古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

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古代のロマンたっぷりの日本神話(補足)

2016-10-30 09:21:44 | 歴史
日本神話、難しいと思われた方へ、幾つか補足の説明しておきます。
登場する三つの国
・高天原(たかまがはら)
 天照大御神など神様が暮らす天上界の事

・葦原中津国(あしはらのなかつくに)
 イザナギや天照大御神などが国造りのために、水の神、火の神など多数の神様を
 産まれて地上界に送り出します。私たちが住む地上界の事です。

・根の国(ねのくに)、黄泉の国(よみのくに)
 死者が過ごす世界です。

神話の中では
イザナギとイザナミの神様が沢山の国造りの神様を産みます。
イザナミは、火の神を産んだ時にやけどしてしまい亡くなり、根の国(ねのくに)へ行ってしまいます。
イザナギが、アマテラス、スサノオ、ツキヨミの3貴神を産みます。
イザナギの命令で、アマテラスが高天原、スサノオが葦原中津国、ツキヨミが根の国を
治める指示が出ます。
スサノオは駄々をこねて天岩戸の事件を起こしてしまい、高天原を追放されて葦原中津国に
たどり着き子孫が出雲の国を造ります。

魏志倭人伝など実際との対比(諸説あります)
高天原=邪馬台国:葦原中津国=その他の国々
高天原=九州朝廷:葦原中津国=出雲朝廷

卑弥呼=天照大神、神功皇后など
卑弥呼の弟、出雲国王、奴国国王など=スサノオ

これらの関係を覚えて、先の投稿 古代のロマンたっぷりの日本神話をもう一度
読んでいただければ少しは分かりやすくなるかと思います。
古代日本史ファンの方をお待ちしています。
コメント

古代日本史ファンになろう

2016-10-29 11:10:57 | 歴史
日本史、それも弥生時代となると、かなり地味な存在ですよね。
古代日本史の楽しみ方についてです。
楽しみ方、きっかけは人それぞれの様ですが、私なり考えてみると
・事実が確定できないので想像力で楽しめる。
・ちょっとした知識で豆学者になれる。
の二つがあるような気がします。

古代日本史の豆知識
1、何と云っても「魏志倭人伝」と金印
  中学生の時代に社会の歴史で出てきた事は記憶にありますよね。
  しかし、その内容まで知る人は少ないです。
2、古代の文化、生活を伝える神社
  神社を知らない人はいないと思います。
  しかし、その建物や儀式の成り立ちにあると意外と知られていません。
3、日本最古の歴史書「古事記」と「日本書紀」
  これも中学の歴史で習います。しかし、そこに書かれている内容までは
  ほとんどの人が知らないです。
4、徐福(紀元前に大陸から数千人規模の大船団で日本に住み着いた人)
  徐福を知っていた方、既に優等生です。
  知らない方、是非、勉強して下さい。

想像する魅力(古代のロマン)
1、一番は、やはり日本神話
  西洋のモーゼ、イエスキリストを超える壮大な物語です。
  これらの神話に秘められた事実・意図を想像するの楽しいですね。
2、中国の「史記」から想像する日本
  弥生時代には、まだ文字が無かったのですが、当時の日本の事を中国の各史記が紹介
  してくれています。しかし、残念ながら氏名、地名は著者が勝手に当て字する等
  現在語に訳しても未だ解明できない部分が多数あります。
  邪馬台国や卑弥呼も中国史記に出てくる名前で、日本の歴史上、
  誰だったのか?何処だったのか?結論は出ていません。
3、各地で発見される古代遺跡群
  古代遺跡の発見は、新しい謎の発生でもあります。
  吉野ケ里遺跡・・・・3世紀後半に、突然と人が住まなくなった、その理由は?
  箸墓古墳・・・・・・最初の巨大前方後円墳、一体誰のお墓?
  各地に存在する古墳・銅鐸文化圏と銅矛文化圏、二つの文化圏は何故、出来たのか?
            そもそも銅鐸は何に使ったのか?
  他にも縄文時代の火焔土器や女性人型土偶も意味深で興味を引きますね。

ブログでも、旅行や料理等と比較すると
日本古代史は投稿数も閲覧回数も大きな差があります。
歴史のカテゴリーでも、人気は 戦国武将、幕末、世界大戦の時代に人気が集中しています。
この投稿を読んで頂いたことを機会に、是非、古代のロマンを感じてみて下さい。
先の投稿に目次として使える投稿をしています。
下のボタンをぽちっと押した後、過去の投稿に進んで頂けると分かりやすと思います。
コメント (1)

古代日本の歴史表一覧

2016-10-23 10:35:18 | 歴史
基本中の基本です。これから日本古代史を勉強される方は是非ここから勉強してください。
もちろん、「それくらい知っている」云う方も復習の意味で・・

1、縄文時代
  紀元前1万4千年から300年頃とされています。
  大陸と日本が陸続きの時代に移り住んだ人、南方から流されてきて移り住んだ人など
  原住民と云ってよいでしょう。
  狩猟生活で、縄文式土器が有名です。
  神秘的な火焔型(かえんがた)や女性人型土偶が特徴的です。
  器としての生活用品以外に芸術性を感じさせます。
  そして、この土器が世界で一番古く、日本独特の土器なのです。

  勾玉も既に存在していて、これも日本独特の装飾品(或いはお守り)です。
2、弥生時代
  紀元前300年から250年頃まで、大陸から渡来人が住み着き大陸文化が日本で始まります。
  農耕文化、弥生式土器、青銅農耕具から鉄製武器が九州北部経由で伝わります。
  紀元前3000年頃に、徐福と云う中国人が数千人の若者、技術者を連れて日本へ来る。
  そのまま帰らなかったと云う記述が中国の歴史書にあり、日本弥生時代の幕開けと思われます。
  紀元前57年には、朝鮮半島経由の交易航路が完成しており、奴国の王様が「漢委奴国王」と刻印された金印が中国(漢)より贈られていて、実際に発見されています。
  卑弥呼の邪馬台国は180~247年(Or 189~248年)で、弥生時代末期です。
  縄文式土器は姿を消しますが、古来の文化 勾玉が引き継がれます。
  天皇家の三種の神器 のひとつが勾玉です。

3、古墳時代
  200年代後半に、纒向遺跡に巨大古墳 箸墓古墳が作られ古墳時代の幕開けです。
  逆に、吉野ケ里など環濠集落が消えます。
  奈良盆地に、天候家の祖とされるヤマト一族が住み着き、全国統一を始めます。
  ヤマト朝廷の始まりで、ヤマト王権の時代とも呼ばれています。
  この時代に、氏姓制度(各地の豪族に氏名と役職や位)を与えると律令政治の始まり。
  奈良纒向の天候家古墳群も河内、北摂と移動すると共に各地の豪族も競って
  巨大 前方後円墳を造ります。
  古墳時代は朝鮮からの渡来人となり仏教が伝来します。
  古墳の文化も仏教の影響を受け、後の飛鳥時代に姿を消します。
  
4、飛鳥時代
  592年 ~ 710年 推古天皇、聖徳太子の即位を基準に飛鳥時代と呼びます。 
  冠位十二階、憲法十七条、大化の改新、大宝律令と数々法律改正(?)律令国家として
  形が出来ていきます。天皇家の権力に対して、豪族(貴族)が大きな影響を持ち
  継承時期になると権力争いのもめ事が発生、天皇一族でも骨肉の殺し合いもおきています。
  天皇家が政権の中心で、ヤマト朝廷の時代とも呼ばれています。
  この時代の歴史は、後に作られる古事記・日本書紀にも記載されていて、その信ぴょう性もかなり高いと思われています。

5、奈良時代
  710年 元明天皇が唐の長安にならい、現在の奈良市の西に平城京をつくる。
  奈良時代の始まりです、この時代に古事記・日本書紀の日本初の史記が作られます。

邪馬台国の秘密、卑弥呼は誰?どんな人?の疑問探しは 弥生時代
邪馬台国とヤマト朝廷の関係は? となると古墳時代を調べる事になりますが
これが何とも資料が少なく、パズルの組み合わせで推察するしかないです。
折角の歴史書 古事記・日本書紀も天皇家目線ですので、神々(上流社会)の話になり
年代のずれも勝手に変更されていています。

コメント

ヤマト王権から大和朝廷への発展

2016-10-22 19:13:45 | 歴史
ヤマト朝廷と云えば古墳時代となります。
しかし、古墳は各地の豪族も作っています。
近畿の3世紀前半の古墳
  古墳名称   時期    全長  被葬者(推定)
  纏向石塚古墳 3世紀前半  96m  孝霊天皇
  纏向矢塚古墳 3世紀前半  96m  細媛命
  纏向勝山古墳 3世紀前半 115m  孝元天皇
  東田大塚古墳 3世紀前半 120m  欝色謎命
  ホケノ山古墳 3世紀中頃  80m  開化天皇
纏向遺跡の近くです。次に新しい時代が来ます。
  古墳名称    時期    全長  被葬者(推定)   宮内庁治定
  箸墓古墳    3世紀中過 280m ○倭迹迹日百襲媛命 同左
  西殿塚古墳   3世紀末  234m ○崇神天皇     手白香皇女
  桜井茶臼山古墳 4世紀初頭 208m  彦坐王
  行燈山古墳   4世紀前半 242m ○垂仁天皇     崇神天皇
  メスリ山古墳  4世紀前半 250m  日本武尊
  渋谷向山古墳  4世紀中過 310m ○景行天皇     景行天皇
200mを超える巨大前方後円墳です。これも各地の豪族が真似します。
箸墓古墳が九州ヤマト族と奈良ヤマト一族との合併後、最初の古墳ではないでしょうか。
日本武尊は熊襲征討・東国征討を行なったとされて、第14代仲哀天皇(后が神功皇后)の父
となると、神功皇后が372年とすると年代に矛盾があるので
日本書紀に無理があるのか、メスリ山古墳 日本武尊が間違いでしょう。
古墳時代は古事記に一致するはずですが、どうも色々と矛盾があってまだ不思議の中にいます。
5世紀の初頭には、天皇家の古墳も奈良盆地から河内平野に移り
継体天皇(507~531年)の時代には、高槻(北摂)に移ります。
天皇継承における様々な問題が古墳の場所にも影響が出ていると思います。
銅鐸・銅矛など副葬品である埴輪にも各豪族単位で特色があります。
九州の筑紫一族も170mの前方後円墳作ったりしています。
朝鮮半島製と思われる金製品の副葬品が出土しています。

次に、古事記に出てくるのが
筑紫碧井の乱(527年)です。物部氏VS筑紫碧井で物部氏の勝利です。
氏姓制度で筑紫一族に 氏の名前を与えますが、実施的な支配が出来ていなかった。
実質的には、九州北部の統一は527年の筑紫碧井の乱だったでしょう。
古事記での次のお話は 物部氏VS蘇我氏(奈良盆地内での内乱です)
聖徳太子の話へ続きます。全国の豪族の乱れを直すための律令の執行が始まります。
この時代から古事記・日本書紀の記述内容も信ぴょう性が高いと思います。
しかし、その内容は、継承争いの生々しい記述ばかりです。
たぶんに、古墳時代も同じようっだったのではないでしょうか。
『宋書』倭国伝では478年 武王が国内は九州から関東まで統治が完了した。
と報告していますが、実際の統一は500年代後半ではないでしょうか。
日本武尊は熊襲征討・東国征討で九州と関東を征伐したことになりますが、
九州北部は、天皇家を欺いていたのか、権力的に対等だったのどちらでしょうか。

卑弥呼とは関係ありませんが、古代史の魅力という事でおまけです。
コメント

突然消えた吉野ケ里遺跡と現れた箸墓古墳

2016-10-22 16:50:27 | 歴史
①卑弥呼の死(247年)
②突然に佐賀の吉野ケ里の環濠を生活の土器で埋めて人がいなくなります。
③逆に、奈良の纒向遺跡に巨大古墳 箸墓古墳 が作られて古墳時代が到来します。

この三つが偶然に同時に発生したのか、それぞれ関連があって発生したのか?
それぞれ関連あり説で、無理なく理由がつけられれば、偶然説を否定できるとはずです。

吉野ケ里も纒向遺跡も弥生時代初期に始まった環濠集落とされていますが
その性格はかなり違うようです。
吉野ケ里
自然の川を利用して人が住み着く。近くに有明海がある。
小さな環濠が出来て、環濠内集落が始まる。
卑弥呼の時代、大きな環濠が出来て武装化が始まる。
環濠内に1万人、環濠周囲も合わせて5万人
環濠内での祈祷や鋳造なども行う、職業による身分の差別が大きくなる。
環濠に土器類を捨てて人がいなくなり、その後に古墳地帯となる。

纒向遺跡
海とは程遠い奈良の盆地の山の麓
河川から水路を造り環濠集落が始まる。
生活が目的の環濠が出来、武装化ではない様である。
生活の場所、山の中ほどが祈祷の場所、墓地も別の場所と別れている。
巨大前方後円墳 箸墓古墳の他、ミニチュア版の前方後円墳が多数できる。
遺跡一帯が古墳地帯となり、人が住まなくなる。


上記を踏まえて

日本神話 天孫降臨 と九州の地形から天孫降臨を考える。
日本神話 神武東征 と 神武東征が、何故 奈良(橿原)なのか?「結論」
をご覧ください。
前提として
卑弥呼は一人ではない
卑弥呼と狗奴国(卑弥弓呼)
邪馬台国は存在しない。
邪馬台国はヤマト朝廷の前身
上記を確認しておいてください。
コメント

卑弥呼から七枝刀(369年) と 広開土王碑(404年)

2016-10-22 14:45:13 | 歴史
247年 卑弥呼の死後、台与が266年 宋へ朝貢 
その後、中国の史記から日本の事が見当たらくなります。
しかし、七枝刀(ななつさやのたち)と広開土王碑が発見されました。

七枝刀は、百済が倭国に献上した刀、奈良県石上神宮に奉納されており国宝です。
「泰和4年(369年)によく鍛えた鉄で七枝刀を造った。
かってこのような立派な刀はなかったが、百済王の太子が倭王のため
にわざわざ造ったものである。後世まで伝え示されたい。」と文字が彫ってあったのです。
当時の朝鮮半島は、現在の北朝鮮辺りが高句麗
韓国辺りが、馬韓、弁韓、辰韓の三韓の時代から、高句麗、百済、新羅の三国の時代へ変わったときです。
百済は、高句麗から攻撃を受けており倭国と友好関係を結んでいたと思われます。
多分に、新羅は、倭国の勢力かにあった。
日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。
紀年論によるとこの年が372年にあたります。
韓国出兵が、ヤマト朝廷の命令ないのか、九州北部の豪族、或いは出雲一族の単独行動なのか不明ですが
倭国が韓国の領土を支配していた様子がうかがえます。

高句麗の第19代の王 広開土王の石碑が北朝鮮にあります。
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。
つまり、396~404年 高句麗が倭国と友好的な百済を攻撃
倭国から新緑を受けている新羅を攻撃して
倭国の軍隊を引き揚げさせると云う内容です。

『宋書』倭国伝にも同様の記載があります。武王の手紙から倭国は
・東55国を征し、西66国を征服し、商船半島の95国を平らげました。
・しかし、高句麗は無道者で、百済を飲み込もうとして国境の人民を略奪し、殺害
・高句麗を攻めるが未だ征服できず、父王と兄王の死後、喪に服し、兵隊を引き上げた。
421年 倭の讃王、珍王 百済を含む朝鮮半島を支配したが、高句麗には及ばず
433年 済王、興王、の時代は百済を攻撃するが百済は高句麗に側にあった。
478年 武王が百済から兵を引き上げる。国内は九州から関東まで統治が完了した。
ちょっと年代がずれているのですが、兄弟、親子3代の五人の王が朝鮮半島を兵を出すが
高句麗の反撃に会い、百済から兵を引き上げる内容です。
当時の国内の情勢も手紙で伝えていますが九州から関東までの統一が完了したことになっています。

①魏志倭人伝の時代(260年位)は、朝鮮半島先端の狗邪韓国が鎖国領土
②390年位には、現在の韓国(百済、新羅)が倭国の領土
③400年以降は、高句麗の攻撃に会い、478年には兵を引き上げる
①~②は九州の豪族の行動の様な気がします。
②~③は近畿ヤマト朝廷の命令下で筑紫一族の行動ではないでしょうか。
日本書紀では、①、②を神功皇后の三韓征伐として記述しているようです。
③の時点で、倭国は朝鮮半島の支配を無くすわけですが、筑紫一族が天皇家に内緒で
百済を交易を続けており、広大な資金力を持つようになり、後の筑紫碧井の乱(527年)
に突入すると云うシナリオです。
既に氏姓制度が発令されていますが、近畿の奈良盆地では有効でも、関東や九州の氏族では
一方的なもので、完全な支配力はなかったでしょう。
その状況でも、武王は統一が完了したと宋に手紙で報告していると思います。
神功皇后が14代天皇の后で372年に三韓征伐とすれば、14代前の神武東征は何時だったのか
大まかには200年代後半と想像はできますが、
実際は誰だったのか疑問の答えが見当たりません。
二代から九代の天皇は欠史八代と云われていますので
372年から6代前に東征が行われた可能性もあります。
邪馬台国(卑弥呼)のその後を知りたいのですが、まだまだ情報不足ですね。
コメント

徐福(BC300年位)~漢委倭王の金印(BC57年)から卑弥呼まで

2016-10-22 11:36:58 | 歴史
魏志倭人伝に紹介されている卑弥呼より前の時代です。
中国大陸初めての統一 秦の始皇帝(BC210年没)の時代です。
戦国時代は、秦、斉、趙、燕などの7国が争っていた時代です。
中国の黄河下流の地域は斉の国でした。
秦の始皇帝は武力で最初の統一王朝を作り上げます。最後まで戦ったのが斉でした。
始皇帝記がの造られていて、その中に徐福についての記事があります。
徐福は、斉の国の方士(学者)でした)
始皇帝は統一後、不老不死の薬が東方の島国にあると聞かされます。
始皇帝から船団を貰って航海に出たのが徐福です。
日本の各地に徐福の伝説があります。
覚えておいてほしい事
1、徐福は二度、渡航している。
  一度目の帰国後、仙人はいたが邪魔されて不良不死の薬が手に入らなったと嘘をつきます。
  二度目の渡航では、3000人ほどの若者各専門家の大船団で出向しますが、そのまま帰ってきませんでした。
2、日本の事を 東方の三神山 と表現されていて、倭と云う呼び名ではありませんでした。
3、黄河下流の山東省を出港して、東シナ海を横断、朝鮮半島の南にある済州島を経由して日本に着く航路
  その後は、朝鮮半島を経由して、対馬・壱岐航路ですので、結構、危険な航路です。
  それなりの大きな船団と準備がなければたどり着けなかったでしょうから、他に渡航が頻繁にあったとは
  思えません。
  その後の史記では、済州島より東は危険なので行かないようにと表現されています。
  徐福が出港して、戻ってこなかったことも原因でしょう。

4、済州島で、船団の一部を残しています。彼らは儀式を行って神として祀られています。
  日本でも、伊万里湾、博多湾、出雲、若狭湾と日本海側沿岸 と
  鹿児島、宮崎、高知、紀伊半島、伊勢湾、静岡(富士山麓)の太平洋側沿岸の二つのルートにあります。
  多分に、長崎辺りで船団を南方と東方面の二つに分けたのではないでしょうか。

5、出港する際に、稲や麦など五穀の種をもって行きます。(最初から帰るつもりなかったのでしょうか)
  実際に中国の山東省のお米と日本米と同じ品種のお米です。
  日本では弥生時代初期ですので、日本の農耕文化の祖ではないでしょうか。

秦の国が滅び、漢の時代になります、後漢の史記に日本についての記述が出てきます。
漢委奴国王のお話です。
倭国の奴国王が、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に貢物をして、代わりに「漢委奴国王」金印を送った
と記されていて、実際に、博多湾の志賀島で発見され国宝になっています。
1、日本の事を倭国と呼び、100余りの国がある。と紹介しています。
2、朝鮮半島経由、対馬・壱岐経由で交易がおこなわれていて、博多湾辺りに奴国があり、最も栄えていあた。
3、金印を貰ったが、当時日本には文字の文化がなく、史記に出てくる国名などは日本人の呼び方を元に
  当て字が行われていた。
4、奴国などには、交易を管理する役職があった。日本からはコメなどを出荷して、青銅などの農耕具や
  武器を入手していた。

徐福の渡来から200年間で、農耕はかなり浸透しており交易の材料となる程です。
但し、大陸から見た日本は、倭と呼ばれて九州北部だったようです。
交易の拠点となった九州北部が栄えてくる時代です。

魏(卑弥呼)の時代AC180年までの7~80年は倭国大乱とありますので、
奴国以外の国々も力をつけて無政府状態だったようです。
180年に卑弥呼が女王となり祈祷の信仰が国の方向性を決める時代です。
残念ながら、247年(約70年)卑弥呼の死後は男王が立ち国が乱れるとあります。
すぐに、卑弥呼の宋女 台与(当時13歳)が女王になります。
266年に、中国の宋の国へ貢物をしていますが、その後、日本についての記事が中国の史記からなくなります。
弥生時代に農耕が始まり500年、日本は九州北部と韓国南端を中心に戦乱の時代を経験しながら経済国家へ発展していきました。


  
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魏志倭人伝と卑弥呼と親魏倭王の金印

2016-10-21 23:35:20 | 歴史
中国の国々は、国の成り立ちなど記載した「史記」を作成しています。
魏・蜀・呉の三国時代の黄河州域(中国北東部)の国が魏です。
魏の魏書に、倭人伝と云う部分があり、通常「魏志倭人伝」と呼ばれており
卑弥呼が登場します。その内容は
1、倭国までの道のりとそれぞれの国について
2、卑弥呼の朝貢と金印など
3、倭国の風俗、生活状況など
が記載されています。まだ当時の日本には文字がありませんので、古代の日本を知る上の貴重な手がかりなのです。

倭国までの道のりが

邪馬台国まで 1万2千里
帯方群(出発地)
狗邪韓国(水行7000里)
対馬国(渡海1000里)対馬
一大国(渡海1000里)壱岐
末廬国(海渡1000里)松浦
伊都国(陸行 500里)糸島
奴国 (東南 100里)博多
不弥国(東行 100里)宗像
ここまで、1万700里、邪馬台国まで残り1300里ですね。
博多湾から鳥栖、久留米と盆地を歩いて南へ有明海位ではないでしょうか。

ところが邪馬台国まで 水行10日、陸行1ヵ月 と急に表示が変わります。
松浦半島=>糸島市まで500里の約2.5倍が残りの1300里で邪馬台国のはずですが
何と1ヵ月以上かかると云う矛盾が発生します。
方向を南とすると沖縄を超えてしまいますが、陸行で一月もかかる土地はありませんよね。
これが邪馬台国が幻になる理由です。

しかし、邪馬台国の女王 卑弥呼は間違いなくいました。
それは、金印を送ったと記載してあるからです。
238年 女王 卑弥呼が魏の皇帝・曹叡に貢物を贈る。お礼に「親魏倭王」の金印と三角縁神獣鏡などを送ります。
歴代の中国の国々は友好国に金印を送る風習がありました。
実際に、後漢の光武帝が「漢委奴国王印」金印を送っておいて実際に見つかっておます(国宝です)。
しかし残念ながら、親魏倭王の金印も三角縁神獣鏡もまだ発見されていません。

更に話が続きがあります。
卑弥呼は、南の国 狗奴国の男王 卑弥弓呼(ヒミヒコ)と不仲で戦闘状態でした。
247年 卑弥呼は魏の国に援助を求めます。
魏からは【黄幢(こうどう)】と呼ばれる黄色い旗が贈られてきますが
残念ながら、卑弥呼は同年に亡くなります。
卑弥呼の墓が作られます。大きさは100歩くらいで00人が殉職したそうです。
その後、男王が立つが国おさまらず。
卑弥呼の宋女 台与(トヨ)が女王となる。
と記載されています。

ここまで読むと、邪馬台国も卑弥呼も絶対にあったと思います。疑問は
1、邪馬台国は何処になったのか、卑弥呼(ヒミコ)は誰
2、狗奴国の男王 卑弥弓呼(ヒミヒコ)とは、狗奴国とは
3、台与は誰、邪馬台国はどうなったの?
その答えは、過去投稿に記載していますが、一度、自分なりに考察してみて下さい。
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古代のロマンたっぷりの日本神話

2016-10-19 19:33:17 | 歴史
日本書紀・古事記に書かれている日本の成り立ち、天皇家のご先祖様の話の部分が日本神話です。
なかなか、西洋の神話にひけをとらない位、大胆です。
全て一回では紹介できないので、簡単にまとめておきますね。

1、イザナギ・イザナミの国造り
  世界が出来てきて、天空の土地 高天原が出来て、多くの神様が生まれます。
  そして、人間の形をしたイザナギとイザナミが生まれます。
  イザナギ曰く「私の余分なところで、お前の足りないところを塞いで、 国を生もうと思う。」
  二人は、天の架け橋から矛を大海原に突き立てて、引き上げた矛から雫がおちて、最初が淡路島
  ついには九州や本州が出来ます。驚きは壱岐対馬に加えて、佐渡島も出来ています。
  国が出来た後に神産みです。沢山の神々を産みます。
  しかし、最後に、火の神を産むと陰部をやけどしてイザナミは亡くなります。
  一人になったイザナギは、黄泉の国のイザナミに会いに行きますが
  イザナミは醜い姿になっていて喧嘩になります。
  その時に、生き物に 性 と 死 が生まれます。
  高天原に戻ったイザナギ
  左目から 天照大神(アマテラスオオミカミ)
  右目から 月読の命(ツクヨミノミコト)
  鼻から  素戔嗚(スサノオノミコト)が産まれます。

2、アマテラスとスサノオの誓約
  イザナギは、3人の子供に
  アマテラスオオミカミは高天原(タカマガハラ)を。
  ツクヨミノミコトは夜の食国(おすくに)を。
  スサノオノミコトは海原を収める様に命令します。
  しかし、スサノオだけが、嫌がるのです。
  母イザザミのいる黄泉の国へ母に会いに行くと言い出します。
  わがままなスサノオは、出発前にアマテラスに挨拶に行くのですが
  アマテラスはスサノオが攻撃してきたと勘違い喧嘩になります。
  スサノオが、無実を証明する儀式が 誓約です。
  お互いが約束した通りに神を産んで証明する儀式です。この儀式で
  アマテラスが 3人の女神
  スサノオが  5人の皇子 を産むのですが、
  アマテラスは納得しませんでした。

3、天の岩戸
  二人の仲は悪く、事件がおこります。
  スサノオは、その宮殿の天井に登り、皮をはいだ馬の死体を投げ込みます。
 驚いた娘たちが騒いで、一人の女性に機織りの器具の先のとがった部分が下腹部につき刺さり、 女は息絶えてしまいました。
  これが原因で、アマテラスは天の岩戸に立てこもります。
  このため世界が真っ暗に、神々が集まり、岩戸の前で宴会を行ってアマテラスをだまして誘き出します。
  これが天の岩戸の伝説です。宴会で使われた鏡と勾玉が後の天皇家の 三種の神器 になります。
  神々は、スサノオの髭や爪をはいで高天原から追放します。

4、スサノオのヤマタノオロチ退治
  追放されたスサノオは、山陰の地で徐々に勇敢になります。
  出雲を訪れた時に一人の娘と老夫婦に会います。
  話を聞くと、毎年、八つの首を持つオロチ(大蛇)に娘を生贄に出しているとの事
  娘に一目ぼれしたスサノオは、娘をかんざしに変えて、オロチの退治をします。
  作戦通りにオロチを酔わせて退治、そしてオロチの尻尾をアマテラスからもらった剣で切ると
  その剣が折れてしまい、尻尾の中から剣が出てきます。
  これも 天皇の三種の神器(草薙の剣)です。

5、スサノオの国譲り
  スサノオは出雲の国造りに成功、出雲は栄えて、子供、孫(大国主命)の時代になっています。
  これでハッピーエンドかと思っていたら
  アマテラスが、出雲の国は、自分の子供(誓約で生まれた長男)の物だと云い始め、国を譲れと主張します。
  交渉は難航しますが、出雲の国にアマテラスノの住む宮殿の様な立派な建物を建てることを条件に
  出雲の国をアマテラスに譲ります。これが後の出雲大社と云われています。

6、天孫降臨
  さらに、アマテラスは孫にあたるニニギに地上へ降りて国造りを命令します。
  多分に出雲に負けない国を造りたかったのではないでしょうか。
  ニニギは高天原から高千穂の山におります。更に下って日向の地で国造りを始めます。

7、神武東征
  ニニギの孫にあたるのが、後の神武天皇です。
  神武天皇は、日向の地から瀬戸内海を経由、6年の年月を費やして、近畿の山奥、奈良盆地にて国造りを
  始めるお話です。

この後も日本書紀:古事記の話は続きますが、神話としてはここまでになります。
神武天皇以後8代の天皇は実際は存在しなかったと云う説もあります。

天皇家の歴史書であれば、高天原から直接、奈良盆地へ天孫降臨すれば良いわけですが
出雲の国造りの話や日向等を経由して、奈良へ到着するストーリーを作り上げるには何らかの理由があるはずです。
ここから真実を探し出すのが楽しみになってしまいました。


コメント

古代史豆知識(神社)

2016-10-18 19:02:10 | 歴史
過去投稿を少しづつまとめていきますね。
最初は、神社です。日本人ならぜひ知っておいてほしいです。

1、神社には格付けがあります。
  〇〇大社と〇〇神宮の違い
  大社と云えば 出雲大社 そのほかにも熊野那智大社諏訪大社宗像大社等があります。
  神宮と云えば、伊勢神宮を筆答に、橿原神宮平安神宮、新しい所では明治神宮がありますね。
  この神宮と大社の違いは、
  神宮と云えば 伊勢神宮、大社と云えば 出雲大社が本家ですね。
  基本は、天照大御神の直系子孫か分家かとなります。詳しくは
  出雲大社 と 伊勢神宮 を・・・

2、大社と神宮で社殿も鳥居も違います。
  神社の鳥居 と 社殿に詳しく書いておきました。
  鳥居 鳥居上部の横柱が一直線になっている神明(しんめい)鳥居 と この横柱の両端が上向きに反っている明神(みょうじん)
  社殿 高床式の穀物蔵の形から発達した「神明造」と 古代の住居の形から発達した「大社造」

3、知っておこう 天皇家の三種の神器
  三種の神器は
  
「八咫鏡(やたのかがみ)」は
 アマテラスが天岩屋(あまのいわや)に隠れてしまったとき、誘い出すための鏡
 伊勢神宮の内宮に奉納されている。

「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は
 天岩屋の榊に「八尺瓊勾玉」がかけられていた
 名古屋の熱田神宮に奉納されています。

「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」は
 スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治したときに、その尾から現れた
 皇居吹上新御所(こうきょふきあげしんごしょ)の剣璽の間(けんじのま)
の三つです。この三つが今もこの二つ神社と御所にあるのです。
そして、20年に一度の、伊勢神宮の式年遷宮の際に伊勢神宮に集められるとの事です。

4、ちょっと覚えておいてほしい神社
  宗像大社の沖津宮(沖ノ島)
  天照大御神の三人の娘が祀られています。
  熊野那智大社の熊野三山
  諏訪大社等があります。
  古代を知るには大社について調べた方が面白い様です。
  神宮では、熱田神宮にも面白い伝説があります。
  何んと、天照の先代、イザナミ、イザナギが祀られてます。
  諏訪大社も独特です。
  身近にある神社でも、とんでもない事実がある場合があります、是非調べてみて下さい。


  
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