ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

等価交換則あるいは修行論

2015-04-24 | 日記
ハガレンで一躍有名になった等価交換則、「価値あるものを得る為には相応の対価が必要」というものであります。

さてラティハンでは一見その法則が破られているかのように見えますね。

「我々は何をすることもなくラティハンに任せていれば浄化できる」と。

そうして「どんどん進歩して最後には本当の自己意識が覚醒する」と。

さあ本当に「そんなおいしい話」がこの世の中に存在するものなのでしょうか?

もし存在したとすれば「ハガレンも真っ青」でありますね。


ところで今までの修行の概念では「まずは修行して自分を浄化する。」

「そうすれば自己意識が覚醒する」とまあそういう手順ですね。

でもラティハンでは順序が逆になります。

修行をする前に浄化が起こります。

我々の側の一切の努力なしに浄化が起こるのですよ。

これは本当に「べらぼうな話」でありますね。

そうして、そこだけを見ていると確かに「等価交換則が破られている」ように見えます。

「何の対価も支払わずに浄化が起こる」のですから、これはもう大変なことですね。


さあそれでラティハンのたびにその浄化が進行して、ついには自己意識の覚醒に至るかというと「そうは問屋がおろさない」のでありました。

それではまるですべてがタナボタ、ベルトコンベアでの自己覚醒の大量生産となります。

あるいは「自由意志の否定」とまでは言いませんが、そういう状況にもみえますね。


さてどうしてそうならないかといいますと、「ラティハンが浄化した分を我々がまたもとに戻すから」です。

修行ができていませんから我々は自分自身を浄化することはできません。

でも汚すことは大得意ときています。

やりたい放題、したい放題の生活ではたいていはそうなりますね。


さあそういう訳で、ラティハンでせっかく浄化をしてもやりたい放題でまたもとに戻すと。

これではねえ、なかなか前には進みません。

そういうわけでやっぱり「対価の支払い」が必要になるのですね。

どこで支払うのでしょうか?

ラティハンでですか?

いいえ、違います。

ラティハン以外の日常生活で支払うのですよ。


たいていは自分がどこで「やりたい放題をしているか」わかっているものですね。

まああきらめて、そこから少しづつでも直していくのですよ。

それが「対価の支払い」です。

そうやって「少しづつでも浄化の貯金をふやしていく」以外に手はありません。


「私は全然やりたい放題の生活などしていない。」ですって。

それではきっとラティハンの進歩も早いことでしょうね。

「いや、それがあんまりそう感じられないのだが・・・。」ですか。

それは状況が最悪ですねえ。

あなたは「やりたい放題はしていない」と思っていても「あなたのラティハンはそう認めてはいない」ということですものね。

もう少しラティハンのいう事に耳を貸さないとだめな様ですよ。


それにしてもラティハンの気前の良さには頭が下がりますね。

「のぼるの苦手そうだから手を引いてあげる。しっかりつかまっている様に」と。

そうやって少しのぼって休んでいる時に我々は遊ぶのに忙しくて、それでつい手を放してずるずると下に滑り落ちるのですね。

そうしてまた「しょうがないなあ。」とか言われながら手を引いてもらう。

我々が手を引く側ならすぐに「いいかげんにしろ。」と言うでしょうね。

でもラティハンは何回でも引き上げてくれている様であります。

さてこの支払い、いったい我々はどうするつもりなのでしょうかねえ。


PS
バパも二代目も言います。

「ラティハンを定期的に実習しなさい。」

「そうして、ちゃんとした生活をしなさい。」

「そうすれば進歩しますよ。」ってね。

そういわれた時に何故か我々の耳には1番目と3番目のみが聞こえてくるのです。

そうして2番目に言われたことがさっぱり聞こえません。

でもお二人ともしっかり言ってますよ。

「進歩する前提条件は2つだ」とね。


もっともお二人にとっては「ちゃんとした生活をする。」のは当たり前すぎてデフォルト(わざわざ言及する必要のない事)になってます。

それで時々ことばを省略されるのですね。

そうして我々はそれを自分の都合の良いように解釈します。

「そうか、ラティハンだけやってれば進歩するんだ」ってね。

いやいや、実はそれは大変な誤解なのでありました。

スシラ ブディ ダルマ 14キナンティ章16
               18プチュング章3
63・2・27  パース
63・5・13 サンチアゴ
63・7・15 ブライアクリフ
66・10・31 バンドン 
69・10・15 チランダ
77・7・15 ロッテルダム
80・11・9 チランダ
85・6・11
86・8.10 チランダ 
02・2.25 ベトナム
 etc

63・6・30 メイプルウッド
・・・したがってあなた方がそれ(Rasa-Diri)を汚すのをやめ、その汚れを浄化するであろうラティハンを通じて神に全托することはとても重要な事なのです。
それがさらに浄化されるにつれて、あなた方は自分が生きる道や自分の人生のパターンを見出すでしょう。
このようにしてあなた方は自分が探し求めているものと、人生において自分が必要としているものを見出すでしょう。
なぜなら、確かに人間の運命を作るすべての事は人間の自我の内部(Diri-Pribadi)に書かれているからです。

PS
等価交換則

等価交換則は物理学では作用反作用の法則(Newton's third law)の形をとります。

経済学では初めは物々交換のルールで現れて、そうして今では貨幣ー物、あるいは貨幣ー貨幣交換則になりました。

あるいはエンタプライズ論では労働ー貨幣交換則は会社成立の基礎となります。


さて従来の修行論では、「修行(あるいは苦行)の原因に対して結果としての成果(浄化、悟り、覚醒、解脱etc)が釣り合う」という形になります。

でもラティハンでは対価の支払いなしで浄化が先行します。(ここが奇跡的なところで、「ラティハンがワヒュー(wahyu・天啓)である」といわれる所以ですね。)

しかし残念なことにこれは通常は我々の不注意によるナフスの作用によって打ち消されて消滅しています。(ラティハンによる浄化とナフス(nafsu)による再汚染)

そうしてラティハンでの進歩は「この先行して現れる浄化を積み重ねること」によって可能となります。(ラティハンによる浄化とちゃんとした生活による対価の支払い)

この為に人が行う努力の方向は従来の「浄化のための修行」=>「山の上での瞑想」から180度変わって「浄化されたものを元にもどさない」という修行=>「注意深い生活」となるのでした。

こうしてラティハンでも最終的には等価交換則が成立することになるのですね。(世の中は平等にできています。)


さて等価交換則、鋼錬(ハガレン)流アルケミーでは御存知の形をとりますが(詳細は原典を確認願います)、錬金術一般での詳細については不明です。

以上でありました。


PS
通常は無意識レベルまで染み込んだ我々の習慣はなかなか変化させることはできません。

でもラティハンの力はそこまでも及ぶ様であります。

ですので浄化や修正は本当に基本的なところから起こります。

但し「我々がそれを意識できて、なおかつ浄化を意図するならば」という話ではありますが、、、。

そうしてそれは多分大きなジワ(jiwa)を得る為には何度も通らなければならない「死と再生の物語」でありましょう。


PS
バパはどこかのトークで「あなたがたは植えもしないものを刈り取るかのごとくだ。」と言われた事がありました。

でもそれはその時に一時的にそう見えただけで、結局はそのようなことは誰にもできなかった、、、というのが現実の様であります。


PS
ラティハンの道にたとえば修道僧や修行僧のように、もっぱらラティハンを集中的に行うことで早く進歩する、という方法は基本的に存在しません。

ラティハンは基本的に週2回で十分であり、せいぜいがやれたとしても週3回程度までです。

ラティハンによって浄化されるなら、いっぱいやればそれだけ早くなる、、、というのは人間が頭で考えた理屈であって、実際はそうはいかない様です。

それよりもラティハンで浄化された部分を、いろいろな雑事をしなくてはならない日常生活の中ででも、浄化される前の状態に戻さない、、、という事の方がポイントであり、我々が努力をしなくてはいけない所になります。

つまりは静かで落ち着いた修道院やお寺などではなく、この騒音と誘惑に満ちた俗世間が我々が修行を行う主な場所となるのであります。


知性と欲望を与えられた人間が作る社会というものは、遅かれ早かれそのような猥雑な世界を作ることになるものと思われます。

そうして、そのような現代社会に適応した修行方法がラティハンなのであります。

普通に生活しながら修行ができる、ラティハンというのはそういう道であります。

しかしながら、だから簡単な、たやすい道である、、、という理解は、我々の誤解でした。

そうではありません。

どうやら、いつの時代でもその時代に適した修行方法があり、そうしてそれを達成する難しさというものは、人間にとってはだいたい同じ程度のものになるようであります。

つまりは、外的な環境と内的な環境に合った修行方法が常に存在し、達成できるか出来ないかは、いつも我々自身の問題である、という事になるのでありました。


PS
「ラティハンの状況が煮詰まっているなあ」、、、という時に、一歩踏み出さなくてはいけないのは、どうやら常に人間の方であるようです。

我々が大抵「これは変えたくない、手放したくない」というものを後生大事にかかえこんでいるか、もしくは「まあこんなところか」と決めているか、まあそのどちらかでありましょう。

「ラティハンの今あるその先を目指す」というのならやはり、それなりの決心と行動が必要の様です。<--リンク

コトバこそ違いますが、バパも二代目もそのように言われております。


PS
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トークの解釈

2015-04-03 | 日記
バパがいろいろな国でいろいろな聴衆を前に語った「おはなし」を書き起こしたものが「トーク」です。

多分ジャワ語で語られたのでしょうから、それから各国語に翻訳されています。

さて、バパが亡くなってしまうともう新しいトークは出なくなります。

そうすると今度は「トークの解釈」あるいは「トークの要約」が始まります。

たとえば「~ハンドブック」とかいうものですね。


1700もあるというトークをすべて読み切れる人はなかなかいません。

そうしてその結果として「トークが何を言っているのか」をすべて理解できた人はさらに少ないでしょう。

時代によってトークの語り口も変化しますし、その結果「表現上矛盾した言い方」も現れていますしね。


そういう訳で「用途に応じた要約集」が必要になってくるのでありました。

そうして「要約」というのはこの場合はほとんど「解釈」と同じであります。


さて、このあたりの状況はコーランでも全く同じでした。

以下は井筒俊彦著 『イスラーム文化 ―その根底にあるもの― 』(岩波文庫)についての紫源二さんの論考です。<--リンク

2、イスラーム法の成立 (シャリーア )

イスラーム法が成立したのは、預言者ムハンマドの没後まもなく、西暦八世紀の初めから九世紀にかけてのことである。
・・・・・・

そして、以上のような背景から、神の代理人としてのムハンマドの没後、イスラーム法の成立の過程で、“神の意志の探求”という大事業が始まった。

「元来、人間の理性ではどうにもならない、その意味でまったく非合理な啓示を素材としながら、それを徹底的な理性の行使、合理的思惟によって解釈していく。

そしてそれを法的組織にまで体系化したもの、それがイスラーム法です。」(p157)と著者は語っている。

そして、この神の意志の探求は、コーランという唯一の神からの啓示の書の“解釈学的展開”としてなされたものである。
・・・・・・

3、「イジュディハードの門の閉鎖」

 上記のように、『コーラン』と「ハディース」という絶対的権威を合理的に解釈して法的判断を下すことを、法学の用語でイジュディハードという。

しかし、西暦九世紀の中頃、このイジュディハードが公に禁止される。

人間生活に関するあらゆる重要な問題はもう出尽くし、それに対する法的解決も完全についてしまったとして、それ以降は、すべて昔の権威者が解釈してくれたとおりに判断すべきであるとされた。


この「イジュディハードの門の閉鎖」によって、「イスラームが収集すべからざるアナーキーに陥ることだけは避けられました。

・・・しかしその代わり、活発な論理的思考の生命の根を切られてしまったイスラームは、文化的生命の枯渇という重大な危険に身をさらすことになるのであります。

事実、近世におけるイスラーム文化の凋落の大きな原因の一つでそれはあったのです。」(p163)と著者は分析している。
・・・・・・

このようにイスラーム法によって、外面的には共同体の社会構造ががっしりと制度化され、宗教が政治の場となったが、「信仰の実存的なみずみずしい生命力は失われて枯渇しそうになってきたことも、また否定できない事実であります。」(p165)と著者は語っている。

注)ムハンマドの言行録を「ハディース」といい、「『コーラン』を補足し、補充するもの」の様であります。


さて、解釈を固定した結果起こったことのキーポイントは2つ。

「イジュディハードの門の閉鎖」によって、「イスラームが収集すべからざるアナーキーに陥ること」はさけられた、、、と。

でも副作用があった。

「文化的生命の枯渇」と「信仰の実存的なみずみずしい生命力は失われて枯渇しそうになってきた」という重大な危険に直面することになった、、、と。


まあたいてい物事には作用と副作用がつきものでありますから仕方のないことではありますが。

それでも「他山の石」と古人も申しております。

気をつけなくてはなりますまい。


さて次はシャリーアとハキーカについて少々。

以下、同様に上記論考からの引用です。

Ⅲ.内面への道 (スーフィズム)

1、ハキーカ(haqiqah)

「外に現れた形の背後あるいは奥底にあって、それを裏から支えている内的リアリティー、それをハキーカと名づけるのであります。

すなわちハキーカとは、可視的なものの不可視の根柢、文字どおり存在の秘密です。

「秘密」ですから、勿論、ふつうの人の目には見えない。

つまり、ふつうの状態における意識では認知することができません。

意識のある特異な深層次元が開けて、一種独特の形而上的機能が発動したとき、はじめてそこに見えてくる存在のリアリティーなのであります。」(p181)


この内面的形而上的リアリティーの根柢である“ハキーカ”と外面的世俗的リアリティーを規定する“シャリーア”とを対比させ、この間の相克がイスラームを歴史的に何度も危機に陥らせた原因であると著者は分析している。
・・・・・・

さて次はバパのシャリアットとハクカットについての説明ですね。

『 3.神への道を発見しようとするこれらすべての企ては、四つの形式を備えた二つの道に分けることができます。

最初の二つの形式は「シャリアット(shariat)」及び「タリカット」と呼ばれるものです。

シャリアットには神への道を探求するという意味は少しもありません。

なぜならそこで要求されるのは単に信仰だけであるからです。

つまり過去において啓示を受けた人々の助言を信仰していれば、そのような信仰によって、彼は真直に神のもとに到り、神は信仰あつい人を見守って下さると考えられます。

第二の形式がタリカットです。

これは、信仰の内面的な意味を発見する道ということです。

例えば、或る場所がよいということがわかっている場合、シャリアットとしては、その場所を知り、ただそこへ行けば充分でしょうが、タリカットの場合はそうではありません。

夕リカットは何故そのよい場所へ行くのか行った結果はどうなるか、そしてその場所でどんなことが発見されるかを知ろうとするのです。  


4.これら二つの形式とは別に「ハクカット(hakekat,hakikat)」及び「マクリファット」と呼ばれる高次の二形式があります。

真の人間は、これら四つの形式全部の特性を兼備しているべきであるといわれていますが、通常の人間は、最初の二つの形式を備え、実践しているだけであります。

これはハクカットが人間の努力の結果として生れるものではなく、人間の努力がすべて止んだときのみ現われるものであるからです。

このハクカットは、人間が、白已の努力はすべて無益であると悟り、ハクカットは神の御意志によってのみ人間におとずれるという真実をしるようになるときにのみ存在するのです。
・・・・・・』

こうして「シャリーアとハキーカ」、あるいは「シャリアットとハクカット」については「バパの認識と井筒俊彦氏の認識はほとんど同じである事」が分かるのであります。


最後にワリ(Wali)について少々。

3、スーフィー(修行によってワリーになる)

シーア派では、イマームは、ハキーカ(可視的なものの不可視の根柢、存在の秘密)に通じているワリーであるが、生まれや血筋によって先天的定められている。
( 引用注:たぶんシーア派ではワリというコトバは使わないはずです。)

しかし、スーフィズムでは、修行によって誰でもワリーになれる。

そして、この修行とは、現世否定、具体的には禁欲生活、苦行道の実践という形をとって現れ、自我の意識を払拭することによって、自分の内に創造的に働くハキーカを見出し、神に会うことを目的とする。



さて次はgkmond氏による同書への書評からの抜粋です。<--リンク


多数派のスンニー派の考え方では「隠者とか、世捨て人というものを人間の正しい生き方としては認めてない」様であります。


そしてシーア派やスーフィズムというものもあり、このふたつはハキーカ中心主義であるのは同じである。


シーア派は聖と俗をはっきり区別する点で、スンニー派と対立する。

シーア派の最高権威者をイマームと呼ぶ。

シーア派の中心を占めるのはそのイマームがこれまで十二人しか現れていないとする「十二イマーム派」という宗派である。


スーフィズムの方は、意識的に世をいとい、世に背く点でスンニー派と対立する。

またイマームを通さずハキーカへ至るという考え方の点でシーア派とも対立する。


この三つの流れが自らを正統とだと主張し合う歴史がある意味ではイスラームの歴史だと著者は言っている。
・・・・・・

こうしてバパのトークにもよく登場するワリ(Wali)というコトバですが、本来はスーフィズムのコトバであることがわかるのでありました。


それから、ジャワの伝統的イスラム(ジャワイスラム)とはどうやら「スンニー派とスーフィズムとkejawen(伝統的ジャワ神秘主義)が融合しあった、あるいは折衷しあった(おりあいをつけた)イスラム」の様でありますね。

それに対してムハマディアのようなモダニストイスラムはスンニー派と思われます。

ちなみにスンニー派とは「預言者ムハンマドの時代から積み重ねられた『慣行』(al-Sunna スンナ)に従う人々」ということだそうです。


PS
バパの新しいトークが出なくなりました。
   ↓
「トークの解釈」あるいは「トークの選択」によって「~ガイドブック」ができました。
   ↓
「~ガイドブック」が「教本化」します。
   ↓
「教本」ができたので「教義」がきまります。
   ↓
「教義」がきまりましたので、これで「宗教化」の完成です。
   ↓
・・・・・・
というような事にしてはいけませんよね。


バパも言っておられます。
『・・・・・・・・
あらゆる宗教(に従う人)はラティハンヘ来て、そこで礼拝している。

若し、人が自分の固有のそういう本を受けたならば、その時には彼は最早、他の全ての本を受ける事はなくなるであろう。

何故ならば、そういう本というものはドグマだからである。

そして、一つのドグマは他のドグマと決してピッタリ一致はしない。

しかし、我々の会の中にはドグマはないのだから、そういう本、聖典はないのだから、 あらゆる宗教が我々の協会に入る事ができる。

或る宗教の信者が一度我々の会に入れば、彼に与えられるものは、彼の自我から、そして、彼の自我に合致して訪れて来る。

そこで、そういう人達は知るのだが、 宗教、つまり、真の宗教というのはナショナリスティックなものではない。

そこにはナショナリスティックなものはないのである。

「神は全ての人間にとって同じであり、一つであるから」という事を悟る事が出来るのである。

そして、各人が自分の性質に則って、添って受けるのである。
・・・・・・・・』
(84・7・6 CDK)


PS
「イスラーム文化」井筒俊彦著 はイスラーム入門には良い本でした。

バパという方を理解するためにはイスラムの理解はマストでありましょう。

そしてジャワイスラムはスンニー派の教えにスーフィズムが色濃く混じり合ったものです。

ですので、ジャワイスラムを理解する上でもぜひご一読の程を。


PS
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