ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力とお金

2016-11-29 | 日記
宇宙を作りあげた物質力が人に働くことで人は宇宙を、自分の身の回りの環境を理解することができました。

そうして多くの発見、発明に物質力は関与してきました。

そうやって作りあげてきたのが生命科学、医療技術を含む現在の科学技術文明です。


もう一つの物質力の関与の大きなものは、経済の発展に現れています。

そして経済発展の象徴的な存在はマネーです。

お金が存在するようになって、人々はより一層の経済発展を望み、それを推し進めてきました。

その意味で、マネーは物質力のかたまりのような存在であります。


通常、「生命力の最下位にあるのが物質力である」という説明を聞くと、「いや、私はもうそのレベルは卒業したから、、、。」と思い込みがちです。

しかしながら、お金の価値がわかる小学生以上の年齢のほとんどの人はお金が大好きです。

これは生活していく上でお金が必ず必要となるような社会に暮らしていることの必然の結果でしょう。

そうして我々の暮らす社会では、お金はそれを持つ事によって何でも好きなものが手に入る、万能のマジックパワーを持つものとされています。

それらはまた、お札と呼ぶその紙切れに価値を見出すことができる物質力を人間が所有している、と言う事から始まる話でもあります。

(当然のことながら、お金を必要としない暮らしをしている方々にはこの話は関係のない話です。
そしてそのような方たちはお金から離れている、、、というだけであって、物質力をコントロール出来ている訳ではありません。)

こうして「お金大好き」の我々はコトバを変えますれば「物質力大好き」なのであります。

この事は事実であり、否定のしようがありません。

バパが「人間は物質力を好む」といったのは明らかにこの事も含めてのことでありましょう。


さてこのお金、正体は紙に風景やら人物やらが細密画され、それと並んで数字が印刷されている、印刷物にすぎません。

そして、この代物が大事なもの、価値があるものと教えてくれるのが人の頭脳と相互作用できる物質力であります。

ちなみに動物の中でこの印刷物の価値が分かるのはヤギさんぐらいなものでしょう。

でもそれは少々ごわごわした舌触りの良くない、あまり上等でない食べ物としての認識であります。<--リンク


人間の場合は、この印刷物の後ろにあるものが理解できます。

そうして、これを所有することが好きになります。

ほとんどのものは、この所有物と交換して手に入れる事が可能であるからですね。


ここで問題が2つ発生します。

一つ目は「我々がお金を好きなのは良いが、果たして我々はお金に好かれているのか?」ということです。

「いやいやお金は生き物ではないのだから、そこには好きとか嫌いとかは無い」と言われるようですと、「私はお金に好かれてはいない」、「私はお金のことを理解していない」、と認めている様なものであります。

二つ目は「好きなのはいいのですが、それにおぼれてはいませんか?」、「お金に人生をしばられていませんか?」ということです。


バパが言う理想的なあり方、それは「我々はお金を好み、そうしてお金も我々を好む。しかしながらその主人は我々である。」というものであります。

そうであって初めて「私は物質力のレベルを卒業した。」といえるのでしょう。

そのような状態になる為のラティハンであります。

そうして、そのようになる為に我々は教育を受け、社会的に訓練され努力しなくてはなりません。

生まれながらにしてそのような状態の人はいないのであります。

その様な社会的努力がなければ希望するような状態には到達しないでありましょう。


このラティハンと言う贈り物は、勤勉に働く人のためのものであり、けっして宝くじが当たる事を夢みて暮らしている人の為のものでない事は明らかなことであります。

結局のところ、いくらラティハンをしても空中からお札が降ってくる事は無いのでありますれば。

お金は通常の方法で手に入れ、そうして上手に使うべきものなのであります。


PS
お金の話はその前提となっている社会の存在とは切り離せませんし、そうしてまた各個人の仕事(いずれかの組織に所属するにせよ、個人事業主になるにせよ)とも切り離すことはできません。

そうであればまたこの二つのテーマも物質力と関係をもつものなのであります。

そうして、人生のある時期はこの2つのものが、仕事とお金というものが主要なテーマとなり、避けて通ることはできません。

このようにしてバパが言うように我々の生活は物質力とは切り離すことはできず、したがって物質力とどのような関係を作りあげるのか、仕事とお金についてどのような理解を持ち、どのような態度で臨んでいくのかはとても大事な事になるのでした。

PS
「仕事とお金の話などラティハンとは関係ないだろう?」ですって。

いえいえ、4つの諸力が働いて宇宙が存在し我々が存在しそうして社会がありお金が存在しています。

従ってこれらのものはすべて4つの諸力と何らかの関係を持っているのであります。

そうして、ラティハンこそは我々のありようと4つの諸力の関係を正常にもどしてくれるものなのでありますれば。

仕事とお金についての理解というものも、ラティハンから生じても何の不思議もないのであります。

追伸
自分の進むべき方向とかつくべき職業とか、あるいは天職とかいう考え方に対してのバパの一応の回答がここにあります。<--リンク

ご参考までにどうぞご一読を。

PS
企業をおこすこと、エンタプライズとも言いますが、この活動も物質力とは密接な関係にある事は言うまでもありません。

そういう訳で、このページもご参考までに。<--リンク

PS
お金に関係した、少々古い話を一つ。

『出エジプト記』によると、モーセがシナイ山において神から十戒の石版を授与されるまでには40日の期間を要したとされているのだが、麓に残されたイスラエルの民は時間の経過と共に忍耐力を失い、ついには、モーセは死んだと思うようになった。

不安になった民はアロンのもとに相談に出向き、苦肉の策として民族を導いてくれる新しい神の制作を懇願する。

アロンはそれに応じ、全民衆から貴金属の提出を命じる。

こうして鋳造の金の子牛が完成したのである。<--リンク
・・・・・
それを知った神はモーセに山を降りるように言い、怒り狂ったモーセによって金の子牛は破壊され火にくべられた、、、と続きます。

こうして人々は紀元前の昔から「目に見える具体的な形をしたものを礼拝すること」が好みなのでありました。

さてこの「金の子牛」はその時代ごとに姿、形をかえながら現代にまで至っております。

その見事な例がマネーでありましょう。

それぞれの国ごとに独自のマネーを作り出し、人々はそれを好み、そのありさまはまるでマネーを礼拝しているかの様であります。

追伸
以下、ご参考。
・人間とお金の歴史<--リンク


PS
物質力が人間に与える影響について記述したもう一つの記事はこちらです。<--リンク

追記
上記に展開した様な「お金についての認識」に至った方を知ってはいますが、その方はあくまで「知的に理解していた」と言う事でありました。

なぜならばその方の実際の生活の仕方は上記に述べられているような「お金に好まれる」と言うようなものではなかったからであります。

そういう訳で「知的な理解」はそれが無いよりはましではありますが、そのような理解があったからといってそれだけで「お金に困らない状態に至る」ということはないのでありました。

以上、蛇足ではありますが、誤解のない様に付けくわえさせていただきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

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PS
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スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力-2

2016-11-22 | 日記
バパが1952年に受けた「詩篇」がスシラ ブディ ダルマである。<--リンク

それは、今のインドネシア語よりも古く、そして複雑で微妙な事を表現できるコトバで受けられた。

そうして、「詩」であるからには当然のように「韻を踏んで」受けられたものであります。

(ちなみに、神秘的な内容あるいは霊的な真実を語るのに詩の形式を用いるのはインドネシアの伝統の様です。

そして、神秘主義とジャワの伝統的な文学との関係は近く、たとえばワヤン(Wayang)の演目(ラコンlakon)、あるいはsuluk文献(ジャワ神秘的な文学)、Serats(イスラム教に触発されたジャワ詩的文学)などを上げる事ができます。

その意味ではスシラ ブディ ダルマはジャワの伝統にしたがった、すぐれた文芸作品でもあるのでした。)

そして後日、バパによって現代のインドネシア語に訳されたが、もともとが詩でありますれば、普通の文章とは異なった書き方になっています。

つまりは、あまりロジカルな文章の構成にはなっておらず、自由に関連した話題にいったりきたりと、そういう表現方法になっています。

あるいは、最初がこうで、次がこうなって、その次が、、、というように整然と並べられている論文のようではありません。

もちろん追いかける事ができるロジックはそこにはありますが、それと同時に我々からすればあいまいに見える表現も混在しています。


さて、スシラ ブディ ダルマ、4つの諸力について書かれたものであると同時にラティハンの道しるべにもなっています。

それからもうひとつ、人間の日常生活といわゆるクジワアンと呼ばれる魂とか霊性とか言われているものとの関連も書かれています。

この三つのテーマがお互いに関連しながら記述が進んでいくものでありますれば、注意していないと混乱してしまうのであります。

そうでありますれば、ここでの記述の仕方はなるべく話の筋道が整理されたように表現してみるものです。

とはいいながら、スシラ ブディ ダルマに書かれている事柄全てに言及するものではありません。

そして、そのような内容詳細については原典を読んでいただくのが妥当であると思われます。


もうひとつの注意事項としては、バパの次の言葉に要約されるかと思われます。

「スシラ ブディ ダルマは頭で理解すべき本ではない。

決してそうではない。

ただ読みなさい。

そうすれば後に、書かれている事柄の意味を悟る事が出来るであろう。」(1971:WCG)

この表現では前提となっている「ラティハンの継続的な実習」が抜けています。

しかしながら、それは協会ではデフォルト(表現されない前提)ですので、しかたありません。


そういう訳で、単に頭でスシラ ブディ ダルマの内容を追いかけてみても何も起こりません。

逆に、ラティハンの体験、そうして日常生活への反映・体験などが先にあり、「ああ、そうか、そういうことか」と書かれている内容については後から理解できるものなのです。

あるいは、今の自分の状況とスシラ ブディ ダルマの記述から判断して、次はこのような事に注意が必要である、、、とラティハンと日常生活のガイドブックとして使えるものなのです。


さて、スシラ ブディ ダルマには前述したような人間存在が登場するまでに果たした諸力の働きについての記述はなく、諸力と人間が相互作用していろいろな事が起こっている、、、と言うところから始まります。

それは、ラティハンの道しるべとしてのスシラ ブディ ダルマの性格によるものであり、ラティハンと人とのかかわり合いを記述していくものであるからです。

そうしてこれから以下の記述は1987年発行の「スシラ ブディ ダルマ」に準拠していきます。


6~18ページ・・・ラティハンを受けるにあたっての諸般の注意事項

18~72ページ・・・物質力の説明、対象となる物質存在や物事とそれらが人に与える影響について(注1

        ・・・並行してラティハンがどのように進行、発展していくかについての記述

以下、順不同にて物質力の章で記述されている項目を並べておきます。

武器
服飾品
農具
運命
仕事
貧富の差
財産(お金)
商人(物の売り買い)
死後の生
オフィスワーク
教育とラティハン
人生の理解
物の世界に落ち込むこと


注1)物質力の説明(1~3)、対象となる物質的な存在や物事とそれらが人に与える影響について
物質力の説明(1)<--リンク
物質力の説明(2)<--リンク
物質力の説明(3)<--リンク


さて、話を進めるにあたってまずはバパが良く使う心理学的な用語のおさらいをします。

まずはラサディリ(rasa diri)。

内部感覚(inner feeling)と訳されております。

もともとrasaというコトバはネットによれば、[名詞] (インド美学で)味わい,風味,情緒,情感:古典音楽,舞踊,詩などの基本的属性.[語源]1799.<サンスクリット語 rasa 樹液,流動体,本質、、、となっており、diriについては「diri 自分を,自らを,自己,」です。

そうしますとrasa diriは直訳で「自分の感覚・情感」というところでしょうか。

こうして今では単に「五感ではなく、人が内部で感じる感覚」程度の意味に翻訳されています。


しかしながら、たとえばバパのトークでは以下のように説明されていたりします。

「感情、思考、知力、利巧さ、性格、想像力、観念、野心、欲望などの心の性質と感覚」。

これであると単に五感といわれる外からの刺激を受け取る感覚ではない、「人の内部に存在する感覚」という程度のものではありません。

実際バパの説明によれば、rasa diriは諸力によって、あるいは自分自身の魂(ジワ:Jiwa)によって、知、情、意あるいは思考、感情、欲望が発生する場所であるとされています。

そうして、人として妥当な思考、感情、欲望を持っているかどうかは、rasa diriを満たしている生命力の種類、あるいはレベルによるものとされています。

ちなみに人間の欲望はジャワ神秘主義の伝統に従って4つのナフス(nafsu)に分類されて固有の名称を与えられています。

そうしてそれぞれがその力を得る源泉としての固有の生命力が想定されていますが、上位の生命力は下位の生命力と関係しているナフスをも制御できるとされています。

つまりジャスマニと呼ばれる人間の生命力が本当にrasa diriをみたしているならば、その人の思考、感情、欲望は人間的である、、、と言える訳であります。

そうしてそのような人はけっして「われを忘れて、衝動的に物事をやったり言ったりはしない」でありましょう。

その人はどのような状況下であっても人間的にふるまえるのです。

まあこれがジャスマニレベルにあるのかどうかという一つの判断基準です。


さて、そういう訳でrasa diriというのは心理学的なそうして霊的な意味での人間というものの内的な本質、そうして諸力の活動の舞台になるものであります。

そうして、まさにこのrasa diriがいろいろな間違いや不純物で充満しているのがその人の欠点になるとバパは言います。

それゆえに上位の生命力がrasa diriに入る事ができず、つまりは本来の主人の代わりに低次の諸力が入れ替わり立ち替わりその場所を占領している、、、と警告しているのです。

それでラティハンがまずは浄化からはじまりますが、その浄化の対象がこのrasa diriなのでありました。


ちなみにrasaについては、たとえばThe Logic of Rasa in Javaのような解説もありますので、こちらもご参照ください。<--リンク

(Rasaについての追記)
世界的な数学者である岡 潔(おか きよし)に「数学する人生」(新潮社)という本があります。

この中に「情」と「情緒」というコトバが岡 潔 独自の定義により説明され使用されています。

そうしてそれがまさにバパが使っているRasaというコトバの日本語訳になっている様であります。

Rasa Diriがちょうど「情緒」に相当し、人類全体のRasa Diri、「それは一つしかない」」とバパはいうのですが、それに近いものが「情」として扱われています。

さて、そういうわけでこの本、ご一読をお勧めしておきます。


そして以下はBudi(ブディ)というコトバについてのWikiの説明からの引用になります。

「インドネシアの哲学的伝統の最も幸運な特徴は、philosophiaのその一体的な理解(知恵の愛)です。

西洋哲学の伝統で発生した「推論 reasoning」と「感覚 feeling」の二分法は、インドネシアで発生しませんでした。

かわりに それは「推論」と「感覚」を統合し、ブディ(Budi)と呼ばれます。
・・・・・
このように、インドネシアに、科学、精神性、宗教、哲学と技術がブディの顕現と実現である一般的な単語kebudayaan、(文化)で指定されています。
・・・・・
我々インドネシア人は、明確な分離や分類をしない。

哲学と宗教、宗教と霊性、(宗教と精神性)、精神性と科学、そうして科学と芸術。

要するに、インドネシアの文化は、どのような厳格な唯物論または頑固な観念論を知りませんでした。

私たちの科学と哲学は、私たちの宗教、精神性と芸術のように美的、芸術的です。
・・・・・
 私たちのボロブドゥール寺院、suluk文献(ジャワ神秘的な文学)、伝統舞踊や彫刻、楽器、伝統的な家屋や武器は、私たちの哲学、科学と精神のように美しく上品です。

私たちのブディ(Budi)は「合理的に扱う事 rationalizing 」と「感じる事 feeling」を一緒に結び付けるゆえに。

Serats(イスラム教に触発されたジャワ詩的文学)は、詩的審美と哲学的論理を組み合わせる、そうして、kakawinsは、(ヒンドゥー教、仏教に触発されたジャワ詩的文学)であります。
・・・・・
 結論として、インドネシア人によって保持されているブディの認識論は、心と感覚をバランスさせ、物質と観念を正当に扱います。

したがって、インドネシアの哲学的伝統においては、合理主義と経験主義の間または観念論と唯物論の間には対立はありません。」

・・・以上、The_Inner_Faculty_of_Budi・Wikiからの引用でした。<--リンク

Budiというコトバと同様に、インドネシアでは生理学的な現象も心理学的な要因でおきる現象も霊的な事でおきる事象もあまりはっきりとした区別をしない様です。

そうして使われるコトバもそのようであり、我々の分類から見ると随分とあいまいに見える事があります。

そのような事も「それぞれの国が築き上げてきた文化の違いによるものである」と認識しておく事は理解する上で必要であると思われます。

PS
スシラ ブディ ダルマは「バパの世界認識とラティハンについての認識について書かれたものである」というように見ることができます。

そうして、その認識の仕方を我々が自分のものとして理解しないとラティハンが受けられない、、、というものではありません。

そこにあるのはあくまでバパの理解でありますから、それをむりやり自分の中に取り込んでも仕方のないものでありましょう。

各個人にとって、バパの理解は参考にはなるものでしょうが、それは「信じて従う必要のある教義」ではないのであります。

そうして、「それぞれの人にとって必要な理解というのはラティハンを通じてもたらされる」というのがバパのアドバイスとなります。
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スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力-1

2016-11-12 | 日記
物質は地球上においては、原子レベルではその姿を自ら変える事は稀なことであります。

そのような、自ら変わる性質をもつ物質は放射性同位元素とよばれており、ウラニウムは人類にとって有用であるために特によく知られている放射性物質になりました。

放射性でない物質は地球の寿命とほぼ同じ程度のあと50億年ほどは安定して地球を形造ります。

しかしながら、今から50億年ほど経過すると太陽が巨大化しそのために地球は太陽に飲み込まれてしまうでしょう。<--リンク

地球を構成していた物質はそこでばらばらに分解され、ガス化します。

さて、そういう訳で地球の寿命の残りはあと50億年ほどであります。


そうして地球上での我々人間の肉眼で確認しやすい物質の変化といえば、「化学による物質合成」でありましょう。

たとえばプラスチック製品、合成繊維、洗濯用洗剤、塗料、などなど化学合成された物質で世の中は満たされております。

これらは皆、物質の持つ化学的な活性を人間が理解し生活に役立つように応用した結果であります。

そうしてそれらは皆、一見死んでいて動かない様に見えている物質の内部に活発な運動が、あるいは相互作用が存在している事を示しているのであります。

それらの運動・相互作用は速すぎて、あるいは小さすぎて人間の肉眼では捉えることはできませんが、物質力の「物質を理解し使いこなす」という力を使って人間はそのような運動を理解してきました。

そうしてさまざまな人工物を作り出していったのであります。


話が少々飛びますが、物質力の上の存在は植物力であります。

この力によって、地球上にはじめて生命がもたらされました。

その結果が植物の誕生です。

さてこの植物というものは、外部に存在するエネルギーを使って独自の方法で化学合成をおこないます。(注1)


そうやって、自分の体を構成する高分子を生み出しています。

そうではありますが、そのような化学合成が行える基本は物質そのものがもつ内部運動による化学活性が存在するからなのです。

そのように考えますと、上位の生命力はその下の生命力の活性状態を有効に使って、それとは質の異なる、上位の生命力の存在状態を作り出している様に見えます。

そうしてそのような階段状に進化・向上していくという構造が生命力の階層間の基本的な構造であるとするならば、人間力を超える次のレベルでも当然そうなっているように推測されるのであります。

(つまりは我々の意識状態というものは、我々が通常の日常生活で持っている様な、使っている様な、個人的な個別意識、エゴ(自己関心、自己利益重視)、あるいはパーソナリティというようなものを超えた意識状態に到達するのが次のステージの必然であるように思われるのであります。:注4


ところで我々人類の特徴を「物質力を使って人工物を作り出す種族である」と考える事ができます。

その場合、250万年~180万年まえあたりからそのような「人工物を作り出す」という兆候が見られ始めます。<--リンク

きりのいい所で、人類が人工物を作り始めたのは200万年前としましょうか。

その時点で明らかに人は自然を理解し、それに手を加え始めた、言いかえれば意識的に物質力を使い始めたのであります。

つまりは人は動物から人間へと変わった、それまでは人間の中には主に動物力までの力が働いていましたが、それ以降は同じ物質力ではありますが、人間が存在することになってようやく働き始めることができる部分の物質力を使い始めたのであります。

言い方をかえますれば、人間力の登場によって人は動物から人間になり、そうして次第に物質力のもつ2番目の相の力、自然を理解し、それに人の手を加えて人工的な何かを作り出す、ということを始めたのであります。

さて、そのように考えるとすれば、「アダムが地上暮らしを始めた、その時に4つの諸力が与えられた、」という話で象徴されているイベントは約200万年前ということになりそうです。(注2


この時以降、特に物質力の人によって、あるいは人の頭脳の働きによって、あるいはハートとマインドによって、活性化される部分が発揮する力が人の特徴となり、やがては人類の文明の爆発的な展開につながっていくのでありました。

特に2万年から現代にまでつながる文明の展開はこの力なしでは起こり得なかったでありましょう。

ちなみに日本の縄文文化のスタートは1万5千年前と言われています。<--リンク


この物質力を活性化させて使うという事は、逆に言いますれば、我々の頭脳が物質力によって刺激され、活性化されている、、、ということでもあります。<--リンク

つまり物質力と人の頭脳、思考力は非常に相性がいいのです。

いや、相性がいい、、、どころではなく、「もはや過剰に良すぎる、というレベルに来ている。」、その結果「人間に指導されるべき物質力が逆に人間を支配している」、というのがバパの主張であります。


宇宙が始まり展開してきたのは、まさに物質が始まり展開してきた、物質の、そうしてまた物質力の歴史そのものであります。

そうして、この物質と言うものがなければ宇宙は存在せず、銀河もなく、地球もなかったでありましょう。

ましてや、人類の歴史などというものはあるはずもなく、それらすべてが物質によるものなのであります。


他方で、バパによれば、生命力の階層のなかで物質力はベースになるものでありますが、その位置は一番低いところにあります。

そして、その物質力を基盤として植物力が存在し、動物力が存在し、最後に人間力に至るのがこの3次元世界の決まりであります。

そうして、この4つの諸力はアダムという主人公によって使われるものでなくてはならない、ここで言うアダムとは本来の人を象徴する存在でありますが、「4つの諸力のうちのどれか一つが主人公の座にすわっているのではだめですよ」、とバパは主張しているのであります。

そのような観点から、「現代では多くの人が主人公の座に物質力を座らせているようだ」、とバパは警告しています。

それでは本来の主人公はどうなっているかと言いますれば、物質力によって活性化した思考力やら意志力やら欲望によってぐるぐる巻きにされ、部屋の隅に放置されている、、、そんな状況の様です。

あるいは物質力の威力に目がくらみ、または物質力の魅力にとらわれてしまい、我をわすれた状態、本来の自分がお留守の状態ともいえますか。

(ちなみに物質力と人の頭脳、思考力との関係、相互作用について、このような観点で説明をされたのは、私が知る限りではバパが初めてであるように思われます。:注3)<--リンク


このような状況は当然、改善されなくてはいけません。

そうして、そのための手段、方法がラティハンであります。

物質力をいやがったり、さげすんだりする必要はありません。

もともと「生活に役だつように上手に使え」といって手渡された存在であります。<--リンク

ですから、うまく使えばいいのです。

ただし、物質力に酔っぱらっていてはいけません。

主人公はあくまで目を覚ましている事が求められているのであります。


(注1)木星の衛星エウロパの場合<--リンク

エネルギー源は熱であります。

そうして、水と多様な鉱物があれば生命誕生の可能性がある、、、とそのようにNASAは考えているのであります。


注2)アダムがいつごろから地上で暮らし始めたか?

ユダヤ民族の始まりをアダムとするのであれば、今から5000年ほど前ということになりそうです。(聖書より)

そうして、上記の200万年と5000年ではそれこそ「桁違いな話」になってしまいます。


あるいは、バパによれば700万年前にも地上には人類がいたとされています。(77・11・1 リマ)

そして地球史年表によれば650万年頃にヒト族とゴリラ族が分岐した様であります。<--リンク

そうでありますれば、バパの主張とWikiの主張はほぼ同じ様にみえます。

ただし300万年前のルーシーの姿からしますれば、人類といいましてもそれは現在の我々の姿からはかなり離れていたものと思われます。<--リンク


(注3)物質力の不思議

「この宇宙で最も理解できないのは、それが理解できるということだ。」 アインシュタイン<--リンク

このアインシュタインのコトバが物質力の不思議を言い当てています。

我々は自然が、宇宙が理解できることをとりたてて「不思議だ」とは感じません。

生得的にそのような能力を持っている為に、「当然のことである」と感じているのです。

そうして、アインシュタインほどの思索の人でなければこの不思議さには思いが至らないのであります。


このアインシュタインの質問に対してバパは次のように答えるでありましょう。

「それは人間に思考力と物質力が与えられているからである」と。


アインシュタインの質問を今風に言いなおしますと「AI(人工知能)は自然を理解できるか?そうして発見と発明ができるのか?」というものになります。

このAIに対する質問の答えはいまだに出ておりません。

しかしながら、AIは思考は可能でありますが、物質力を使う事は出来ないと思われますので、バパの答えは「NO」となるものと思われます。

(注4)
次のロハ二(Rohani)のステージには、何かの影響を受けて到達できる、、、というものではなさそうです。

ラティハンによって内部感覚が浄化され、整理され、そうしてロハ二の段階の生命力が入ってこれるぐらいの十分な広さが内部感覚に準備されてようやくそのようになるかと思われます。

そうして、その結果はと言いますれば、「生死の問題にけりがついた人の誕生」になるものと思われます。

PS
もともと4つの諸力は「地上の生活に役だつように上手に使え」といって手渡された存在であります。

そうでありますれば、地上での人間の生活全般(仕事、家事、エンタプライズなど)にこれらの諸力がかかわり合いを持つ事は当然の成り行きです。

そしてその時のキーワードは「人間の存在」です。

我々の存在を通じてこれらの諸力が働き、その結果登場してきたのが我々の文化と社会でありましょう。

以下個人的な分類になりますが、各カテゴリーと諸力の関係を示します。

人間力:人間への理解ーー>社会、政治、法律、文化、宗教、芸術、教育、知識欲、結婚、福祉と争いごと(戦争)、ムトマイナー(nafsu mutmina)

動物力:動物への理解ーー>牧畜、酪農、漁業、動物との暮らし、種族保存本能、共存と食物としての利用、スピアー(nafsu supia)

植物力:植物への理解ーー>農業、林業、園芸、植物との暮らし、共存と食物、食欲、生活材料としての利用(衣、住)、アルアマー(nafsu aluama)

物質力:物質への理解ーー>宇宙、地球の理解ーー>科学、技術、商工業、医療、金融、そうして経済発展と貧富の格差、金銭欲、地球温暖化、アマラー(nafsu amarah)


いずれの項目も人間の存在を抜きにしては考える事ができません。

そういう意味では、人間力の存在によって人間が登場し、そして登場した人間によってこれら4つの諸力が有効に使われてきたという事ができます。

そうではありますが、残念ながら時代は混迷を深めております。

これはバパに言わせれば、「4つの諸力を使うべき主人としての人間が、本来のあるべき立場を忘れたためである」と言う事になりそうです。

さてそういう訳で「スシラ ブディ ダルマ」の記述はそのような混迷の時代である「現代:1950年代のジャワ」から始まるのでありました。

PS
バパのトークで気をつけなければいけない点、それはナフスを上げる順序です。

物質力にはアマラー(nafsu amarah:赤)が、そうして植物力にはアルアマー(nafsu aluama:黒)がいつも対応しています。

ですので4つの諸力の順番にならべる場合は1、アマラーamarahーー>2、アルアマーaluama ・・・となります。
(70・12・5、72・11・3、85・6・25、85・7・2 etc)

しかしながら単にナフスの事を述べる場合(諸力との関係を言わない場合)はインドネシアの伝統にそった順番になります。

つまり1、アルアマーー>2、アマラー ・・・と順序が逆転するのでありました。
(57・9・29、59・8・6、59・8・7、63・9・13、81・6・18 etc)

そうして、二代目の並べ方は常に後者であります。
(99・12・16、01・7・12、02・2・28、02・3・3、03・2・14 etc)


そういえば2代目のトークではスシラ ブディ ダルマであつかわれている物質力から始まる4つの諸力についての言及がほとんど無いようであります。

そうして、この4つの諸力を介して我々は世界と、社会と、文化と、人々と相互作用をするものでありますれば、この事に注目しないということと、2代目の内向きの態度と言うものの間にはなにやら関係がありそうな気がいたします。(16.10.1)


PS
少々先走った話で恐縮なのでありますが、諸力がどのようにして我々に影響を与えるのか、その経路について。

物質力は見る、聞く、触るという3つの感覚器官が主な入口の様です。

つまりは我々が眠りから目覚めて、部屋の中を認識する、目覚めを意識したとたんに働き始める様です。

そうして、再び眠りに落ち込むまでその状態が続きます。

それゆえにバパが主張されているように、この世に目覚めて存在しているだけで、特に何をする訳でなくともすでに物質の世界におり、そうして人里離れた山の上、あるいは森の奥に行こうとも物質力の影響を受けるのであります。


植物力と動物力は通常は「飲み食いする」つまりは食事という行為に結びついています。

これは実際に「食べ物を体の中に取り込み消化、吸収する」行為になります。

そうして、その際に働く感覚は主に視覚、味覚、臭覚、そうして触覚(歯ざわり、舌触り、のどごしの感じ、胃の中での感覚など)でありましょう。

その上で個人的な経験を付け加えますれば、消化、吸収の過程でも人に対しての一定の影響力を持ちそうです。


そうして人間力は人と人が出会う事、関係し合う事でお互いに影響を与え、そして受取ります。

ここでは見る、聞く、触る、そうして臭覚と味覚、そういう意味では基本となる5つの感覚すべてが総動員される事になる訳であります。

・・・とまあ、そういうことになっている様です。
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日本人の魂(jiwa)の極楽(天国)

2016-11-01 | 日記

以下 「日本人の魂の極楽」より全文引用<--リンク

そして分かりやすくまとめられている「mansonge のニッポン民俗学」に感謝します。<--リンク

『▼序

 「知らぬが仏」とはよく言ったものだ。

安眠をむさぼっていた日本思想は、仏教思想によってたたき起こされて以来、長らく自信を失っていた。

しかしその後、日本思想は当の仏教思想を摂取し続けることによって、ついに日本人の魂の極楽を見つけたのである。

(本小論では触れないが、この続きを言えば、今度はキリスト教=西欧近代思想が日本人の魂の極楽に闖入し、日本思想は現在またも自信喪失の病床にある。)


 この小論は、日本人の魂についての覚え書きである。

▼太古、魂は幸せであった

 太古は人間の魂にとって平安な時代であったようだ。

エリアーデが語る「死と再生」の永遠回帰を倦まず繰り返していたことだろう。

この時代には個人はなかった。

死者はただあの世に逝くだけだ。

横死した場合も、カミがあの世に連れていってくれた。


 あの世に天国も地獄もない。

死ねば行く所であり、生まれるまでいる所があの世である。

つまり身体がない魂の国なのだ。

それに対して、この世では魂は身体の中にある。


 魂に前世の記憶はない。

魂は、年をとるようなものではないのだ。

このころ、魂とは生気エネルギーだ。

生きるとは息をすることであり、空気を呼吸することである。

赤子は息をして生まれる。

すなわち、気こそが生命なのである。

これが弱まることが、気涸れ(けがれ)あるいは気離れであり、後の穢れや汚れではない。


 カミは様々いたが、蛇について触れておく。

蛇は「死と再生」のカミだ。

この世とあの世の往還が死と再生だが、この擬制が祭りである。

死と再生は、一年の中にも一月の中にも一日の中にもあった。

人々はこれら小サイクルの中の祭りで、死と再生を繰り返していた。

気涸れとはそういう「死」であった。

蛇が脱皮して成長していくように、人や世界も、神聖なる時空間を脱皮していくのだ。

再生(新生)するために死なねばならない。


 そういう気涸れには、後のような祓ったり清めたりすることでは意味をなさない。

死に場所を与えること、あるいは死にゆく魂を救うことでなければならない。

死に場所とは、子宮のような冥い穴ぐらである。

後のこもる所である。

では、どうやって死にゆく魂を救うのか。

魂は生気であったから、これを活気づければよい。

すなわち、魂振りである。

鈴を振るように魂を振ること(これが物部の仕事であった)。

引用注(魂振り:Wikiより抜粋<--リンク)神道では、生者の魂は不安定で、放っておくと体から遊離してしまうと考える。これを体に鎮め、繋ぎ止めておくのが「たましずめ」である。「たまふり」は魂を外から揺すって魂に活力を与えることである。


 モノと言えば、大物主を思い出すが、そう言えばこの神は蛇であった。

魂はカミにもなりモノにもなった。

カミとモノに共通するのは霊威の強さだ。

カミは人々に信認された霊威であり、モノは信認されなかった霊威である。


 魂はしばしば浮遊した。

夢を見ている間、魂は浮遊している。

夢では、あの世との交渉も自由だ。

カミやモノとも出会う。

夢から覚める時、魂が浮遊したままでいると、死んでしまう。

死んだ魂は鳥となってあの世へ飛んでいった。


 個人がない時代、すなわち内面のないこの時代では、吉凶や善悪はカミがなせる業であった。

だから、死もカミの定めたものであった。

カミが定めた罪人は、カミの加護を失った者として、カミの世界(共同体の範囲、村コスモス)から遠ざけられた。

つまり、異界に流されたわけだ。これは穢れとモノの起源である。


 しかしカミの霊威は強く、まだたたりのない時代であった。

人は死ねばあの世に行くことができた。


▼古代国家の生成と仏教の流入(引用注:奈良時代ー>平安時代にかけて)

 仏教は、内面の罪と地獄をもたらした。

この世に個人を目覚めさせ、極楽と地獄という二つのあの世をもたらした。

平安な時代は終わったのだ。


 神帝は人帝となり、国家が立ち上がる。

刑罰は、神の名のもと人が下すものとなった。

紀記神話にはすでに「古代」が忍び込んでいる。


 気涸れは穢れとなった。

集合的な魂は個別化されつつあった。

そこここに漂っていた魂=生エネルギー=生命が、個人的な魂=心になろうとしていた。


 穢れは祓わねばならない。

祓いとは、穢れをぬぐい浄めることだ。

古来、穢れは水に流された。

これを水にすすぐことが、禊ぎである。

ところでこの水はどこに流れてゆくのだろうか。

異界である。

他界であるあの世ではない。

異界とは共同体=国、コスモスの域外のことである。

タマやカミではないモノの棲む世界を言う。

長らく、この世=世界は(実はあの世も)限られた自分たちだけの世界=コスモスであったのだ。


 仏教の如来や菩薩は新しい外来のカミとして、新しい人たちに迎えられた。

どのようなカミであり、また新しい人たちとはどのような人たちか。

新しい人たちとは、日本の神には祓えない罪、神意ではない罪に穢れた、つまり内面に目覚めた個人の罪を自覚する人たちである。

この罪に穢れた魂はあの世には行けない。

死後に地獄が待ち受けているのだ。

この罪を祓うカミが如来や菩薩であった。


 皇族や貴族たちがすでに内面の罪に目覚めていた。

彼らには死後に平安なあの世に行けないかも知れないという不安があったのだ。

日本の神は霊威を失いつつあった。


 しかし、大部分の日本人は個人の罪なぞ知らなかった。

日々を神意を伺うことで過ごし、累積した穢れは定期的に祓い流していた。

祭りが自分たちのコスモスの再生儀式であることにも変わりはなかった。

また、稲作が盛んになり、蛇のカミは雨をもたらす恵みの神となっていた。


▼祓えない穢れ、たたる死者たち(引用注:平安時代)

 仏教思想は徐々に全国に浸透していった。

皇族や貴族たちに続き、個人に目覚めたのは全国の豪族たちである。

彼らも外来のカミを熱烈に求めた。

彼らには、日本の神自身が気涸れてきているように思えた。

律令国家以降の社会進展の担い手である彼らには、それほどまでに日本の神の霊威は衰えて見えた。


 そこで神の境内に神宮寺が誕生する。

主として密教系のパワーあるカミが祭られた。

密教のカミは呪術のカミだ。

個人の頼みごとを聴くカミだ。

豪族たちは、現実変革を求めていたのだ。

律令国家の「紀記神話」体制による社会や土地制度は崩れつつあった。

空海が請来した密教はこの流れを国家的にも完成させた。

天皇から庶民まで、日本全国が密教化することになる。


 このような社会変化は、それまで疑いもせず日本の神にすがってきた人々にも、逃れがたい葛藤をもたらすこととなった。

神が力を弱めたため、あの世に行けない魂が出現し始めたのだ。

そうして、モノ化した魂がこの世にさまよい出す。


 また、穢れが、神の霊力では簡単に流せなくなった。

社会の進展は人々の生活コスモスを一気に広げ、神がこれまでカバーしてきたエリアをはるかに越えてしまった。

地理的にも異界ははるか遠のいてしまっていた。

死ぬこともあの世に行くことにすぎなかったのに、選ばれた者しか極楽というあの世へは行けないということになった。

さらに、死は穢れたものとなった。

穢れが流せない以上、一時遠ざけるほかない。

これが物忌みである。


 横死した魂、特に怨みを含んた死者はあの世に行けず、モノと化し、堂々とこの世に現れ、たたるようになる。

このころ、蛇のカミは忿怒する雷となる。


 たたる死者=魂を慰撫する手段はもちろん密教である。

魂を慰撫することを鎮めるという。

鎮魂仏教による魂鎮めである。

魂を活気づけるためになされたのが魂振りであったが、いまや魂は鎮めるものとなった。


 たたる魂の方も密教的な背景で出現する。

菅原道真は大日如来の化身である帝釈天の弟子、観自在天神となっている。

ご存知の通り、この魂鎮めは見事成功し(現世的な贈位によってだが)、後にたたるモノから天神というカミに転身するのだが。


▼成仏への道(引用注:平安後期)

 もはや日本人の魂は、仏教思想抜きには立ち行かなくなった。

こうして浄土思想が本格的な威力を発揮し始める。

罪人である個人は地獄へ堕ちる。

しかし阿弥陀仏にすがれば、極楽往生できるかも知れない。

密教は現世的生活呪術であったが、浄土教は来世的生活呪術である。


 始め極楽往生の願いは寺や僧をかかえることができる裕福な支配層にしか許されないものであったが、やがて法然が専修念仏を説く。

すなわち、誰でもができるやり方(呪術)で極楽往生の願いが叶うことになったのだ。

ようやく日本人の魂はあの世への方途を再び見つける。


 いつしか、極楽に行けることを「成仏」すると言うようになった。

これは日本的な言い方ではないか。

仏に成ること=悟りを開くことと、極楽に行くこととは本来違うはずだ。

極楽に行くことだけで仏になれる。

あたかも、あの世に行くだけでカミになれるように。

「極楽」とはあの世のことであり、「仏」とはホトケというカミではないか。


 葬式とは、日本人の魂をあの世に送る鎮魂呪術儀式にほかならない。

たたることなく、つまりモノとなってこの世をさまよい歩くことなく、あの世に再生するための。


 ついには、死者をただちに「ホトケ」と呼ぶようになる。

死ぬことを「成仏」と言い、死んだだけでホトケ=カミとなれるようになる。

もはや鎮魂呪術すら不要なのだ。

ここに、すべての日本人の魂はあの世という極楽へ行けることとなった。


▼結び

 しかし、現在でも死者の祟りは信じられている。

横死者はもちろんのこと、実験解剖されたカエル、飼い犬や猫、使い古された針までも、供養を受ける。

無事にあの世に行けるように葬式呪術が施され、成仏する(カミとして再生する)よう弔われるのである。


 因みに、現代の幽霊も弔いによって成仏するわけだが、これを最初にパターンした劇が能である。

能では、主人公があの世に行けずさまよう魂(モノ)と出会い、供養を施して魂が成仏することで終わる。

このときまでに、日本人が現在に至る鎮魂形式を完成させたことを示す証左である。


(補足としての自注)

1、大陸からの流入思想を「仏教」に一括している。

儒教や道教の独自の影響についてはここでは無視しているが、日本に流れ込んだ仏教にはすでに儒教や道教の影響が含まれ、古神道と相俟って日本仏教を育んだものと考える。

2、仏教での他界を「極楽と地獄」に限定している。

六道輪廻、また輪廻転生そのものについては触れていない。

日本には古来、この世とあの世の往還というごくフラットな生まれ変わり思想があり、また人間以外の生物も同様な往還を繰り返していた、と考える。』

[主な典拠文献]-->原典を参照ねがいます。<--リンク

ここまで引用でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

中国経由で伝来・進化した日本仏教は「ガラ仏」? しかし、そこにこそ「仏教の本質」が見えている!

: https://archive.md/OnVor :

: https://archive.md/ljSSE :

『・・・かつて日本の携帯電話は、国際標準仕様とは異なる進化を遂げたがゆえに、生物が南米大陸から西に離れた赤道直下のガラパゴス諸島において独自に進化したのになぞらえて、「ガラパゴス携帯電話」(略して「ガラ携」)と評された。

これにならえば、アジア大陸の東の海に浮かぶ日本列島に孤立して、千五百年近くにわたって特異な進化をたどった日本仏教は「ガラパゴス仏教」すなわち「ガラ仏(ぶつ)」ということができるのではないだろうか。』

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

PS
仏教の伝来が日本にとっての失楽園の始まりでありました。

つまりは仏教が「リンゴ」であったと。

なかなか興味深い言説であります。

なお ジワ、生まれ変わり等に関連したページにはここから入れます。<--リンク


PS
インドネシアに海を越えて外部から宗教が入ってくる前は、そこには自然発生的なアニミズムの時代がありました。

この辺りの事も日本と相似的な事であります。

それについてはたとえば以下の様な記事があります。<--リンク

『アニミズムの時代にもすでに信仰の徒(Penghayat)はいたわけだし、その時代にすでにパンチャシラの基礎はあったのだ。

ただ石などの呪物に対する崇拝というのは、そうしたアニミズムの時代固有のものであり、我々の基礎はあくまでも「唯一なる神」(Tuhan Yang Maha Esa)である。』

あるいは、このような記事も参考になります。<--リンク

『この「唯一神」という概念はインドネシアでは古くからの伝統のあるものの様であります。

たとえば「唯一なる神格 Ketuhanan yang Maha Esa (39 Page)」

有史以前のインドネシアの祖先たちが、完成したク・トゥハン・アン(絶対的神格)に対する理念と概念を持っていたことは、すでにたびたび確認してきた。・・・・・』

こうして当時のインドネシアではアニミズムと共にすでに「唯一なる神格 Ketuhanan yang Maha Esa」というものが存在し、それらが共存していた事が分かります。


そうして次の時代が海外からの宗教の伝来という事になります。

インドネシアでは最初に来たのがヒンドゥー教で遅れて仏教がインドから伝来しました。

そうしてそれらの宗教を国教として国を治めたのでありました。

243.サイレンドラ王国<--リンク

244.古マタラム王国<--リンク
・・・・・
インド文化の影響のもとにサイレンドラ王国は《仏教》を、古マタラム王国は《ヒンドゥー教》を国教としていた。

ボロブドゥール(→126)やプランバナン(→128)の世界に誇るこれらの遺跡はこれら両王国が残した輝かしいモニュメントである。
・・・・・

ここまでは日本の奈良時代、平安時代と同じようなものでありました。

しかしながら、その当時のジャワの一般の人々がどのように魂の救済をとらえていたのかはよくわかりません。

これは今後の検討課題であります。


さてその後日本にはキリスト教がジャワにはイスラム教が伝来します。

日本のキリスト教はこの国の王である支配者が出した「禁教令」によって禁止され、それと相まって出された「寺受け制度」と相まって、日本の仏教化が完成します。<--リンク

キリスト教伝来までに日本国内が武士によって統一されていた為にそのようになりました。

でも支配者層が自分たちの魂の救済をキリスト教に求めていたら話は大きく変わってきますが、そのようなことは起こらなかったのであります。


一方ジャワではイスラム教が広がり始めます。

249.ドゥマック王国の勃興<--リンク
・・・・・
マジャパヒト王国の衰退は内紛もあるが、東南アジアを取り巻く状況の変化である。

交易の中心はイスラム教を奉じるマラッカ王国に移り、イスラム教の影響がジャワ島に及んだ。

ヒンドゥー教を奉じる大帝国マジャパヒトの覇権は次第に色褪せ、領土はイスラム勢力によって蚕食(さんしょく)された。
・・・・・

インドネシアには常に西方から海を渡って宗教が伝わってきた様です。

それも宣教師が先行したわけではなく、海洋貿易にたずさわっている商人たちが最初に伝えたのでありましょう。

そういう訳で、今回のイスラム教も前回のヒンドゥー教や仏教と同じような経路でインドネシアに伝来してきたものと思われます。

そうして、このあと紆余曲折をたどりながらもイスラム教は広まり続け、インドネシア列島のイスラム化が完成するのでありました。

こうしてインドネシアの人々はイスラムによる魂の救済を受け入れる様になったのであります。

PS
インドネシアの宗教の歴史一覧(リンク集)です。<--リンク(修正済)

それぞれの項目をクリックすると詳細が見れます。

ジャワ宗教にはこちらから入れます。<--リンク(修正済)

世界宗教の概要<--リンク

PS
人類というものは大差ないものだ、という、ちょっとした追加のお話です。

スティーブン・ケイヴ: 死について私達が信じる4つの物語<--リンク

PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク

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文字サイズはページ右上で変更できます。

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