ラティハンを始める人がいれば、やめる人もいる。
引き留めてもなかなか無理な話で、その人なりに出した結論は変わらない。
一生懸命に「お誘い」しても、長続きする可能性は低い。
始めたりやめたり、こればっかりはその人の自由意思にまかされている。
私もオープンする時は「ああでもない、こうでもない」といろいろと悩んだもの。
それで、よくよく考えてオープンした人が、そのあともずっと続いているかというと
そうでもなかったりする。
はた目、かーるい気持ちでオープンしたような人が、やめることなく
続いていたりする。
こればかりは相性の問題で、なかなかどうこうすることはできにくい。
その時のそれぞれの人の状況が、それに輪をかけてくる。
だから、10年20年続いている人は、本当に感謝すべきことなのである。
ラティハンにしろ何にしろ、せっかく生まれてきた世の中ですから、
「物は試し」の気持ちでやってみることは大切だと思う。
考えてばかりいても何も変わらないし。
やってみてだめならほかをあたる、霊的な道だろうと世の中のことだろうと
そうやってしか人間、前には進めないようだ。
たいがいの事は、それなりに考えて「あぶないかな」と思いつつやることは
そんなにひどいことにはならない。
かえって、「これなら大丈夫。」と思い込んだ道の方が危なかったりする。
それにしても、「どれかの道を選ぶ」というのは大変なことだとは思いますよ。
それでも「どれかの道」を選んで歩いていかないと、前にはすすみません。
人生とはやっかいなものですね。
PS
周りのラティハンのヘビーユーザーを見回してみると、やっぱりバパを直接知っている人が多い。
そうしてそれはまあ当然と言えば当然のこと。
あれだけすごい方にはそうそうお目にかかれるものではない。
そうしてまた「そうか、ラティハンを続ければあんな風になれるのか」などと誤解して、熱心にラティハンにいそしむ。
まあそうやって、なんだかんだで続いてきている様子です。
かたやバパを知らない人は、「さて、ラティハンを続けるとどんな風になるのかな」などと考えて先輩方を観察します。
そうすると、まったくいろいろな人がいて、それぞれが自分独自の思いをもって生きておられる様子。
まあ、おおざっぱにいえば皆さん、基本はお人好しでそれ以上でもそれ以下でもない、まあ普通の人にしか見えません。
さてそうであれば意見の食い違いやら何やらでもめることもあります。
そんな様子ですから、まったく普通の人のあつまり、町内会のあつまりと変わりはありません。
そうであれば、気の合う先輩もいるでしょうし、合わない方も出てきます。
まあそういうわけで、周りの先輩諸氏からはどうにもラティハンの効果、あるいは恩恵のようなものが感じられません。
そうしてそのような状況を新たに参加した新人さんは自分の価値基準をもって「ああ、これは大したことがないものだ」と判断します。
そうやって先輩方に対する失望の中で多くの人がラティハンから離れていった様に思われます。
そうやって離れていってしまった方々を批判するつもりはありません。
実際のところ、個人的にはそのような経験もしました。
それでは何故いままでラティハンを続けられたのでしょうか?
実際のところ、パパを知っていた、と言う事は大きな事であったでしょう。
バパを通じてですが、ラティハンと言うものが諸先輩方が表現しているレベルで終わるものではない、という確信がありました。
そうであれば、道の途上にある我々が理想的なありようからいくら離れていたとしても、まあその事で多少は失望はしますが、それでラティハンをあきらめる、見切りをつけると言う事はなかったのであります。(2017。6.24)
PS
ラティハンの魅力は何と言ってもその自由度の高さにあります。
宗教のように、特別に信じなければならない様な教義や信条、特定の儀式もありません。
それぞれの人がそれぞれの性質に従って受けるラティハンがそこにあるだけであります。
特定の宗教をお持ちの方はそれを信条にして生活されればよく、宗教ではなく科学、あるいは思想、一般的な常識などの内から好きなものを選んで自分の信条にされればよいのであります。
つまり現状のありようから何かを強制的に変える必要などはなくラティハンを始められるのであります。
この自由度の高さは特筆すべきものでありましょう。
霊的な道を名乗る他の道にはないものの様に思われます。
「それでは何も変わらず、ラティハンを受ける意味がないのでは?」といわれますか。
そうですね、ラティハンのスタートというものはそのようなものです。
しかしながらあなたがラティハンを継続するにつれて「ここはこうした方が良かろう」という修正項目があなたのラティハンから出てきます。
そのあたりがまずは分かれ目でしょうか。
「いいや、そうはいうものの、そこは変えれない」とあなたが言うならば、それこそ何も変わりません。
「そうだねえ、それでは変える努力をしましょう」ということになって、ようやくあなたのラティハンは次のステップに進む事が可能になるのでありました。
PS
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引き留めてもなかなか無理な話で、その人なりに出した結論は変わらない。
一生懸命に「お誘い」しても、長続きする可能性は低い。
始めたりやめたり、こればっかりはその人の自由意思にまかされている。
私もオープンする時は「ああでもない、こうでもない」といろいろと悩んだもの。
それで、よくよく考えてオープンした人が、そのあともずっと続いているかというと
そうでもなかったりする。
はた目、かーるい気持ちでオープンしたような人が、やめることなく
続いていたりする。
こればかりは相性の問題で、なかなかどうこうすることはできにくい。
その時のそれぞれの人の状況が、それに輪をかけてくる。
だから、10年20年続いている人は、本当に感謝すべきことなのである。
ラティハンにしろ何にしろ、せっかく生まれてきた世の中ですから、
「物は試し」の気持ちでやってみることは大切だと思う。
考えてばかりいても何も変わらないし。
やってみてだめならほかをあたる、霊的な道だろうと世の中のことだろうと
そうやってしか人間、前には進めないようだ。
たいがいの事は、それなりに考えて「あぶないかな」と思いつつやることは
そんなにひどいことにはならない。
かえって、「これなら大丈夫。」と思い込んだ道の方が危なかったりする。
それにしても、「どれかの道を選ぶ」というのは大変なことだとは思いますよ。
それでも「どれかの道」を選んで歩いていかないと、前にはすすみません。
人生とはやっかいなものですね。
PS
周りのラティハンのヘビーユーザーを見回してみると、やっぱりバパを直接知っている人が多い。
そうしてそれはまあ当然と言えば当然のこと。
あれだけすごい方にはそうそうお目にかかれるものではない。
そうしてまた「そうか、ラティハンを続ければあんな風になれるのか」などと誤解して、熱心にラティハンにいそしむ。
まあそうやって、なんだかんだで続いてきている様子です。
かたやバパを知らない人は、「さて、ラティハンを続けるとどんな風になるのかな」などと考えて先輩方を観察します。
そうすると、まったくいろいろな人がいて、それぞれが自分独自の思いをもって生きておられる様子。
まあ、おおざっぱにいえば皆さん、基本はお人好しでそれ以上でもそれ以下でもない、まあ普通の人にしか見えません。
さてそうであれば意見の食い違いやら何やらでもめることもあります。
そんな様子ですから、まったく普通の人のあつまり、町内会のあつまりと変わりはありません。
そうであれば、気の合う先輩もいるでしょうし、合わない方も出てきます。
まあそういうわけで、周りの先輩諸氏からはどうにもラティハンの効果、あるいは恩恵のようなものが感じられません。
そうしてそのような状況を新たに参加した新人さんは自分の価値基準をもって「ああ、これは大したことがないものだ」と判断します。
そうやって先輩方に対する失望の中で多くの人がラティハンから離れていった様に思われます。
そうやって離れていってしまった方々を批判するつもりはありません。
実際のところ、個人的にはそのような経験もしました。
それでは何故いままでラティハンを続けられたのでしょうか?
実際のところ、パパを知っていた、と言う事は大きな事であったでしょう。
バパを通じてですが、ラティハンと言うものが諸先輩方が表現しているレベルで終わるものではない、という確信がありました。
そうであれば、道の途上にある我々が理想的なありようからいくら離れていたとしても、まあその事で多少は失望はしますが、それでラティハンをあきらめる、見切りをつけると言う事はなかったのであります。(2017。6.24)
PS
ラティハンの魅力は何と言ってもその自由度の高さにあります。
宗教のように、特別に信じなければならない様な教義や信条、特定の儀式もありません。
それぞれの人がそれぞれの性質に従って受けるラティハンがそこにあるだけであります。
特定の宗教をお持ちの方はそれを信条にして生活されればよく、宗教ではなく科学、あるいは思想、一般的な常識などの内から好きなものを選んで自分の信条にされればよいのであります。
つまり現状のありようから何かを強制的に変える必要などはなくラティハンを始められるのであります。
この自由度の高さは特筆すべきものでありましょう。
霊的な道を名乗る他の道にはないものの様に思われます。
「それでは何も変わらず、ラティハンを受ける意味がないのでは?」といわれますか。
そうですね、ラティハンのスタートというものはそのようなものです。
しかしながらあなたがラティハンを継続するにつれて「ここはこうした方が良かろう」という修正項目があなたのラティハンから出てきます。
そのあたりがまずは分かれ目でしょうか。
「いいや、そうはいうものの、そこは変えれない」とあなたが言うならば、それこそ何も変わりません。
「そうだねえ、それでは変える努力をしましょう」ということになって、ようやくあなたのラティハンは次のステップに進む事が可能になるのでありました。
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