ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

「説明する」ということ

2012-07-27 | 日記
バパぐらいになれば相手の内部にあった言葉を話す事で相手の内部に理解を
作り出すということもできるでしょう。

でも通常、我々が相手に向かって投げている言葉は相手の内部とは全く別のもの。

これでは相手の内部に届く訳がありません。

それでも黙っていては何も伝わらないからお話をしなくてはいけない。

何という矛盾。

何という無理。


我々にとっては理解と言うものは体験を通じてしかやってこない様です。

なかなか前もっての理解というのは難しいですね。


本来の理解は体験によるもの、そして運が良ければラティハンが運んできてくれるもの。

そういうものを待つしかなく、人をして強制的に理解させるということはほとんど可能性が
ないようです。

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怒り、憎しみの生まれる場所

2012-07-20 | 日記
憎しみの生まれる場所を知っていますか?

これは大変な秘密なのですが、皆さんには特別にお教えしましょう。

何と図書館のカサ置き場なのですよ。


外は朝から続く雨降りです。

さっきからカサ立ての前でうろうろしている人が一人。

どうやら自分のカサが見つからないようです。

とうとう「盗まれた。」とって怒り始めました。

ほら、今まで世の中に存在しなかった「怒り」が一つ生まれましたよ。


さて、怒りにまかせて自分のものに似たようなカサをひとつ取り出して雨の中に
出て行きました。

でも怒りは一つ増えたままです。

この人のカサはどこにあるのでしょうか?

おやおや、どこかのうっかり屋さんが「自分のだ。」と思いこんで持っていますね。

もちろん悪気などどこにもありません。


おや、また一人、カサ立ての前でウロウロしています。

そしてまた一つ怒りが世の中に誕生しましたよ。

こうやって今日もまたいっぱい怒りが誕生しそうです。

そしてその分世の中は重くなるばかりです。


この話、「私には関係ない。」と思いましたか?

こうやって際限もなくラティハンで浄化しなくてはいけないゴタゴタを内部にため込んで
いるのが、実は我々の実情かもしれないのですよ。


さて、話かわって最初に自分のカサを取られたと思ったのはどちらの方でしょうか?

ブッシュさん、それともビン・ラディンさん?

かくれていたビン・ラディンさんはとうとう殺されてしまいましたけれどね。

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「経験から学ぶ」ということ

2012-07-13 | 日記
経験に学ぶということは奥が深いですね。

学校で教わったり、会社で教わったりすることはスタートラインに立っただけ。

そこから自分で学んでいかなくてはいけません。

バパが言うとおり「経験が先生」です。


学校や会社で教えてくれた事は、便利なことではありますが、分かりやすいものでは
ありますが、まだまだ自分のものではありません。

自分のものはこの世の人生から自分で取り出したもの。

それが「わかる」ということだったんですね。


もし我々が忙しい毎日のなかでもラティハンを続けていって、そしてあるとき「自由」と
出会えたらそれがおこりそうです。

「自由」のなかでは一切の強がりやら誇りやら自己規制やらは必要ありません。

あるがままのものがそこにあります。


本来はこの世界に適合して生まれてきている人間ですから、こういう理解は自然に
育ってもよさそうなものです。

でも忙しく動き回っているときにはなかなかこの事が了解されません。


バパはそのことを「勇気」という風に言いました。

「勇気」も「自由」も結局は同じことです。

最後の責任は自分持ちで、そして経験から教わりながら物事をやってゆく。

どうやらそういうことの様です。


この世の中で物事を成し遂げる姿勢というものはラティハンを受けていようがいまいが
結局は同じことですね。

世の中で物事が実現してゆくありさまはこの世の法則に従うしかありません。

まあ世の中は公平に出来ているということでしょうか。


それで、ラティハンの成果はどこで現れるんだって?

それはまあ物事が成し遂げられた後のお楽しみということにしましょうか。


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ラティハンを3年でわかれば天才

2012-07-06 | 日記
我々はつい「この道こそが唯一の道」と言いたがる。

しかし、その言い方はあまりにも狭いもの。

それだから、ラティハンが合うか合わないかはやってみるまで分からない。


1回やって分かるものではない。

3年で分かるかといわれても、「それで分かる人は天才だね」としかいえない。

まあ10年くらいラティハンの周りでごろごろしてみれば、何かつかめるかもしれない。

そのぐらい気長な道。


バパに言わせれば「とてつもなく早い道」なのだけれども、例によって我々があっちへ行ったり、こっちに落っこちたりといろいろやるのでなかなか前には進めない。

そういう「いろいろなごたごた」が片付いている人なら、3年もやれば自分で分かるようになるやもしれませんが、、、。


私ですか。

まあ人並の早さか、遅さか。

あっちにいったり、こっちに落ちたり、いろいろとやりました。

しかしまあなにはともあれ、この人生の中でまがりなりにも自分に合った道に巡り合えたというのは、これは本当にありがたいことですね。


PS
算数を少々、、、。

バパは1000日の連続ラティハンを受けたとか。

さてこれを週2回で割ると500週。

これは10年に相当します。

まあそういう訳で10年ひと区切りですね。


1000回ラティハンを重ねればバパ並みになれる?

そうですね。

次のラティハンまで前のラティハンが修正してくれたものをキープできれば。

そうやってそれを1000段に積み重ねることができれば。

バパ並みとはいいませんが、それでも結果は素晴らしいものになっているでしょうね。

人としての努力が求められるところであります。




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