ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

雑記帳23・アブラハムの宗教に従う人たち

2019-04-17 | 日記
イスラムやクリスチャン、そうしてユダヤ教などのアブラハムの宗教に従う人たちがラティハンを修しています。

(ラティハンを修するイスラムの多くはインドネシア人で、クリスチャンは欧州と南北アメリカ大陸各国とオーストラリア、ニュージーランド、そうしてユダヤ教はイスラエルとなります。)

バパがイスラムでしたから上記のような方たちはバパのトークの多くの部分に共感をもてたものと思われます。

そうして、バパもそれをよしとされたようです。


さて、上記のような信仰を持っている方たちは「唯一の神を信じなさい」という要求に対しては当然ながら、「わが意を得たり」と反応したのであります。

自分たちが従ってきた宗教はバパによっても認められたと感じたでありましょう。

そうしてバパも「今まで従ってきた宗教にこれからも従って行きなさい」といわれましたから。

ラティハンを受けるようになっても、従来の信仰には何の影響もなかったものと思われます。

そうしてバパがいう「ラティハンは神への礼拝である」というコトバは心地よく彼らの耳には聞こえたでありましょう。

従来通りの自分の信仰をもちながら、従来通りの宗教が教える礼拝を実践しながら、その上にさらにラティハンという「新しい神の礼拝方法」も実行できる、と言うのは何と素晴らしいことであるか!

そのように感じてもおかしくはありません。


さてそれで、ラティハンが到達すべきステージ、ロハニ、あるいは理解のステージにはどれくらいの方が到達できたのでありましょうか?

ラティハンというものはそれ自体で、それぞれの人が進むべき道を示してくれるものであります。

そうして人は其の道を歩くことによってのみ、内部が成長し、自分のジワを認識できるようになるのであります。

そのようにして成長してゆく時に、あるところまではそれまで自分が持っていた宗教はシェルターのようにその人を守ってくれますが、あるところからはそのように「外部にある教え」の頼るのではなく、内部から来る導きに従う必要が出てきます。

そうしてそのように内部から来る導きに従う事ができなければ、ラティハンの進歩というものはそこで足踏み状態になるでありましょう。

そうでありますから単に「ラティハンは神への礼拝である」というコトバを喜び、そうして自分の宗教を信仰している、というステージで満足してしまっては、それではラティハンがもたらしてくれる成長を実現することは、実感することはできないものと思われます。


さて、この話のポイントはなんでしょうか?

「ある特定の宗教のよき信者さんである、と言う態度と、ラティハンでロハニのステージに、あるいは理解というステージに到達する、ということははたして両立する事なのか?」という問いかけであります。

個人的な見解ではありますが、そこには意識して乗り越えなくてはならない壁が存在している様に見えるのです。

単純に素直にある宗教の教えを守って生活しラティハンを続けている、というだけでは、それは悪くはないのですが十分ではないと思われるのですよ。

PS
いくら慣れ親しんだ服であってもそれはやはり既製服であります。

それはけっしてオーダーメイドの服を超える事はないのであります。

しかしながら、「いや俺はこの服が好きなんだ」というならば仕方ありません。

その人は其の服を着続けることでありましょう。

PS
さてそれでバパのトークは、バパが与えてくれたガイドラインは既製服でしょうか?

それともオーダーメイドの服ですか?

まあその判断は読者の方々にお任せすることにいたしましょう。

PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。

さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。

それではラティハンではどうでしょうか?

ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。

そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。

さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。

追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。

バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。

そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。

そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。

したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。

しかし、本質はごまかす事はできません。

そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。

追伸2
さてその様でありますから、逆に自分の信仰に絶対の信頼を置いておられるムスリム、あるいはクリスチャンはバパの協会に入会するだろうか、という疑問がそこにはあります。

通常の宗教的な行為、実践だけで信者さんは天国に至る、あるいは緑園に至る、というものが宗教が教える事であります。

その事を本当に信じる、とするならばそこにはラティハンが入る余地は見当たりません。

さて、その事はやはりパラドックス、矛盾でありましょう。

こうしてアブラハムの宗教に従いながらラティハンを受けている人たちにも本質的な疑問点が存在している事が分かるのでありました。

そうしてその事がまさにイスラム発祥の地にラティハンが広まらない理由でもある様に見受けられます。


PS
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雑記帳22・「理解のステージ」に挑む者たち//

2019-04-02 | 日記
「神秘的体験とラティハンと」から少し引用します。

『1、ラティハンによる個人の成長のステージあるいはレベル

当然ながらそれぞれのレベルで個人が経験する体験は異なったものになる。

(1)、運動・浄化
    ↓
(2)、感覚・準備
    ↓
(3)、 理解
    ↓
(4)、真の個性・意識』

(4)に達したものは時が至ればロハ二rohaniに至る、とは二代目の説明であります。(On The subud Wayより)

そこに到達したものは死後は輪廻転生の輪から離脱し、ふさわしい所に住む事になる、とそのように言われております。(ジャワにイスラムを広めたとされる、9walisの様な聖人レベル)


さて、(1)と(2)はまあそれなりに長年ラティハンをやっていれば到達できる所かと思われます。

そうして、問題は(3)と(4)であります。

(4)が最終目的地ではありますが、その前に(3)を通過しなくてはなりません。

そうして(3)の「理解のステージ」、これがなかなかの難物であります。


さて、理解のステージに到達しますれば、我々は他人に聞く必要がなくなり、自分の状況や、そうですね、疑問に思った事については何であれ、それに対する回答、あるいは理解が得られる、と認識しています。

まあある意味、バパがそうであったような状況に似てくるのでありましょう。

そうであれば、これはまるで知的なスーパーマンの様ではありませんか!

他人から聞かれた事について、全て回答を与える事が出来るようになる、、、のであれば。

、、、と言うような考え方はまあ、妄想でありますね。

その人の人生にとって、生命にとって必要な解明は、理解は与えられるでしょうが、どこぞの易者の様に、占い師の様に、人の悩み事を解決するためのものではないでしょうね。


それでも、そのようなステージに到達できれば、それはそれで素晴らしい事であります。

それでまあ我々は一生懸命にラティハンに励むのでありますが、なかなかどうしてそのレベルに到達しません。

さて、それはどうしてでありましょうか?


振り返ってみますれば、ラティハンというものは体が自然に動き出す、という事がそのスタートラインです。

手や足が勝手に動き、声が勝手に出たりします。

そうして、それは奇妙な事ではありますが、ラティハンというものがそういうものである、という説明をうけていますから、あえてそれに逆らう様な事はしません。

そうして次はいろいろな事を感じたりするレベルに移行します。

人の状態を感じてしまったり、離れている人の状況を感じてしまったり、まあそんな事が起こります。

それもまた不思議な事ではありますが、まあそんな事があるだろう、という説明やら体験談がありますので、特に反発するような事でもありません。
(とは言いますが、あまりに敏感になりすぎると少々社会生活に、会社生活に支障をきたす事もありますね。)


まあここまでは何とかこれますね。

で、問題はこの次の「理解」です。

前の二つは実は「自分」あるいは「私」と言う様に我々が認めている、自分自身のアイデンティティーそのものの修正は、変化は伴わない様に見えます。

しかしながら理解のステージでは考え方やら世界観やら信条やら、そういう各自のアイデンティティーと関連性を持つものの修正やら変化が引き起こされる事が予想されます。

我々が自分自身のアイデンティティー、あるいはペルソナとして保持している物は生まれてからこの方、この年齢になるまでに我々が過ごしてきた、あるいは勉強してきた、あるいは社会によって訓練され条件つけされたもの、そういうもろもろのものから成立しています。

さてそれが本来の我々の個性、魂、ジワと整合性が取れている、と言う保証は実はないのだ、とバパは言います。

それゆえにラティハンによって修正が必要になる、と。

そういうわけでラティハンは内部の深い所、まあ無意識といってもいいかもしれません、そんなレベルから修正を始めます。

しかしながら我々が「いいやこれはこういう偉い人が言った事だから、そのように考えなくてはいけない。」というように一つの考え方に固執するならば、そこで修正は止まってしまう様です。

あるいは「これが自分が今までの人生から導き出した結論である。」という自論に固執しても同じであります。

そのような、ひとつの考え方、思考、信条、教義に固執するならば、ラティハンの修正作用はそこで足踏み状態になるでありましょう。

それが「理解というステージに到達する事の困難さ」を作り出している様に思えます。


それではどうすればよいのか?

そのような「自分が正しく理解している」と思っている物をとりあえず放り出すことですね。

そうやって白紙状態で、ゼロベースでラティハンを受けていく。

そうやってどうなっていくのか観察してゆく。

そういうやりかたのほかには道はなさそうであります。

PS
現状の自分の存在が何の影響も受けずに、単に知らなかった事に対する知識を与えられて、知識量が増大する、そんな風に「理解のステージ」を我々は考えがちです。

つまりは「単に知識という情報が増える」と、プラスされると考えます。

欲張りな我々は「それならばありがたいことである、ウエルカムである」ととらえがちです。

しかしながら「理解のステージ」というのはそういうものではなさそうです。

まずは我々が自分の思考、固定観念、そういうものを削り落としていく作業が必要でありましょう。

つまり、単にプラスが起こるのではなく、その前に徹底的なマイナスが必要となる訳です。

そのようにまずは「我々といううつわ」を空っぽにすることが必要です。

そうできればそこにラティハンが必要なもの、我々が持つのにふさわしいものを入れてくれるでありましょう。

そうでなければいくらラティハンがふさわしいものを入れようとしても、それはうつわからあふれてしまって、すこしも我々の物にはならないのであります。

PS
バパは確かにすごい力を、それから「受ける」ということにおいても達人でありました。

そのあとを継いだ二代目さんもそれなりの方、力をお持ちの様でした。

さてそれで、それ以外の方で、その様な力や「受ける」という事が出来た方はいるのでしょうか?

外国の方でお一人、日本の方でお一人を存じ上げております。

しかしながら、その様なレベルにはなかなかどうして到達しない、というのがこれもまた現実の様であります。

そして、ここからが本題ですが、バパは「ラティハンは他の方法に比べればとても早く進むことが出来る」と言っていました。

確かにそのように進む方もおられる様です。

しかしながら、大半の方々はゆっくりとしたスピードでしか変化していかない様です。

そうであれば、確かにラティハンはユニークで効果的な方法ではありますが、多くの方にとっては「即席で効果が出る」と言うようなものではなく、ゆっくりと進んでいくものである、と思っていた方が現実的かと思われます。

追記
以下、関連する参考記事になります。
・等価交換則あるいは修行論<--リンク
・スシラ ブディ ダルマ・5章 人の内部性質と4種類の土地<--リンク

PS
理解のステージ、あるいは「理解」というのもは天から降ってくる。

そんな風に我々は考えます。

ちょうどインスピレーションが降ってくる様に、わいてくる様に。

だからラティハンをやって静かに待たなくてはならない、と。

いやいや、どうもそうではなさそうです。

「降ったりわいたり」はしそうですが、それは「静かに待っている時」ではありませんね。

忙しく仕事をしている時であります。

もともと生命というものは忙しく働くもの。

それは周り中の生命を見てみれば分かる事です。

そうしてバパも「静かに座って恩沢を求める事、光明を求めることはおやめなさい」と言いました。

それで我々は「あっちにいったりこっちにきたりする、動きまわるラティハン」を続けています。

しかしながらラティハンの後で「理解を求めて静かにしている」としたら、それは「静かに座って恩沢を求める事、光明を求めること」と同じ事でありましょう。

そう言うやり方ではまずいのです。

やらなくてはならない事、なすべき事は目の前にあるはずです。

それをやらなくてはなりません。

その中にこそ「理解」というものが隠れているのでありますから、、、。

追記
「理解」が単に我々の所に届いただけでは何も起こりません。

それはしいていえば「自己満足」でおしまいであります。

さて、それでは「理解をもたらしたもの」にとっては不満でありましょう。

単にある人の自己満足の為に理解がある、としたならば、それは世界にとってはあまり意味のない事であります。

そうであれば「理解ーー>行動」という事、「何かの結果を生み出す事」というのは「理解を与える」あるいは「理解を得る」という事の前提条件の様に思われます。


PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク

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