ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

エンライトメント、光明、悟り、、、

2011-11-25 | 日記
エンライトメント、光明、悟り、そういうテーマの本をどれほど読んだのだろうか。

近頃では、そういう本の「吸引力」がまるで働かなくなって、本屋でもそういう本の
コーナーを通りすぎるだけになってしまった。


本をいくら読んだところで、所詮はそれだけのもの。

そういうことが体感されてしまった。


春風のなかを「散歩」するのは気持ちのいいもの。

そういうことが書かれた本をいくら読んでも、本当の事はわからない。

でも、自分で「散歩」してみりゃ、すぐにわかること。


結局は自分で体験しないことには、なにもわからない。

ただ、それだけのこと。

なにも難しい話ではない。


いや、「悟り」や「光明」を得るのが難しくないと言っているのではない。

古来から多くの人が苦労を重ねて、それでもなかなか得た人は少ない。

それはわかっている。


ただ、本をいくら読んでもそれは「本を読んだ」ということだけのことで
「光明」や「悟り」とはなんの関係もないということの理解。

この「理解」は、わかってしまえばそんなに難しい話ではない。


こんなに単純なことが分かるのに、どれぐらい時間を使ったのだろうか。

でもまあ、人生はこうやってしか進んでいかないもの。

これもまあどうやら真実らしい。


単純な事が「わかる」ということは、すごいことだと思う。

そんな事を実感している、今日この頃です。

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ラティハンを始める人、やめる人

2011-11-18 | 日記
ラティハンを始める人がいれば、やめる人もいる。

引き留めてもなかなか無理な話で、その人なりに出した結論は変わらない。

一生懸命に「お誘い」しても、長続きする可能性は低い。

始めたりやめたり、こればっかりはその人の自由意思にまかされている。


私もオープンする時は「ああでもない、こうでもない」といろいろと悩んだもの。

それで、よくよく考えてオープンした人が、そのあともずっと続いているかというと
そうでもなかったりする。

はた目、かーるい気持ちでオープンしたような人が、やめることなく
続いていたりする。


こればかりは相性の問題で、なかなかどうこうすることはできにくい。

その時のそれぞれの人の状況が、それに輪をかけてくる。

だから、10年20年続いている人は、本当に感謝すべきことなのである。


ラティハンにしろ何にしろ、せっかく生まれてきた世の中ですから、
「物は試し」の気持ちでやってみることは大切だと思う。

考えてばかりいても何も変わらないし。

やってみてだめならほかをあたる、霊的な道だろうと世の中のことだろうと
そうやってしか人間、前には進めないようだ。


たいがいの事は、それなりに考えて「あぶないかな」と思いつつやることは
そんなにひどいことにはならない。

かえって、「これなら大丈夫。」と思い込んだ道の方が危なかったりする。


それにしても、「どれかの道を選ぶ」というのは大変なことだとは思いますよ。

それでも「どれかの道」を選んで歩いていかないと、前にはすすみません。

人生とはやっかいなものですね。

PS
周りのラティハンのヘビーユーザーを見回してみると、やっぱりバパを直接知っている人が多い。

そうしてそれはまあ当然と言えば当然のこと。

あれだけすごい方にはそうそうお目にかかれるものではない。

そうしてまた「そうか、ラティハンを続ければあんな風になれるのか」などと誤解して、熱心にラティハンにいそしむ。

まあそうやって、なんだかんだで続いてきている様子です。


かたやバパを知らない人は、「さて、ラティハンを続けるとどんな風になるのかな」などと考えて先輩方を観察します。

そうすると、まったくいろいろな人がいて、それぞれが自分独自の思いをもって生きておられる様子。

まあ、おおざっぱにいえば皆さん、基本はお人好しでそれ以上でもそれ以下でもない、まあ普通の人にしか見えません。


さてそうであれば意見の食い違いやら何やらでもめることもあります。

そんな様子ですから、まったく普通の人のあつまり、町内会のあつまりと変わりはありません。

そうであれば、気の合う先輩もいるでしょうし、合わない方も出てきます。

まあそういうわけで、周りの先輩諸氏からはどうにもラティハンの効果、あるいは恩恵のようなものが感じられません。

そうしてそのような状況を新たに参加した新人さんは自分の価値基準をもって「ああ、これは大したことがないものだ」と判断します。

そうやって先輩方に対する失望の中で多くの人がラティハンから離れていった様に思われます。


そうやって離れていってしまった方々を批判するつもりはありません。

実際のところ、個人的にはそのような経験もしました。

それでは何故いままでラティハンを続けられたのでしょうか?

実際のところ、パパを知っていた、と言う事は大きな事であったでしょう。

バパを通じてですが、ラティハンと言うものが諸先輩方が表現しているレベルで終わるものではない、という確信がありました。

そうであれば、道の途上にある我々が理想的なありようからいくら離れていたとしても、まあその事で多少は失望はしますが、それでラティハンをあきらめる、見切りをつけると言う事はなかったのであります。(2017。6.24)

PS
ラティハンの魅力は何と言ってもその自由度の高さにあります。

宗教のように、特別に信じなければならない様な教義や信条、特定の儀式もありません。

それぞれの人がそれぞれの性質に従って受けるラティハンがそこにあるだけであります。


特定の宗教をお持ちの方はそれを信条にして生活されればよく、宗教ではなく科学、あるいは思想、一般的な常識などの内から好きなものを選んで自分の信条にされればよいのであります。

つまり現状のありようから何かを強制的に変える必要などはなくラティハンを始められるのであります。

この自由度の高さは特筆すべきものでありましょう。

霊的な道を名乗る他の道にはないものの様に思われます。


「それでは何も変わらず、ラティハンを受ける意味がないのでは?」といわれますか。

そうですね、ラティハンのスタートというものはそのようなものです。

しかしながらあなたがラティハンを継続するにつれて「ここはこうした方が良かろう」という修正項目があなたのラティハンから出てきます。

そのあたりがまずは分かれ目でしょうか。

「いいや、そうはいうものの、そこは変えれない」とあなたが言うならば、それこそ何も変わりません。

「そうだねえ、それでは変える努力をしましょう」ということになって、ようやくあなたのラティハンは次のステップに進む事が可能になるのでありました。

PS
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ラティハンは気長な道

2011-11-11 | 日記
ラティハンの発展するスピードは、受けているその人の状況に自動的にあったものに
なっているようだ。

自分で「やる」事が出来ないラティハンというのは、進歩を強制できないという事である。

それで現代社会に適応した、忙しい心、進歩したがりの心にはとても遅く感じられる。


ちょうど植物の種をまいた時の様です。

土を耕して、水をやって、雑草をとって、あとはお日様まかせ。

そのしんぼうができるかどうかということですね。


植物なら毎年のことだから、様子がわかっている。

ラティハンは、生まれて初めてのことだから、様子がわからない。

それで心が騒ぐ。

頭が働く。

不安になる。

あせる。

そんなふうな「ごたごたした心」では、またうまくラティハンを受けれない。

これはもう悪循環ですね。


こんなときはどこかで思い切らないと仕方がない。

まあ早い話が、諦めるのですわ。


なにを諦める?

進歩したり、うまく受けたいという「欲望」を諦めるのですね。

それでもって、「立ちダルマさんでもしようかい。」ぐらいの気持ちでラティハンにのぞむ。

まあ、それができりゃそのうちにまた歯車が回りだします。

ラティハンは気長な道ですから。

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ラティハンと心

2011-11-04 | 日記
よく理解できる頭、努力する心は、この世の生活には必要なものです。

社会的に評価されるようなものをつかむためには、人は一生懸命に努力しなくてはいけません。

そのような「教育」を学校でも社会でも我々に対してしています。

社会に適応する為には、それは必要なことですね。


でもラティハンと向き合った時には、そのような「心」や「頭」は全く必要ありません。

「立派な心」や「ピカピカな心」、「元気いっぱいの心」などは必要ないのです。

「ありのままの心」、でいいのですが「悲しみ」や「悩み」がいっぱいの時は心が波立っているのでこまります。

また、「目的」にあまり執着した心は固くなりすぎて余裕がないのでこれもこまります。


必要な心は、ただ「ラティハンを信頼する」という気持ちが入る余裕のある心。

緊張してない、ゆったりした心がいいのです。


最初の内は「信頼しろ」といわれても無理なところがあるので、「ラティハンにまかせるよ」という程度でいいのですが。

ラティハンがしたいようにすることを「許す」という程度でいいでしょう。


「人に対して思いやりがある心」や「やさしい心」もラティハンにはあまり関係なさそう。

「静まった、静かな心」は必要ですね。

ラティハンの直前には、世の中の喜びや憂いから離れていなくてはいけません。

「離れろ」と言っても、なかなかできませんので、「静かにしている時間をとる。」でいいでしょう。


「十人十色」のその人の性格やら心やらに合わせて、ちょうどいいラティハンが起こりますので、心を「ああして、こうして。」はありません。

鼻の頭の先を注視する必要もなければ、腹式呼吸をする必要もないのです。

「姿勢が悪い」といわれることもありません。


ラティハンそのものにテクニックはありませんから、「うまい、へた」はありません。

そのかわり、いままで生きてきた自分の生き方の結果や親から引き継いだものは自分のものとして持ってゆかねばなりません。

自分がやったことは「自分の責任」というのはわかりますが、「親からもらったもの」も責任をとらされるのはなかなか納得がいきませんが、そうなっているのですからしかたありません、あきらめましょう。


そういうもの、「ごたごた」や「重み」や「汚れ」はラティハンが洗ってくれる対象物です。

「汚れ」が多い内はなかなかラティハンを実感できない場合もありますが、そこが忍耐です。

急きたてる「心」をなだめて、すこし「アホ」になって、ゆっくりと行きましょうや。

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