ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

雑記帳4・自他の分別

2019-01-25 | 日記
バパがいう様に「赤ちゃんには自他の区別がない」様に見えます。

その結果、自分が見ている物にたやすく同化、同一化してしまいます。

バパに言わせれば「その時にはまだ魂(Jiwa)の方に我々の注意力が向いているから」だそうです。

この注意力が年齢の上昇とともに外側の物事に向いていき、それに伴って内部感覚(Rasa Diri)との連絡がおろそかになってきます。

・・・というように話が続いていきます。

さて、我々が「自分と言うもの」を最初に見つけるのは何時のころでしょうか?

まあ3歳あたりですかね。

自分の中の一番古い記憶、つまり我々が意識できる記憶の限界がそのあたりの様な気がします。

そうして記憶と言うものは「我あり」と言う感覚と密接に結びついている様で、この記憶が途絶えるとその間は「我あり」の感覚もなくなります。

つまり、反射的な行動は出来るでしょうが、意識的な行動はできない、夢遊病者と同じ状況になっている訳です。

それでこの話はいったい何をいいたいのでしょうか?

我々が生まれた時にはまだ自分という意識が成立しておらず、したがって記憶はあるかもしれないが、それに意識的にはアクセスすることはできないのだろう、ということです。

この「自分と言う意識が生まれていない状態」をバパは「注意が内側に向かっている」と表現した様です。
(「その時にはまだ魂(Jiwa)の方に我々の注意力が向いているから」・・・)

そうしてその意識状態は「自他の分別を知らない意識」の様に見えます。

そうであればその意識にとって「生」は存在せず、したがって「死」も存在しません。

そのような分別がないのでありましょう。

分別というのは、対象を認識するという事は人間の場合は「AとBの違いを認識する事」によってしか生じえません。

そうであればこそ、我々の目には空気はみえないのです。
(空気のある、ないを目は見分ける事が出来ない。)

さて、我々が「自分」と呼ぶものは、この「分別を知らない意識」から立ち上がってきたものです。

そうしていったん分別を知るや否や、自分と他人を知り、生と死を知るのであります。

おまけに元の「分別を知らない意識」、「分別を知らない世界に戻るのを怖がる」とそういう具合にできている様です。

蛇足です。

ブッダが「生は苦だ」といいました。

苦は「生病老死だ」ともいいました。

しかしながら「生まれたての赤ちゃん」には「生」も「死」もありません。

それが存在するようになるのは3歳以降。

他人が生じて、自分が生じて、記憶が生じて、そうして「生」と「死」を認めた以降の話であります。

PS
例のスーパーボランティア氏が助けた子供、あの子供にとっては「死は存在していない」のです。

ただただ「この上には何があるの?」という「好奇心のみ」がそこにあったのであります。


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雑記帳3・残念な事/

2019-01-11 | 日記
ミャンマーではどうやら仏教徒がイスラムの少数民族を迫害している模様です。

・アングル:ロヒンギャ難民12万人超、高まるスー・チー氏批判<--リンク

「我々が信仰している聖なる存在と、彼らが信仰している存在は違う。」というのがその理由であります。

そのような「我々と彼らは違う」という相違感、あるいは差別感というのは本当に根深く、しかしながら我々が自分を「人という存在である」というならば、当然、乗り越えねばならないものなのであります。


そうして又、本当に残念な事なのではありますが、ラティハンの広がりを抑えている大きな要因の一つがこの宗教による差異感に起因するものなのでありました。

・群盲象をなでる(群盲撫象)<--リンク
・ラティハンの普及を阻害するもの<--リンク


PS
・ロヒンギャ難民27万人 国連報告者「死者1000人超」 <--リンク

アウン・サン・スー・チーさんには少々がっかりしましたね。

PS
・スーチー氏がロヒンギャを無視する理由<--リンク

世界は本当に複雑で、魔法の杖の様な解決策はどこにもなさそうです。

しかしながら、それでも何とかするのが人間というものでありましょう。


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