ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

ジワJiwaとスクマSukmaの物語(その2・インド哲学、ヒンドゥー教各派での扱い)//

2017-08-30 | 日記
以下「ジワJiwaとスクマSukmaの物語(その1・バパと二代目の認識)」から再掲示します。<--リンク

『スクマSukma、ファイン・ボディー(微細体)
インドの哲学と宗教における本質的な教義である三体論は、特にヨガ 、 アドヴァイタヴェーダーンタとタントラで重要です。
そうしてヒンドゥー教の教義の中にある三体論の Sarira Trayaによると、人は
1、Karana sariraカラナ サリラ - 因果体 causal body
2、Suksma sarira スクスマ サリラ - 微妙な体 subtle body(サンスクリット語:sūkṣma śarīra)
3、Sthula sariraストゥーラ サリラ - 肉体 physical body
の3つの体を持つとされています。<--リンク

これがまさに二代目がトークで示している以下の文章に見事に対応しています。
「私たちの中には3つの要素があります:
魂Jiwa(Soul)があり、
スクマSukma、ファイン・ボディー(微細体)があり、
そうして物理的な肉体があります。」

こうしてインドネシア語にSukmaとして吸収されたコトバの語源がSuksma(サンスクリット語:sūkṣma )であるという事が分かります。』


次に5つのコシャkosha(鞘:サヤ)について話したいのですが、一番簡潔にまとまっているヨガでの説明を引用します。
ヨガ101:コシャスkoshas<--リンク
『ヨガでは、私たちの存在の層をkosha(鞘:サヤ)と呼んでいます。

私たちの個性を構成する5つの徐々に微妙なボディは、 Taittiriya Upanishadと呼ばれるヨガのクラシックに記述されています。

・身体:皮膚、筋肉、靭帯、関節、骨、重要な器官(Annamayakoshaアナマヤ コシャ)
人間は、食べ物から作られた肉体で構成されています。
この身体を気遣う人は、宇宙そのものに栄養を与えられます。

・エネルギー体:息切れ、熱、脈打つ、ストリーミング、うずき感(Pranamayakoshaプラナマヤ コシャ)
これは生命のエネルギーで作られた別の体です。
それは物理的な体を満たし、その形を取る。
この生命力を神として扱う人は、このエネルギーが身体的な生活の源であるため、優れた健康と長寿を経験します。

・パーソナリティボディ:思考と感情、感覚刺激と環境への直接的な反応(Manomayakoshaマノマヤ コシャ)
生命力の中には、もう一つの体があります。
これは思考のエネルギーでできています。
上記の2つの体を満たし、同じ形をしています。
精神的な身体を理解しコントロールする人はもはや恐怖に悩まされません。

・知恵の体:直感的な意識としても知られている非批判的な観察者(Vijnanamayakoshaビジュナナマヤ コシャ)
深いところはまだ知性で構成された別の体がある。
それは上記の3つの体に浸透し、同じ形をとる。
ここで彼らの意識を確立する人々は、不健全な思考や行動から自分自身を解放し、
目標を達成するために必要な自己制御を開発する。

・至福の身体:光、透明、内なる平和、無条件の愛(Anandamayakoshaアナンダマヤ コシャ)
それはまだ純粋な喜びで構成された微妙な体です。
それは他の全ての体に浸透し、同じ形を共有します。
それは幸福、喜び、そして至福として経験されています。』

そうして前述の3体論との対応は以下の様になります。

1、Karana sarira - 因果体 causal body<--至福の身体:(Anandamayakoshaアナンダマヤ コシャ)

2、Suksma sarira - 微妙な体 subtle body<--エネルギー体:(Pranamayakoshaプラナマヤ コシャ)+ パーソナリティボディ:(Manomayakoshaマノマヤ コシャ)+ 知恵の体:(Vijnanamayakoshaビジュナナマヤ コシャ)

3、Sthula sarira - 肉体 physical body<--身体:(Annamayakoshaアナマヤ コシャ)

以上の対応関係はインド哲学、ヒンドゥー教各派の中では一応の合意がありそうです。
そうして上記の2番と3番についてはバパと二代目もこまかな所に目をつむれば、まあそれなりに合意できる分類かと思われます。

:複数の層が重なり合った構造体として人のカラダを考えるのは、ヒンドゥー教でもバパの人体観でも同じです。
そうして、より微細なものがより粗いものに浸透し満たしていく、という考え方も同じです。
但しヒンドゥー教では無条件にこの浸透が起きているとしていますが、二代目の見方では「ジワJiwaが肉体の各部分に浸透する為にはラティハンの実習を重ねることが必要である」とされています。
そうして、そのようになってようやくジワJiwaを使いながらの日常生活が出来るようになる、ラティハンの一応の達成点に到達した事になるのでありました。)

それで問題は1番のカラナ サリラKarana sarira - 因果体 causal bodyの内容ということになります。
それが魂(Jiwa:Soul)なのかどうか、ということになります。
しかしながらそれは逆に魂(Jiwa:Soul)というコトバで我々が、あるいはバパ、そうして二代目が何を表そうとしたのか、示そうとしたのかにかかわる問題になります。

アートマンAtmanを不変で普遍な自己(Self)とするならば、そこには個別性、パーソナリティーは認められませんから、基本的にアートマンはKarana sariraを超えている、というのが一般的な認識の様です。
そうなりますと我々がジワJiwaを「個別性と普遍性を併せ持つ自己(Self)」として認めるならば、(この立場はバパの立場に近いように個人的には考えていますが)それはカラナ サリラKarana sariraと重なる部分があるととらえる事ができます。

以上の準備をしたところで、以下インドネシアにイスラムが展開される前におよそ一千年の間に渡って、その場所で受け入れられていたヒンドゥー教の世界観を概観していきます。
とは言いながら、この記事では主にジワJiwa(Jiva)とスクマSukma(Suksma)に関連している内容に限定しているものの、ヒンドゥー教でそれらについて言われている事の全てに言及できている訳ではない事には前もってお断りする必要がありそうです。


カラン シャリルKāran sharirあるいはKarana sariraカラナ サリラ - 因果体<--リンク

『ヒンドゥー教は私達の魂の周りのカラン シャリルKāran sharirを記述しました。
それは、魂のカラン シャリルは、ヒンドゥー教を除いて、他のどの宗教によっても以前に記述されていないようです。
カラン シャリルは因果体なのですが、因果体から解放されず、分かれていないような魂の次の誕生において、(その魂が宿る事になる)肉体と微妙な体を作り上げる唯一の原因(それゆえに因果体と呼ぶ)となっています。

因果体は、以前の出生の間(生きた期間)に取得された情報または知識を運ぶ。
世俗的な目的や快楽のための興奮と強烈な、あるいは深い欲求は、それに含まれます。
魂はこの因果体またはカラン シャリルにしっかりと取り付けられています。

カラン シャリルKāran sharirはマヤMāyā(幻想)を基本的に構成しているので、マヤMāyā(幻想)のすべての特徴を持っています。
それは、anādi(始めと終わりなし)、avidy(本質的に無知)、anirvāchya(記述不可能または不可解)のような属性を持つと記述されています。

死に至ると、ストゥーラsthulとスクスマsukshmaのボディーは「ほこりのほこり」や自然の物理的要素の一部になります。(地球に帰ります。)
しかし、魂が完全に切り離されたり解放されたりしなければ、死後の因果体あるいはカラン シャリルは、解放されていない魂(māyānvit マヤンビットはmayaマヤで覆われたという意味)に移動します。
魂がMāyāマヤでできた因果体から完全に切り離されると、それはBrahmdhāmと呼ばれる神の住居に行きます。


アートマンAtman、それはヒンズー教の永遠の魂soulまたは自己Self<--リンク

『ヒンドゥー教徒は、魂の存在を信じます。
魂は、永遠で、目に見えず、不滅で、不変であり、心と感覚を超えて存在します。
ヒンドゥー教徒はそれをアートマまたはアートマンと呼んでいます。
それは、内部に深くあるものの呼吸であり、起こる事すべての証人です。

これは、呼吸を意味する "an"というルート単語から派生したものです。
Atmanは呼吸するものです。
Atmanはajobhagaであり、存在の生まれていない部分(Rigveda)であり、身体や心とは異なり、身体や心とは混同しないで下さい。

ヒンドゥー教によれば、人は自己の真の性質を認識している範囲で、進化しているか自己認識している。
無知な人と自己実現した人を区別するのはこの意識です。

ヒンドゥー教の魂は、アブラハムの宗教の魂と同じではありません。
前者は、性格や特性がないため、互いに区別できません。
したがって、彼は一般的に魂soulというよりもむしろ自己Selfと呼ばれています。

魂や自己に関する適切な知識を持つことが重要です。
・・・・・
それらはVaishvanara、覚醒状態、Taijasa、夢の状態、Prajna、深い睡眠状態、そして最後にTuriya、超越状態へと続きます。
最後のものは、自己専念の状態で、心と感覚が眠っている時、そうして知識と知性の二重性がない時に生じます。
その状態で、人は本物の自己real selfを経験する。
:夢のない眠り、そうしてそれを超えた所にある超越状態、そこまで降りていかないと本物の自己real self.は体験できない、という主張です。
さて、通常は人は夢見の状態までしか意識を保っている事はできません。
夢見は少なくとも夢を見ている意識がそこにはあります。
しかし、夢が消えたら通常はそこには意識がありません。
我々の意識はいつも「~に対する意識」でしかないからであります。
ところで、夢のない眠りでも、脳波は発生しています。
つまりそこには「何か」が存在はしているのですが、動いているものはあるのですが我々はそれを知りません。
そのような我々がそこを超えてさらにその下にある超越状態に至る、ということは、これは至難のわざなのであります。)

個々の魂individual soul と普遍的な魂universal soulは同じ現実の2つの側面です。
個々の魂がネイチャー(自然)に出会い、マヤMāyā(幻想)の網に入り込むと、彼女はそのマテリアルを周囲に織り込み、それらを体系に結びつけます。
魂のために、身体が畑になる。
身体はグナ gunaの影響を受けているので、欲望の激しい行動に巻き込まれ、カルマkarmaと誕生と死のサイクルに縛られます。
具現化された魂はまた、自然の現実または修正(tattvas)である自我(ahamkara)の影響を受ける。
自我は、分離感と個性(anava)を作り出します。

人類は非常に貴重です。
なぜなら、人間だけが、解放を達成し、ブラフマンの世界に到達するために、創造全体において特権と機会を持っているからです。
神々でさえ、そのような特権を享受することはできません。
神々が解放を望むなら、人間として生まれなければならない。
これは、ヒンドゥー教に従う魂の概念です。』
;ヒンドゥー教で解放とはモークシャに到達すること。カルマを終わらせ、輪廻の輪から離れることを意味します。)


体の中の魂の存在<--リンク

『それぞれの魂は、自然の構成要素(タッタバスtattvas)で構成されたフィールド(身体)の内側に包まれています。
そして身体は、サトヴァsattva、ラジャスrajas、タマスtamasのようなグナgunasの影響がしみ込んでいます。
これらの3つの特性は、私たちの思考と行動にとっての責任になります。

体内では、魂は証人意識のままです。
それは何も変わることはありませんが、それは心と体の不純物によって包まれています。

魂の質の反射は自我egoです。
それは、魂のアイデンティティ(個別性)を仮定し、その主な欲求に応じて行動します。
これは、体に存在する支配的なグナgunaによって引き起こされます。

それらの影響力の下で、自我egoあるいは存在(ジバjiva)は世界の対象物に結び付けられ、誘惑と嫌悪を経験する。
自我egoは現実ではなく自己 self を反映しており、欲望と愛着に従って行動するため、欲望の激しい行動に耽り、その行動の影響を受けます。

これはカルマkarmaです。
存在がカルマkarmaを連続的に蓄積するにつれて、彼らは出生のサイクルに縛られ、限りある生存という生命形体を繰り返します。』


ヒンドゥー教と転生の信念<--リンク

『ヒンドゥー教によれば、魂は完璧になり、それと再会するまで、地球上で何度も生まれ変わります。
この過程で、魂は多くの体に入り、多くの形態をとり、多くの出生と死を経る。
この概念はBhagavad gitaの以下の詩で簡単に説明されています:
「人が疲れた服を捨てて新しい服を着るのと同じように、魂は疲れた身体を捨て、新しいものを身に着ける。 (2.22)」
ヒンドゥー教によると、存在は多くの人生を過ごし、完璧に到達する前に多くの経験を経て、神と一つになる必要があります。

ヒンドゥー教の創造論は、個々の魂が未分化のものから分離されると創造が始まることを示唆している。
それは、物質の生命と意識の進化が段階的に進行するにつれて続きます。
このプロセスの間にいくつかの魂は、彼らには隠されたまま、そして縛られたままなっている問題、あるいはプラクリティPrakritiを変容させる事を通じて、その源である神に帰ることができます。<--リンク
(注:これがヒンドゥー教徒の望んでいる姿
残りの魂は、その存在を継続し、最終的には彼(源である神)に帰ります。
しかしそれは変容によってではなく、各時間サイクルの終わりに起こる大きな破壊を通してなされます。
(注:これは望ましくない姿
したがって、創造の大きなサイクルは、何百万年もの間にわたって伸びており、論理的な終わりに達しています。
(注:この様に考えるのがヒンドゥー教の宇宙観:世界観になります。)

創造的なプロセスが始まると、個々の魂が引き出され、ジバjiva(生き物)と呼ばれる偽の性格に結びつく。
このジバjivaは、人間だけでなくすべての生きものを表しています。
具体的には、具体化された自己embodied selfまたは要素的自己elemental selfとしても知られています。
それは内側の微妙な体と外側の肉体を持っています。

魂soulは微妙な体の中に閉じ込められています。
微妙な体(linga sariraリンガ サリラ:スクスマ サリラの別の呼び名)は、微妙な感覚、微妙な心、息、自我と知性で構成されています。

肉体(総体:全体 gross body)は全体的な心gross mind(動物の心)、基本的な身体とその器官から構成されています。

それぞれのジバjiva(存在)は、知覚、知識、思い出、欲望、愛着、そして多様性と分離という概念から生まれる自我感覚(anava)または自己意識self-senseを持っています。
自我感覚のために、ジバjivaは真のアイデンティティについて無知なままで、暑さや寒さ、痛みや快感などの対立するものに対して、妄想(moha)、二重性(dvanda)、引力(raga)、嫌悪(dvesa)を経験する。

付着物(パッサpasa)と妄想の結果、ジバjivaはあたかも「自分以外の創造物と自分は違うものである」という様に自己利益的に行動します。
そうしてエゴイズム、欲求不満な行動、利己主義のために、彼らは驚異的な世界で絶望的につかまれ、苦しみにたどり着きます。

技術的には、身体は刑務所であり、物理的な自己physical selfの罪のために囚人として魂がそこに保持されています。
死の時、肉体とその心は地球の要素に戻ります。
しかし微妙な体の一部は生き残り、魂を次世代に引き継ぐ。

彼らの過去の行為の性質と、彼らが成長させた微妙な身体の程度に応じて、ジバjivaは祖先の天国(pitr lok)に上昇するか、地獄に降下する。

内在する精神を中心に隠しながら、微妙な存在は、その良い、あるいは悪い行為の成果が完全に尽きるまで、これらの世界にとどまります。
(カルマが尽きるまでその世界にいる。)
カルマが尽き、新しいレッスンを学んだ後、それは再び生まれ変わり、その過程を繰り返すために地球に戻ります。

こうして、ジバJiva(生きているもの)は寿命のある生き物という世界で無数の出生と死を経る。
彼らは欲望と愛着のために死の定めのある世界と自然の法則に縛られたままです。
死は地上の苦しみから一時的な救済を与えますが、悲しみと苦しみの深い深層に落ちる危険にさらします。
そしてそれぞれの(次の)出生は新しい挑戦をもたらし、彼らを善と悪の両方の無限の可能性と機会に開放します。
これは、解放を達成し、ブラフマンの不滅の世界に入り、彼らが最高自己Supreme Selfとの統一の状態で永遠に解放されたままになるまで続きます。
(注:これがヒンドゥー教で言うところの解脱)

仏教を創設したブッダbuddhaは、神の存在について沈黙していて、永遠の魂が存在しないことを提案した。
それにもかかわらず、仏教を設立したブッダbuddhaでさえ、生まれ変わりを否定していませんでした。

彼は、永遠の不滅の魂のようなものはなかったと説いた。
誕生から次の誕生で生まれ変わったのは微妙な体だけであり、一時的な構造物の形で存在する痕跡、または常に変化する個々の人格または性格の残余、そういうものがある出生から別の出生に移ったのであり、八正道による正しい生活と、法Dharmaの実践によって、それらのすべての変化の終わりが来ます。
・・・・・
聖句は、原子の大きさを持つそれぞれの魂が、受胎時に母親の子宮の中の新しい体に入って、その転生を開始する方法を説明します。
提案された復帰旅行は、月に位置する先祖の天からの雨滴とともに、個々の魂が地球に落ちることから始まります。
:亡くなった人の魂はお月様の食べ物、、、という話、聞かれた事はありませんか?
どうやら元ネタはインドの紀元前の話の様ですね。)
彼らが雨とともに地上に落ちると、それぞれの魂は雨水に含まれる形で大地に沈着します。
そこで彼らは(根から)吸収される水を通して植物や樹木に入り、樹液の一部になります。

これらの植物や樹木が人間や動物によって消費されると(食べられると)、それらの魂はそれぞれの自分の体に入る。
動物の体に入る魂は動物としての誕生を取るか、人間によって奪われて(食べられて)自分のカルマに従って、人間としての誕生をとるまで待つかのどちらかです。

前述の過程を通じて魂が男性の体に入ると、その人が父親になることが運命づけられていれば、それは彼の精液(リタスretas)の一部となる。
魂は彼女が母親になることが運命なら、そこから性交渉を通じて女性の体に入り、その転生を待つ受精卵を抱く子宮に落ち着く。
(:上記の様な説明では、当該の性交渉によって受精卵が誕生し、その受精卵が子宮に確実に着床する事が前もってわかっていないと、男性の精液の一部として魂が女性に受け渡される、という事は出来ないという事になります。
つまりこの部分は「当該の性交渉の時点で魂は精液と一緒に女性に入るのだが、その後に起こる受精から着床のプロセスの成否はすでに性交渉の時点で決定されている」という「強い運命論」になっていると解釈されます。
そして、そのような運命論というのは、基本的には「各自の主体性を認める、各自の努力を認めるカルマ論」とは相いれないものであります。)<--リンク

ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シークヒンドゥーに共通する生まれ変わりという概念は、アブラハムの宗教を習う人にとっては馴染みのないものです。
生まれ変わりは西側世界ではほとんどが誤解され、あやまって判断されています。
それは部分的には無知のために、あるいは一部は迷った道に沿った宗教的信仰を盲目的に追求する人達、あるいは独断的な宗教に従う人達はある種の固有の精神的ブロックを持つのですが、そしてそれは自然な事ではありますが、それが誤解の原因になっています。

それは、過去に多くの論争をもたらしました。
なぜなら、それは一回のみの誕生、1つの神、1つの天国、そして審判の日という西洋の概念に直接挑戦するからです。
・・・・・
ヒンドゥー教は、人類がただ一度の人生でその不完全さを克服し、解放された魂として創造者のもとに戻れるという前提を受け入れていません。
それは魂が無数の出生および死亡を経験した後という、格別な状況でのみ起こる可能性があります。

創造は神によって、自身の喜びのためにのみ制定された神の劇です。
彼は彼がプロデュースする世界で楽しくさせるものであるだけでなく、それ自体を楽しんでいるものです。
(注:行為者であり、その結果を受け取る者でもある。)
彼は拘束力のある人、拘束されている人、苦しんでいる人、自分自身が苦しんでいるのを見ている人、同時にそのような流転と騒ぎの影響を受けない人です。

したがって、人生はその時間の終わりまで、定められた道に沿って続けなければなりません。
この期間中に各人(Jiva)は、道を見つけて不滅の世界に入るというメリットを得るまで、試行錯誤しながら奮闘し、努力しなければなりません。
各人は完璧に達する前に、無数の出生と死のサイクルを通して徐々に進化しなければなりません。

不活性で控えめなものから遅いものまで、
身体の意識、そしてそこからダイナミックで微妙な意識に至るまで、
完全な無知から部分的な意識に至るまで、そしてそこからインテリジェントな自己認識に至るまで、
付属物から感覚を持つものへ、世界的な喜びから分離へ、そしてそこから完全な自由へ、
妄想から分別まで、そしてそこから真実と現実まで、
暗闇から夜明けまで、そしてそこから光まで、
限りある存在から不死まで、これは創造における「生命は前に進む」という動きです。

これらのすべては、一回の人生で、または数百年程度の生まれ変わりでは起こることはありません。
その魂は、その不純物を落とす為に知識と禁欲行為の火の中で焼かれなければならず、そうすればそれは完全な光輝をもって再び輝きます。
(注:これがヒンドゥー教のある宗派の解脱に到達するための手段、方法になります。)』
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

・一応のまとめ
バパはジャワの人でありました。
そうして、やはりジャワの文化の中にはイスラムが到達する前に栄えていたヒンドゥー教(や仏教)の影響が色濃くその根底に存在している様です。

そうでありますから、バパはジワ(Jiwa)とスクマ(Sukma)の事を語り、5人兄弟の事、生まれ変わり(リンカネーション)やカルマ(Karma)の事、クリシュナやビマ(Bima)やワヤン(Wayang)の事を当然の事のようにジャワ人として語るのでありました。<--リンク

それに加えてジャワ・イスラムというジャワで独自の発展をした『ワリ(Wali)達のイスラム』にも帰属しています。<--リンク
そうであればまたイスラムの用語でも語るのです。
いわく、ロホ(Roh)やナフス(Nafsu)そうして唯一神(アッラー)と信仰告白、アダムとムハンマドとジン、審判と天国と地獄であります。

そういうものが混然一体となっているのがバパのトークでありますから、それを解釈する、理解する、納得するということは、それほどたやすい事ではないのです。

追記1
ヒンドゥー教的、仏教的なものもジャワの文化に同化されている為に、特に何の断りもなくジワ(Jiwa)とスクマ(Sukma)というコトバが普通にトークで使われています。
それらのコトバはジャワの文化圏に暮らしている人たちにとっては改めて説明する必要がないのです。

しかしながら、異なった文化圏の人たちには、それゆえにそれらのコトバを理解することが難しくなります。

他方でバパはよく「イスラムでは・・・」というコメント付きでイスラムで使われているコトバを引用します。
その場合は少なくとも我々はコメントがない場合の様に混乱することはありません。

追記2
バパはヒンドゥー教的、仏教的な事柄をまとめて「仏教では・・・」と言われます。
そうして、「ヒンドゥー教では・・・」というコメントは見た事がありません。
つまりバパの中ではヒンドゥー教も仏教もそんなに違いはなく、「仏教」というカテゴリーに分類されている様です。

ですからバパのあるトークについて「それは仏教ではなくヒンドゥー教の事では?」と疑問を投げかけられる事になり、それに対して二代目が「バパはイスラム教徒でした。(だから仏教の事は専門外です)」と答える事になったものと思われます。

PS
上記本文中にある様に仏教では基本的にジワ(Jiwa,Jiva)というような「実体としての魂の存在」を前提としていません。

しかしながら、輪廻転生は認めているのです。

そうでありますので、「ジワでないとしたら、いったい何が転生するのかね?」という質問に対して仏教は難解な答えをする事になりました。


ジワJiwaとスクマSukmaの物語(その1・バパと二代目の認識)」にはこちらから入れます。<--リンク

PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク

PS
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バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念/・5 人間の魂(人間力)-2

2017-08-16 | 日記
P115
結婚した男性の性的な問題を話し合った後、バパは未婚の男性の性的な問題について話し合う。


「今度はこのテーマについて始めましょう。

彼らが結婚する前に多くの若い男性は、しばしば女性と性的関係を持ちたいと思っていますし、さらにそれが習慣的であるかのように繰り返して、それが彼らが情熱を和らげることができる無害な娯楽だと考えている人もいます。

あるいは他の人たちは、合法的な妻と結婚する前に彼らの欲望と情熱を満足させるために、必要に応じたものとしてそのような行動を見なします。」


「しかし実際には、そのような行動は、特に結婚したときに人間の種のための通路になることを予定されている若い男性にとって、非常に危険です。(注1)

この種の楽しみは、より低い魂によって誘発される為に普通の楽しみとは異なり、容易に諦めることができないもので、その結果際限のない内なる苦しみを引き起こす事になります。」


「こうして彼は自分の誤りの結果を見ることになります。

彼が内部状態が既に劣化している女性との性交が好きであるという事実は、彼が所有するほぼすべてのものを破壊するので、彼は変形され、元のものとは異なったものになるでありましょう。」
P116
「それにもかかわらず、そのような場合でさえ、人間は自分の存在の目的を完全に忘れることはできません。

つまり、彼は若い女性が生涯のパートナーになる必要性を感じ続け、結局のところ彼の後を追うか、彼の人生を続ける子供をそのような結婚から得ることを望みます。

実際に、それは良い家族から来る魅力的で美貌の女性を選ぶ際に男性に(必要なのは)いくつかの賢明な体験をすることです。」

「結婚前に間違って行動した若い男は、そのような幸運を経験する可能性はほとんどありません。

彼の誤りは、『彼との性的関係の結果として妻の内面の状態が乱され、最終的に彼女は彼女の夫と同じ運命にめぐり会う事になる』というような種類のものです。」(注2)

「彼らの『人生がスムーズに流れていって欲しい』という全ての望みはこうして曇らされます。

欲望から行動する人は、恵みと幸福の条件であるかもしれないものを、本当に耐え難いものに変えてしまいます。」

「明らかに、夫から流出した低い堕落した魂(低い堕落した生命力)は、以前は純粋で無傷だった妻の内部状態を腐敗させ汚染してしまうほどのひどい影響を与えます。」

P117
「彼が子供をもうけた時には、この子供も低次の魂によって支配されなければならず、その子の性格は父親がまだ若くて純粋な時に父親が持っていた性格とは非常に異なるものになるでしょう。」(注3)

「この汚染の結果子供は、特に人間の霊的な性質を知るようになるにつれ、結局のところは人生で多くの苦しみを経験することになるでしょう。」
・・・・・
ここまで、英文はこちらを参照願います。<--リンク

(注1)人間の種( human seed:biji manusia)
バパが提唱されている「男性優位の子作り論」でキーポイントになるのが「人間の種子」です。
以下、詳細につきましてはこちらの記事を参照願います。<--リンク

(注2)ここではバパは「人の体が持っている働き(これも人間力の一つの表れではありますが)故に、性的な接触(性的合一)によって男性と女性の内的な状況が(あるいは内部感覚が)混じり合う事」を述べています。
そうして、ここで論じられている夫婦はまだ自分の内部に存在する生命力を認識する事も分離する事も出来ていない、「霊的にはまだ未熟なレベルにある夫婦」と言う事になります。
「そのような夫婦が進歩しうる可能性があるとしたら、そうして人生を改善しうる可能性があるとしたら、それがラティハンである」と言うのがバパの主張であります。

(注3)「このようにして親の行動の間違いの結果が子供に引き継がれることになり、そうやって世代を重ねるに従って人類の霊的なレベルが疲弊し堕落した」というのがバパのカルマ論となります。<--リンク

PS
人間の種子( human seed:biji manusia)について
スシラ ブディ ダルマ 13章 ダンダングラ 14節~19節
以下に展開される内容は「ラティハンによらずに、本来はこのようにして人間と言うものはジャスマニからロハ二に至るのだ」というお話になります。

同上章 16節から
And if within the marriage they conceive a child, the force within the human seed coming through the man’s self will awaken his bodily feelings.
そして結婚の中で彼らが子供を宿すならば、男の自我を通って訪れる「人間の種子の中の力」が男の身体感覚を目覚めさせるでしょう。

さて、この話は上記の文がキーポイントになります。
二人のジャスマニレベルにある男女が結婚して子作りにはげみ、そうしてめでたく子供を授かった場合の事が書かれています。
そうして、そのような体験が男性にとっては「それが一種の内的な覚醒体験となり、それを契機として自分の内部にある諸力を見分けること、さらに進んでは支配する事ができるようになる」とされています。
そうして次には、「妻との性的な合一という行為の中にある秘密(結婚の秘密)にも気がつくようになる」とされます。<--リンク
こうして彼は妻と二人そろってジャスマニからロハ二へ向かう旅に出ることができるのであります。

以上の話の中ではラティハンの事については一言も触れられておりません。
そうでありますから、バパの認識では「本来はこのようにすでに道は用意されていたのだ」という事になります。
しかしながら、残念な事に人類はその道から外れてしまった、と。
その為に、その対応策としてラティハンが出現したと、そういうストーリーになるのでありました。
(そうして「ラティハンが出現する前にすでに存在していたこの道は、実はムハンマドによってもたらされていた道である」というのがバパの主張なのであります。London 1959/8/11)

ちなみに男性を内的覚醒に導くこの「人間の種子の中の力」というのがどのような力なのか、生命力なのかはどこにも言及がない様であります。

追記
(London 1959/8/11 by library、 8/1 by定訳集)トークより引用
『・・・・・
そして、ムハンマドと彼の妻との性的合一が真実になって神に向かって礼拝する行為になったので、ムハンマドが神を礼拝することがより容易になりました。

男性と女性の性的合一は、真の礼拝行為であると神によって定められました。

これは、イスラムの宗教に従って、モスクで行われた結婚式で示されています。
ここで、男女は真の夫と妻になることを宣言して確認するために、「アッラーフ(神)の他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である。」という信仰告白を唱和する必要があります。
この行為によって、夫婦は彼らの存在を神に誓うこと、そして彼らは神の目撃者であることを認めています。

これはそれがどのように実践されたかです。
ムハンマドの追随者や他の多くの人間が、夫と妻の性的合一を純粋にし、礼拝の行為をしました。
それで彼らは真実、神を礼拝することができました。

しかし、バパは再び、人間は人間のままであると言います。
とても素晴らしく幸福な礼拝行為にもかかわらず、彼らは再び、彼らの楽しみと喜びの中で、彼らがこの世界の環境の影響力と圧力にさらされていること、そして低次の諸力の侵入、それは人間が純粋な目標を達成するのを妨げる傾向があると言う事を忘れてしまいました。
だから、ほとんどの人にとって、男女の合一は、礼拝の行為ではなく、再び彼らの情熱の喜びに過ぎなくなりました。

現実には、性的合一の真の性質は要約(繰り返し)というものであり、それを通して人間は「存在する前と後の両方で自分の状態を認識して知ることができなければならない」というものです。
あなた方は本当にそのように認識しなければなりません。
そうでなければあなたは単に車が通り過ぎた道のようで、その車がどこから来たのか、どこに行ったのか知ることがありません。
それは本当に失望する事であり、本当に全能の神を悲しませています。
なぜ人間はこれを理解できないのですか?

それで兄弟姉妹の皆さん、あなたの子供がどこから来たのか、あなたの子供があなたを通過しても何が起きるのか、皆さんは知らないのです。
子供はどこから来たのですか、そしてどこに行くのですか?

しかしあなたがこれを意識すると、「私が存在する前に私はどのようになったのか?」を意識していることになるでしょう。
そして、「後で(地上を、この世界を)離れるときはどうなるのか?」がわかります。
(注:つまり、「死後の自分の状況を前もって知る事ができる」という主張です。)

以上のように、これらはアブラハムからムハンマドまでの預言者たちが受けた戒めがどれほど優れているかという事です。
しかし、人間は人間のままであり、世界の雰囲気にとても容易に左右されます。
何が起こっているのかを意識することなく、時間が経つにつれて、彼らは自分たちの欲望、意志、思考心、そして心の力に従うことをますます重要にしていきます。
・・・・・』

ムハンマドに与えられた天啓もこうして本来の意味を失っていきました。
そうして時代は現代に至り、ついにラティハンの登場を迎えたのであります。
・・・というのがバパの主張する「ラティハン登場にいたるまでの歴史的な経緯」になります。

但しそのような説明は人類すべてに受け入れられるものではなく、結果的にはあるグループは受け入れた様ですが、あるグループはその主張を拒絶した模様です。
こうして人類のあるグループはラティハンを受けることができ、あるグループはラティハンを受けることが出来なくなりました。

(注:上記のようなイスラムの到来による恩恵についての理解の仕方はかなりバパの独自性が出ている様に思われます。
そうして、そのような理解はイスラムの中では主流派、正統派ではない様です。
ただしイスラム神秘主義のなかに、たとえばイブン・アラビーの著作の中に似た考え方を見つけることは可能の様です。<--リンク)


追記
上記(London 1959/8/11)トークでは、イスラム教徒が結婚式で信仰告白をすれば、自動的にその夫婦の子作りの行為が礼拝の行為になる、と誤解しそうであります。
しかしながら、事実はそうではなく、結婚式での夫婦の唱和は単に「その夫婦がスタートラインに立った」と言う事を表しているにすぎない様です。
そうであればこそ、単に儀礼としての信仰告白のみでは夫婦の子作りの行為は礼拝にまで高まる事はなかったのであります。
(信仰告白の宣誓という行為自体に何か不思議な霊的な力があって、それが人を浄化する、、、という事はないということになります。)

そうしてまたこのことは以下のトークからも推定できそうです。
(6月13日1963 バパ)より<--リンク
実際、男女の合一は、兄弟姉妹の皆さん、本当に人間と神の間の礼拝の行為です。
しかしそれは、誰でもそうであるのではなく、神の恵みを受けた人間にのみ適用されます。
それ以外の人では礼拝にはならず、喜びの行為になるだけです。
それは彼らの欲望、彼らの植物力の欲求、そして彼らの物質力の欲求を満足させる方法です。
それは一般的に、つまりは男と女の合一は礼拝の行為ではないということです。
・・・・・

PS
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バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念・5 人間の魂(人間力)-1/

2017-08-02 | 日記
P112
・・・・・
人間の魂(roh-djasmani)の概念に目を向けると、バパは人間の物理的な身体を参照しているということがわかります。

これまでの議論では、野菜や動物の魂は、それらを消費すること(食べる事)によって人間の内的生命(or内部感覚)に影響を与えることが分かりました。

人間が人の肉体を食べることはめったにないので、物理的な身体が人間に影響を与えることがどうしてできるのかが問題になります。


バパによると、人間の魂(ロホ・ジャスマニ)の影響は、男と女の性的関係(性交)から生じてきます。

その影響は、主に彼らの関係の正当性に左右されます。

この点で彼の教えを明確にするために、彼は性的関係の様々な結果(否定的でも肯定的でも)を詳述します。

すなわちそれは結婚したカップルと未婚の人との間の影響、そして彼ら自身の魂や子供、そして彼らが住んでいる社会へのそれぞれの影響です。

以下に続く内容は、彼のロホ・ジャスマニの概念から選択された引用です。

人間の身体的な魂が相互作用する方法は、食べたり食べられたりすることの結果ではなく、霊的または性的な結合の結果である。」(注1

P113
「これらの力が人間自身に及ぼす影響は、実際には最も強力ですが、いずれにしても、それらは人生の必需品であり、脇に置くことはできません。」

「身体的な魂の影響によって人の完全な人生はますます完全になり、自分と同じような他の存在を生み出すことができるようになります。」

「性交の時には、男性の本質と女性の本質という2つの身体的な魂の間に相互作用があります。

その結果として、2人のうちのどちらが強く、どちらが弱いかが明らかになります。」

「両者が同じような純度(ジャスマニ レベル)であれば、性交を支配する魂(人間力)は男性起源のものです。」(注2

「夫に霊的な事柄の理解がなく、妻が妊娠している、という例を取ることもできます。

時折、彼は他の女性と性的関係を持つのが好きという点で間違って行動するかもしれません。

その理由は、妊娠している女性は通常、常に(性的な)満足感をもとめる夫の欲望に従うということに強い嫌悪感を感じるからです。

P114
それゆえ、情熱を制御することができないかもしれない彼女の夫は、他の女性と性的関係を持つように強制されたと感じてしまいます。」

「最終的に彼は別の女性と性的関係を持つことによって自分の内なる内容の悪化(内部感覚の悪化)を引き起こしてしまう為に、後悔することになります。

もし彼が知っていれば、彼の妻は自分のためにのみ彼を拒否したのではなかったのです!

まだ子宮内にいる子供の意志が、自分がまだ子宮内にいる間は幸福の状態を繁栄し、楽しむことができるように、実際に両親に忍耐力を与え、状況を受け入れるように警告していたのでした。」

「そのあとで彼が妊娠している妻と性的関係を持つことを望むなら、さらに状況は深刻です。

このような関係は、妻と子供に、彼自身と同じような苦しみを引き起こす可能性があり、すべてこのことに関与していない彼の妻と子供は、彼が犯した誤りによって非常に深刻な影響を受けることになります。」

「と同時にそのような出来事が決して妻によって望まれることはないということは、記憶されなければなりません。

この種の行為は、彼の妻とその子供に害をおよぼすので、優れた性格の後取りを得たいというすべての希望が消えていることは明らかな事です。」
・・・・・
ここまで、英文はこちらを参照願います。<--リンク

注1 人間の身体的な魂(ロホ ジャスマニ)
本文では「人間の身体的な魂(human physical soul)」、と表現されていますが、魂が物理的な形状を持つ、と言う意味ではありません。

そうして通常我々がとらえているSoulの概念ではSoulはその人の人格の要素であり、個性であり、アイデンティティーであり、我々が我々の人生の主人公であると認識しているものです。

しかしここで述べられているHuman Soul(人間力)というものはそのような人格的な要素ではなく、バパによれば人の人体に固有のある種の霊的な生命力の事であります。

しかしながらそのような生命力は人の中で本来のその人のSoul(Jiwa)の代わりに主人公の座に居座ってしまう、という事が出来てしまう力でもあり、その意味でSoulといってもあながち間違いではないのです。

そうしてこの「本来の我々のJiwa(魂)を押しのけて代わりにその人の主人公の座に居座りその人をあやつる能力」というのは、物質力から始まり人間力までに至る、どの段階の生命力であっても可能である、というのがバパの世界観、バパの主張する所です。


このあたりの状況の説明の仕方はバパに固有なもので、そうしてそこにはスーフィズムの影響があるように見受けられます。

井筒俊彦著「イスラーム哲学の原像」によれば、「・・・ただし、スーフィー自身はこの意識の5つの層、5つの段階、段層的な領域を、5つの別々に独立して存在する魂であるかのごとくに語ります。

つまり、言語的表現としては、5つの違った魂があることになります。」(p55)

ここで井筒さんは「我々が通常使っている心理学的な表現では「意識のレベルの事」で、しかもそれが「階層的」になっていてなおかつ通常は意識下にあって意識的には認識できない意識構造、それをとらえて「異なる魂がそこに存在る」かのごとくにスーフィーは語る」と言っているのであります。

そうしてまさにバパが主張している、「物質力から人間力にいたる4つの魂(Soul)はそのような意味合いで語られている」と理解する事も可能なのです。

それに加えてバパは「これらの魂が人の内部では力をもつものであり、思考、欲望、意思、感情、意識などの心の働きはこれらの魂によってコントロール、あるいは支配されている」と主張します。

その為に「この4つの魂のなかの一つが「主人公の座」に収まっている時には、その人の考え方、感じ方、欲望、動機、衝動、意識などはその魂のレベルに相応した広がりしか持ち得ない」と言われます。

従ってこの事が「どれほどその本人が意識的に内省してみても自分自身が現在どの魂によって支配されているのか、認識する事はできない」というバパの結論につながるのであります。<--リンク

そのような状況にある時に人間は「これはあまり好ましい事ではない。」と理性では分かっていても実際には衝動に、あるいは欲望に負けて「好ましくない行動をしてしまう」という事になるとバパは説明します。


さてそうではありますが、通常は我々は「人間と言うものはそうしたものだ」と考えているのであります。

そういう訳で、「ジャスマニ レベルが「人間段階」であるならば、それでいいのでは?」という質問が出て来そうです。

それに対してバパは「いやいや、ジャスマニを超えて本来の人間の段階であるロハ二まで行くのがラティハンの道ですよ」と言うのであります。

そのレベルになりますれば、「主人公の座」にはその人本来の魂(Jiwa)が座り、それ以外の4つの魂は主人の言う事をよく聞き、その言いつけに従うのです。

つまり「衝動的に、あるいは欲望に負けて人間らしからぬ行動をとる」という事は決して起こらないのであります。

注2 ジャスマニ レベル
「人間の中には常に4つのナフスが存在している」、というのがバパのそうしてジャワでの基本的な人間観になります。

それに加えて、バパの主張する所によれば「物質力から人間力に至る4つの諸力が内部感覚の中を流れることにより4つのナフスが発生する(7,20, 1957 - Bapak)(11,26, 1972 - Bapak)」のであります。<--リンク

従いまして、どのような人であれ人体を所有している状況では基本的に4つの諸力を所有し、その結果として4つのナフスを所有することになっています。

さて、その4つの諸力と並行して「我々本来の魂(Jiwa)が存在している」というのがバパの主張です。

そうして理想的には「この本来の我々のJiwa」の下で4つの諸力が働き、4つのナフスを使いこなすのが「人のあるべき姿」となります。

そのような人はすでにジャスマニ レベルをこえてロハ二 レベルへの道を歩いていると言えましょう。


さて、ジャスマニ レベルの説明です。

主にその人の内部で働いている力がジャスマニである、その人の身体を満たしている主要な力が物質力ではなく、植物力でもなく動物力でもなく人間力である人の事になります。

つまりその人の主人公の座に座っているのが人間力(ロホ ジャスマニ)である人という事です。

そうして、「そのような人はまだ4つの諸力を使いこなす、という段階にまでは到達していませんが、その段階へのスタートラインには立てている」という事になります。

PS
バパによれば、「物質力が主人公の座についている時は、その人はナフス アマラ(nafsu amarah)の影響を受ける」と言います。

ナフス アマラ(nafsu amarah)の内容詳細はこちらを参照願います。<--リンク


さてジャワにはもともと「4人兄弟の教え」があります。
(Cipta Tunggal 第16節を参照ねがいます。<--リンク)
(上記リンクが不調の場合はこちらからどうぞ。<--リンク)

「全ての人は生まれてくる時に4人の目には見えない霊的な兄弟に付き添われて生まれてくる」というものです。

そうしてどうやらバパはこの言い伝えと4つの魂、4つの諸力(物質力、植物力、動物力、人間力)を関連させて捉えておられる様です。

そういう訳で、我々の内部で5つの魂が順次入れ替わりながら主人公の座についても、それは「一卵性の5人兄弟(4人兄弟+本人)」でありますから、外観(?)からはほとんど見分けがつかないのであります。<--リンク

そうして(8,7,1959 OSL)トークにも「一卵性の5人兄弟(4人兄弟+本人)」の記述があります。

(8,7,1959 OSL)バパ トークより
「そしてスクマ(Sukma)は、この粗い肉体の精妙体です。
実際には、精妙体は一つだけでなく五つあります。
ですから(ジャワでは)5人の兄弟について話すのです。
第一は黒、第二は赤、第三は黄、第四は白、第五は褐色です。」

以下は「4人兄弟の教え」についての、もう一つの資料です。ご参考までに。
「4人兄弟の教え」<--リンク

PS
上記本文より

「性交の時には、男性の本質と女性の本質という2つの身体的な魂の間に相互作用があります。

その結果として、2人のうちのどちらが強く、どちらが弱いかが明らかになります。」

「両者が同じような純度(ジャスマニ レベル)であれば、性交を支配する魂(人間力)は男性起源のものです。」(注2


この部分の記述は子作りの行為の時に働く人間力の作用の説明になっています。

そして夫婦が二人ともジャスマニ レベルであれば、「性交の結果はその二人の間に確実なきずなを、内部のつながり、あるいは魂のつながりを作り出し、もはや二人は一つの魂を共有する、とまで言われる状況になる」とされています。

その際に妻がその両親から受け継いだ物質力から人間力に至るひとそろいの諸力のパッケージは両親に戻り、かわりに夫からの力のパッケージを受け取ることになる、というのがバパの説明です。(スシラ ブディ ダルマより)

これは「基本的に生命力の流れる方向が男性から女性である、という事実によっている」というようにバパは言います。

このことは「性交により子供がさずかる場合」にも同様であり、つまりは「子供の魂(Jiwa)は夫に受けられてから妻に伝えられる」とスシラ ブディ ダルマの中では説明されています。
(追記:子供の魂がいつ、どこに入るのか、、、につきましてはトークには別の状況の記述もありますので、ページを改めてレビューしたいと思います。)<--リンク

この件に関して、参考までにネット上での情報です。
子供の魂(Jiwa)は夫に受けられてから妻に伝えられる」<--リンク


さて、夫婦が両方ともにジャスマニ レベルである、ということは現代ではとても稀有な事になっていると思われます。

「両者が共にジャスマ二 レベルである」という条件を残念ながら満たせない場合は、上記のような状況には至らず、夫婦は単に「喜びの行為で満足する」という状況になる模様です。

その場合に人間力の作用により基本的に起こる事は「相対的に上位のレベルにある方の内的な状況は引き下げられ、かわりに下位にある方が引き上げられる」という事になる様です。

そうして、「一つの魂を共有する」という所までのきずな、一体感はそこでは生まれない事になります。


さて、「男性から女性に生命力が流れる、というのは、男尊女卑の考え方ではないのか?」という疑問が出てきます。

1950年代でのジャワでの常識は多分にそのような傾向を持っていた事は事実でありましょう。(ジャワの家父長制度)

そういうわけで、上記の説明が「そのような時代の社会の伝統や常識に影響されたものである」と理解するのか、あるいは「それが生命の真実である」と理解するのかは読者の判断におまかせしたいと思います。

追記(2018年9月)
バパの”人間の種( human seed:biji manusia)と誕生論”によれば、どうやらジワが子供に宿る状況はバパの主張の様な「男性優位論」は成立していない様であります。<--リンク

そうなりますと、クジワアン(霊的な領域)の事については男女は平等である、ととらえておく事が現状では妥当の様に思われます。

さてその結果はといいますと、バパが初期に主張していた様な「女性の場合はクジワアン(霊的な領域)の進歩についてはパートナーである男性にその責任がある」というような主張は修正される必要がある、という事になります。

つまり「人間がロハ二レベルに到達し、天国に行くとしたならば、その責任は男女をとわず、その人個人に属する」という事であります。

PS
多少ともこう言う世界の本などを読んで来たものにとって、「子作りの行為」、あるいは「子供そのもの」に言及する「霊的な教え」というのはかなりめずらしい部類のものに感じられます。
:こう言う世界:光明とか悟りとか、魂の救済とか神的合一とか言う世界)

しいていうならば「性行為」についての記述、そうしてそれが「超越しているもの、超越している状況とのつながりの窓になる」という霊的な教えが他にはない、と言う訳ではありません。

しかしながらその論点が「よい子供を得ること、ひいてはそれが社会の為になる」などど主張している霊的書物は今までは知りませんでした。

そうしてそのめずらしい主張を展開しているのがスシラ ブディ ダルマの人間力の章なのであります。


ところでその背景を見てみますと、ジャワの伝統的な教え、考え方の中に同じような主張を見つけることができます。

たとえば「それはGumelaring Jagad(宇宙の重層性)の翻訳です」の第44節を参照してみてください。<--リンク
(上記リンクが不調の場合はこちらからどうぞ。<--リンク)

そこには「いかにして良い子供を得たらよいか」という方法が書いてあります。


あるいは「ケジャウエンKejawen、ジャワの伝統的な精神的な教え」を参照してみてください。<--リンク
(上記リンクが不調の場合はこちらからどうぞ。<--リンク)

そこでは
「自然界では、ジャワ人は自然主義的伝統と儀式ではっきりと示されているように、環境保護主義者で自然保護者です。
調和のとれた生活は、社会の人々の調和のとれた関係:人間と宇宙の関係、そして個人と神の調和のとれた関係です。」
と言うように主張しています。

こうしてジャワにおいては「人間社会は調和して運営されなくてはならない」、そうしてその基礎となるのは「よい性格の持ち主であるよい人間の存在である」というように伝統的に考えられているのであります。


PS
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