ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

受け入れられない話

2014-07-28 | 日記
1959年8月11日のロンドントークであります。

ユダヤ教からキリスト教そうしてイスラム教までの経緯が書かれています。

そうしてイスラムの次に「ラティハンが来た」とされています。

さて、これらの記述の何が問題なのでしょうか?

なるほど言葉使いは丁寧ではありますが結局のところキリスト教もイスラム教も不十分だったと受け取られても仕方のない記述になっていますね。


イスラムの宗教史観によれば、「イスラムが最後の教え」であります。

そうして「イスラムを超えて新たな必要ごとが現れる事」はけっしてないのですね。

さてバパははたしてこの禁句に触れたのでしょうか?

イスラム主流派から見れば「状況証拠はクロ」だったのでしょね、きっと。<--リンク

そうして結局はインドネシア以外のイスラム社会にラティハンが受け入れられる事はありませんでした<--リンク

2代目に言わせれば「それが歴史」だそうです。<--リンク

これでは「(イスラム主流派の人はラティハンを受けることを)あきらめなさい」と言っている様なものでありますね。


しかしこれはバパにとっては本当に不本意なことだったと思われます。

本家筋のイスラム社会にラティハンが受け入れられていればどんなにか嬉しかったことでしょうか。

バパが残念に思う気持ちは想像するに余りあるものがありますね。


ちなみにキリスト教徒にとってはイスラム教の出現に続いて今回が2回目ですね。

つまり「自分たちの教えに続くものが新しく出現した」という2回目のメッセージです。

ですからそれなりに「免疫」が出来ていました。

でもイスラム社会はそういう訳にはいきません。

今回が初めての体験であります。

そういう訳で「拒絶反応」も一層大きかったのでしょうか。


さて宗教というのは、どこまでいっても個人的な「お気に入り」であります。

そして「あなたの宗教はすばらしいですね」ということは何の問題もありません。

でも「あなたの宗教はちょっとね」というような言い方はもはやこの世界に居場所はないでしょう。

そうして、その言い方の行きつく先に人々の間の平安はありません。


多様な宗教、宗派が現に地球上に存在しています。

つまりは人々はいろいろな見方で「至高の存在」を認識しているのですね。

そうであれば、お互いにそれを批判し合うことには手を出さない方が世の中平和であります。

それは「我々が正しいのだ」という主張も自ずから「ある限界を持たねばならない」ということであります。


そういう訳でラティハンと特定の宗教を結び付ける、関連付けるような記述は避けた方がいいでしょう。

事実、こちらからラティハンに投影しなければいけないイメージなどはありません。

ラティハンを受けるのに「このように見なければいけない特定の見方」などは無いのであります。


ラティハンを始める前まではそれぞれの人がラティハンについての「好みのイメージや考え」を持つことはしかたありません。

人間の頭と心というのはそういうようにしてしかラティハンをとらえることができませんからね。

でもひとたびラティハンが始まれば「そんなイメージやら考え」などは邪魔になるばかりです。

そこにあるのは「無心になってただ単に受ける」という状態だけですからね。

そしてそれが「ラティハンは宗教ではない」という具体的な意味なのであります。


PS

さて、バパがこのトークをしたのは第一回世界大会でしたか。

「昇る太陽」のごとくにラティハンをする人が増えていった時代でしたね。

まあですからつい「強気の発言」になるのは人情であります。


時はすぎて2013年は8月2日の2代目のトークであります。

もはや「昇る太陽」などというのは過ぎ去った過去の栄光、現実はきびしいのでありました。

にもかかわらず相変わらずの「強気の発言」であります。


いくらその場にジャワイスラム教徒しかいないからといっても後日世界中にメッセージとして流れます。

どういうメッセージでしょうか?

「ムハンマド(という啓示)の後にバパという啓示が現れた」というメッセージであります。

そうやって「主流派のイスラムの人達がラティハンを受けいれる可能性」をつぶして何が面白いのでしょうか?


バパのトークや宗教史観を大事に思う気持ちはよくわかります。

しかし「良い知らせを広く伝えたい」という気持ちがどうにも伝わってきませんね。<--リンク

バパの言ったことであればそれを嫌がる人がいても「これが正しいのだから」と押しとおすのでしょうか?

「聞いている人の気持などはどうでもいい」とそうとられても仕方のないありさまであります。


2代目が「バパを思う純粋な気持ち」はよくわかりました。

でもぶしつけではありますが、「どうかもう少し世間というものを知っていただきたい」と願うばかりであります。


PS

バパの大変なご苦労によりラティハンが地上におろされました。<--リンク

そうして、その時を持って「ラティハンは人類の誰でも希望すれば受けられるものだ」と思っておりました。

言い換えれば「人類にとっての生得権の一つ、基本的人権のようなもの」ですね。


でも2代目は言います。

「あなたはラティハンをやめた方がいい。」と。

いやいや、恐れ入りました。

まさか「地球上でのラティハンの管理権をお持ち」とは知りませんでした。

そうして、「あなたはラティハンをしなさい。」とか「あなたはやめなさい。」とか言えるのですね。


そうとしか思えないトークであります。

So, if any of you follow some movement or some technique and are comparing that to Subud, it would be better for you to leave Subud ー it is for your own good.

訳)ですから、あなた方のうち、幾人かの人が、ある運動、あるテクニックに従い、それとスブドを比較するならば、あなた方はスブドを離れた方がいいでしょうーあなた方自身のためにも。

さあ、最後の言葉は「その方が身のためだ」と言ってるのでしょうか。

これではなにやらおどし半分にも聞こえてしまいそうです。


人生の主体はその人のものであります。

何を行い、何をしないかは他人が干渉できる筋合いのものではありませんよねえ。

なるほど、ラティハンを受けるときにはその作法に従いましょう。

でもラティハンの外で何をどう行うかはその人の自由と責任であります。


こんな基本的な事が2代目には了解してもらえないのでしょうか?

え、「そうではない」って。

「単なる善意の第三者としてのアドバイス」ですって。

いやいやそれならそれでもいいのですがねえ。

でもそういうの、世間では「小さな親切、大きなお世話」と言うのを知ってましたか、2代目さん。

追記
85CND6.11(チランダ) バパトークより引用

『さて、これはスブドのラティハン・クジワアンの過程についての話であります。
しかし実際には、私たちはただラティハン・クジワアンと言ったほうがいいのです。
スブドと言うべきではないのです。
なぜならば、そういう言い方をすれば、まるで神の恩寵を受けることができるのは、神の導きを受けることができるのは、あるいは、神からの啓示を受けることができるのは、ただスブドの中においてだけであるという風に聞こえるからです。
それは正しくありません。  
事実は誰であれ、忍耐と受容とそして誠実さをもって本当に神に全託すれば、その人はラティハン・クジワアンを受けるのです。
これはスブドの専売特許ではありません。

そして私たちがこのことに気付くこと、つまり神には限界がなく、誰でも神に対して苦情を申したてることはできないのだということを知ることは非常に重要であります。
若しもそれを理解すれば、それは私たちを心の広い寛大な人間にしてくれるでありましょう。
他の人々を受け入れることができるようにしてくれるでありましょう。
私たちは自分を特別の者だとか何かそういう風には思わないでありましょう。

そしてこれが実際のところラティハン・クジワアンの目標であります。
ラティハン・クジワアンの目標は私たちをノーマルに、当たり前にすることであります。
そして私たちの存在の内部での神の力の働きに慣れ親しんだ人間にすることであります。  
ノーマルでない人間、何か特別のようにみなされ得る人たちはラティハン・クジワアンをしている人たちではありません。』

PS
そういう訳で、ラティハンはキリスト教徒(33.4%)とバパの国のイスラム教徒(2.8%)には「ウエルカムなのです。<--リンク

そうしてそれ以外の方には「なかなか超えられない人為的な壁」を作っていますね。

その結果は「世界人口の36.2%にしか入口が開かれていない」という状況であります。

なんとまあ世界人口の3分の2を締め出しているのですね

いやはや、これは驚きの結果でありました。


宗教別人口

・キリスト教 22億5400万人 33.4%
(イタリア・フランス・ベルギー・スペイン・ポルトガル・中南米・アメリカ・カナダ・イギリス・ドイツ・オランダ・北欧オーストラリア)

・イスラム教 15億0000万人 22.2%
(インドネシア・マレーシア・トルコ・エジプト・サウジアラビア・イラン・イラク・中東)

・ヒンズー教 9億1360万人 13.5% (インド・ネパール・バリ島)

・仏 教 3億8400万人 5.7%
(日本・中国・韓国・ベトナム・タイ・カンボジア・ラオス・スリランカ・ミャンマー・チベット)

・無宗教:7億6900万人(11.4%)

・無神論:1億4830万人(2.2%)

・心霊主義:1366万人(0.2%)

・バハーイ教:786万人(0.1%)

・中国伝統的宗教:3億8720万人(5.7)

・儒 教:641万人(0.1%)

・道 教:337万人(0.1%)

・神 道:278万人(0.0%)

・その他:134万人(0.0%)

合計:67億4960万人 (百科事典「ブリタニカ」年鑑2009年版)<--リンク

バパの国のイスラム人口2億人<--リンク

PS
バパはラティハンとそれ以外の多くの修行方法を比較されました。

そうして、「それらのものとラティハンは違うものだ」と主張されました。

さて、そこまではいいのですが「だからラティハンの方が優れている。」と主張したとしたら、それは少々「語りすぎ」でありますね。


比較が第三者によって行われるのでしたら、まあそれは一応「公平性」が担保されています。

でも当事者が自分のものと他の物を比較してしまっては、どうしたって「自分のものがいい」という価値判断に引きずられます。


さて情報の世界ではかつてないほどに地球は狭くなりました。

誤解を与えるような比較対照はやめておいた方がいい。

それがたとえ「バパのトークの内容」であったとしても。

もはやそういう時代になったように思われます。


PS
レビューポイントはこちらです。<--リンク


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バパ、トークで間違える

2014-07-15 | 日記
まあそれなりの数のトークを読んできましたが、バパがトークで間違えるのは珍しいことであります。

それでミスがあったのは1963年3月4日のアデレード・トークですね。

バパにとっては何百回ともなく繰り返してきたであろうトーク冒頭の「スシラ ブディ ダルマの説明」の所でした。

もともとスシラ ブディ ダルマというコトバはバパにとっても「外国語」のサンスクリット語ですからまあ無理もありません。

そして何回ともなく同じ事をしゃべっていれば「つい言い間違える」ということも十分ありますからね。


まあそうではありますが、通常バパのトークは「受けて話される」と言われてきました。

ですから通訳さんが「もう一度繰り返してもらえませんか?」と頼んでもバパは「それはできません」と言っていましたね。

思考や記憶を頼りに「事前にシナリオを作って話している訳ではない」という事です。

でも今回は言いなおす事ができました。


さて、これは何を表しているのでしょうか?

コトバを常に受けながら話している場合は、そのミスの原因は受信しているバパにはありませんね。

その責任は送信側が負わなくてはなりません。

でも送信側が間違えるというのはなかなか考えにくいものがあります。

さあそうすると残る可能性は「バパはコトバそのものを受けながら話してはいなかった」ということになります。


最初に「スシラ ブディ ダルマの説明をしなくてはいけない」という思いがあります。

次に頭の中のメモリに説明に相当する部分があるかどうか検索します。

スシラ ブディ ダルマの説明は当然のことながらバパの頭のメモリの中に入っていますね。

検索によってメモリの場所が特定できました。

そうして、そこから説明に必要なコトバを順序正しく口に送り出して声にしていきます。

これで完璧な説明が出来るはずでした。


そうですね、上記の2行目から5行目までのプロセスは当然意識には登ってきません。

すべては意識下で自動的に行なわれてしまう脳の仕事であります。

でも今回は頭から口に情報を送り出す過程で順序にミスが生じた模様です。

そうして「ブディ」と言うべき所で「ダルマ」と言ってしまいまいました。

それでイブに注意されたと、そういう訳であります。


さてそうすると、バパといえども「知っている知識については新たに受け直しながらトークをする事はない」と、そういう事になりそうです。

まあ普通の人であれば当たり前すぎて、どうということもありません。

でもバパのトークは「受けて話される」と言われてきました。

ですので暗黙の内に「トークに間違いはない」とされています。

でも実際は必ずしもそうではなさそうですね。

バパといえども「常にコトバを受けてトークをされている訳」ではないからです。


さて、以上の話のポイントは何でしょうか。

バパが「これは正しい知識だ」と認識した情報は頭にメモリされ「その情報がトークに入り込む」と、そういうことであります。

それでは「これが正しい」というのはバパはどうやって認識するのでしょうか?

そこがこの話のキーポイントになりますね。


まあそれはさておき、頭の中にメモリされる知識のそもそもの「でどころ」はどこでしょか?

たとえばバパがその中で成長してきたジャワの文化や伝統であります。

もう少し具体的にはそれはワヤンであったりジャワの宗教的常識であったりします。

成人するまでに聞かれたご自分の両親や祖父母などの近親者からの話も入りますか。

成長する過程での先輩や同輩と議論した事柄や本から得た知識もあったでしょうか。


そういうようなご自身が体験されてきた事が知識の源になります。

その中には世的な体験と霊的体験の両方が含まれます。

そうして締めくくりは「ご自身で受けて確認された知識」になりますか。


まあそういういろいろなものがバパの中で統合されてトークとして表現されている様です。

そして、常にトークの現場で「1から10までを受けて話されている」という訳ではないと。

そのようにとらえるのが一番妥当なように思われます。


PS
「記憶にたよって外来語を説明する」で思い出しました。

1957年7月20日のクームスプリングのトークでもそのようなミスがあった可能性があります。

それは人間が持つとされている「4つのナフスの説明」のところですね。

ここでは本来は「aluamah」と言わなくてはいけない所を「amarah」といってしまいましたか?

ナフスを示すこの言葉はアラビア語由来ですし、なにより発音がいずれも「ア」で始まりますからね。

そうして2つのコトバの全体の語感も似ています。

これでは言い間違いが起きても無理はないかなと思われます。


ちなみに4つのナフスについての伝統的な説明はこちらを参照ねがいます。<--リンク

そしてバパのトークではたとえばこんな感じです。<--リンク

追伸
上記の件、訳注にてそのような指摘がありましたが、ナフスの性質をまとめてみますと「人間が一番使うナフスとしては「強いamarah」で間違いなさそうです。

つまりトークのこの場所での記述には間違いはなかったと言う事になります。(16,11,25)

PS
物質力にはnafsu amarahが植物力にはnafsu aluamahを対応させるのがバパの説明の基本であります。

しかしながら以下の2つのトークにおいてはそれとは違った対応をさせてしまっています。

いずれの場合もそれぞれのナフスがもつとされる性質までの言及はなく、単にナフスのラベルとしての呼び名だけの引用であり、言い間違いの可能性が大であります。


バンドン、84,4,24)では植物力にamarahを対応させています。

(ジャカルタ、85,1,19)では植物力にamarahを物質力にaluamahを対応させています。
<--リンク

加えてこのトークの場合、後段では物質力に amarahを正しく(?)対応させています。

そしてそこではnafsu amarahの持つ性質に言及しているのであります。

そういう訳で、バパもトークでは言い間違いをするのであります。

追記
『物質力にはnafsu amarahが植物力にはnafsu aluamahを対応させるのがバパの説明の基本であります。』と書きましたが、トークの時期によってこのナフスの順序が入れ替わったり戻ったりしています。<--リンク

それは単にバパが諸力とナフスの対応を間違えた、というのではなく、アマラとアルアマのどちらを植物力に対応させるのがより良いのかを試行錯誤された、いろいろと考えた、その経緯が表れていると見た方が妥当であります。
(当然ながら、植物力に対応させられなかった方のナフスが今度は自動的に物質力に対応することになります。)

このようにバパがそのように自分の考え方を変えていかれた、より良いものにされようとしていかれたという事実の記録がトークに残っている訳であります。

そうして、そのようなバパの努力を認めない、というならば、「バパは常に完全でなければならず、途中で見方を変えることなどあってはならない。」というバパのファンの勝手な想いを優先させるならば、それはバパの望むところではないように思われます。(2017.7.9)

PS
バパのトークで気をつけなければいけない点、それはナフスを上げる順序です。

物質力にはアマラー(nafsu amara:赤)が、そうして植物力にはアルアマー(nafsu aluama:黒)がいつも対応しています。

ですので4つの諸力の順番にならべる場合は1、アマラー>2、ルアマー ・・・となります。
(70・12・5、72・11・3、85・6・25、85・7・2 etc)

しかしながら単にナフスの事を述べる場合(諸力との関係を言わない場合)はインドネシアの伝統にそった順番になります。

つまり1、アルアマーー>2、アマラー ・・・と順序が逆転するのでありました。
(57・9・29、59・8・6、59・8・7、63・9・13、81・6・18 etc)

そうして、二代目の並べ方は常に後者であります。
(99・12・16、01・7・12、02・2・28、02・3・3、03・2・14 etc)

そうしてこの件につきましては、ハッキリ言って混乱させていただきました。(16.10.1)


PS
ジャワに伝わる神話についての記憶間違いと、仏教の信仰対象についての記憶間違いについてはこちらを参照願います。<--リンク

人が作ってきた文化や歴史についての記憶は、バパ程のラティハンをもってしても修正されることはない様であります。

つまり「ラティハンを実習していても、一度思い込んだものはラティハンによっては修正されない」ということであります。

違うコトバでいえば「個人の記憶内容は浄化対象ではない」ということになりますね。

そうしてそこから出てくる結論は「どのような事を見たり聞いたりして、どのような宗教や思想を学び、どのように自分の考え方を形造るのかは全く個人の自由であり、責任の下で行われる」というルールであります。

さてそういう訳で「トークに入り込むバパのこうした個人的な思い込み」にはやはり注意する事が必要な様であります。

PS
以上のように「人類の全ての知識にアクセスできる」とされたバパでありますが、それでもやはり「間違えること」はあったようです。

バパは人間でありました。

そうして人間というものは間違えるものでありますね。

ですので「バパは間違えることはない」という主張は、バパから「間違えてもよい」という「人間としての当然の権利」を奪いとっていることになります。


「バパはどうやら思い違いをしていたようだ」。

もし本当にそうだとしても、それがバパの何を傷つけるのでしょうか?

バパがラティハンを苦労されながら地上におろし、そうして広めるための懸命の努力をされた。

それほどの事をされた方のいったい何が傷つくというのでしょうか?

我々の何とも頼りない状況の反対願望として、バパに「スーパーマンの役目」を押し付けるのはそろそろやめにしても良い頃だと思うのでありました。
(2015.7.17)


PS
文字サイズはページ右上で変更できます。

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク


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