ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

トークと宗教

2013-01-18 | 日記
宗教とはなんでしょうか?

そうですね、私の理解では「他人の受けたことを信じてその後をついていくこと」でしょうかねえ。


「ラティハンを受けること」は宗教にはなりえません。

それは「各自が自分で直接受ける」という体験ですから。

そこには「他人の受けたこと」が介在する余地はありません。


でもバパのトークを「教えだよ」と言われて読めば簡単に「教え」になります。

ですからバパのトークからはたやすく宗教が生まれそうです。

そう、本当に「トークから宗教までは紙一重」しかありませんね。


さて、宗教を作るのはラティハンでもなくバパでもありません。

あるとすれば後に続く我々がトークから作り上げてしまうものなのでしょうね、きっと。

それもバパを尊敬してまじめで熱心な人ほどね。


バパはバパの受けたことに従って行かれました。

さてそれでは「バパの足跡を習う」とはどういうことでしょうか?

何が「バパを見習う」ということなのでしょう?

「バパの受けたトーク」に忠実に従って行くことでしょうか?

それともバパが「自分の受けたことに従っていかれた」ように各自が「自分の受けたことに従っていく」ことでしょうか?


まあいろいろ考え方はあるでしょうし、好みの問題のようにも思えます。

それこそ「個人の自由」なのでしょうかねえ。

PS
そうではありますが、「宗教ではない」と言いながらやってることがほとんど「宗教と同じ」というのもなんだか訳の分からない話ではあります。

たとえば「宗教と同じ」<--リンク

PS
バパは別に新しい宗教を始めるつもりはなかったと思います。

しかしながら、人々の要求に、「これは何ですか?あれはどうなっているのですか?」と会員が聞くもので、ついいろいろとご自分の体験やら世界観やらを話して聞かせます。

そうやってバパの口から出たコトバというものはその瞬間にバパの想いを超えて独り歩きを始めます。

レコーダーに記録され、紙に印刷され人々に読まれます。

そうして近頃はネット上でも閲覧が可能であります。


そうやってバパの多くのトークを読んでいくと、そこにはどうしたって語り手の世界観が現われてきます。

語り手の思想、信条が見えてくるのであります。

そうしていくらそれをバパが「これはバパのものであって、あなた方のものではない。」と言ってみたとこで、我々はそれを「真実だ」と思いこみ始めるのでした。

そうなってしまえばあとは一直線で宗教化します。

教義(バパのトーク)があって修行方法(ラティハン)がある、、、と。

そうなってしまいますね。

しかしそれはバパが希望した姿とは異なるものの様に思えるのでありました。

PS
バパは「ラティハンは礼拝である」と言われます。

しかしここで言われている「礼拝」というものは、通常の形式が決められたものとは違います。

自分の外側にある、何か目に見える対象物に向かって礼拝するのではありません。

そうしてまた、「心の中にイメージがあって、それに向かって礼拝する」のでもありません。

そのようなイメージやら想像物やらはいっさい関係がありませんね。


ラティハンはもともと「あちらからのうながし」で始まるものです。

そうして、我々はただそれについていくだけであります。

そうしてラティハン中は基本的にはそこに「心」は「思考」は「イメージ」はありません。

なにかテクニックを使って「無心になる」のでもありません。

「あちらがそうさせてくれる」から無心になるようであります。


そういう訳でふつう我々がやっているような「礼拝」とはまるで違うものがそこにあります。

基本的にラティハンは我々が「やれる」ようなものではないのです。

それはただ「受け取るだけのもの」であります。

そうしてそれをバパは「それがあなた方の礼拝である」というのでありました。

追記
通常の礼拝には我々の希望やら願望やらが入り込みます。

「~のようになりますように。」というのがそれであります。

それがたとえ「世界が平和でありますように。」というような、特に悪い所のない、個人的なものでもない、むしろ人類にとっては望ましい願いであるように見えるものであってさえ、それはやはりハートの願いなのであります。

それに対してラティハンはそのような、こちらから持ちだす願いは一切ありません。

むしろあちらからの希望、願い、要請というようにいってもいいようなものによって、こちらが動いて行くだけであります。

そうでありますから、これは従来の礼拝とは方向が逆であり、全くの別物なのであります。

PS
宗教の基本的なメッセージは何でしょう?

それは「(心において)信じる者は救われる」あるいは「(言動において)従うものは救われる」でありましょう。

ラティハンの基本的なメッセージは何でしょう?

上記の例にならうならば「(ジワにおいて)ラティハンに従うものは救われる」とでもなりましょうか。

そうであれば宗教とラティハンは上下の関係ではなく、並行して存在する関係となります。

その意味でバパによってもたらされたラティハンというものは、今までには存在していなかった、革新的な道なのであります。

PS
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