ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

雑記帳26・ラティハンの表現/

2019-09-04 | 日記
ラティハン中に我々はさまざまな動きを経験します。

あるいはいろいろな声を出したりします。

それは確かにラティハンの表現ではありますが、その人に特有の「受け方」ではありますが、それのみが「ラティハンの表現」ではありません。

より大切なのは、「修練としてのラティハン」が終わった後の「ラティハンの表現」でありましょう。

ラティハン中は我々の意思とは関係なくさまざまな動き、「ラティハンの表現」を行いますが、それが終わった後で、それではどのように動くのか、感じるのか、考えるのかが重要であります。

つまりそれは「日常生活そのもの」であります。

その中で我々がいわゆる自由意思、通常の表層意識、思考力、さまざまな欲望と関連しながら、なおかつラティハンとどのように関連を取っていくのか、関係を作っていくのかが重要です。

そうでなければ、日常生活や仕事の中にラティハンが現われてくる事は、「ラティハンが表現される事」はありません。

ラティハンがこうして日々の生活の中で表現できてようやく「ラティハンが地上に降りた」と言えるのであります。

PS
エンタプライズについて一言。

我々がそのようにラティハンの成果を表現できる分野であれば、エンタプライズを始めても成功できるでありましょう。

これがエンタプライズを始める事が出来る前提条件であります。

そのようであれば、我々は常に同業他社に負ける事はなく同等に、あるいはそれ以上に業績を伸ばす事が可能となります。

そうして、そうなっていない分野でエンタプライズを始める事はほとんど自殺行為と同じでありましょう。

まあそういう事でありました。

PS
協会本体が行う、いわゆるナショナル・エンタプライズ、それが通常の企業活動と違う、とするならば、明らかな事が一つ。

目指すものは「経済的な利益のみ」ではないはず。

そこには「協会の精神」が必ず表現されている事になります。

そうでなければ協会自身がエンタプライズを行う必要性はどこにも無いでありましょう。

PS
バパが晩年になって世界各地を回りながら見たがったものは、確認したかったものはラティハンの中の動きの表現ではありませんでした。

明らかにそれは我々が日常生活の中で、あるいは仕事の中でどのようにラティハンを表現しているのか、できているのかを知りたがったのであります。

なるほど人はジャスマニレベルだとかロハ二レベルだとか主張するのは簡単ですが、それを日々の生活の中で表現していく事はたやすい事ではありません。

しかしながらそれが出来ないのであれば、ジャスマニとかロハ二とか言うのは時期尚早というものであります。

PS
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コメント
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