ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

自由というもの

2012-05-25 | 日記
ラティハンを始めようと思う人はいつでも始められる。

そして、けして「強制」ということはない。

だから「やめよう」とおもえばいつでもやめられる。

その意味では、ラティハンでも「人間の自由」は尊重されている。

というか、「テスト」されている。

「自由だけれど、どうしますか?」という訳である。


このことは道なかばでも同じこと。

いつもいつも聞かれるのですね。

「自由だけれど、どうしますか?」


さて、どうやらこの世の最後の最後まで欲望とは2人旅。

だからいつも欲望の声を聞きながら、ラティハンの声も聞くことになる。

「こっちにしますか?あっちですか?」

なんともはや、「自由」というのも困ったものですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラティハンの道

2012-05-18 | 日記
ラティハンの道はおのずから明らかになる道。

他の誰かに何かを「証明」する必要もなければ、誰か他の人から「証明」してもらう
必要もない。

口に泡を浮かべて人に説得する必要もなければ、ましてや人と言い争う必要もない。


何、わかったような事をいってはいるけれども、「口に泡を浮かべていた」事があるのも
また事実。

そんな事をやってはいたものの、そのことの無意味さに気が付いてしまった。

そして、ようやくそんなことの無用さが腹に落ちて納得されただけの話。


こうやって生きている生きざまそのものがラティハンであり、エンタプライズだ。

他に何か「別のもの」がある訳でもなんでもない。

背伸びして「見えを良くした」所でせんないもの。


それじゃなんともアピールしないって。

そうだねえ、それが自分にとっての真実ならどうしようもないですねえ。

それ以上の事はもはや「人の手にはあまる事」のように思えますもの。

ひとつひとつ、自分のできることをやっていくしかないですね。


しかしそれを後から振り返ってみると、なんとも不思議な力が見える。

そう、ラティハンというものは不思議なものですから、当然といえば当然。

このあたりが、自力と他力の交わるところ。

味わい深いものです。

PS
ラティハン、というよりもこの世界の構造と言った方がいいのかもしれません。

それは徹底して自由意思と自己責任が前提の様に思えてきました。

とりあえず地球上の世界を含んで、生死の世界はそのように構成されている様です。

そうして、事前に分かるような、安全な道などはどこにもない様です。

そうであれば人はどれかの道を選んで前に進むしかない様です。

それでその結果がどうなるのかは、どこにも保障などはありません。

そうであるが故に人は十分に納得した上で生きていく、どれかの道を選んで、前に進んでいくしかないのであります。(2017,10,9)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラティハンの進歩

2012-05-11 | 日記
かつてラティハン仲間からその名を知られていたHさん(外人さん)に「何であなたは
そんなに進歩することができたの?」と聞いたことがありました。

Hさんが言うには事の始まりは、ささいなことからだそうです。

「ある時、ラティハン中に嫌な声の出し方をしているのに気が付いてね。」

「それで、同じような声の出し方を普通の生活の中でもしている時があり、
そういう声の出し方をやめるようにしたのさ。」

そうやって、ラティハンによって気づかされたことを直してゆくということを
ずうっと続けていったそうです。


それを聞いた時に「何か華々しい体験をして、そしてそれで進歩したのだろう。」と
思っていたアテがはずれたのを覚えています。

禅の大悟のような一発のホームランではない。

そうではなく、イチローのように一つ一つのヒットの積み重ねだと。

そのように近頃は思う様になりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする