ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

インドネシア・クバティナンの歴史とバパの歩み(独立戦争~現在まで)

2015-01-29 | 日記
バパ(1901-1987)が生きた時代はそのままインドネシア独立の時代でもありました。

と言う訳でインドネシア専科で少々歴史をひもといてみましょう。<--リンク

友人たちの論文集<--リンク
(再公開に感謝!)


1924年  バパ初めてラティハンを受ける。

1926年  ナフダトール・ウラマ(NU)が設立される。<--リンク

1942年3月9日  日本軍 オランダに替わりジャワ島占領   C-5 299<--リンク

混乱の為、バパ オープン及び集団ラティハンを中止する。(自叙伝)

カリサリからテマングンまでの一カ月間の山中逃避行の断行。(自叙伝)


1944年4月  日本軍 インドネシアの独立を容認  D-1 365

  そうして独立準備委員会の設立  委員長スカルノ  C-5 313

1945年6月1日  パンチャシラがスカルノにより発表された  D-1 365

1945年8月15日 それまでインドネシアを占領していた日本の敗戦を受けて

     8月17日 スカルノ宅での独立宣言の発布   C-6 318
     8月18日 独立宣言の翌日 憲法制定

独立宣言を発した共和国はオランダとの戦いが始まった。 C-6 328
     10月    共和国軍が設立される

バパ ジョグジャカルタに移り、集団ラティハンを再開する。(自叙伝)

バパ マスユミ(又はマシュミ Masyumi 注1)で財務の仕事をする。(自叙伝)
           マシュミ Masyumi <--リンク

1946年11月~  休戦(リンガルジャティ協定)  C-6 325

          この年から宗教省が公式に認められる。

1947年2月1日  バパ、ジョグジャカルタにてスシラ・ブディ・ダルマという協会を設立する。
          (この時点での会員総数は300名を越えた程度)(自叙伝)


1948年9月18日  共産主義者との内戦勃発  C-6 326

     12月18日 共和国の混乱を契機にオランダの再軍事行動開始  C-6 326

  こうしてインドネシアでは共産主義が嫌われていくことになりました。


1949年1月  アメリカの圧力により国連でのオランダ非難決議採択  C-6 329

     11月  インドネシアの独立をオランダが認める  C-6 330


こうしてみると良く分かるのですが、独立戦争の中休みの時にバパはご自分の組織を立ち上げたのでありました。

そうしてバパもインドネシアの人でしたから、独立にかかわった欧米の国々、そうして日本という国についてもいろいろな個人的な思いはお持ちだったことでしょうね。


こうして苦労の末に独立を勝ち取ったインドネシアでありましたが、その精神的なささえとなったのがパンチャシラでありました。

そうしてそのパンチャシラの最初に登場する宣言、「唯一神への信仰」は全てのインドネシア人が要求される事になりました。

さてその「唯一神への信仰」という宣言でありますが、バパが作った協会では後日に至りて「入会の前提条件」のごとくに扱われる様にまでなりました。

しかしながらこれはパンチャシラのあるインドネシアでは何の問題も生じなかったのであります。

他方でパンチャシラのないほかの国々の非アブラハムの宗教の人々(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教でない宗教徒)には本当に大きな問題となっているのでありました。

・・・・・
この頃から多くのクバティナンと呼ばれる「新宗教運動」がはじまる。
アカデミズムの世界では、バパが設立した協会もこの運動の中の一つとされている。<--リンク

・・・・・

1950年 6月 バパ 「内なる我の光 (Sinar Pribadi-- The Light Of The Inner Self)」を語る。

・・・・・

1952年  バパ  スシラ ブディ ダルマ(susila budhi dharma)を語る。

・・・・・

1953年 宗教省が新宗教団体として360団体を報告 「ジャワの宗教と社会」 P371

・・・・・

1954年 協会の日本支部誕生

・・・・・

1955年 第一回インドネシア・クバティナン会議委員会招集

      クバティナンに宗教と同等の法的な地位を求める事を目的とする。

      クバティナンの定式化を行う。
      「クバティナンは人生の完成を伴い、高い徳を達成するための唯一なる神への信仰の原理であり徳目である。」「ジャワの宗教と社会」 P372
 
・・・・・

1957年5月19日  バパ インドネシアからイギリスへ向かった。

これがそのまま14カ月に渡る世界旅行になるとは、そうして爆発的な外国会員の増加につながるとは、バパも想像してはいなかったでありましょう。

・・・・・

1960年 PAKEMの所属が宗教省から検察庁に移る。

      PAKEM:社会信仰諸派監視機構の略称 「ジャワの宗教と社会」 P371

      クバティナン諸派が社会的に逸脱した行為を取らないかを監視し、その兆候がある場合は、解散を命じる権限をもつ部局である。(同書 P157)

1960年7月のマラン東ジャワ州のBKKI(クバティナン集団)の第4回議会は、宗教が儀式を強調し、クバティナンが内的経験と人間の完璧さを強調しますが、「宗教」とクバティナンに本質的な違いはないことを見出しました 。

しかしながら、インドネシア政府の用語を使用する場合、スブドは宗教ではない事になります。
なぜなら、1960年に宗教省はクバティナンを宗教として否定する目的で宗教の定義を提案したからです(Patty、1986:4)。(スブドは宗教か?ワティニ 著)

・・・・・

1961年 第5回BKKI(クバティナン集団)会議が開催されました。

彼らは、教育、情報、政治に関わるクバティナン・インドネシア連邦議会連合(Gabungan Musyawarah Kebatinan IndonesiaまたはGMKI)を設立しました。

その時、BKKIは共産主義者によって浸透されました(Patty、1986:71-72)。
(訳注:共産主義者がクバティナン集団に入り込んだ、という意味です。)(スブドは宗教か?ワティニ 著)

・・・・・

1963年6月1日 バウル トークより

『今日、あなた方がどこにいようとも、政府は全ての事をとても注意深く調べます。

政府は全ての組織について知る必要があるのです。

政府はそれが悪い意図をもった政治的なグループであるか、もしくは、国の状態に干渉する意図をもった政治的なグループであるかどうか調査しなくてはなりません。
・・・
このことは、一般的に政治的な性質を持つ組織が多いインドネシアで起こりました。

彼等は会合を持つたびに調査されました。

しかし、私たちは(引用注:外部に対して秘密はなく)透明であり、喜んで政府に真実を述べたので、最後には法的組織(引用注:公認クバティナン)として受け入れられました。

つまり、私たちは政府に許可を求める事なく集まったり会合を持つ事が許されているのです。』

・・・・・

1964年 宗教運動の監督のための事務局(PAKEM)に360団体が登録された。
     (スブドは、1964年10月19日にジャカルタで政府によって認められました。(スブドは宗教か?ワティニ 著))

ーーー この部分は JAVANESE MYSTICAL MOVEMENTS からの引用です。<--リンク

この時に登録されたのは、「新宗教」(あるいはクバティナン)とされる団体です。

・・・・・

1965年  バパの協会を含む多くのいわるゆる「新宗教」は厳格なイスラム教徒とキリスト教団体からの圧力の下での大統領決定により「宗教」とはみとめられなかった。

こうしてパンチャシラ及び憲法のいうところの「宗教」とは「イスラム教、キリスト教(プロテスタント、カトリック)、ヒンドゥー教、仏教、儒教」ということになったのであります。

今までは憲法は「信仰」(Ketuhanan Yang Maha Esa、唯一なる神格)を奨励し、宗教の状態をサポートしていたが、法律がまだ「宗教」を構成するものを明確にしていなかったのでした。

ーーー この部分はSUBUD (Susila Budhi Dharma) (Religious Movement)からの引用です。<--リンク

       また大統領令によって「公認宗教を中傷するような団体に対しては、政府はそれを解散させる権限をもつ」とされた。「ジャワの宗教と社会」 P377

       9月30日 クーデター未遂事件勃発  共産党の関与があったとされる

       そうして共産党に殺害された将軍の報復を求め、反共産党デモが荒れ狂った。

       この事件がきっかけで多くの地域で公認宗教への改宗がおきた。ーー>他方、クバティナン諸派は多くが政府による禁止・解散命令により解散の憂き目にあった。(ジャワの宗教と社会 P378より引用) 

       これは、相当数のクバティナン組織が共産主義者の影響をうけていたり、反イスラム的に急進化したというのが政府の主張、治安関係者の認識であった為である。(同書P158)

       スカルノは共産党に対する傾斜を深めていた為、この事件が結局スカルノ体制の終焉に結びつくこととなった。(同書 P11)

・・・・・

1967年  スカルノ大統領 解任 ->スハルト 大統領代行に就任

・・・・・

1968年  バパの予測「今から20年から30年後、神の力を全世界が知り衝撃を受けるだろう」<--リンク

       バパご自分のミラージュ(召命or昇天)体験に言及

       スハルト 第2代大統領に就任

・・・・・

1969年  Drs. Kafrawi氏による先進的な論文の発行 (Institute of Islamic Studies)
       ・THE PATH OF SUBUD

・・・・・

1970年 ジャワ神秘主義連合会Javanese Mystic FederationまたはBKKIを組織したジャワ神秘主義グループ(Kebatinan)のリーダー(達)は、スハルトSuharto時代にGolongan Karya(Golkarゴルカル)のメンバーになるように求められました。(注2)

こうして、Aliranは法的認知に努めているすべてのジャワ神秘主義グループを幅広い単一組織に統一しようとしました。

それは1970年にジョグジャカルタで開催されたクバティナン神秘主義、魂の科学と精神の科学に関するインドネシア国家シンポジウム(シンポジウム・ナショナル・クプルチャヤアン - クバティナンとクロハニアン・インドネシア)に結実しました。

さらに、クバティナンの神秘的なグループは、ゴルカルGolkarの一員として公式に認知された機関とされ、政府は1970年12月にこの政治的な組織を支配しました。(スブドは宗教か?ワティニ 著)

1970~71年  オープンの前の宣誓を義務化する動きが始まる

・・・・・

1971年  インドネシアで第4回世界大会が同国大統領出席の下で行われる。

       同年 バンク設立

       この年までに政府によって禁止されたクバティナンは167団体である。「ジャワの宗教と社会」 P379

・・・・・

1972年頃  イスラムの断食月(ラマダン)を推奨しはじめる。

・・・・・

1973年  国家政策大綱に「宗教」と並んで「唯一なる神への信仰」(Kepercayaan terhadap Tuhan Yang Maha Esa)という言葉が正式に明記され、これによってクバティナンは「信仰」として正式な認可を受けることになった。(ジャワの宗教と社会 P380より引用)

       これによりクバティナン諸派は法的には「唯一なる神への信仰の徒」(Penghayat Kepercayaan terhadap Tuhan Yang Maha Esa)ということになった。

       つまり、クバティナンとは「信仰の徒」(Penghayat Kepercayaan)ということになる。(同書 P106)

・・・・・

1975年  ビル建設開始

・・・・・

1978年  Subudを含むアリラン・クプルチャヤアンAliran Kepercayaanは正式な機関として民族の代表会議(Majelis Permusyawaratan rakyatまたはMPR)を通じ政府から正式に受け入れられましたが、宗教としては認められませんでした。(スブドは宗教か?ワティニ 著)

・・・・・

1979年  クバティナン諸派(引用注:含むバパの協会)の管轄が宗教省から教育文化省に変更された。

       同時に「唯一なる神への信徒協会」(HPK:注4)がクバティナンの唯一の公認組織体となる。(ジャワの宗教と社会 P380より引用)
 
       但し、インドネシア全国レベルで信者を有するのは以下の4つのもの。
       スブド (Subud)・・・徳、善行・・・イスラムと共存する派
       パンゲストゥー (Pangestu)・・・祝福・・・5万人
       サプト・ダルモ (Sapta Darma)・・・七つの義務・・・1万人
       スマラー (Sumarah)・・・服従

       そうしてスマラーのみが「唯一なる神への信徒協会」に参加し、この組織のトップを歴任している。「ジャワの宗教と社会」 P111、P175、P385、JAVANESE MYSTICAL MOVEMENTS 

       さらに教育省に設置された「唯一なる神への信仰」育成局の局長にも就任する。同書 P387
・・・・・

1980年  関本のジャワ調査 結果ーー>ジャワ神秘主義の民族誌「ジャワ神秘主義の民族誌」

・・・・・

1982年  教育文化省に登録されている「信仰」団体数は93で、中部ジャワ合計でトータル123570名の会員数でした。(同上 JAVANESE MYSTICAL MOVEMENTS 参照)

・・・・・

1983年~85年  福島のジャワ調査 結果ーー>「ジャワの宗教と社会」「ジャワの宗教と社会」
1988年 

・・・・・

1990年代

      イスラーム到来後の状況を概説したウォロ・アルタンディニ氏(FSUI)の論説
      ・スラット・デウォ・ルチにおけるイスラム神秘主義の影響
      ・デワルチ(上記論文の要約)

      ・PurwadiさんのTHE ISLAMIC MORALITY IN SERAT DEWARUCI 
       ・THE ISLAMIC MORALITY IN SERAT DEWARUCI

      ・Batubaraさんの
       Islam and Mystical Movements in Post-Independence Indonesia:
      ・SUSILA BUDHI DHARMA (SUBUD)AND ITS DOCTRINES

・・・・・

2015年  インドネシア国内大会に教育文化省の文化総局 (Direktorat Jenderal Kebudayaan)の「唯一の神に対する信仰と伝統局」(Direktorat Kepercayaan Terhadap Tuhan Yang Maha Esa dan Tradisi)の局長が出席、祝辞をのべる。

       この部署(局)がインドネシア国内の信仰団体の登録と管理を行っている模様。
                                     (15・2・15 アニエール)

・・・・・

2017年

・スブドは宗教か?  ワティニ 著
ガジャマダ大学宗教異文化研究センター
・Is Susila Budhi Dharma (Subud) a Religion?
|Author: Watini | Al-Albab
Center for Religious and Cross-cultural Studies, Gadjah Mada University
https://jurnaliainpontianak.or.id/index.php/alalbab/article/download/728/466


PS
(注1)マシュミ(Masyumi )はインドネシア・イスラム協議会(Majelis Syuro Musulimin Indonesia)の略である。

(注2)Nahdatul Ulama ウラマー(宗教教師)の覚醒の意味である。
支持基盤は東部ジャワ、中部ジャワの農村であり、プサントレインに陣取るキヤイを中心とした共同社会を営んでいる。
ジャワへのイスラム教布教のワリソンゴへの崇拝が強い。

(注3)
クバティナンはスハルト大統領になってから宗教ではなく信仰、即ちジャワ固有の文化として認められた。
管轄も宗教省でなく、教育文化省である。

詳細は707.クバティナンを参照ねがいます。 <--リンク

以上、インドネシア専科よりの引用でした。

(引用注:もちろんバパが作った協会もクバティナン登録でありますね。<-リンク)

(注4)
Himpunan Penghayat Kepercayaan terhadap Tuhan YangMaha Esa :HPK 信徒協会


PS
こちらでは付論にて「(インドネシアでの)信仰の誕生」が語られています。<--リンク
(うまくリンクできない時はhttp://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZAJ/ZAJ200306_021.pdfにて。)

PS
1997年に出版されたAntoonさんの本でも83ページで「信仰の誕生」が語られていました。

Santri Roh Antoon でググってみて下さい。

Antoonさんの本にGoogleぶっく検索結果としてヒットしますので、ご確認をお願います。


PS
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

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記事テーマを添えてこちらまでお願いします。
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ロホとナフスの物語(その3、7つのロホ)

2015-01-06 | 日記
バパの説明でよく出てくる7つのロホ。

roh robani,   ロバニ(あるいはラバニ)
roh rahmani, ラフマニ
roh rohani,   ロハニ
roh jasmani, ジャスマニ
roh hewani,  ヘワニ
roh nabati,   ナバティ
roh rewani,   レワニ(あるいはライワ二)

このように生命世界は7層になっていというものであります。<--リンク

さてそこに登場する7つのロホは1936年にTjan Tju An によって書かれた「スラット・ビモ・ブンクス」の中にすでに登場しております。<--リンク

ちなみにバパがスシラ ブディ ダルマ(susila budhi dharma)を受けたのは1952年になりますね。


さてその「スラット・ビモ・ブンクス」ですが、本来はビモの誕生物語であります。

でありますが、この物語をかりてTjan Tju Anさんは「ゼロからの人間形成」を語っているのでありました。<--リンク

そうしてその根拠となるのがマルタバト・トゥジュ( Martabat Tujuh )の教えでありましたね。<--リンク


それでは誰がこの教えをインドネシアに持ってきたのか?

Abdul Rauf SingkelさんがTarekat Syattariyah(タレカット シャタリーヤ)の教えとして1662年ごろからアチェ(Ache)で教え始めました。

アチェはスマトラ島の最北の港町、海路でインドにもっとも近い場所になります。

そして、この人のお弟子さんのSyeikh Abdul Muhyiがジャワ島のPamijahanに(チレボン経由でありましたが)Tarekat Syattariyahを持ってきました。

以上についてはEARLY TAREKAT IN BUNTET: SYATTARIYAHを参照して下さい。<--リンク


さて、Abdul Rauf Singkelさんはタレカット シャタリーヤをどこから持ってきたのでしょう?

どうやらShattariyyahスーフィズムはイスラム文化の中心であるメッカ(Mecca)を経由して来ている様であります。


それではそもそも、この教えを始めたのは誰でしょう?

驚いたことに原点は神秘家にして哲学者のIbn Arabi(イブン・アル=アラビー 1165-1240)の確立した「存在一性論」でありました。<--リンク

そうして「存在一性論」では「ゼロからの世界の創造」を示す5段階のレベルが示されています。

このあたりブログテーマを大きく超えていますので、「イスラーム哲学の原像 井筒俊彦 岩波新書」を参照願います。

ちなみに5段階のレベルの説明は123Pにあります。

そしてその本の中では Ibn Arabiいわく 「ナファス・ラフマーニ nafas Rahmani とは(神の)慈愛の息吹である」という記述があります。(125P)

それで、このRahmaniというコトバはそのままマルタバト・トゥジュ( Martabat Tujuh )に引き継がれていますね。

そうやって次々に語り継がれながら解釈しなおされて700年。

最終的にバパのトークで「roh rahmani」として我々の前に登場したのでありました。
(蛇足ながらnafasナファスです。nafsナフスと発音が似ていますがこれは別物です。)

(イブン アラビーの存在一性論の良い資料がありました。
・イブン=アラビーにおける 「自然本性(ṭabīʿah)」について
ぐーぐるで上記テーマ名を検索することでPDFでも入手可能です。)


次にこの5層の段階を7層に詳細化したのがal-Qushashi、17世紀のアラビアの学者さんでありました。

こうして「尊厳セブン」あるいは「セブンレベルの教え」と言われているマルタバト・トゥジュ( Martabat Tujuh )が完成したのでした。

以上についてはOrigins of Shattariyyah Teaching を参照願います。<--リンク


さてこれが7つのロホのざっとした歴史的な流れになります。

以上のことから分かる様に7つのロホは突然地上に姿を現したのではなく、単にその歴史を我々が知らなかっただけで、実は長い年月をかけてその姿を形造ってきたのでありました。

でもバパのトークで初めて7つのロホを知った時は、まるでそれは「いままで隠されていた世界の真実が目の前に突然開示された」かのように見えたものでしたね。

イスラームの世界でアラビア語で記述された文献、それからジャワ語、あるいはそれより古い言葉で記述されたジャワの文化、宗教の歴史、それらのものに手が届くようになったのは本当にごく最近のことでありましたから無理もありません。

今までは日本のみならず欧米に代表されるキリスト教文化圏には「知られていない歴史」でありました。


さて、バパはマルタバト・トゥジュ( Martabat Tujuh )あるいはTarekat Syattariyahをしっていたのでしょうか?

タレカットについてよく言及されるバパでありましたから、その可能性もあるとは思われます。(81LOS7.28 ロサンゼルス)

でもそれよりもやはりワヤン(Wayang)が好みのバパでありましたから、そちらからの情報も持っていた事でしょう。


そうやって「いわゆるその筋の常識を知っている事」はジャワの人達にラティハンを分かりやすく説明する為には必要なことであります。

逆にそうでなければ聴衆は「聞いていてもよくわからない状態」になってしまいます。

それはちょうど「我々外国人が初めてバパの説明を聞いてびっくりするようなもの」でありますね。


バパは聴衆によく知られたコトバを使って「ラティハン」を語るしか方法はありません。

古来より祖師方はそうやって神秘的、宗教的な状況を語ってきたのですから。

バパもけっしてその例外ではありえなかった。

そうしてこれは考えてみれば仕方のないことでありましたね。<--リンク

追記
7つのロホについてバパが「イスラムのものである」と認めているトークがありました。
以下、ご参考までに。
雑記帳31・「バパのイスラム」とは何か・2<--リンク

PS
タレカット(Tarekat)はブリューネッセン(Bruinessen1994:10-14)によれば
「インドネシアへのイスラームの到来は、スーフィズムの発展と同時期でありタレカット tarekat(神秘的道標)と呼ばれるものが現れる。
この流派は、イスラームの導入を展開させる役割を担い、東部地域から(?アチェからですから実は北部では?)インドネシアに入った。」
とのことであります。<--リンク

この流派はシャリカット Syarikat、タリカット Tarikat、ハケカット Hakekat、マーリファ Ma'rifat の4つの段階を教えるもでありました。<--リンク


それからタレカット(Tarekat)あるいはタリーカと呼ばれるのは「集団で修行を行う修行方式」なのです。

ですからそれは明らかに一つのグループ、あるいは発展すれば教団と呼ばれるものを作り上げることになります。

「さて、ラターイフ論を取り入れたタリーカは、クブラヴィー教団だけではない。
ナクシュバンディー教団においても、ラターイフ論は修行論と結びつき、独自の展開を遂げた。」392P

「集団で修行を行うタリーカの出現によって、ラターイフ論はより精緻な理論として完成されていく。
タリーカの長たちが、彼らの監督する修行者の段階を細分化して捉えることができるようになるにつれ、ラターイフ論の階層構造もそれに合わせて細分化されていったのであろう。」393P

このタリーカはナジュムッディーン・クブラー(Najm al-Dīn Kubrā, d. 1220)によってはじめられました。

 「前節の終わりに名前を挙げたナジュムッディーン・クブラーであるが、彼はスーフィーの修行段階に応じた意識変化を初めて記述した人物とされる24)。
『馥郁たる美の香り、粛然たる威光の現れ』において、彼は次のように述べている。

私たちの道は錬金術方式である。
これらの山(肉体的存在の四元素よりなる覆い)より光の繊細なる中心を解き放つことが不可欠である。
……味得(dhawq)は存在的精神的変容を通じて成し遂げられる。
……(それによって)五感を別種の感覚に変ずる感覚認識能力の変容を必要とする25)。」P390

以上は「スーフィズムにおけるラターイフ(laṭā’if )論の再定義」からの引用です。<--リンク


さて、そうしてバパの自叙伝によく登場するキアイ・アブドラヒマン(Kiai Abdurrachman)はナクシュバンディー(Naqshbandi)の人でもありました。(81LOS7.28 ロサンゼルス)

でもバパが言われる様にナクシュバンディーの教えや修行方法はナクシュバンディーに固有のものであり、そこでは7つのロホは姿を見せることはないのでありました。<--リンク


PS
本文では1936年にTjan Tju An によって書かれた「スラット・ビモ・ブンクス」で7つのロホが世の中に登場したように書きました。

ネット上ではR.Ng.ロンゴワルシトが書いたとされる「Bima Suci Wirid」を確認できなかったからです。

でも、全ての文献がネット上に公開されている訳ではありませんね。

そういう訳で、ウォロ・アルタンディニ(Aryandini, Woro)さんが言うことがより正確だと思われます。

「キヤイ・ヨソディプロの孫 R.Ng.ロンゴワルシト(Ranggawarsita)が1845-1878年に構成した「ビモ・スチ」である。
・・・・
R.Ng.ロンゴワルシトの「Bima Suci Wirid」は「インサン・カミル」の誕生を語った。
・・・・
零からの人間形成過程の諸段階、完全なる人間「インサン・カミル」の段階に到達するまでの「マルタバト・アカディアト martabat akhadiyat」を説明する「マルタバト・トゥジュ」を増補している。
完全なる人間を目指す者は、九種の精神状態を得る。
「ロ・イラピ」、「ロ・ロバニ」、「ロ・ロカニ」、「ロ・ヌラニ」、「ロ・クドゥス」、「ロ・ラフマニ」、「ロ・ジャスマニ」、 「ロ・ナバティ」、そして「ロ・ルワニ」である。」

以上は「デワルチ」からの引用です。<--リンク

R.Ng.ロンゴワルシトさんは1802-1873年の人でありました。

ですのでR.Ng.ロンゴワルシトの「Bima Suci Wirid」は遅くとも1874年には世の中に知られていたと考えられます。

これが「バパが話してくれた7つのロホはバパが生まれる前にすでに世の中に登場していた」と考えられる理由なのであります。<--リンク


PS
ロホの年表をまとめました。

650年頃 Qur'an(クルアーン)成立
   RuhとNafsの言葉が記述される。
   のちにインドネシアでRohとNafsuに変化する。
   ほぼ同時期にスーフィー(Sufi)も誕生する。

1165~1240  Ibn Arabi(イブン・アル=アラビー)
   スーフィーにして哲学者
   存在一性論確立(存在の5段階説)
   ナファス・ラフマーニ nafas Rahmani 登場

15世紀始め  イスラムのジャワへの渡来

15世紀末~16世紀初頭 ワリ・ソンゴ(Wali songo)の活躍(注1)

17世紀    al-Qushash  アラビアの法学者
   存在の5層の段階を7層に詳細化した。
   マルタバト・トゥジュ( Martabat Tujuh )の完成
   ruh idafi、
   rahmani、
   rohani、
   jasmani、
   nabati、
   hewani、
   Insan Kamil、についての記述がある。

シャムスディン パサイ(Shamsuddin Pasai)(?-1630)(注2)
Ruh Djamadi(ジャマディ)は、不動体(自分では動かない物)の本質と主張

1662年ごろ  Abdul Rauf Singkel
   Tarekat Syattariyah(タレカット シャタリーヤ)の伝道
   マルタバト・トゥジュの教義をアチェ(Ache)で教える。

その後  弟子のSyeikh Abdul Muhyi
   ジャワ島のPamijahanにタレカット シャタリーヤを伝える。

   ジャワでタレカットの修行方法が広く受け入れられる。
   それと同時にマルタバト・トゥジュの教義も広がる。

1802~1873年   R.Ng.ロンゴワルシト(Ranggawarsita)
   「Bima Suci Wirid」で「インサン・カミル」の誕生を語った。
   完全なる人間を目指す者は、九種の精神状態を得る。

「ロ・イラピ」、1. Roh Idofi (Roh Ilofi) ・・・Ilafi,Ilapiと書くこともあり(?)
「ロ・ロバニ」、2. Roh Rabani
「ロ・ロカニ」、3. Roh Rohani
「ロ・ヌラニ」、4. Roh Nurani
「ロ・クドゥス」、5. Roh Kudus (Roh Suci)
「ロ・ラフマニ」、6. Roh Rahmani
「ロ・ジャスマニ」7. Roh Jasmani
「ロ・ナバティ」、8. Roh Nabati
そして「ロ・ルワニ」9. Roh Rewani

   「Wirid Hidayat JatiDari 」でナプスとロホ(napsu,roh) を語った。

1936年  Tjan Tju An
   スラット・ビモ・ブンクスで9つのロホと4つのナフスを語る。

1952年  バパ(Bapak)
   スシラ ブディ ダルマ(susila budhi dharma)を語る。


(注1)ワリ・ソンゴ(Wali songo)の活躍 <--リンク

(注2)シャムスディン パサイ(Shamsuddin Pasai)(?-1630)<--リンク


PS
1988年にインドネシア政府によって確認された内容が政府広報にのっています。

それを見ると「バパが始めた世界認識の特徴」は「7つ+2つのロホシステムである」とされていますね。

詳細はこちら、あるいはこちらを参照願います。<--リンク


PS
イブン・アラビーIbn Arabiを開祖とする存在一性論にもその後いろいろな派生学派が生まれたという話です。<--リンク


PS
ロホ(roh)とナフス(nafsu)の物語・・・一覧」にはこちらから入れます。<--リンク

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