心のハンドル操作方法 幸せに生きるための教習所

旧精神科医療は思想警察なのか?

鹿児島県出身と聴くと「ん??」と思ってしまう、哀川翔は藤原氏の末裔でした。

2018年02月22日 | メディア 芸能人 ゴシップ

今回は、芸能界について書いていきます。

芸能界も、政治家も皆皇族や貴族の血筋、家系ばかりで、庶民がいくら努力しても成功できない業界です。

突然売れたり、大役に大抜擢されたりする様子から違和感を感じざるを得ませんからね。

ピカレスク俳優の「俳優の大杉漣さんが急死 66歳」というニュースがありました。

彼の経歴を見ると、ポルノ、やくざ俳優という下積みから、北野武に見初められて有名になった俳優です。

Vシネマなどは、ほぼ暴力団賛美の作品ばかりでVシネマで実績を残すと表の俳優の仕事やバラエティの仕事が貰えるという

業界の暗黙のルールがあるように感じます。

Vシネマとは東映Vシネマという名称です。

・・・・・・・・・・・・(以下wikiより転載します)

東映Vシネマ(とうえいブイシネマ)は東映ビデオ株式会社が1989年より制作・発売を開始した、劇場公開を前提としないレンタルビデオ専用の映画の総称[1][2]。「V CINEMA(ブイシネマ)」は、東映ビデオ株式会社の登録商標である概要[編集]
Vシネマは当初、世良公則、名高達男、神田正輝、草刈正雄、大杉漣等のベテラン、香川照之、仲村トオル等の新進といった有名な俳優を起用したハードボイルドタッチの作品が数多く制作されたが、哀川翔が主演した『ネオチンピラ・鉄砲玉ぴゅ~』シリーズのヒットにより、次第に東映のお家芸である極道物やギャンブル物が主流となっていった[3]。

また、大御所の名優が特別出演をしているのも特徴である。西城秀樹主演の作品には丹波哲郎が出演(老刑事役で特別出演)、安藤昇(安藤が原作の作品もある)や東映Vシネマ2周年記念作品『ビッグボス BIG BOSS』と5億円の総製作費をかけた東映Vアメリカ作品『復讐は俺がやる DISTANT JUSTICE』には菅原文太が主演。(菅原は他の東映Vシネマにも特別出演をしている)また北島三郎も重みのあるやくざの親分役で2作品で特別出演している。往年のスター萩原健一も、1作品だけだが主演している。創成期の製作費は基本が6000万円で[4]、うち宣伝費が20%であった。キャスティングに強烈なスターが出て、売れる見通しがあればもっと多かった。これは当時の東映の単館ロードショー作品と同程度の制作費であった[4]。

これは、Vシネマ開始当初は邦画不況時代であり、作品を劇場配給網に乗せる予算を制作費につぎ込むことにより作品のクオリティを維持しつつ制作を継続するという苦肉の策から生じたものであると言われていると同時に、当時、実質的に経営破綻状態にあった日活の製作スタッフに救いの手を差し伸べるという側面もあった。この試みは功を奏し、作品自体で収益を得ることに成功したのみならず、邦画黄金期のプログラムピクチャーと同じく、監督・スタッフ・俳優など現在に至る人材が量産体制の中で鍛えられ成長し、現在の映画・テレビ業界を背負う人材が多数輩出された[5]。無名時代の遠藤憲一、豊川悦司、北村一輝、谷原章介、押尾学らの出演作もある[3]。

東映Vシネマが先鞭をつけ新しい映像作品としての地位を確立したことで、にっかつ、東北新社、バンダイ、ポニーキャニオン、東和、ジャパンホームビデオ、大映、松竹その他映画会社、ソフトメーカーが製作を開始、追随した[1][2][6]。しかし、いつしかすべてのオリジナルビデオ映画が、先駆けとなった「Vシネマ」の呼称で認知されるようになった[1][2][7][8]。

当初、Vシネマのターゲットは男と決められていた[4]。これは当時ビデオショップに来る女性も増えてはいたが、まだ圧倒的に男が多かったことによる。ターゲットは15、6歳から32、3歳くらいまでの男性客を対象とし、センターを20歳としている[4]。

ギャラのトップは竹内力で、竹内のギャラは1本1000万円まで吊り上った[27]。2008年頃の2時間ドラマで、製作費が5000万円なら、主演俳優のギャラは200~300万円が相場。テレビに比べVシネマの主演スターはギャラが破格だったa

・・・・・・・・(転載ここまで)

「当初、Vシネマのターゲットは男と決められていた」

「北島三郎も重みのあるやくざの親分役で2作品で特別出演している」

「有名な俳優を起用したハードボイルドタッチの作品が多い」

「次第に東映のお家芸である極道物やギャンブル物が主流となっていった」

こうやってみると、完全にやくざ、ちんぴら賛美の作品専門の作品ばかり作らせていて、このVシネ出身の人達がなんだかんだいって、表の俳優業界で活躍しているという現状から、俳優業はやくざの演技がかっこよくできないとメジャーに上がれないという業界であると考えられます。

つまり、俳優としてバックボーンを支えているのは結局暴力団関係者なんでしょうね。

「Vシネというマイナーリーグで、やくざ、チンピラ役がこなせる人⇒表のメジャーリーグで役柄が貰える」

という感じです。

「哀川翔が主演した『ネオチンピラ・鉄砲玉ぴゅ~』シリーズのヒットにより、次第に東映のお家芸である極道物やギャンブル物が主流となっていった」

とあるように、一般庶民が聞いたこともないようなVシネ作品に今回の「哀川翔」の名前が出ています。

単なるカブトムシ採りが好きな声の高いおじさんではなさそうですね。

哀川翔の情報は以下の通りです。

・・・・・・・・・・・・・(wikiより転載)

哀川 翔(あいかわ しょう、1961年5月24日[1] - )は、日本の俳優、タレント、歌手、ラリードライバー。本名、福地 家宏[2]。

徳島県徳島市生まれ、鹿児島県鹿屋市出身。身長178cm、血液型はAB型[1]。妻は元女優の青地公美。長女は歌手でcossamiのMINAMI。次女は女優の福地桃子

生い立ち
徳島県徳島市生まれ。海上自衛隊の幹部自衛官でパイロットだった父 福地家興の転勤に伴い山口県岩国市、栃木県宇都宮市、千葉県館山市を転々[3]。

哀川が5歳の時、父親が訓練中に搭乗していた航空機同士が衝突して徳島沖で事故死。当時母親は臨月だったため、代わりに哀川が父親の亡骸と対面、遺体を確認したという。この事故はマスコミ各社で大きく取り上げられ、当時の新聞には待合室の椅子に座り、同行した叔父が読む新聞を覗き見する子供時代の哀川の写真が載った。この事故について哀川本人は2016年10月27日のファミリーヒストリーで「何かはよく分からなかったが、食事をしながらテレビを観ていたら、突然画面に親父の名前が出たのをはっきりと覚えている」と語っていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

「哀川が5歳の時、父親が訓練中に搭乗していた航空機同士が衝突して徳島沖で事故死。当時母親は臨月だったため、代わりに哀川が父親の亡骸と対面、遺体を確認したという。この事故はマスコミ各社で大きく取り上げられ、当時の新聞には待合室の椅子に座り、同行した叔父が読む新聞を覗き見する子供時代の哀川の写真が載った。この事故について哀川本人は2016年10月27日のファミリーヒストリーで「何かはよく分からなかったが、食事をしながらテレビを観ていたら、突然画面に親父の名前が出たのをはっきりと覚えている」と語っていた。」

ということでNHKの番組にその家柄がさらりと出されていますね。

やっぱり血統がいいのでしょうか?

・・・・・・・・・・(2016年10月27日放送 19:30 - 20:15 NHK総合ファミリーヒストリー「哀川翔〜哀(かな)しみを川に流して翔びたて 涙の真実〜」

先祖は佐賀 鍋島藩の武将
鹿児島県鹿屋市に哀川の実家を尋ねると母・幸子が迎えてくれた。

49年前に亡くなった夫から受け継いだ古い巻物と掛け軸がある。

哀川の本名は福地家宏。巻物を佐賀大学に持ち込み詳しく調査。1637年の島原の乱は天草四郎率いるキリシタンと幕府の戦いに福地家の先祖が佐賀藩の家臣として出陣していたことがわかった

380年前の哀川の祖先の福地三左衛門。江戸時代、福地家は家臣として要職に就いていた。

祖父は元満州国官僚 明らかになる最期
明治になると、哀川の曽祖父は警察官になる。そして、明治37年に哀川の祖父・家久が誕生。当時、福地家は大隈記念館の向かいに暮らし、300坪ほどの広い敷地を所有していた。家久は東京帝国大学卒業直後に益家と結婚。しかし、日本は昭和恐慌に陥り、東京帝大を出た家久でも定職に就けずにいた。その頃生まれたのが哀川の父・家興。その後も2人の子どもをもうけた家久は家計のために当時の満州国に渡り、各地の警務庁で勤務。しかし、次男が赤痢で死亡。長男の家興も命に別状はなかったものの、病に倒れたため、家興を医療の進んだ日本に帰すことにした。日本に戻った家興は佐賀にいた祖母と一緒に暮らし始める。昭和18年、家久は興安街に着任。現在の日本でいう県警本部長に就任した。しかし、昭和20年にソ連が満州に侵攻。翌日には家久たちが暮らす興安街でも空爆が始まった。家久は益家に子ども3人を連れて逃げるよう指示。家久は警務庁長として避難する日本人をソ連兵から守る任務に就いた。そして9月2日、家久は匪賊の襲撃に遭い、銃で頭部を撃ち抜かれた。即死だった。40歳というあまりに早すぎる無念の死だった。哀川の祖父・家久の最期についてトーク。スタジオの哀川は、「立派ですよね。任務を全うしたという。警察官ってそれが任務だから」とコメントした

終戦時の脱出劇 祖母は幼子を連れて
益家は身重でありながら他の人とともに避難していた。その最中にソ連兵に包囲された。12歳だった嶺子さんは死を覚悟したという。しかしソ連の将校が女性だったので銃殺は取りやめになった。翌日からソ連兵に監視されながら移動した。父が来ると信じていた。坦途で病気などで動けない者たちを置いていくことになった。益家たちもここに留まることになった。益家は女の子であるふさ子を出産したがすぐに行きを引き取った。嶺子に子守唄を歌うようにお願いしたという。その朝益家は亡くなった。38歳の若さだった。その一ヶ月後嶺子と三郎は父の部下に救出された。哀川翔の父である家興は家族の帰りを待ち続けていた。家久の部下が父達の死を伝えに来た。家興は長男としての責任を感じていた。父は海上自衛隊へ パイロットを目指す
家興は旧制中学を卒業し早稲田大学に進学する。阿部寛行さんは家興と下宿先で3年間同室だった。夜遅くまで英語を勉強していた。いとこの青沼道子さんによると「人と一緒の時は楽しそうで親分肌だった。ふと寂しそうな顔をすることもあった。」と語る。早稲田大学を卒業後警備隊に入隊した。パイロットを目指したが家族は猛反対した。わずかな斜視によってパイロットには不適合とされたが諦めきれなかった。医師に相談して矯正するために手術を受けた。同期である遠藤峻生さんは「どんな困難でも書士を貫徹する男」と述べた。昭和32年に晴れてパイロットとなる。ある日スナックに出かけ阿部幸子と運命の出会いをした。

・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

「先祖は佐賀 鍋島藩の武将」

「1637年の島原の乱は天草四郎率いるキリシタンと幕府の戦いに福地家の先祖が佐賀藩の家臣として出陣していたことがわかった。」

「家久は家計のために当時の満州国に渡り、各地の警務庁で勤務、家久は警務庁長として避難する日本人をソ連兵から守る任務に就いた。」

「立派ですよね。任務を全うしたという。警察官ってそれが任務だから」

祖先は福地氏ですね。父親は警察官僚で満州で警務庁長をされており、暗殺されています。

少し日本の警察とは違うため調べてみました。

・・・・・・・・・・・(以下wikiより転載)

従来、満州を支配下においていた奉天派軍閥にも、もちろん独自の警察制度を持っていたが、警察官の質が悪く民衆の怨嗟の的になっていた。

満州国成立後は日本の指導の下で、規律ある新生「満州国警察」を構築することになった。

中央政府に「警務司」を設置し、満州国内の全警察を統括することになった。

地方については、省に「警務庁」を置いた。首都の新京特別市には「首都警察庁」を置き、奉天市・ハルビン市には「警察局」を、安東市・撫順市・鞍山市・吉林市・牡丹江市・チチハル市・錦州市・チャムス市・営口市には「警務処」を、その他の市・県・旗には「警務科」を置いた。

海上警察として、「海上警察隊」が設けられた。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

「家久は家計のために当時の満州国に渡り、各地の警務庁で勤務、家久は警務庁長として避難する日本人をソ連兵から守る任務に就いた。」

現在で言えば、キャリア官僚の県警の警備部の部長さんといったところでしょうか?

「福地氏というキーワードが出てきましたので調べてみました。

ちなみに「松田聖子は蒲池氏の家系で、嵯峨天皇の末裔である」のは有名な話ですよ。

動画はこちらです。

佐賀の柳川藩の蒲池氏です。

・・・・・・・・・・・(福地氏wikiより)

佐賀藩士 福地氏[編集]
戦国大名龍造寺氏の実権を握っていた鍋島氏が佐賀藩主として認められ、龍造寺氏の支配が終焉すると肥前国の福地氏も鍋島氏に随い、佐賀藩士となった

佐賀藩士 山本常朝が武士道の指南書として著した『葉隠』の聞書 第四 五十にも藩主 鍋島勝茂が有能な藩士と評した武士として福地吉左衛門の名が見える他[4]、聞書 第六 一六六、聞書 第八 五七には福地孫之允なる藩士が中野休助と喧嘩になり切腹したが、介錯人であった小城の蒲池某がしそんじて浪人したこと[5]、聞書 第七 三二には「千住善右衛門、討ち果たしのこと」という事案の検分役として福地市郎兵衛の名が見える[6]。また、聞書 第八 五七には家老職の横岳鍋島家当主 鍋島主水配下に福地六郎右衛門の名が見え、同じく佐賀藩家老の多久長門守家臣を切腹の危機から救ったとある[7]。

・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

「戦国大名龍造寺氏の実権を握っていた鍋島氏が佐賀藩主として認められ、龍造寺氏の支配が終焉すると肥前国の福地氏も鍋島氏に随い、佐賀藩士となった。」

とありますが、どうやって福地氏が実権を握ったのでしょうか?

福地氏は鍋島氏に入っていくことになります。親戚にでもなったのでしょうか?

龍造寺氏がキーワードになります。

・・・・・・・・(龍造寺氏

本姓 藤原北家中関白流高木氏流
家祖 龍造寺季家
種別 武家
出身地 肥前国佐賀郡
著名な人物 龍造寺家兼
龍造寺隆信
龍造寺季明
支流、分家 水ケ江龍造寺氏(武家)
龍造寺四家(武家)

蒲池氏の保護:家兼と隆信[編集]
生き残った龍造寺家兼は筑後の蒲池鑑盛の元に逃れ、鑑盛の保護を受ける。蒲池氏の援助を受けて家兼は再起をはかると、1546年、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興した。同1546年、93歳の高齢で家兼が死去し、曾孫の龍造寺隆信が後を継いだ。隆信もまた一族の内紛で肥前を追われて筑後に逃げ、家兼と同じく蒲池鑑盛の厚い保護を受ける。約2年にもわたる蒲池氏の支援により龍造寺隆信は生き延びることが出来、また再起出来たのである。

戦国大名への方途と崩壊[編集]
再起した隆信の時代に龍造寺氏は肥前を制圧し、北九州に勢力を広げ、さらに大友氏が日向の耳川の戦いで島津氏に大敗すると、大友氏の混乱に乗じて大友氏の勢力圏の筑後に侵攻するなど、短期間に戦国大名としての最盛期を築き、九州北東の雄である大友氏を圧倒するに至る。九州中央部への進出のため筑後の領有を狙い、蒲池氏の柳川城を攻めたが、攻め落とすことが出来ず、その堅城ぶりに手を焼いた隆信は、恩ある蒲池鑑盛の嫡男で、娘婿でもある蒲池鎮漣を騙まし討ちにし、さらにその一族を殺戮(さつりく)し柳川を制圧した。蒲池氏に対する仕打ちは、田尻氏や黒木氏など筑後の国人たちの離反を招くこととなり、隆信は、彼らとの戦いに手を焼くことになる。そして1584年には沖田畷の戦いで島津氏に敗れ、隆信も戦死した。短期間に勢力を拡大したため家臣団の強固な組織化が未完成であり、にわか仕立ての龍造寺氏の基盤はもろく、最盛期の崩壊の道もまた早かったといえる

・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

藤原北家なのですが、佐賀藩を調べてみると竜造寺家と鍋島家の争いから、竜造寺氏が下野していく形となったようです。

・・・・・・・・(以下wiki佐賀藩より転載)

藩史[編集]
鍋島氏は龍造寺氏の家臣であったが、龍造寺隆信の戦死後、鍋島直茂が領地を継承して成立。藩の成立後もしばしば残存する龍造寺分家との対立がおきた(鍋島騒動)。この対立の構図から生まれたのが「佐賀化け猫騒動」という話である。

鍋島の化け猫騒動
肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたために斬殺され、又七郎の母も飼っていたネコに悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで毎晩のように光茂を苦しめるが、光茂の忠臣・小森半左衛門がネコを退治し、鍋島家を救うという伝説[18]。

史実では鍋島氏以前に龍造寺氏が肥前を治めていたが、龍造寺隆信の死後は彼の補佐だった鍋島直茂が実権を握った後、隆信の孫の高房が自殺、その父の政家も急死。以来、龍造寺氏の残党が佐賀城下の治安を乱したため、直茂は龍造寺の霊を鎮めるため、天祐寺(現・佐賀市多布施)を建造した。これが騒動の発端とされ、龍造寺の遺恨を想像上のネコの怪異で表現したものが化け猫騒動だと考えられている[18][19]。また、龍造寺氏から鍋島氏への実権の継承は問題のないものだったが、高房らの死や、佐賀初代藩主・鍋島勝茂の子が早くに亡くなったことなどから、一連の話が脚色され、こうした怪談に発展したとの指摘もある[20]。

この伝説は後に芝居化され、嘉永時代には中村座で『花嵯峨野猫魔碑史』として初上演された。題名の「嵯峨野(さがの)」は京都府の地名だが、実際には「佐賀」をもじったものである。この作品は全国的な大人気を博したものの、鍋島藩から苦情が出たために間もなく上演中止に至った。しかし上演中止申請に携わった町奉行が鍋島氏の鍋島直孝だったため、却って化け猫騒動の巷説が有名になる結果となった[20][21]。

後年には講談『佐賀の夜桜』、実録本『佐賀怪猫伝』として世間に広く流布された。講談では龍造寺の後室から怨みを伝えられたネコが小森半左衛門の母や妻を食い殺し、彼女らに化けて家を祟る。実録では龍造寺の一件は関係しておらず、鍋島藩士の小森半太夫に虐待された異国種のネコが怨みを抱き、殿の愛妾を食い殺してその姿に成り変わり、御家に仇をなすが、伊藤惣太らに退治されるという筋である[22]。

昭和初期にはこの伝説を原案とした『佐賀怪猫伝』『怪談佐賀屋敷』などの怪談映画が大人気となり、化け猫役を多く演じる入江たか子、鈴木澄子といった女優が「化け猫女優」として知られることとなった[17]。

 

佐賀藩成立[編集]

藩祖・鍋島直茂
天正12年(1584年)、龍造寺隆信は島原半島に於いて島津氏・有馬氏の連合軍との戦いで敗死したその遺児である政家の補佐役として実権を握ったのが、重臣の一人であった鍋島直茂である天正18年(1590年)には政家を廃してその子の高房を擁立、直茂はその後見人として豊臣秀吉より認められた。以後、鍋島氏は主家を圧倒することとなる。

 

主な藩関係者・出身人物[編集]
廃藩以降の人物は佐賀県出身の人物一覧を参照のこと

 

古賀精里(学者、寛政三博士の一人、江戸昌平坂学問所教授)
古賀穀堂(学者)
石井鶴山(漢学者、第8代藩主鍋島治茂の相談役)
石井松堂(国学者)
武富廉斎(儒学者)
武富い南(国学者)
大隈重信(元総理大臣・早稲田大学創設者・侯爵)


江藤新平(初代司法卿
島義勇(秋田県権令・侍従)
大木喬任(文部卿・東京市長・伯爵)
佐野常民(枢密院議長・日本赤十字社創設者・伯爵)
枝吉神陽(国学者、義祭同盟主宰)
副島種臣(外務卿・書家)
石井忠亮(逓信省電信局長、元老院議官、和歌山県知事)
久米邦武(歴史学者、東京帝国大学教授、早稲田大学教授)
本野盛亨(読売新聞創業者、子爵)
本野一郎(外務大臣、子爵)
中牟田倉之助(海軍中将、初代海軍軍令部長、子爵)
田中久重 (東芝の創始者)弓引き童子、萬年自鳴鐘の製作者 幕末から明治期における日本の工業化の功労者


鍋島氏について

龍造寺氏の重臣[編集]
龍造寺経秀の子経直は、肥前守護少弐教頼を支援し、娘の一人をその側室に配し、生まれた男子経房に鍋島氏を相続させた。その後、龍造寺氏に従って活躍する。とくに享禄3年(1530年)の田手畷の戦いでは、鍋島清久が龍造寺軍の危機を救う大活躍を示すと、その功績により清久の子の鍋島清房が、龍造寺氏の娘を娶り、血縁関係を結んだ。清房の次男直茂は、龍造寺隆信の副将として、龍造寺氏の発展・興隆に尽力する。

・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

このように見ると、戦国時代から、お家をつぶされないように、政略結婚をして氏素性を隠していたのがわかりますね。

結局、血筋、血統を残していくのが日本の社会そのもの、世界的にもそうかもしれませんが。

で、哀川翔も佐賀藩の福地氏で、鍋島氏に入っています。

鍋島氏は藤原北家の竜造寺氏の姻族となっております。

藤原家は摂関政治で有名ですよね?

つまり皇族と親戚ですから、華族となるわけです。

ルーツをたどると、皇族と親戚なんですね。

ただし、養子縁組などを繰り返しているため、現皇族との血筋の距離まではわかりませんが、決して無関係ではありません。

また、彼らは大して実力もないのに、権力を駆使し、適当にストーリーを作りだしているだけで、肝心な血筋やら血統は隠して派手に目立ち賞賛を得るのが好きな人達であることは間違いなさそうですね。




 

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