ラティハンは何も主張しません。
ただ間違えて使われているものを正していく。
あるいは成長すべきものを成長させる。
ラティハンが何かを声高に主張することはないでしょう。
特に万人にとって「これが真実だ。これに従え。」などというようなことはね。
ラティハンが十人十色のごとくに、人の道行きも十人十色。
人は自分のラティハンから正しい道を、自分に合った道を受けるやもしれません。
でもそれはあくまで自分のラティハンからです。
ラティハンで耳の浄化が終わっていれば、「こっち、こっち」という声が聞こえそうです。
口の浄化が終わっていれば、口が「こうした方がいい。」と言いますか。
頭まで浄化されていれば、「こうではないなあ。こうしよう。」と思いつきそうです。
そうやって人は自分独自の道を歩いていけるのですね。
ですので他人のラティハンが自分にとっての正しい道を示すなどというような事は
期待しない方がよいでしょう。
ましてや「万人が従える道を示す」などということはないでしょう。
そして、それをやっているのが宗教です。
それぞれの宗教がそれぞれ独自に「万人にとっての正しい道」を示します。
それゆえ世の中には宗教の数だけ正しい道があることになりますね。
そうして、けっして二つの宗教がお互いに相容れるということはありません。
おかげで正しい道の数がどんどん増えます。
正しい道の数が増えれば増えるだけ混乱がさらにひどくなっていきます。
どれが本当に正しいのか、ますます分からなくなりますからね。
ですからこれは全くの皮肉以外の何物でもありません。
ラティハンは頭から他人様のことなどは問題にしていません。
自分が受ける自分のラティハンがあるのみです。
でも、集団ラティハンではお互いの間に助け合いが起こります。
それは自動的にそうなるだけであって、決して意図的にやっている訳では
ありませんからね。
そしてそれがラティハンのすばらしい所でもあります。
PS
「ローマ・カトリック教会と東方正教会の歴史的な和解の第一歩」<--リンク
同じ起源をもつ宗教の宗派が仲良くするのでさえなかなか難しい事です。
その意味ではキリスト教は大きな一歩を踏み出せたのでしょうか。
その点では仏教徒は宗派間の争いもなく、寛容度が高いといえそうです。
そして、地球がこれだけ情報交換密度が高くなった現在、「我々のみが唯一正しい、、、」という主張は妥当性を著しく欠くように思われますね。
ただ間違えて使われているものを正していく。
あるいは成長すべきものを成長させる。
ラティハンが何かを声高に主張することはないでしょう。
特に万人にとって「これが真実だ。これに従え。」などというようなことはね。
ラティハンが十人十色のごとくに、人の道行きも十人十色。
人は自分のラティハンから正しい道を、自分に合った道を受けるやもしれません。
でもそれはあくまで自分のラティハンからです。
ラティハンで耳の浄化が終わっていれば、「こっち、こっち」という声が聞こえそうです。
口の浄化が終わっていれば、口が「こうした方がいい。」と言いますか。
頭まで浄化されていれば、「こうではないなあ。こうしよう。」と思いつきそうです。
そうやって人は自分独自の道を歩いていけるのですね。
ですので他人のラティハンが自分にとっての正しい道を示すなどというような事は
期待しない方がよいでしょう。
ましてや「万人が従える道を示す」などということはないでしょう。
そして、それをやっているのが宗教です。
それぞれの宗教がそれぞれ独自に「万人にとっての正しい道」を示します。
それゆえ世の中には宗教の数だけ正しい道があることになりますね。
そうして、けっして二つの宗教がお互いに相容れるということはありません。
おかげで正しい道の数がどんどん増えます。
正しい道の数が増えれば増えるだけ混乱がさらにひどくなっていきます。
どれが本当に正しいのか、ますます分からなくなりますからね。
ですからこれは全くの皮肉以外の何物でもありません。
ラティハンは頭から他人様のことなどは問題にしていません。
自分が受ける自分のラティハンがあるのみです。
でも、集団ラティハンではお互いの間に助け合いが起こります。
それは自動的にそうなるだけであって、決して意図的にやっている訳では
ありませんからね。
そしてそれがラティハンのすばらしい所でもあります。
PS
「ローマ・カトリック教会と東方正教会の歴史的な和解の第一歩」<--リンク
同じ起源をもつ宗教の宗派が仲良くするのでさえなかなか難しい事です。
その意味ではキリスト教は大きな一歩を踏み出せたのでしょうか。
その点では仏教徒は宗派間の争いもなく、寛容度が高いといえそうです。
そして、地球がこれだけ情報交換密度が高くなった現在、「我々のみが唯一正しい、、、」という主張は妥当性を著しく欠くように思われますね。