筑紫、豊国、肥国の関係(その2 大陸との航路)の更に続きです。
豊国、肥国の航海術を証明してくれるのが、西都原の船形埴輪と埴輪子持家
西都原古墳の170号墳から発掘されていて、5世紀前半とされています。
漕ぎ手12人の当時の大型船で、外洋航行も可能な船です。
この時代(400年代前半)までに、肥国は
・この手の船を所有していた(大陸の船をまねて自国で造ったのであろう)
・筑紫、関門海峡、豊国の航路があった。
・瀬戸内海航路で近畿と交易があった。
この船形埴輪を参考に古代船を復元した実験もあります。
今城塚古墳(6世紀)では、石室に阿蘇のピンク石が使われていた。
復元した古代船を使って熊本から大阪まで石室を運ぶ実験
船の名前は「海王」、筏に石室をのせて、大阪まで運ぶのに35日かかった。
古代復元船「なみはや号」大阪を出発して、釜山に出港、34日かかります。
瀬戸内海を大阪から周防灘まで航海するのに、20数日と云った所でしょうか。
帯方群からなら水行40日+陸行数日(大阪から奈良まで)になります。
他に『晋書』倭人伝には、台与の朝貢の記述があります。
卑弥呼の死後の宗女台与(臺與)の女王即位、更に男王の即位
そして266年(泰始二年)の西晋王朝への朝貢を伝えるものと理解できる。
台与はおおよそ三十一、二歳であろう、子がいても不思議ではない。
台与の後を襲って「男王」となっていた。
卑弥呼の後継者、台与(トヨ)が移住して出来た国が豊国(トヨ国)
その子孫が饒速日(にぎはやひ)=火明(ほあかりが移住した国が肥国(天孫降臨)
神武東征の出発地が肥国の日向で、周防灘を渡り、一度筑紫へ、その後に瀬戸内海航路で近畿へとのルートになります。
時代の流れ
3世紀後半 台与が国東半島(北側の京都郡、或いは南側の大分市辺り)に移住
266年の台与の朝貢の時代には、大陸の船が朝鮮半島から直接、筑紫(博多湾)へ、更に東の山陰出雲国
同時に、関門海峡を越えて豊国と交易していた、
なので、豊国の台与が大陸へ貢物を贈ることが出来た。
3世紀末、4世紀(300年代)に入ると、交易船は肥国(日向)停泊するようになる。
肥国では、交易船の修復を置こうと同時に、新しく船を創る様になり栄えていきます。
300年代中ごろに、日向の船を使って神武東征が行われる。
日向を出港、関門海峡を渡り筑紫へ、後に瀬戸内海の国々を経由して近畿へ
倭王権が誕生して、瀬戸内海の国々と連合
5世紀(400年代)には、
西都原の肥国以外の瀬戸内海の国々や近畿でも造船が行われる。
加えて朝鮮半島の支配を失うのこの時期です。
出雲、筑紫が交易力を失い、大和王権の瀬戸内海支配が確定し、豊国、肥国との交易が盛んになります。
神武東征の航路が当時の海洋航路図です。
先進国であった、出雲、筑紫もヤマト朝廷の連合に加わったでしょう。
豊国、肥国の航海術を証明してくれるのが、西都原の船形埴輪と埴輪子持家
西都原古墳の170号墳から発掘されていて、5世紀前半とされています。
漕ぎ手12人の当時の大型船で、外洋航行も可能な船です。
この時代(400年代前半)までに、肥国は
・この手の船を所有していた(大陸の船をまねて自国で造ったのであろう)
・筑紫、関門海峡、豊国の航路があった。
・瀬戸内海航路で近畿と交易があった。
この船形埴輪を参考に古代船を復元した実験もあります。
今城塚古墳(6世紀)では、石室に阿蘇のピンク石が使われていた。
復元した古代船を使って熊本から大阪まで石室を運ぶ実験
船の名前は「海王」、筏に石室をのせて、大阪まで運ぶのに35日かかった。
古代復元船「なみはや号」大阪を出発して、釜山に出港、34日かかります。
瀬戸内海を大阪から周防灘まで航海するのに、20数日と云った所でしょうか。
帯方群からなら水行40日+陸行数日(大阪から奈良まで)になります。
他に『晋書』倭人伝には、台与の朝貢の記述があります。
卑弥呼の死後の宗女台与(臺與)の女王即位、更に男王の即位
そして266年(泰始二年)の西晋王朝への朝貢を伝えるものと理解できる。
台与はおおよそ三十一、二歳であろう、子がいても不思議ではない。
台与の後を襲って「男王」となっていた。
卑弥呼の後継者、台与(トヨ)が移住して出来た国が豊国(トヨ国)
その子孫が饒速日(にぎはやひ)=火明(ほあかりが移住した国が肥国(天孫降臨)
神武東征の出発地が肥国の日向で、周防灘を渡り、一度筑紫へ、その後に瀬戸内海航路で近畿へとのルートになります。
時代の流れ
3世紀後半 台与が国東半島(北側の京都郡、或いは南側の大分市辺り)に移住
266年の台与の朝貢の時代には、大陸の船が朝鮮半島から直接、筑紫(博多湾)へ、更に東の山陰出雲国
同時に、関門海峡を越えて豊国と交易していた、
なので、豊国の台与が大陸へ貢物を贈ることが出来た。
3世紀末、4世紀(300年代)に入ると、交易船は肥国(日向)停泊するようになる。
肥国では、交易船の修復を置こうと同時に、新しく船を創る様になり栄えていきます。
300年代中ごろに、日向の船を使って神武東征が行われる。
日向を出港、関門海峡を渡り筑紫へ、後に瀬戸内海の国々を経由して近畿へ
倭王権が誕生して、瀬戸内海の国々と連合
5世紀(400年代)には、
西都原の肥国以外の瀬戸内海の国々や近畿でも造船が行われる。
加えて朝鮮半島の支配を失うのこの時期です。
出雲、筑紫が交易力を失い、大和王権の瀬戸内海支配が確定し、豊国、肥国との交易が盛んになります。
神武東征の航路が当時の海洋航路図です。
先進国であった、出雲、筑紫もヤマト朝廷の連合に加わったでしょう。