今はどこへいっても「イジメ」「パワハラ」などが蔓延しています。
これは日本の特徴なのでしょうか?
金持ちや権力階級にある人たちが、庶民をいじめるため、子供たちも「イジメが連鎖している」のでしょうか?
私は違うと思います。
家庭教育をしっかり行っていないため「イジメをする」のです。
イジメの根本は何かというと、「優勝劣敗」の考え方であり、さらに言えば「自己中心的な考え方」から来ます。
本来、人間は「容姿や外見、氏素性で決まらない」はずです。
しかし、日本人の多くは、見た目や学歴や年収、職業などで人を評価し差別します。
「内面を評価する」ということに対して全くといって基準を持っていません。
今回ご紹介する記事は部活内で起きたいじめについての記事です。
本来部活は学校教育の一環であり、スポーツは勝敗を競うのが目的でなく、勝敗を競うプロセスで忍耐や努力、チームワークなどを養い人間成長させることが本来の目的なのではないでしょうか?
そして、その目的を達成するために、「市大会優勝」などという目標を掲げ、それに向かって一丸となって努力し、厳しい練習にも忍耐するのではないでしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・・(まともな大人が1人もいない。有名校いじめ事件の酷すぎる現場 2018年9月11日 4時45分 まぐまぐニュース)
日本全国あらゆる地域を飛び回り、数々のいじめを解決してきた現役探偵の阿部泰尚(あべ・ひろたか)さん。そんな阿部さんが今回、自身のメルマガ『伝説の探偵』で取り上げているのは、部活内で起きたいじめに、結果として顧問や学校長までもが加担してしまったという事案です。県教育委員会も隠蔽に躍起になっているというこのいじめの現場で、どんな事が起きているのでしょうか。
有名校女子バスケットボール部いじめ問題と深い隠蔽について その1
はじめに
本件は、まだ解消された事案ではありません。ただ、この事案のように、生徒間のいじめのみならず、顧問の教員、学校長までもが結果的にいじめに加担するという問題が現場では起きています。生徒間だけでもつらいものなのに、そこに教員が加担すれば、被害者のダメージは甚大なものになるでしょうし、さらに学校長も加担してしまうと、もはやその環境から抜け出すことも困難になるはずです。読者の皆様には、ぜひ、この現場を知っていただきたいと思います。
いじめの概要
甚大な被害を受け続けているAさんは、県立高校に通う現在3年生である(女子生徒)。ここは、県立高の中でも、成績上位に入るような学校である、世間ではトップ校は受験などの忙しさもあり、また利発な子が多いのでいじめというイメージはないだろう。
ところが、いじめはどこにでもあるのだ。
Aさんは現在高校3年生になる。いじめは、部活の同級生でキャプテンであったB子を中心としたものであった。無視や仲間はずれ、部活では同じポジションであったAさんへの執拗ないじめ行為には、キャプテンという立場を使ってレギュラーを決めるための練習試合に出させないなどいじめをし続けた。実際、いじめ行為の数はあまりに多い。これについては続編で詳細にレポートしたい。
すでにいじめ自体の認定はされており、この問題は重大事案となっている。ただ、問題はいじめ以外の対応にもあるのだ。
学校加担となったいじめの証拠
部活では慣習として、一度決まったゼッケンは本人が卒業するまで固定の番号となる。つまり、同じゼッケンの選手は存在しないことになるのだ。「0から99」番まで、それぞれが個別の番号を獲得するために、懸命な努力をする。Aさんも妨害を受けつつも懸命に努力して、ゼッケンがついたユニフォームをもらっている。
ところが、Aさんが退部していないのにも関わらず、後輩生徒がAさんと同じゼッケンをつけていることが発覚した。Aさんは部活内でのいじめを訴えていて、部活に参加するのが難しくなっていたが、退部しないと顧問などにはしっかり意思表示していた。また、顧問らは退部させるというような通告もしていない。
このユニフォーム事件の内情は、顧問からユニフォームがまだない部員に新たにゼッケン入りのユニフォームを渡すということを学校長に提案し、学校長承認のもと、敢えてAさんがつけていた番号にして作ったのである。
大人たちから見ればユニフォームはただの運動着かもしれない。しかし、部活に懸命であった者からすれば、その番号は学生生活で最も重いものかもしれない。部活の顧問は、管理責任のもと、Aさんの番号も慣習も知っていたはずである。いじめがすでに問題になっていたから、学校長も既存の事実であった。だからこそ、このユニフォームの問題は、Aさんへのいじめに一教員が加担したのみならず、学校長が関与したことで、学校すら加担したことになってしまった。
学校と教育委員会の連携的隠蔽
このユニフォーム事件で、Aさんは、顧問教諭に質問をした。
「なぜ、同じ番号にしたのか?」
それに顧問はこう答えている。
「あなたが確認できる状態ではなかったではないですか!!」
いじめに遭い、様々なものを奪われて、大変な状態であったAさんが勇気を振り絞ってした質問に、まるで、いじめで苦しんでいることが悪のように顧問は捉えていたのである。学校長もこれには大きく関わっているが、自らの責任は認めつつ、顧問教諭がかわいそうだと発言している。
こうした対応のミスは、いじめの被害を拡大し深くしてしまった。学校としては隠したい事実となってしまったのだろう。二次被害の状態になったAさんに顧問教諭はこう吐き捨てている。
「今後は、教育委員会と話すことはあっても、あなたと話すことはない。教育委員会から話していけないと言われている」
教育委員会はすでにいじめ事件として介入を始めていたから、顧問教諭が自らの責任を逃れるために、教育委員会をスケープゴートに使うにしてはあまりにお粗末である。
続編へ
上記まではほんの一部の被害に過ぎない。Aさんは未だにいじめの被害を受けながらも、懸命に学校に通っている。「伝説の探偵」では、このいじめ問題を今後詳細に調査を進め、Aさん救済と真実の追求を行うことに決めた。すでに認定を進めているいじめ行為の数々は証拠保全に入っている。
編集後記
もしも、本日の伝説の探偵を読み、酷いと思った方。これは被害のうちのほんの1つに過ぎません。被害者はもっと酷い仕打ちを受け続けています。そして、この地域、県ではこれが許されている実情があります。
県教育委員会もこのいじめでは、隠蔽に関わり、いじめに蓋をしようと躍起になっています。そして、加害者を保護し、野放しにして、学校教員へは被害者へのフォローを拒ませています。
これについては全て書くと、とんでもない長さになってしまい、事案理解が難しくなってしまうところがあるので、今日はほんの一部、関係者に争いがない事実のみを記しました。
実際のいじめ問題、どこかまともな組織が1つでもあれば、ここまで酷いものにはならないのです。教育委員会の存在意義とはなんでしょう。いじめ問題に関わっていると、1つでもいい、一人でもいいから、まともな判断力、子供を守ることを全ての前提における人物がいたら、そう思います。 (つづく)
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
このように「ライバルの足を引っ張って、蹴落としてレギュラーになる」ということを子供がやっているのです。
恐ろしい話ではありませんか?
いじめの理由については明言されていません。
それこそ、同一ポジションのライバルだったからくらいのものでしょう。
つまり「いじめる側の理由なんてどうでもいい」のです。
これは暴力団やヤクザと同じ論理です。
いちゃもんをつけるのに理由は何でもいいのです。
進学校であろうが、成績優秀であろうが、「いじめ」を行う行為は卑劣であることは変わりありません。
その原因は一体どこにあるのでしょうか?
私は「家庭教育にある」と考えます。
「勉強ができればいい」「学校での成績評価が高ければいい」
と子どもを育ててしまうと、「モラル」「倫理感」が欠如した人間に育ってしまいます。
つまり、人間の一番大事な部分の「心」が育たないのです。
「心」が子供のままで、外見だけが大人になっていくのです。
これは家を建てることで例えると
「基礎がない土地に家を建てていることと同じ」
ではないでしょうか?
学校の成績、部活動、スポーツの成績よりも、「心の在り方」「考え方」をしっかりと創らないと、勉学もスポーツも「私利私欲のためだけに」使うようになるだけです。
ですから「正義」という「考え方」を教えて、不正を嫌い、悪を憎むという考え方を家庭教育でしていないと、学問もスポーツも悪のために使われてしまいます。
一度、悪の道に入れば、「欲望だけを追い求め」るような人間になってしまいます。
外見は美しく、綺麗に着飾っていても中身は「いつも不平不満、怒り、妬み、不安で満ち溢れ、敵意を隠し持っている人」になってしまうのです。
中身、内面を創り上げるように家庭教育していれば、「外部に対する攻撃性」によって自分を守る必要がなくなります。
思春期とは、親や社会の価値観が「口先だけ」で言っていることとやっていることが違う、言行不一致から「価値観の混乱」を招く時期だと考えられます。
「親」が狂っているから、親が嘘をついているから、親が言い訳ばかりしているから、親が隠し事ばかりしているから
子供は矛盾と板挟みになるのではないでしょうか?
ここまで読まれてきた方はお判りだと思うのですが、子育てや家庭教育とは一体何か?というと
「親自身が成長すること」
に他なりません。
「大人がどうやって成長するんだ?」
と思う方がいるかもしれませんが、「年齢を重ねたから、あなたは大人なのですか?」
と聞かれれば答えはNoだと思いまうす。
「人生には分別と謙遜が必要である」
と聖書に書かれています。
これは「大人の定義」にも当てはまると思います。
大人は「分別と謙遜を持つ存在」なのです。
単に社畜となって生活費を入れるのが大人ではありません。
単に、子供の生活の世話をするのが大人ではありません。
子供よりも、心が豊かで、いつも喜んでいて、幸せそうにしていなければ「大人ではない」のではないでしょうか?
今の時代はその真逆です。
こどもは生き生きしているが、成長していくとどんどん目が死んでく、サラリーマンになったり結婚すると生きた屍のようになってしまっています。
・・・・・・・・・・・・・・・(ヨブ記28章)
知恵と分別 「主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別」28:28
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
知恵とは「神を恐れ敬うこと」
言い換えれば、人間の一時的な感情に左右されて生きてはいけないということ。
分別とは「悪を遠ざけること」
言い換えれば、欲望に流されないこと
そして悪とは悪魔つまり「罪」です。
「このような罪」を抱えている人は「霊的に子供」「心が子供」であるのです。
しかし残念ながら、霊的、つまり心を綺麗にすることは私たちは教えられてきませんでした。
まさに「勝てば官軍負ければ賊軍」という「損得勘定」で打算的な、冷たい社会で生きていくんだよということしか教わっていないのです。
現代社会は悪知恵や騙したり、蹴落としたりすることが当たり前になってしまっています。
助け合い、お互いが「愛」を持っていきていくことが大切なのです。
子供たちは「愛」を知りません。
ですから、私たち大人が「愛」を知り、「愛」を体験して、子供たちに実践し伝えていくことが「家庭教育」であるのです。
「親子愛」が不完全であるのは、親がその親から受けた愛によって差が生じてしまうからです。
どうか完全な愛=「真実」を知って子育てに生かしていってください。
(真実を知りたい方は「こちら」からどうぞ)
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