ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

スシラ ブディ ダルマ・6章の4 カルマと運命について//

2018-08-18 | 日記
さてそれで、未来はすでに決められており、人の自由意思は幻である、という立場をとる人もいます。
しかしながら、バパはそのような立場をとりません。

未来は予定されている部分はあるものの、それはあくまで予定であって、人の自由意思と努力がそれに合わさり現実の結果を生み出す、そういう立場をとります。

しかしながら、人の選択やら努力を超えて起きてくる事柄があるのではないか、という問いが残ります。(注3)
その事についてはスシラ ブディ ダルマの記述内容を超えてしまいますので、また後日ということになります。
そうしてスシラ ブディ ダルマは人の世に起きる事を全て記述しているという訳ではないという事に注意しておく必要があります。

ところで、人の世の人生において避けられない出来事があり、それを人は通常は「運命である」というような言い方をします。
そうして、そのような避けられない運命の原因として「前世のカルマ」、あるいは「祖先のカルマ」というような見方をします。

しかしながらスシラ ブディ ダルマの中にはそのような記述は見当たりません。
確かに「祖先からのカルマ」という概念は提示されていますが、それはラティハンにおいてその人が受けるという事を難しくしている要因として扱われています。
あるいはバパによれば、その人の個性の中にある欠点そのものが「個性に染み込んだカルマである」とも言われます。<--リンク

個性が、あるいは性格が持つ欠点はその人の人生にとっては確かにマイナスに作用します。
人はだれでも「良い性格の人を好む」からであります。
好き好んで「悪い性格の人」と付き合おうという人はいません。

そうであれば、どう考えてみても「カルマが原因で発生している性格上の欠点」というものは良い結果をもたらすものではないでしょう。
それを外から見れば「あの人は運命が良くない」と見えるかもしれませんね。

これはカルマが運命に間接的に影響を与えているように見える一例と言えます。
しかしながらそれは「ある事柄が必ず起きる」という状況、「避ける事ができないものとしての運命」というものとはずいぶんと異なっています。
そこには人の自由意思やら努力やらが介入できる余地が相当に残されているからです。

そういう訳でバパにおいてはカルマについての解釈も通常のものとは異なっているという事がわかるのであります。

さてそれで以下はスシラ ブディ ダルマの中にある運命に関連があると思われる部分からの引用になります。

第3章 キナンティ 3節~19節
『3、だから明らかに、運命に対する受容と忍耐と言われているものは、ただひとえに彼の所有する道具(注:財産を含む)に含まれている力(注:物質力)の作用から生じたものである。

4、これでは全く立場が逆である。
人間が当然そうあるべき様には自分の道具を活用できないで道具の方が彼の全存在を支配しているからである。
そのため、彼が生きるも死ぬも全く道具の掌中にあると言ってもよい。
・・・・・
7、また感覚(注:内部感覚Rasa Diri)がかくも深く沈下してしまっている為に、人間存在の内部には燈火に比すべきものがあり、それを見つけ出しさえすれば、自分にふさわしい生き方に導かれるだろうとは思いつきもしない。
・・・・・
11、それゆえ一握りの米で満足してしまう程に、物質の力で容易に支配される事のないようにしなさい。
またあたかも境遇は避けられないもの、神の定めたものであるかのように、いつもすぐに忍耐やあきらめを口にすることの無いようにしなさい。

12、それは見当はずれの意見である。
それらは主として口先だけの能弁から生まれるのであって、運命というものの真の意味がまだ分かってはいない。
・・・・・
15、・・・物質力が人間の自我(Pribadi)に及ぼす作用は、事実このように強大であるが為に、人間はより幸せになる道を求めようと努めるよりも、ことさらに悲惨と貧困の方を好んでいるように見える事もしばしばである。(注1)

16、感覚(注:内部感覚)が物の力(注:物質力)で影響された場合は、人間としての彼の地位(注:ジャスマニJasmaniレベル)から、これほどまでに低く落ち込みかねない。
それゆえ感覚の中で物質力がいかに働くかに気付くようになる為に、自我(Pribadi)の訓練を可能にする真の導きを探すことである。(注:自我の訓練<--ラティハンの事です)

17、そうすればあなたはまた、どのような種類の仕事をすることが自分に本来与えられた権利であるのか、(その仕事に就くためには)どのような道筋をとる必要があるかという事も、見出すであろう。
(注:ラティハンの中で「受ける」という事を訓練されることにより、徐々にそのような導きを見出す事ができるようになる。)
・・・・・
19、あなたが自分にとっての正しい仕事をすることで、自動的にあなたの神への礼拝、これは人間としての(注:Jasmaniとしての本来あるべき)あなたの内部自我(Diri Pribadi)が要求している事ではあるが、それが減ずるということは無くなるであろう。
まことにこれは最善の道である。
なぜならその時人々は世的な目的の為に働くことのみならず、神への礼拝もまた捨てられなくなるからである。(注2)

第4章 パンクール 12節~13節
『12、このような訳で多くの人が人生の旅路の終わりにあたって過去の行動の結果を悔やむのである。
その原因はひとえに彼ら自身の誤った行動に起因する。
なぜなら、内部自我(Diri Pribadi)以外の諸力(物質力、植物力、動物力)から来ているという事を知らずに、それらの力で誘発されたハート(Hati)や頭脳の衝動に従って行動したからである。

13、こうした人々は自分自身を責め、また他人や家族をも責める。
これが人間の高貴さを理解せず、従って自分のジワ(Jiwa)の中にある人生の導きを感じ取る事のできない人々の態度である。』

第5章 メガトルフ 4節~7節、15節~17節
『4、子供たちよ、最高の被造物としてもちろんあなた方は内部感覚(Rasa Diri)とあなたを見守る神との間の絆をつよめなければならない。
そうすればあなたがたは、自分が本当に必要とするものは何であれ容易に得られるであろう。
(注:「自分が本当に必要とするもの」というのは単にハートや頭脳が自分本位の欲望で望むものの事ではありません。この点、特にご注意ねがいます。)
そうすることで、あなた方が真に神によって創られた高貴な被造物である事が示されよう。(注:これを「確証:クニヤタンを得る」と言います。)
・・・・・
6、またあなた方のハートや頭脳の命令に従い続けるべきではありません。
ハート(Hati)や頭脳はナフスnafsuで満たされている為に、それらにとっての喜びと思える事のみに関心を持ちクジワアンkejiwaanを退屈なものと見なすからである。

7、だがクジワアンkejiwaanはあなた方の生活を幸福なものとするために無くてはならぬもの、実際にはもっとも必要なものである。
(注:クジワアンkejiwaanとはジワjiwaに関連したもの、という意味でここではラティハン クジワアンを指しています。)
・・・・・
15、さらにジワjiwaに合った仕事をすることにより、人生に対する視野が広がり、人生をどのように役立てるのかという事についての理解が深まり、あなたを見守る神との絆が強められる。
・・・・・
17、今まで述べてきた方法(注:ラティハン)で訓練を受けてきたのであるから、あなたは自分に必要な導きは何であれ受け取る事ができる。』
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

まず注意が引かれることは上記の記述はすべて物質力を説明している章に並列して書かれている、ということでしょうか。
人の生活と物質力とのつながりが、これは時代を経るにしたがって弱くなる、ということはなく、強くなるばかりであります。
それだけ物質力と人の生活のつながりというものは重要である、という事を示している様です。

そのような人の生活の中でいろいろな事が起こってくる。
幸運な事や不幸な事が起こってくるのであります。

さてそれで、幸運な事が起きているときはいいのですが、望ましくない状況が訪れた時に、我々はいったいどうしたらいいのでしょうか、という事が問題になります。
その時に「ああ、これは運命なのだから仕方がない」とあきらめるのでしょうか?

そういう忍耐や受容の態度が、そうですね人間力の結果生じてくるナフス ムトマイナの特性ゆえに生じているのであればまあ妥当でありましょう。
しかしながら、そういう忍耐や受容の態度が物質力の影響をうけたものであるとすれば、それは我々人間という存在にはまことにふさわしくない態度である、とスシラ ブディ ダルマは主張しているのであります。

まずもって我々人間存在の中には既に人生を導くものが与えられている。
それは誕生の時に与えられた天運、天命、あるいは使命というようなものである。<--リンク
仕事でいうならば天職とでもいうようなもの、そういうものが予定されている。

しかしながらそれを見出すためにはまずはラティハンをやって内部感覚 Rasa Diriのなかにあるうず高く積み重なった誤りの山、それはカルマとよばれる先祖からのものと今生で自分が行った事に起因するものですが、その誤りの山を浄化しなくては、掃除しなくてはならない。

それができれば各自の中に書きしるされた「導きの書」を読む事ができるようになる。
自分に与えられた運命を理解し、自分に与えられたこの生命を存分に使って生活できるようになる。

そうなってようやく本来の人の暮らしというものができるようになる。
それがあなたの本当の人生である。
だからそうしなさい、とバパは言うし、スシラ ブディ ダルマも言うのであります。

PS
人の暮らしは自由意思による日々の選択の上に成立している様に見えます。

そして、この自由意思が本来のその人の内部自我(Diri Pribadi)あるいはジワ(Jiwa)に起源をもつものであればよいのですが、低次の諸力(物質力、植物力、動物力)にその起源があると、それは単にその時々の欲望に従っているだけ、という結果になってしまう。

そのようであれば、人は決して幸せに導かれるということは無いであろう、とスシラ ブディ ダルマは主張しているのであります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

注1:自我(Pribadi)というコトバについて
インドネシア語でPribadi、ネットで調べると「個人の,プラベートな」と形容詞的な訳がのっています。
それを名詞的に使うとすると「個人」あるいは「一人の人格」程度の意味かと思われます。

それで協会の英訳では「Self」、和訳で「自我」となってます。
Diri(内部)をつけてDiri Pribadiで内部自我、英語でinner self となります。

さて、バパが使うコトバ、そして当然スシラ ブディ ダルマの中にも登場してくるキーワードで日本人と西洋人になじみがないのが以下のインドネシア語になります。
ジワJiwa(Soul,魂)、
プリバディPribadi(Self,自我)、
ラサディリRasa diri(inner feeling,内部感覚)。
ここでは当面この三つに注目します。

最初はジワJiwa(Soul,魂)についてです。
旧版のスシラ ブディ ダルマの冒頭では「人間の内部自我の霊的な中身である力」とあります。
ロホRohもそうですが、ジワJiwaも「力」という側面と存在としてのかたまり、しいていえば「霊」というような側面と二重の意味を持たせている様です。
「力」という意味は「これによって人は動く」という事です。
あるいは「これが意思し希望し要求し欲望する」という事です。
ですから単に(Soul,魂)というのとは違っていますが、ほかに妥当なコトバがないのでその言葉をあてている、と言った所でしょうか。

そうして、この存在、ジワJiwaが転生の主体であって、永遠の存在である、とバパは言います。
あるいは、人に関連した中では一番神の力に近い存在であるような記述もあります。
しかし、この存在にはいわゆる「人格」というものは無いかの様です。
その人格という側面を表すのがプリバディPribadiというコトバになる、つまりJiwaとPribadiは一つレベルが違う様です。
そして、ジワJiwaについてはこちらの記事も参考願います。<--リンク

さてそれでプリバディPribadiですが、この中にラサディリRasa diri(内部感覚)とハートと頭脳(思考)が含まれる、というのがどうやらバパの想定している人間の心理学的な構造の様です。
そうでありますから「私」というのがまさに「プリバディPribadi」という事になるかと思われます。

ラサディリRasa diri(内部感覚)についての詳細はこちらの記事を参照願います。<--リンク
通常の我々が目にする心理学の用語の中にはもちろんラサディリRasa diri(内部感覚)に相当するものはありません。
したがって我々がこの言葉を理解するのはなかなか難しい事になります。

さて、以下はスシラ ブディ ダルマのなかに出てくるプリバディPribadi関連の部分です。

第5章 メガトルフ 47節~49節
『47、もしハートや頭脳に従えば、あなたにとって必要な神への礼拝に割く時間を見出す事は生涯ないであろう。(注:ここで言っている「神への礼拝」とはラティハンのことです。)
なぜなら、ハートや頭脳は、常に実体のない事柄に関心を抱くからである。

48、これこそ、まさにあなたが克服しなくてはならない状態である。
そうすればあなたの思考はもはや自我Pribadiを妨害しなくなるであろう。

49、さらに思考が障害とはならなくなった時、すなわちハートや頭脳がもはやあなたのラティハンを妨害しないようになれば、あなたの行動はより確固とした成熟したものになる。
そして、ハートと頭脳は、真に自我Pribadiの召使い、あるいは従僕となるであろう。』

第7章 ダンダングラ 16節
『16、これらはすべて、人間の内部感覚Rasa diriや頭脳が、さまざまな力(物質力やら植物力やら)によって満たされてしまい、人間の自我Pribadiの内部で猛威を振るうこれらの力の意思だけに奉仕する道具になってしまった為である。』

以上をまとめますと、人の霊的な部分を示すのがジワJiwaというコトバであり(この部分は通常は我々は認識できません)、それと関連を持ちながら通常我々が認識できる心理学的な部分、それがプリバディPribadiですが、この中にラサディリRasa diri(内部感覚)とハートと頭脳(思考)が含まれる、そういう事になります。

そうしてそれが肉体の中におさまっている、という3層構造をバパは、そうしてスシラ ブディ ダルマは前提としている様です。

ちなみに、この3層構造の別の観点からの説明はこちらの記事を参照願います。<--リンク

PS
とはいえプリバディPribadiの定義はなかなかに難しいのです。
それはまさにインドネシア人の、インドネシア語の、我々の目には「あいまいさ」とみえる性格によるものの様に思われます。

第3章 キナンティ 38節
『38、自己Pribadiの真の存在にすでに気が付いている人にとって、正しい道というのはこのようなものである。
その為、外側では(注:世の中の生活では)自分の頭脳を精一杯使って、あらゆる種類の仕事をしていても、彼は頭脳と内部自我Diri Pribadiとの境界線を意識している。
物質的な物事にだけ関心を持っている人々の場合は、そうはいかない。
(注訳:人間の中にはジワJiwaと呼ばれるレベルの存在がある、ということを体験し認識していない人々の場合はそうはいかない。)』

この章句では内部自我と頭脳とを並列の存在として記述している様です。
まあそのぐらい「自由に」コトバを使って行くのが詩編:スシラ ブディ ダルマなのであります。

注2:仕事と礼拝の関係について
第4章 パンクール 21節~22節
『21、そのようにふるまうことが出来れば、あなたはついには人生に平安を見出し、日々の仕事に携わっている間にも、絶えず神の偉大さを思い起こす様になるであろう。

22、つまりあなたは、働いているときはいつでも、おのずと神の偉大さをたたえる気持ちが伴い、それ故にまた何をするにしても、自分に必要な導きが得られるようになるであろう。
これが神の恩寵を与えられた人々の至福の状態であり、それを通して彼らは、すべてについてますます神の力に従順になるであろう。』

世的な仕事が忙しいので、礼拝に割く時間などはない、ということはなくなる。
なぜならば最終的には仕事と礼拝が常に並行して存在するようになってしまうからである、、、というのがバパの説明です。

ところでそのような状況に至った人が自分に常に導きを与えてくれる状況に対して、あるいは存在に対してどのように感じるのであろうか?

バパはイスラムですから、迷うことなく「それはイスラムの神、アッラーである」とするでしょう。
そうして、スシラ ブディ ダルマの中に登場する「神」というのはバパにとっては「アッラー」以外には考えられません。

しかしながら世の中にはイスラム以外にも数多くの宗教が存在します。
そうして、そのような多様な宗教を奉ずる方々もまた「自分を常に導く存在がいる状況」に至るのであります。
そのときにそれらの方々はその存在を「アッラーだ」というでしょうか?
もしそうなら、「自分を常に導く存在がいる状況」に至った人は全て自動的にイスラムに改宗する事になってしまいます。

ですから、そんな事は決して起こらず、それぞれの方が奉ずるそれぞれの信仰対象の名前で呼ぶことになるでしょう。
そうしてバパは「それで良い」というのであります。
そうであればそれぞれの方はどこまでも自分の宗教とともにラティハンを継続していけるのであります。

そうして、それぞれの方の必要に応じた導きがそれぞれの方に与えられる、そうでありますからAさんに与えられた導きを「これはよいものだから・・・」といってAさんがBさんに教えても意味がないのであります。

BさんはBさんで自分に必要な導きを独自に受け取る、それが「ラティハンの道」であります。

もしAさんが「私は○○○という存在からこのような内容のものを受けた。これは人類にとって非常に有効だから皆のものはこれに従わねばならない。」と言い出したとしたら、それは新たな宗教の始まりであります。

そうしてバパはそのような事をすることは決して許可しないでありましょう。
それは「ラティハンの道に反しているから」であります。

注3:人の予想しない災害について
天災にしろ人災にしろ、我々が前もって予想できない様な大きな災害は突然襲ってきます。
(我々の目にはそのように見えます。)

バパが生きておられた頃は、核戦争の危機が叫ばれた時代でもありました。
そんな時のバパのトークに「核ミサイルが飛んで来ても、我々は生き延びなくてはならない」。
「どのようにしてそれが可能になるのか」
「内部からの導きに従って行動する事によって可能となる。」
そのような主旨のものがあります。

「内部で受けたこと」に従って行動せよ。
そのようにバパは言うのです。

しかしこれは我々にとっては難しい事であります。
「今日の予定はこうなっている。」
「これから大事な仕事の話がある。」

そんな時に「急いでこの場をはなれよ」という指示を受けたらどうしますか?
周りを見渡してもそこには「いつもと変わらない日常」があるばかりです。
どこにも差し迫った危険などありそうもありません。
・・・・・
さて、そうでありますから我々にとっては「受ける」ということは本当に大変な事なのであります。


連載「スシラ ブディ ダルマ」にはこちらから入れます。<--リンク

PS
文字サイズはページ右上で変更できます。

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

記事内容についてのコメント、ご感想などは
こちらまでお願いします。
<--リンク
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする