ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

人間に「絶対」は許されない。

2012-04-27 | 日記
人間に「絶対」ということは許されていない。

「絶対に正しい」とか「絶対に間違っている」とかは、我々に知るすべがない。


「これが正しい」と言い切ることは、「それは間違っている」ということと同じこと。

どうしても他人への干渉やら強制やらを生んでしまう。

人間の使う言葉や思考論理のこれが限界。

「智に働けば角が立つ」という訳である。

「アメリカの正義」やらスウェーデンの「正しさ」やらを世界に押し付ける限界も
そこにある。 


アルキメデスが「我に支点を与えよ。さすれば地球をも動かして見せよう。」と
言ったとか。

人間に「絶対」を与えるとどうしたって「ろくでもない事」しかしないのはこのとおり。

それでなくても「私は絶対に正しい。」と思い込んでいる連中がどれだけ世界を
騒がしいものにしているかは、毎日のニュースを見れば明らかなこと。

だから人間には「絶対」は与えられない。


さて、ここまでの話は「絶対に正しい」ぞ。
     ・
     ・
     ・
あれ、どこかで間違えたかな?

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トークの読み方

2012-04-20 | 日記
バパが話したトークは1700話あまりになるという。

これだけ多くのトークを行ったバパが言葉の限界に気がついていたかどうか。

バパいわく、「あなた方はバパのトークを思考心でとらえます。
その結果はあなた方の内部にあらたな汚れを作るだけになります。」。

「バパが「次の世はこの世とは全く違ったものです。」というとあなた方はさっそく「それではいったいどんなものだろう?」と想像しはじめます。
その結果はあなた方の内部に暗闇を作るだけです。」といわれている。


バパは明らかにトークの必要性と限界を了解されていた。

「あなた方の心は、そこらじゅうをうろつきまわる猿のようなものです。
その心を静めるためにバパはトークをします。」という訳である。

祖師方が「赤ん坊に与えるあめ玉だよ。」と言われたのと同じ経緯ですね。

赤ん坊が泣きやめばもうあめ玉は不要。

あんまりなめていると虫歯になるし、ろくな事がない。

バパのトークを思考心で考え続けるのは、同じように「虫歯のもと」です。


しかしまた「バパのトークは読め。」とも言われる。

ただ「読め。」と。

読んでも思考心は使うなと。

しかしまあ、「読んでも思考でとらえるな。」というのは、なんたる矛盾。

普通は我々は「理解を得る、知識を得るために読む。」のでそれ以外の読み方は
なかなか難しい。


いや、実は簡単で、「ラティハンしてはトークを読む。」。

まあ、それだけのことです。

頭で答えを探すのをあきらめるだけです。

ラティハンかトークか、いずれにせよ「教えてくれるまで待つよ。」というだけです。


そうしていると、

  ほうら、

    答えが浮かんできたり、

      問いが消えていたり、、、。


57・CSP/10.20
57・CSP/11.27
59・LON / 8.22

PS
面白いですね。

2012年の4月には上記のように考えていました。

しかし2013年の5月にはもうそのスタンスから離れています。

ナフスというコトバ、そうしてそれぞれのナフスの名前、さてそれは何処からきたのか?

ラティハン中にバパが受けたコトバ?

いや、そんなことはあるまい。

そうであればそのコトバを十分に説明し、定義しなければ聴衆には理解されない。

とすれば、どこからか持ってきたコトバということになる、、、。

まあそういう訳で、語源を尋ねる旅からこの物語は始まっています。

ですから、別にトークの中にある矛盾、あらさがしをしようとして始めたものではありません

そうではありますが、「語源は何?」、「どんな風にそのコトバは使われているの?」、「その意味は何?」という素朴な疑問に答える為にはトークにそって、先入観なにしトークと向き合い、それを読む必要がありました。

そうしてその結果としていろいろな記事が生まれてきた訳であります。


さてそのような読み方は上記本文にあるような「ただ読め、思考力はつかうな!」というバパの警告に反しているのでしょうか?

まあその判断は読者の皆様に任せる事にいたしましょう。(2017、10,6)

PS
読書百遍(ひゃっぺん)意(い)自(おの)ずから通ず

まあそんな風にもいいます。

『文意の通じないところのある書物も、百遍も繰り返して熟読すれば自然に明らかになる。』

そんな風に説明されますし、バパもそんな風にいいます。

それを頭から否定するものではありませんが、しかしながらそれだけでは不十分でありましょう。

ラティハンをして、何回もトークを読んでみた所で、そこに使われているコトバや背景にある歴史、物語、思想を知らなければ決してたどり着けない理解があります。

そうであれば、「バパのトークを良く読む」というのは半分で、残りの半分は他の所からの情報がやはり必要なのです。

そうでなければトークの読みかた、理解の仕方は不十分になり、その認識は誤ったものになる可能性が大きくなります。

まあそんな風に近頃は思っているのであります。(2018年3月)

PS
バパは会員にしか話をされませんでした。
(但し数少ない例外はあります。)

そうして、それぞれの国でその国の人にラティハンを説明していくのは、ラティハンを広めていくのはその国の会員の仕事である、と言われました。

バパは会員に対して「それゆえに本を書きなさい」と言いました。

しかしながらまた別の所で、以下の様に発言されています。

『あなた方の中にはまだ誤解をしている人たちが大勢います。

あなた方は本を書いて、それらを「スブドのイメージ」とか「スブドへの道」とかいろいろと呼びます。

しかしスブドはその人自身です。

それゆえにあなた方はそのような本を書くならば、あなた方が表現するそのイメージはスブドのイメージではなく、あなた方自身のイメージです。

ですから依然として多くの誤解が存在します。

・・・・』(7月30日 1963)

この発言は一見すると「あなた方が本を書く、という行為は意味がありません。」と言っている様にも受け取れます。

数あるトークのこの部分にのみ注目すればそのような結論になってしまいます。

しかしながら数あるトークの中から「本を書いて発表する」という事に関する記述を広く確認してみる必要性があります。

そうしなければ、バパの真意を知る事は出来ないでありましょう。

ある所ではバパは「それはAである。」と言います。

別の所では「それはBである。」と前と矛盾したように見える事をいいます。

そのような所は我々はよくよく注意してバパの真意を読みとる様にしなくてはならないのであります。


PS
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知りたがり屋の心

2012-04-13 | 日記
我々の世界に対する認識力はかなり限られたもの。

もう一つの宇宙がたかだか1cm、5番目の次元方向にずれているだけで
我々はその世界を知ることが出来なくなってしまう。

スイスの地下に作られた巨大な粒子加速器を使った実験でさえ、1cmずれた
宇宙の影を捉える事ができるかどうかという程度。

容れ物としての物質宇宙でさえこのありさまなのだから、生死を含む生命宇宙の
広がりや多層性などは手も足もでないのが人間の現状。


それでもラティハンをやっていると、どうしたって通常言われている世界観、
宇宙観ではおさまりきれない経験をする。

そういう体験をすると、さて、いったいこの世界はどういうしくみ、どういう構造に
なっているのか、考えてしまう。

バパに言わせれば、「生命宇宙について考えることはラティハンにとって
余計なことだ。」となってしまう。

あるいは、「ラティハンが進めば、自ずから明らかになる。」とも言われる。


そう言われたって、不思議なものは不思議で、知りたいことは「今知りたい。」

こういうのは思考力のあまり好ましい使い方でない事は了解していますが、
「それにしても、知りたいなあ。」と思いながらのこの頃のラティハン通いです。


59・PLG/12.9
60・NCE/1.6




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知る者は言わず、言う者は知らず

2012-04-06 | 日記
知る者は言わず、言う者は知らず。

老子の言葉である。

これが最初に宣言されてから以下長々と「老子経」が続く。

さて、問題は「老子は知っていたのか、知らなかったのか。」

あるいは「言う者」であったのか、それとも何も言わなかったのか。


人が言葉を使って何かを伝えようとする限界については、このように老子の時代
から知られていることである。

三段論法、あるいは合理的推論の限界といってもいいかもしれない。

そんなわけで、いっくら経典をひっくりかえしても、それだけでたどりつくことは
できない。

どうしたってそこにはもうひとつ別の道がいる。

そうして、それは個人的なものにとどまらざるを得ないのは、歴史的な現実である。

だから老子はいにしえの時代に「知る者は言わず、言うものは知らず。」と
警告してから老子経を残した。


何、訳が分からないって。

ラティハンが足りませんねえ。

それじゃ、特別おまけです。

現代版「老子経」をお教えしましょう。

「確信する脳」  ロバート、A、バートン著、

出たばかりの本ですが、精神世界の旅人には良い解毒薬かと思われます。

常備薬として旅のお供におすすめですよ。

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