特に人間の自我の中に存在する神的な要素という考え方として、クバティナンではよく知られたものである。

ギアツがブディ・スティア(Budi Setia)というグループについてのべたものは、この神人一如の思想の真髄をよく表している。

「・・・一般的には人の内的な生活の最も中心的な部分、つまり神が個人の中に存在するという場所というのは、心(heart manah)である。

時には、こうした場所はある特定の器官、たとえば肝臓だとか、心臓だとかと同一視されることがある。

(より迷信的な人々は、心(jantung)という言葉を発したりはしないだろう、というのもこれは神が個人的にそこに存在する領域であり、そういう座を名指すということは、神を怒らし、悪い運命をもたらす可能性があるからである。)

しかし一般的にはそれは個人という存在の中核であり、彼の存在の深いセンターの存在している。

故に、「こころ」というのはここでは霊的な場所であり、個人の最も深い所であるそこで、彼は真の自我と究極的なロソ(rasa)即ち神が出会う場所なのである。」(Geertz 1960:341)

こうした解釈は、多義的な解釈の一部を最大公約数的にまとめたものにすぎないが、この心の中の神とか、神人一如といった考え方は多くのクバティナン信者が、影響を受けている思想である。(P144)


7、クジャウェン(kejawen ジャワ主義)からクバティナン(kebatinan ジャワ神秘主義)へ

サストロ・チュトのスゴノは「伝統的なジャワ的思考において、その最も中核的な概念となるべきものは、自制(mawas diri)と精神的な独立(mandiri)である。

人が自らを様々な形で鍛えるというのも、外面、内面、その両面において自らの静寂さを保つためである。」と語った。(P150)

クバティナンという語が、バティン(内面)という言葉に由来するように、神的メッセージを感受するということ以外にも、バティンの心理学的なホメオスタシス(恒常性)を維持するということは、クバティナンにとって重要な部分となっている。

この信念は「内面の静寂」(tentreming batin)という形で表現され、人生においてその外面に様々な問題があろうとも、その内面は常に安定して動じることがない、というのが一つの理想としてしばしば挙げられる。(P152)

PS
バパはトークで「唯一の神」とよく表現します。

さて、それではインドネシア語で「唯一の神」とはどう表現するのでしょうか?

Tuhan Yang Maha Esa」と書きます。(トークもそうなっています。)

そしてこれはまさに以下の「唯一なる神への信徒協会」で言われているものと同じなのであります。

信仰協会(Himpunan Penghayat Kepercayaan terhadap Tuhan Yang Maha Esa :HPK 唯一なる神への信徒協会

こうしてインドネシアでは全ての国民が、宗教を持つにせよ、公認クバティナンに所属するにせよ「Tuhan Yang Maha Esaを信仰することに違いはない」ということになるのでありました。

PS
インドネシアの信仰団体あるいはクバティナンは公認、非公認を合わせると数百にのぼるようであります。

ところで日本の新宗教はいくつあるのでしょうか。

Wikiによれば179団体になるようです。<--リンク

日本はインドネシアの人口の半分程度ですので、総人口に対する団体数の比率は同程度と見てよさそうです。

結局のところ、国が違っても人々のやることは似たものになる、、、ということでありましょうか。

PS
ご参考までに。
・クバティナン関連の目次です。<--リンク

PS
文字サイズはページ右上で変更できます。

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

本記事に対してのコメント、ご意見、疑問点などは
記事テーマを添えてこちらまでお願いします。
<--リンク

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二代目が語らない事。

2015-12-10 | 日記
二代目が黙して語らない事が三つあります。

一つ目は会員数の推移です。<--リンク

二つ目はエンタプライズですね。<--リンク

そして、三つ目がロホRohとナフスNafsuの対応関係、4つの低次の諸力とナフスの対応関係です。(後述)


特にエンタプライズはバパの立てたグランドプランの中核をなすものでありました。

しかしながら、この二つに関してはまるでダルマさんの様に二代目は「黙して語りません」。


さて、実はこの二つには共通項があります。

それはいずれの項目も「生の世間と直接的な関係を持たなくてはならない」ということでありますね。

そうして、両方とも「世間に物事(メリット)を提案し、そうしてその見返りを得る」という行為であります。

見返りというのは、一つは時間、もう一つは金銭ではありますが、いずれも提案を受けた側にとってはとても大切なものであります。

しかしながら、このいずれの組織的活動、世間に対する提案行動も協会はあまり得意とは言えない様です。

そうして、それに輪をかけているのが「二代目が語らない」という状況であります。


バパは「世間との関わり合い」を「協会にとってとても大事なもの」と認識しておられた様です。

それゆえに会員数のことも、エンタプライズのことも、そうして協会が行うべき社会的事業のことも熱心に語られました。

しかし今、二代目はそれらの事はほとんど語りません。

語られることは二代目が言う「リアリティー」、そうしてそれは「霊的なリアリティー」であって、残念ながら「現実世界のリアリティー」ではありません。


こうして二代目はある意味、「現実的な問題から目をそむけている」ように見えてしまうのでありました。

二代目は今現在、協会に所属している人たちの霊的な進歩のみを注目しているかの様であります。

言い方を変えますと「とても内向きに」、「協会の内側のみ」が「関心の対象」であるかの様です。


バパが立てたグランドプランでは、二番目の計画(エンタプライズ)が最初の計画(会員数の増加)を推し進めるという構造になっていました。

「宣伝はしない」がその代わりに「エンタプライズをやって目に見える結果を見てもらう」というのがバパのプランでした。

従いまして、二番目がうまくいかないと当初の目的である「会員数の増加」ということが難しくなります。

このことに対して二代目はあまりにも楽観的すぎるように見えるのですね。

そうして、「協会そのものの継続性」については、なぜかほとんど心配されていない様です。<--リンク


さて「それぞれの国の協会がそれぞれの国の中で継続的な発展をしていく」ということがバパの願いでありましょう。

しかしながら、現実と正面から向き合う事なしにこの課題をクリアする方法はないものと思われます。

そのような観点から見ますと、残念ながら「二代目が黙して語らない事」がそのまま見事に「今の協会のウイークポイント」になっている事に気が付いてしまうのでありました。


加えて、霊的な進歩のみを語る二代目に率いられた協会は、外見上は普通の宗教団体となんの変りも見出せません。

おまけにこの団体は「勧誘のための宣伝をしない」ということにこだわりをお持ちの様です。

そうして、「勧誘をしない」ということは「組織的な新人の育成システムがない」ということでもあります。

ですので新入会員にとっては「あまり親切な組織構成ではない」という事になりますね。

さて、そのような「宣伝をしない団体の未来の姿」が「大いに発展している」とは通常の感覚ではなかなか想像できない事なのであります。


そして、三つ目がロホRohとナフスNafsuの対応関係、4つの低次の諸力とナフスの対応関係です。

これについては決して2代目は語る事はありません。<--リンク

バパがジワJiwaとスクマSukmaの関係について語ったトークは一つだけの様です。<--リンク
それに対してロホRohとナフスNafsuという言葉を使って「生命力とナフスの関係」をより詳細に、そうして数多くのトークで語っています。
ですので、二代目が「生命力とナフスの関係」を語るのであれば、ロホとナフスというコトバを使って語る方がより自然なのであります。
しかしながら事実は「二代目は決してロホとナフスの一対一対応については語らない」のです。

そうして、語ったとしても以下のトークにある様な表現でお終いになります。
12月16日1999 - Ibu
『そして、これらのファイン・ボディー(微細体)は、インドネシアでは「スクマSukma」で呼ばれます。
それらは人間の中に存在する生命力のレベルに対応しています。』

それに対してバパは物質力に対応するナフスは~、植物力に対応するものは~」と明示して語っています。
しかしながら二代目は決してそのようには語らないのであります。
そしてバパが唯一ジワJiwaとスクマSukma、そうしてナフスNafsuについて語ったトークを参照して、ジワJiwaをベースにスクマSukmaとナフスNafsuについて語るのでした。
そのように語るので二代目のトークでは「4つの低次の諸力とそれぞれの生命力に対応するナフスNafsuの名前が明示的に示される」という事は決してないのであります。

PS
バパのトークで気をつけなければいけない点、それはナフスを上げる順序です。

物質力にはアマラー(nafsu amarah:赤)が、そうして植物力にはアルアマー(nafsu aluama:黒)がいつも対応しています。

ですので4つの諸力の順番にならべる場合は1、アマラーamarah>2、アルアマーaluama ・・・となります。
(70・12・5、72・11・3、85・6・25、85・7・2 etc)

しかしながら単にナフスの事を述べる場合(諸力との関係を言わない場合)はインドネシアの伝統にそった順番になります。

つまり1、アルアマーー>2、アマラー ・・・と順序が逆転するのでありました。
(57・9・29、59・8・6、59・8・7、63・9・13、81・6・18 etc)

そうして、二代目の並べ方は常に後者であります。
(99・12・16、01・7・12、02・2・28、02・3・3、03・2・14 etc)


そういえば2代目のトークではスシラ ブディ ダルマであつかわれている物質力から始まる4つの諸力についての言及がほとんど無いようであります。

そうして、この4つの諸力を介して我々は世界と、社会と、文化と、人々と相互作用をするものでありますれば、この4つの諸力に注目しないということと、内向きの態度と言うものの間にはなにやら関係がありそうな気がいたします。(16.10.1)

追伸
・エンタプライズと関連性が高い「物質力の性質と働き」についてはこちらにも記事があります。<--リンク


PS
バパのトークが大事な記録である事は、二代目のコトバ、「バパのコトバを変えてはいけません」という意見表明を待つまでもない事であります。

しかしながら、残念な事にバパのトークの編集が行われている様です。

それはつまりあまたのマスコミがやっている様に、「自分たちに都合の悪い所はカットする」という行為です。

そうして、そのようにカットし編集されたトークをあたかも「これがバパが語ったことの全てです」とでも言うかの様にライブラリーに保管します。

さて、そうなってしまうと後日、ライブラリーに保管されたものしか知らない会員は「これが正真のオリジナルだ」と思ってしまうでしょう。

しかしそこにあるのはまぎれもない「にせもの」であります。

1977年9月12日のトークがそのようにして編集され、ライブラリーに保管された様です。

何故そう言えるのでしょうか?

1978年10月に発行された日本語訳のトークを参照してみてください。

あるいは「アダムとその子供たち」のP65~ P74、それは参考文献の159からの引用部分ですが、それでも確認する事ができます。

その訳よりもライブラリーにあるトークは内容の一部が大幅にカットされている事に気がつく事になります。

さて、そのような行為を二代目は承諾したのでしょうか?

あるいは二代目に内緒でそのような行為を行ったのでしょうか?

いずれにせよ、そこにあるのは「真実のもの」ではありません。(2019年2月 記)


PS
文字サイズはページ右上で変更できます。

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする