nafs(ナフス)とRuh(ルーフ)がコーランに出てくる事はすでに提示した通りです。<--リンク
そしてインドネシアではそれぞれnafsu(ナフス)とRoh(ロホ)に変化して使われています。
またワヤンの成立の歴史の中で4つのナフスと9つのロホが登場することも示しました。<--リンク
いずれもバパが生まれた時にはすでにジャワの文化的、宗教的な環境として存在していました。
バパはそのような環境の中で成長したのですね。
そうして後日バパはそれらのコトバを使いながらラティハンの起源や働きを説明する事になります。
バパが行ったラティハンの説明はバパと共通の文化的、宗教的バックグラウンドを持つ聴衆にはきわめて明瞭に理解されたと思われます。
まあそれは当然のことですよね。
良好なコミュニケーションが出来る為には共通のバックグラウンドが必要です。
それなしでは単にコトバがいきかうだけでうまく内容は伝わりません。
コトバの表面的な意味だけが伝わることになります。
ジャワに存在していた文化的、宗教的なバックグラウンドを知らないのですからある意味ではそれは仕方のないことであります。
さて、バパからラティハンを渡された人は体が勝手に動きます。
しかもその動きが心地よいのですね。
そうなると次に必要になるのが説明です。
「いったいどういう仕組みでこんな事ができるのか?」ってね。
バパが最初に英国をはじめとして欧米で行った説明はそれまでジャワで行ってきた説明と基本的には同じ内容でした。
4つのナフスと9つのロホをつかって説明をしておられます。
さて、初めてバパの説明を聞いた「外国人」はこれをどのように理解したでしょうか?
「おお、これが人間の内部構造か。」
「そうしてこれが神聖なるロホが織りなす生命世界の構造か。」
いままで聞いたことがない説明ですのでとても新鮮な驚きがあったろうと思われます。
自分の意思でもないのに「体がひとりでに動く」という驚くべきラティハンの体験がそれに輪をかけます。
単にバパの話があっただけではそれは一つの「神秘主義思想」で終わったことでしょう。
でも実際にラティハンを体験するとバパの説明が「神秘主義思想」の範囲を超えてしまいます。
説明に「リアリティー」を「実体」を感じてしまいます。
しかしながらこれは一つの「落とし穴」でもありますね。
勘違いされると困るのですが、確かにラティハンには「リアリティー」があります。
これはほとんど奇跡的なことでありますが、ラティハンはそこにしっかりと存在しています。
それでは何が困るのでしょうか?
4つのナフスと9つのロホを使ったバパの説明がラティハンの「唯一無二の説明」と思い込む事が困るのです。
今になれば分かります。
「全ての人が納得できるようにラティハンを説明する。」
そんなことは無理に決まっています。
でもそれが無理なことであっても我々は説明を求めます。
説明する事が出来ないものの存在を我々は許す事ができないのですね。
それで我々はコトバを、説明を求めます。
そしてその説明が一つしか許されないというなら、それは宗教と見分けがつきません。
バパのトークが教義に変わるのはまさにこのタイミングであります。
バパが受けたラティハンの理解はバパの文化的、宗教的なバックグラウンドに一致した形でもたらされた事は容易に想像できます。
「その人にマッチした形で理解が訪れる。」
これはバパが言っておられるようにラティハンがもたらす理解の基本的な特性であります。
ですから、バパにとってのラティハンの理解は「バパにとって自然なもの」になっています。
そうしてこれはまたバパと宗教的、文化的なバックグラウンドを同じくするジャワの人達にとってもそうなりますね。
2つの事を分ける必要がありそうです。
ラティハンの存在とそれを説明したバパのトーク。
ラティハンは広大無辺の様に思われます。
他方、バパの説明はジャワの文化的、宗教的な伝統に沿った形で行われています。
これは思い返せば当然のことですよね。
バパはジャワに生まれてその文化的、宗教的環境の中で成長したのですからね。
そうして、ラティハンの説明も初めはジャワの人達を相手にしていた訳ですから。
当然聴衆と自分が両方ともに理解しているコトバやボキャブラリー、世界観を用いて話をします。
そうしなければ聞いている人に話が伝わりませんものね。
さて世界を相手にして話し始めたバパのラティハンの説明ですが、それまでジャワで行っていたものと同じように4つのナフスと9つのロホを使ったものでした。
はい、整合性の面ではそれで正解です。
こちらで話したこととあちらで話した事が違うのは困りますものね。
でも聞き手が違いました。
ジャワの聴衆はバパの話の内容をそのバックグラウンドを理解した上で聞く事ができました。
欧米の聴衆はそうはいきません。
その説明は欧米の人達には「自然なもの」ではありませんでした。
今までの欧米の伝統にはない「エキセントリック」なものだったのですね。
欧米の人達だけではありません。
日本人にだって「エキセントリック」でしたね。
そういうものに接した時の人間の反応はどうなるのでしょうか?
「熱狂的に歓迎する人」と「強く反発する人」に分かれそうです。
うーむ、状況はまさしくそんな感じであります。
さてバパはバパが行える範囲での最良の説明を行ないました。
あとは我々の聞き手能力の問題ですね。
バパが使ったコトバや世界観が示す明示的な内容にしばられるのか。
それともコトバをこえた所にあるラティハンのリアリティーをくみとるのか。
このように「バパの説明を聞く」ということは外国人にとっては本当に大変なことなのであります。
追記
「7つのロホという概念はイスラムからの借り物である」というトークにはこちらから入れます。<--リンク
PS
「ジャワでは人々がロホの階層を理解していた」という例がトークにのっています。
68(バンドン)2.15
PS
我々にはラティハンはとても目新しいもの、そうして又バパの説明もとても新鮮なものにみえました。
それはまるで今まで隠されていた世界の真実が今、明らかになったかの様な感覚を覚えたものです。
しかしながらそれはイスラムの伝統、スーフィーの伝統、そうしてジャワの歴史と伝統を知らない者たちが勝手にそのように感じ、思い込んだものでもありました。
バパはご自分の生まれて育ったところにあった文化や歴史や伝統に沿って、あるいは一部はそこから改良、変更を加えた形でラティハンを説明されたにすぎません。
しかしバパの説明に対してそのようなバックグラウンドを理解していない我々は勝手に妄想を膨らませた側面が確かにあります。
まあしかしそれも仕方のない事でありました。
そうして時代は過ぎラティハンの経験も積まれ、バパのバックグラウンドもそれなりに理解できてみれば、さてそれでこの後どうするのか、どうしていったらいいのか、ある程度は客観的に考察できる地点に到達したように思えます。
追記
ラティハンの驚異性、奇跡的であることについては我々はそれに慣れすぎてしまってもはやそんな風には思いません。
しかしながら、人類の歴史が始まって以来このような形で修練ができ、そうしてまた望む人には驚くほど簡単に手渡せる、そのようなものが現れたのは初めてでありましょう。
その驚くべき性質はバパが初めてそれを受けた時以来、少しも変わらずそこにある様であります。
そうして、基本的にはそれは人の思考を超えていますので、それをコトバで説明する、という行為は本来無理な事なのであります。
そのような事実が厳然とそこにはありますが、そうであっても何も説明されずに「はい、これがラティハンです。」と手渡されても、渡された人は途方にくれて困ってしまうでありましょう。
そうであればしかたなく、無理は承知の上でコトバで説明するのであります。
そうして、そんなことはバパは百も承知の上の事なのでありました。(2017.10.28)
PS
「ラティハンとは何か」にはこちらから入れます。<--リンク
そしてインドネシアではそれぞれnafsu(ナフス)とRoh(ロホ)に変化して使われています。
またワヤンの成立の歴史の中で4つのナフスと9つのロホが登場することも示しました。<--リンク
いずれもバパが生まれた時にはすでにジャワの文化的、宗教的な環境として存在していました。
バパはそのような環境の中で成長したのですね。
そうして後日バパはそれらのコトバを使いながらラティハンの起源や働きを説明する事になります。
バパが行ったラティハンの説明はバパと共通の文化的、宗教的バックグラウンドを持つ聴衆にはきわめて明瞭に理解されたと思われます。
まあそれは当然のことですよね。
良好なコミュニケーションが出来る為には共通のバックグラウンドが必要です。
それなしでは単にコトバがいきかうだけでうまく内容は伝わりません。
コトバの表面的な意味だけが伝わることになります。
ジャワに存在していた文化的、宗教的なバックグラウンドを知らないのですからある意味ではそれは仕方のないことであります。
さて、バパからラティハンを渡された人は体が勝手に動きます。
しかもその動きが心地よいのですね。
そうなると次に必要になるのが説明です。
「いったいどういう仕組みでこんな事ができるのか?」ってね。
バパが最初に英国をはじめとして欧米で行った説明はそれまでジャワで行ってきた説明と基本的には同じ内容でした。
4つのナフスと9つのロホをつかって説明をしておられます。
さて、初めてバパの説明を聞いた「外国人」はこれをどのように理解したでしょうか?
「おお、これが人間の内部構造か。」
「そうしてこれが神聖なるロホが織りなす生命世界の構造か。」
いままで聞いたことがない説明ですのでとても新鮮な驚きがあったろうと思われます。
自分の意思でもないのに「体がひとりでに動く」という驚くべきラティハンの体験がそれに輪をかけます。
単にバパの話があっただけではそれは一つの「神秘主義思想」で終わったことでしょう。
でも実際にラティハンを体験するとバパの説明が「神秘主義思想」の範囲を超えてしまいます。
説明に「リアリティー」を「実体」を感じてしまいます。
しかしながらこれは一つの「落とし穴」でもありますね。
勘違いされると困るのですが、確かにラティハンには「リアリティー」があります。
これはほとんど奇跡的なことでありますが、ラティハンはそこにしっかりと存在しています。
それでは何が困るのでしょうか?
4つのナフスと9つのロホを使ったバパの説明がラティハンの「唯一無二の説明」と思い込む事が困るのです。
今になれば分かります。
「全ての人が納得できるようにラティハンを説明する。」
そんなことは無理に決まっています。
でもそれが無理なことであっても我々は説明を求めます。
説明する事が出来ないものの存在を我々は許す事ができないのですね。
それで我々はコトバを、説明を求めます。
そしてその説明が一つしか許されないというなら、それは宗教と見分けがつきません。
バパのトークが教義に変わるのはまさにこのタイミングであります。
バパが受けたラティハンの理解はバパの文化的、宗教的なバックグラウンドに一致した形でもたらされた事は容易に想像できます。
「その人にマッチした形で理解が訪れる。」
これはバパが言っておられるようにラティハンがもたらす理解の基本的な特性であります。
ですから、バパにとってのラティハンの理解は「バパにとって自然なもの」になっています。
そうしてこれはまたバパと宗教的、文化的なバックグラウンドを同じくするジャワの人達にとってもそうなりますね。
2つの事を分ける必要がありそうです。
ラティハンの存在とそれを説明したバパのトーク。
ラティハンは広大無辺の様に思われます。
他方、バパの説明はジャワの文化的、宗教的な伝統に沿った形で行われています。
これは思い返せば当然のことですよね。
バパはジャワに生まれてその文化的、宗教的環境の中で成長したのですからね。
そうして、ラティハンの説明も初めはジャワの人達を相手にしていた訳ですから。
当然聴衆と自分が両方ともに理解しているコトバやボキャブラリー、世界観を用いて話をします。
そうしなければ聞いている人に話が伝わりませんものね。
さて世界を相手にして話し始めたバパのラティハンの説明ですが、それまでジャワで行っていたものと同じように4つのナフスと9つのロホを使ったものでした。
はい、整合性の面ではそれで正解です。
こちらで話したこととあちらで話した事が違うのは困りますものね。
でも聞き手が違いました。
ジャワの聴衆はバパの話の内容をそのバックグラウンドを理解した上で聞く事ができました。
欧米の聴衆はそうはいきません。
その説明は欧米の人達には「自然なもの」ではありませんでした。
今までの欧米の伝統にはない「エキセントリック」なものだったのですね。
欧米の人達だけではありません。
日本人にだって「エキセントリック」でしたね。
そういうものに接した時の人間の反応はどうなるのでしょうか?
「熱狂的に歓迎する人」と「強く反発する人」に分かれそうです。
うーむ、状況はまさしくそんな感じであります。
さてバパはバパが行える範囲での最良の説明を行ないました。
あとは我々の聞き手能力の問題ですね。
バパが使ったコトバや世界観が示す明示的な内容にしばられるのか。
それともコトバをこえた所にあるラティハンのリアリティーをくみとるのか。
このように「バパの説明を聞く」ということは外国人にとっては本当に大変なことなのであります。
追記
「7つのロホという概念はイスラムからの借り物である」というトークにはこちらから入れます。<--リンク
PS
「ジャワでは人々がロホの階層を理解していた」という例がトークにのっています。
68(バンドン)2.15
PS
我々にはラティハンはとても目新しいもの、そうして又バパの説明もとても新鮮なものにみえました。
それはまるで今まで隠されていた世界の真実が今、明らかになったかの様な感覚を覚えたものです。
しかしながらそれはイスラムの伝統、スーフィーの伝統、そうしてジャワの歴史と伝統を知らない者たちが勝手にそのように感じ、思い込んだものでもありました。
バパはご自分の生まれて育ったところにあった文化や歴史や伝統に沿って、あるいは一部はそこから改良、変更を加えた形でラティハンを説明されたにすぎません。
しかしバパの説明に対してそのようなバックグラウンドを理解していない我々は勝手に妄想を膨らませた側面が確かにあります。
まあしかしそれも仕方のない事でありました。
そうして時代は過ぎラティハンの経験も積まれ、バパのバックグラウンドもそれなりに理解できてみれば、さてそれでこの後どうするのか、どうしていったらいいのか、ある程度は客観的に考察できる地点に到達したように思えます。
追記
ラティハンの驚異性、奇跡的であることについては我々はそれに慣れすぎてしまってもはやそんな風には思いません。
しかしながら、人類の歴史が始まって以来このような形で修練ができ、そうしてまた望む人には驚くほど簡単に手渡せる、そのようなものが現れたのは初めてでありましょう。
その驚くべき性質はバパが初めてそれを受けた時以来、少しも変わらずそこにある様であります。
そうして、基本的にはそれは人の思考を超えていますので、それをコトバで説明する、という行為は本来無理な事なのであります。
そのような事実が厳然とそこにはありますが、そうであっても何も説明されずに「はい、これがラティハンです。」と手渡されても、渡された人は途方にくれて困ってしまうでありましょう。
そうであればしかたなく、無理は承知の上でコトバで説明するのであります。
そうして、そんなことはバパは百も承知の上の事なのでありました。(2017.10.28)
PS
「ラティハンとは何か」にはこちらから入れます。<--リンク