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古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

あなたは 右脳派? 左脳派?

2016-11-27 21:48:18 | 歴史
面白いサイトがありましたので紹介します。
右脳・左脳 おもしろチェック     

 
縄文人
狩猟生活、火焔土器、ハート形土偶など
どうも右脳派が多かった?
弥生人
合理的な弥生式土器、上下関係を重んじ、淫乱でない
左脳派が多かった。

そのような中、祈祷を行う卑弥呼一族
倭国大乱の中、左脳派の諸国国王、藁にも縋る気持ちになったのではないでしょうか。
祈祷が役に立たないと分かると、心は離れていきます。
どうも私たち日本人は、左脳派が多いようです。

ちょっと、おまけで
絵がうまくなる方法見つけたよ
このサイトで、右回り、左回りが交互に見える人は才能ありかもしれません。
また、片目(右目 或いは 左目)をふさいでしばらくすると回転の向きが変わるかどうかも
見てみると良いです。
こんな抽象的なブログを書く私は、たぶん右脳派
(ブログ書く人はほとんどがアウトプット 右脳派
 ブログを読んで、これ何と思う人 インプット左脳派かも?)


卑弥呼信仰の終焉

2016-11-27 14:22:31 | 歴史
先の投稿で
卑弥呼は個人名ではない つまり
卑弥呼は一人ではありません。
邪馬台国も国名ではありません。

親魏倭王の金印を貰った卑弥呼
出雲国を支配下においた卑弥呼
卑弥呼信仰の拡大を考えます。それが
近畿(橿原)への遷都でした。
一部の信者を九州に残して、多くの信者(労働力)と財産(織物など)を持って近畿へ移住
近畿で、新しい祈祷の建物を作り、当時、諸国の王が作っていた古墳造りも始めます。
親魏倭王の金印も持ち歩きます。倭王をヤマト王と呼び、新しい国もヤマトとします。
(邪馬台国もヤマト国です)
248年 最後の卑弥呼が亡くなり、出来上がった古墳で葬儀を行います。

魏志倭人伝には
卑弥呼はすでに死んだ。大いに冢つかをつくった。
径(さしわたし)は百余歩・徇葬者(じゅんそう)のは百余人であった。
と記載されています。
国内初の前方後円墳が作られます
行われた葬儀では、徇葬者100人と云われています。
卑弥呼の為に100人が生き埋めにされたという事です。
後にも先にも日本では徇葬者を伴う葬儀はこれだけの様です。
これで卑弥呼信仰が終焉を迎えます。
古墳時代となりますが、これは諸国の国王が独立した権力を持つようになったという事です。
埴輪が徇葬者の代わりとして用いられます。
九州北部では、筑紫族、宗像一族が権力を掌握します。
残っていた台与一族は、国を捨てて日向へ移住し、新しい国造りをしますが
それは、男系を王とする国造りです
近畿の卑弥呼一族も男系の国造りとなります。
主な産業は織物です。出雲、九州との交易を避けて伊勢方面と交易を勧めます。
鉄器の入手が難しい近畿の山奥です。武器を作る余力はありません。
但し、他国から攻められることもなく、自然崇拝と共に静かに栄えていきます。
鏡を使った中国式の祈祷な呪いは近畿では珍しく、周囲の国々の協力も得られます。
300年代まもなく、日向から一族が移動して、一緒になります。
これが神武東征です。
新しいヤマト王権が目指す国家は、律令国家です。
周囲の国々を味方にして、氏姓制度を発表します
聖徳太子の時代に、ヤマト朝廷が全国をまとめたとしても
約300年もかかります。
委とののしられた     奴国王
倭と云う漢字に替えられた 邪馬台国
倭をヤマトと呼ぶようにしたヤマト王権
のお話でした。

邪馬台国の発展

2016-11-27 13:42:58 | 歴史
180年、卑弥呼は周囲の国々の協力を得て祈祷を目的とする邪馬台国を作ります。
最初は、主となる祭殿を建てて卑弥呼が中で暮らします。
周囲には、卑弥呼の面倒をみる女性たちの建物があったでしょう。
祭殿の下に広場があり、時々、諸国の王を集めて祈祷を行います。
その際に、食べ物などは貢がれます。

邪馬台国は、すぐに大きくなります。
祭りの広場から見えないところに、食べ物を蓄える倉庫
蚕、機織、酒造り、祭事の道具作りの建物などが建てられます。
周囲には、中が見えないように高い壁が作られたでしょう。
周囲の国々から若い女性が集められて、機織や酒造りを行います。
王を集めての祈祷は、大きなお祭りとなります。

諸国から王が集まります。
会議を行い、卑弥呼に祈祷や占いの内容を決めます。
卑弥呼に使える男性にその結果を伝えます。
卑弥呼が祈祷を行い、その結果を男性へ、その男性から諸国の王へ発表されます。
祝宴の時間になります。豪華な食事が器に盛られ、若い女性が接待します。
中央では、若い女性たちが踊り続けます。
朝日が昇ると卑弥呼から織物が配られて終宴となります。
例えるなら、竜宮城でのおもてなしです。

卑弥呼への貢物は徐々に増えていき、土地も建物も増えていきます。
中で働く女性陣も増えていきます。
織物が邪馬台国の産業となります。
倉庫には、貢物や自分たちが作った織物でいっぱいになります。
国王を接待した女性たちからは、諸国の情報も入ります。
大陸の状況も入手したでしょう。
接待で国王に気にいられると女性は国王の元へ嫁いだでしょう。

機織など工房ではリーダーとなる女性が地位を固めます。
卑弥呼も既に二代目に交代しているはずです。
情報がありますので、占いの確率も向上しています。
自給自足のために周囲で農耕も始めます。
諸国と異なるのは。男性が住んでいない」です。
残念ながら 吉野ケ里<>邪馬台国 となります。
しかし、吉野ケ里の祈祷は、卑弥呼の祈祷に非常に似ています。
邪馬台国の女性が吉野ケ里へ嫁入りしたのではないでしょうか。
卑弥呼は吉野ケ里の王に、邪馬台国を真似した国造り、祭り事を教えて
吉野ケ里は、それに従います。

倭国に平和な時代が訪れると、武力に余力が出来ます。
卑弥呼は、その武力を朝鮮半島へ向かわせる様に指示を出します。
この事で、国内紛争が無くなり、朝鮮半島から鉄、青銅が輸入されるようになるわけです。

220年(邪馬台国が出来てから40年後)
大陸で 後漢 が滅びて、三国時代(魏蜀呉)の時代となります。
朝鮮半島南部は、倭国の支配下にありました。
特に、出雲国は隠岐の島経由で直接、朝鮮の鉄を輸入して、鉄製品の製造工場(たたら)と
なり成長します。

238年 魏が勇勢となり、朝鮮半島へ進出します。
倭国は卑弥呼を代表として、貢物を魏の初代武帝王を贈り「親魏倭王」金印を貰います。
更に出雲国へは倭国同盟に加わる様に(国譲り)迫ります。
邪馬台国では、これを機会に次代の卑弥呼への権限移譲が進んだと思います。
先代の卑弥呼は死後のことを考え、近畿に移住し自分の墓を作り始めます。
これが、箸墓の前方後円墳となります。

248年 卑弥呼の死 と記載されていますが、実際は
近畿に労働と財力を移住した為、邪馬台国で祈祷の儀式が品祖になり、破たんした年です。
倭の諸国は、男王を代表者としますが、諸国の納得を得ることが出来ず
再度、邪馬台国の巫女であった 台与(13歳)を王とする事で意見がまとまり
九州に、第二の邪馬台国造りを始めます。



女王になった卑弥呼

2016-11-26 20:09:55 | 歴史
魏志倭人伝には
 一女子をたてて王となす
とあり、卑弥呼が邪馬台国の女王と訳しています。
しかし、女王はちょっとおかしいような気がします。
国王がいて、その妻が女王、その子供が王子、王女です。
卑弥呼は、独身です(子孫がうめません)し、その両親も王家の一族の出身ではありません。
これは、それぞれの国の政治は独立して、祈祷や祭事については、卑弥呼に委ねる
と訳すべきではないでしょうか。

当時の祈祷の跡が吉野ケ里に見て取れます。
吉野ヶ里遺跡の紹介 北内郭 ~まつりごとの場所~
北内郭には、最高司祭者とその従者がいたと想定しています。従者の存在は先述した『魏志』倭人伝の卑弥呼のもとに唯一人、出入りする男子がいたとの記述に従って想定しています。

この従者は、最高司祭者の神がかりとなった言葉を聞く役割を果たしていたと想像できます。

入り口が鍵形に折れ曲がった構造も仲が外からうかがえないような構造にするためでしょう。

中のムラ ~祭り・政治・儀礼などの道具を作る場所~
には、養蚕、機織、酒造り、祭事の道具作りの建物があります。
つまり、祭事や祈祷の準備をする場所がさらに見えない場所に作られています。
邪馬台国=吉野ケ里 の議論はおいておくとしても、卑弥呼が行った儀式は、ここに紹介されているような場所で行われたはずです。

 (卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。婢千人をもって、自(身)にはべらしている。
 ただ男子がひとりあって、(卑弥呼に)飲食を給し、辞をつたえ、居拠に出入りしている。
 宮室・楼観(たかどの)、城柵、おごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち、守衛している。
卑弥呼は、従来の骨占いとは違い、大掛かりな祈祷儀式を行います。まさに鬼道と表現されたに違いありません。
さて、卑弥呼の身の回りの世話をする女性1000人
30の国々から集まられた生口の女性です(もちろん若い未婚の女性陣)
彼女らの仕事は、卑弥呼の食事など身の回りの世話以外に
1、蚕の栽培(養蚕)
2、糸のつむぎ、機織(布、着物の作成)
3、酒造り
4、儀式に使う道具の作成
です。
後に、養蚕と織物は卑弥呼の財力増強の源となります。
それが卑弥呼の居住する建物の周囲で行われ、壁、濠、環濠などで、外からは見えないように密室の環境です。
周囲を守衛する男性
これも国々から集められた男性の生口です。彼らは、中を覗くことは許されませんし、出来ません。
彼らの仕事は、中に住む卑弥呼の敬語の他、生口の女性の逃亡防止でもあります。
問題は、ただ男子がひとりあって
彼は卑弥呼の弟と云われています。
実は、兄弟ではなく、伊都国、奴国、不弥国から派遣された役人ではないでしょうか。
彼の仕事は、国々でおきる問題(干害、水害、争い事など)を卑弥呼に伝える。
卑弥呼が行った祈祷、占いの結果を国々に伝える。
唯一、卑弥呼と周囲の国々、大陸の情報などコントロールする存在です。
言い換えれば、卑弥呼を含み、邪馬台国(卑弥呼と一緒に暮らす女性1000人)は周囲の情報を全てカット
コントロールされていました。
アマゾネスではありませんが、女性のみの鎖国社会です。
女性のみですので、子供は生まれません。卑弥呼も高齢になると亡くなります。
年功序列で、次々と卑弥呼は入れ替わります。
酒造りなど産業に携わる女性が不足すると諸国から生口として若い女性が送り込まれます。
もちろん、邪馬台国内で亡くなった女性は、その国の中で埋葬されます。
卑弥呼の墓もその中にあります。
吉野ケ里=邪馬台国 の可能性は非常に高いと思います。
しかし、卑弥呼祈祷政治も年代と共に変化します。



卑弥呼の生い立ち

2016-11-26 17:37:42 | 歴史
投稿が長くなりそうなので、幾つかに分けて卑弥呼の生涯を考えてみます。

再度、魏志倭人伝からです。
 その国は、もとまた男子をもって王としていた。
 7~80年まえ倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴る。
 すなわち、ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼
倭国大乱は100年から180年頃とされています。
仮に、180年に40歳で卑弥呼が女王となったのであれば、140年頃に生まれた事になります。
卑弥呼とて人間ですから、父親、母親がいて、幼い時は家族に育てられます。
 その(地の)(風)俗、国の大人はみな四・五婦、下戸(庶民)もあるいは二三(人の)婦(をもつの)である。
 婦人は、淫でない。妬忌(やきもち)もしない。
とありませうので、
一夫多妻の結婚形態で、同母の子供同士の結婚は許されていなく、異母の子供同士の結婚があり
かなり近親相姦の状態で、他国の人同士の結婚はなかったようです。

 その(風)俗に、挙事行来云為するところがあれば、すなわち骨をやいてトする。そして吉凶をうらなう。
とある様に、それぞれに国に占いを家業とする一家があったようです。
卑弥呼は、この占いを家業とする一族に生まれます。

この争いにより、100余国あった国々が魏志倭人伝に紹介される30国にまとまります。
国同士が争い、片方が滅びるという事は、国王一族が殺されて、王に仕えていた重臣の家来が殺される。
残った住民と土地が新しい王の物となります。
国王のの元で占いを家業をする一族も滅ぼされたはずです。
つまり、卑弥呼は魏志倭人伝に紹介されている30の国の占いを家業とする一族の子供です。
卑弥呼は、この大乱で他国の国王や同じ占いを家業とする人たちが殺されていくのを見ながら成長します。
そして、周囲の女性たちは、同じ一族の男性、或いは王家の男性と結婚して、子供を産みます。
卑弥呼は、誰とも結婚せず独身を貫きます。
当然、結婚もせず、子供も産まずですから、一族からは厄介者だったでしょう。
ひょっとしたら、近親相姦で生まれた子供ですので、何等かの奇形(ほかの女性とは異なる)であったかもしれません。
例えば、かなりの巨人であったり、白人であったりなどです。

この事が、後に「倭国大乱に終止符を打つ事につながります。
卑弥呼は、どの国の男性とも結婚していない成人の女性です。
 すなわち、ともに一女子をたてて王となす。
どの国とも関係を持たない占いで物事を決めてくれる、唯一の女性です。
男系家督の時代ですので、一国の男性が連合国の代表者となる事は無理だったでしょう。
その為には、一国が強大武力をもつ、或いは周囲の国々すべて滅ぼしてしまう必要があります。
どの国か不明ですが、誰かが倭国大乱から平和な連合国づくりの提案があったはずです。
その国こそが卑弥呼が生まれた国でしょう。
やはり、隣り合う強国 伊都国、奴国、不弥国(現在の福岡市周辺の国々)と考えるのが普通だと思います。
この国の王は、中国の祈祷や祭事について卑弥呼に勉強させます。
従来にあった 骨をやいてトする とは全く違う儀式を行うのです。

弥生時代に、古代中国から伝わった文化 織物

2016-11-26 11:28:53 | 歴史
縄文時代から弥生時代、その多くは大陸中国から伝わった最新技術でした。
1、農耕文化
  狩猟生活から農耕での生活は、当時の生活を大きく変えます。
2、弥生式土器
  もともと、縄文式土器がありますので、新しい弥生式の器もすんなりと作れるようになります。
3、高倉式建物
  鉄や青銅の斧などの道具が、大木を切り倒して大きな建物を作る事を可能にします。
  建物は居住の為の家のほか、倉庫も出来る様になります。
  そのほかに、祈祷や占いの建物、仕事をする建物、人が集まり会議をする建物なども出来ます。
4、そして、糸のつむぎ、織物の機械も導入されます。
  今回は、この織物について調べてみます。
その他に、占いや葬儀など、武器等も伝わります。

ここでも、手がかりは 魏志倭人伝
その風俗は、淫(みだら)でない。
男子は、みなみずら(の髪)を(冠もなく)露(出)している。木緜(ゆう:膽こうぞの皮の繊維を糸状にしたものとみられる)をもって頭にかけ(はちまきをし)、その衣は横に広い布で、結びあわせただけで、ほとんど縫うことがない。
婦人は、髪をたらしたり、まげてたばねたりしている。
作った衣は、単被(ひとえ)のようである。その中央をうがち(まん中に穴をあけて)頭を つらぬいてこれを衣る(いわゆる貫頭衣)。

簡単に説明すると
木綿の一枚の生地があった。中央に穴をあけて、頭を通して、たぶん腰を紐で縛る。
男は、はちまきをしている。
この時代、既に織物や布地がありました。

服が出来るまでの行程
1、楮(こうぞ:クワ科の植物)など皮をはぎ、ゆでて繊維を取り出す。
2、糸つむぎ、繊維を絡めて、長い糸状の紐にする。
3、織物、糸を縦横に編んで布にする。
4、布を染料につけて乾かし、色や模様をつける。
5、服づくり、布を切ったり縫うことで服に仕上げる。

魏志倭人伝には、
禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から 繊維をとり、糸をつくる)をうえている。
蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸 をつむいでいる。
とありますので、現在の木綿に似た生地と絹の生地があったようです。
実際に、吉野ケ里遺跡で、機織の跡や絹を着た遺体が見つかっています。
この織物の技術は、九州北部限定で弥生時代初期に伝わったようです。
長年、出来た織物が周囲の国々との交易(稲などの食糧との交換)や北陸で産出される鉱物(翡翠なの勾玉)との交換に
使われます。
弥生時代後期(卑弥呼の時代)には、木綿系織物は全国に普及していますが
蚕桑など白絹は九州北部の特産品でした。
各地で独特の染模様が出てきます。
卑弥呼が魏への贈り物では
紺色の区切り模様、あかね色のつむぎ、花模様などあります。

高貴な人は、これらの服を幾枚も重ね着していました。
これらの布地は、服以外に家の出入り口や部屋の仕切りとして垂らしたりします。(今のカーテンやのれんの類)

衣食住は、古代でも重要ですね。
この織物が邪馬台国の大きな武器になります。
次から卑弥呼の生い立ちについて考えてみます。

卑弥呼ファンに残念なお知らせ

2016-11-23 12:20:36 | 歴史
卑弥呼は 日・巫女 だから、現在の巫女(上の写真)のようだった。
とイメージされている方が多いと思います。

では、もう一度、魏志倭人伝を読み直してみましょう。
・その国は、もとまた男子をもって王としていた。
・7~80年まえ倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴る。
・すなわち、ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼(女王:ひめみこの音を写したとみられる)という。
・ 鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。

倭国大乱が180年頃まで、その後の王となる。年はすでに長大である
つまり、老婆です。
当時の寿命から4~50歳代?248年に死亡ですから、120歳?到底、考えられません。
・(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。
つまり、卑弥呼が王となって間もなく死亡したのです。その後は、数代にわたり卑弥呼が密室にて祈祷を行ったのです。

もう少し、卑弥呼が魏に贈った貢物
・絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹
・絳地の粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張・
・絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹
・紺青(紺青色の織物)五十匹でもって、・・・
これらは、既に倭の国にあって、高貴な人々が身につけていた服です。
あかね色のつむぎ は、巫女の袴や和服の裏地を想像します。
二頭の竜を配した錦の織物は、結構派手ですね。
卑弥呼が魏から受け取ったもの
・紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦の織物)三匹
・細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわした毛織物)五張
・白絹(もようのない白い絹織物)五十匹
・金八両
・五尺刀二口
・銅鏡百枚
・真珠
・鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)おのおの五十斤
銅鏡百枚は、よく話題にあがりますが
・紺地の句文錦(紺色の地に区ぎりもようのついた錦の織物)
・細班華(こまかい花もようを斑らにあらわした毛織物)
・白絹(もようのない白い絹織物)
これらは、倭国には、無かった、或いは 貴重だった、或いは 中国でも高級品だったのでしょう。
白絹は、吉野ケ里でも見つかっています、後に蚕の栽培が始まったのでしょう。
巫女や和服の下着の部分でしょう。

ここで、疑問は、銅鏡
既に卑弥呼が鏡を使って祈祷を行っていたのか?
魏からもらった銅鏡を使ったのが始まりなのか?
銅鏡一枚が5kgとすると100枚で500kg
かなりの重量、運搬するのは大変です。
朝鮮半島までは、台車があったとしても、上陸してからは、人手になります。
一人が前後に一枚づつ背負ったとしても50人の行列


それから、卑弥呼の死後、台与の時代となります。
卑弥呼の死は、実際に誰かが無くなったのではなく、老婆による祈祷術が信頼を失った、権力が男王に移った年です。
・(倭人たちは)また卑弥呼の宗女(一族の娘、世つぎの娘)の壱与(台与)なるもの、年十三をたてて王とした
ここで、13歳の若い巫女となります。
・卑弥呼はすでに死んだ。大いに冢つかをつくった。径は百余歩・徇葬者(じゅんそう)のは百余人であった
卑弥呼一族による祈祷政治は効力を失った。遠く離れた土地に祈祷と殉職者の為の土地を作った。
これが前方後円墳でsる。
狗奴国(卑弥弓呼)との戦いの最中、既に卑弥呼一族は移住の計画を実行していたのではないでしょうか。
それが、奈良(橿原)の地です。卑弥呼一族の移動と同時に卑弥呼の死となります。
残った一部が台与です。つまり、現行若者勢力が台与の九州北部です。
年老いた巫女が住む土地が奈良と云う事になります。
奈良へ移動した祈祷信仰集団はその土地を邪馬台からヤマトと呼ぶようになります。
多分に、親魏倭王の金印も一緒に移動したでしょう。倭をヤマトと読むのも、その為です。
既に魏は滅亡(265年)、国を追われる立場になってしまう。
残された台与は晋へ朝貢しますが、これ云う功績は上げれませんでした。

かなり衝撃ですが、こちらが朝鮮半島の巫女です。
卑弥呼は、こちらに近く。
台与が、現在の神社の巫女の始まりです。



古代日本の言葉「親魏倭王」は親魏倭(ヤマト)王だった。」

2016-11-19 19:09:46 | 歴史
魏志倭伝人に出てくる国の名前をひらがなで表示されているサイトを参考に分析してみました。
当時の倭人の言葉を勝手に漢字に当てはまられて、現在の読みに合わせて国名
さらに、ひらがなも後世に作られたものですので、当たらずとも遠くない程度です。
魏志倭人伝には、対馬、一支国など30国の国名が記述されています。その国名をひらがなに
して、使われたひらがなを分析してみました。
最も多いひらがな
8回 き
7回 な
6回 い、ま
5回 なし
4回 こ、と、や
残り、ばらばら
や、ま、と も上位の文字にあります。

最も多い母音
あ 28回
い 19回
お 11回
う  7回
え  0回
母音に え はなかったかもしれません。
あ行が多いですが、わ と は を会わせても 2回でした。
他の言葉で、卑弥呼(ひみこ)や卑弥弓呼(ひみひこ)など
い も結構使われていたようです

最も多い子音
か行  18回
あ行   9回
た行   8回
さ、ま、な行 7回

但し、な行は な が7回で、他はありません。
ここで 金印 漢委奴国王
主説では 漢の倭の国王 と読みますが、
つまり (我が国)漢は、あなたを 倭 の国王 と認める と訳しています。
委 は 倭 ではありません。 い です。
他にも 漢は 委奴(伊都国)を王とします と云う説もあります。

しかし 委 を 譲る、奴 を 奴隷 としたら如何でしょうか。
元々、 わ と云う発音を使った可能性は低いです。 い の方が正しいでしょう。
その意味は
(我が国)漢は、あなたを奴(隷)国王 に委ねる(とする) と訳されます。
何と金の印鑑で紫の袋に入った高尚な贈り物の意味は最悪の意味となります。
倭人が漢字を読めないことを良い事に、漢字が読める国々へとんでもない表示をしてくれています。

後に、魏の皇帝が卑弥呼に贈った金印は 親魏倭王(親 魏 わ 王) です。
倭とニンベンがついています。
魏の国は倭王と親しい と云う他、意味の取りようがありません。
魏志倭人伝に、邪馬台国の卑弥呼の朝貢に対するお礼で金印を送るとあります。
金印は 親魏邪馬台国王 でなければなりません。
金印では、使われる文字も限られます。邪馬台国と4文字も割くわけにはいきません。
つまり、倭 と云う新しい文字を作って 邪馬台(ヤマト)と呼び名も変えたのです。
親魏倭王 は 親魏倭(ヤマト)王 と呼びのが正解でしょう。

漢委奴国王 の 委 は い   であり
親魏倭王  の 倭 は やまと です。
我が国の人が自国の事を倭国(わこく)と呼んだことはないのです。
武皇帝は金印以外にも多数の鏡や絹布など送っています。
わざと、見下がる意味で 倭 と云う文字を使うはずはないでしょう。
元々、当時の古代人には わ も は も発音しにくい文字です。
わ国 と名前を付ける確率は皆無です。
古代より 倭国(わこく)存在しなかったのです。
漢委奴国王 は 漢は、あなたを委奴(伊都国)国王にする。 或いは 漢は奴国王に委ねる。
親魏倭王  は 魏は倭(ヤマト)王と親しい
なのです。



ヤマト王権の最大の武器 文字

2016-11-19 17:45:23 | 歴史
言語には、会話するための 話し言葉 と 文書を通じて伝える 書き言葉 があります。
書き言葉(会話)は古くよりあったはずですが、弥生時代に農耕や鉄製農具・武器が伝わっても文字(漢字)は浸透していません。徐福が日本列島へ来たのが紀元前3世紀で、仏教伝来で漢字が伝わるのが6世紀であれば、何と、漢字を覚えるチャンスがあったにも関わらす
千年近く、文字を書かななった事になります。
これこそが、日本古代史の一番の不思議ではないでしょうか。
文字を書くには、硯(すずり)筆、紙が必要ですが、これが大陸から伝わっていません。
紙が無くても、木片に炭で文字を書く、大きな石に小石で文字を書く方法もあります。
しかし、仏教と共に漢字が伝わるまで文字を持たなかった様です。
*一部には対馬文字など古代の日本の文字も発見されています。
現在でも、地方に方言がある様に、古代では、離れた国同士のことばによる話し言葉も有効な
手段ではなかったでしょう。
魏志倭人伝においても奴国まで魏の役人が往来して確かな情報が伝わっていますが
邪馬台国やその他の国々については、倭の民、生口から聞き伝えですでの精度が低くなってしまいます。
小さな国々(ムラ)が統合して少しづつ大きくなるのですが、会話や文書による統合ではなく
お互いの子孫を結婚させることで国の統合が主流だったはずです。
しかし、それがうまくいかなかった時に争い(戦争)が始まります、(倭国大乱)
その様な時代に、結婚しない(生涯独身)の女性陣 卑弥呼(巫女)に権力を委ねることで国をまとめるとはどの様な意味があったのでしょうか。
或いは、結婚しない女性陣であったから国がまとまったのかもしれません。
祈祷や占いで物事を判断する時代ですので文字は不要だったかもしれません。
会話も結婚を繰り返して同じ言葉を話すようになり国が大きくなると云う気ながい時代です。
この時代を打破したのが大和王権です。(古墳時代の終了)
大陸から離れていて、鉄や銅の入手で不利な地域、奈良盆地から権力者になりうる最大の武器
これが 文字 ではないでしょうか。
実際に、3世紀ぐらいに氏姓制度を出しています。離れた地方の一族に 氏名 と姓を与える
これには、文字を使ったと思います。
姓の中には、漢字を書く渡来人と思われる役職があります。
各地の権力図の様な地名、地図みたいなものがあったのではないでしょうか。
聖徳太子の時代に仏教と漢字の普及があります。
この漢字の普及こそが日本国家の統一を意味していると思います。
同じ文字(漢字)と話し言葉を使う事で、一つの国になりましょう。
これがヤマト朝廷の国家統一の手段だったのです。
出雲の国譲りや神武東征の神話も共通の言葉を使う国の広がりではないでしょうか。
今では、ちょっとした言葉が争いの元になったりしますが、当時では共通の言葉で意思を
伝える手段は大きな力だったはずです。


古代日本独特の文化

2016-11-19 16:07:49 | 歴史
日本にしかない文化という事でいくつか紹介します。
1、縄文式土器・土偶
  縄文式土器と弥生式土器でも紹介していますが、
  何と、縄文時代の土器(縄文式土器・土偶)は世界最古です。
  つまり、古代日本人が土に水を含ませて粘土にし、形を整えて、熱を加えると固くなる。
  この事実を自力で開発したのです。
  しかし、後に大陸から伝えられる弥生式土器に変わります。
2、勾玉(まがたま)
  こちらも 古代を知る三番目の手がかり 遺跡(勾玉)で紹介していますが
  縄文時代より存在、女性の飾りなのか、男性の権力を象徴、狩猟の際のお守り
  胎児を表している 等、諸説ありますが、とにかく、この形は他の国にはありません。
  そして、天皇の三種の神器 のひとつとして現代に伝わっています。
3、古代神道
  古く縄文時代から邪馬台国の時代までは、山の神、海の神など自然崇拝の時代です。
  他の国にも自然崇拝の多神教はありますが、特にどこの国から伝わったものでもない
  日本独特の宗教です。やはり、地震、洪水など自然の力は神様の仕業として、恐れていた
  に違いないでしょう。卑弥呼の鏡を使った鬼道、占いなどは大陸の儒教の影響でしょう。
  7世紀には、仏教の伝来があり、神仏融合の時代もありましたが、後に神仏分離の時代に
  なり、平然時代に現在の 神社・神道 の作られます。
  同じ時代に、日本書紀・古事記が作成されていますの、これらの史記に当てはまる構図に
  意図的に仕上げた事は間違いありません。
  現在の神社・神道は、混血となりますが、1800年前の平安時代から受け継がれた
  かなり古いもので、やはり日本独特と云えます。
4、前方後円墳の古墳
  古代国王の巨大墓という事では、エジプトのピラミッドなど多数あります。
  円墳や四角い古墳などが朝鮮半島にありますが、前方後円墳の形は日本が発祥地です。
  弥生時代に甕棺に遺体を入れて墓地に埋める葬儀の形があり、その中でも王クラスの首長
  は、特に大きな塚に埋められていたようです。
  魏志倭人伝に紹介されている卑弥呼の墓では、100人の殉教者を埋めて祭事をしており
  日本初の前方後円墳ではないかと云われています。円墳の中央に遺体をいれて、台形の
  部分で祭事を行っていたと云われています。
  この前方後円墳の形が世界初であり、後に朝鮮半島などへ伝わっています。
4、銅鐸
  青銅は朝鮮半島から入手、鋳造技術は大陸から伝わって来ましたので混血ではありますが
  この銅鐸の形は他国にはありません。その用途も祭事の打楽器として使われただろう程度
  真意のほどは不明です。古墳時代後期に無くなります。
この時代、中国は三国時代、朝鮮半島も侵略されたり、独立したりの繰り返しです。
島国、日本は中国の侵略を受けていない稀な国です。
倭国の大乱など豪族同士争いや後継者争いなど内紛に近い争いが繰り返されます。
平安時代から続く神社や天皇制度など、これほどの長い歴史を現在に伝えている稀な国です。