古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

筑紫、豊国、肥国の関係(その4 西都原古墳の船形埴輪)

2017-06-25 18:42:30 | 歴史
筑紫、豊国、肥国の関係(その2 大陸との航路)の更に続きです。
豊国、肥国の航海術を証明してくれるのが、西都原の船形埴輪と埴輪子持家
西都原古墳の170号墳から発掘されていて、5世紀前半とされています。
漕ぎ手12人の当時の大型船で、外洋航行も可能な船です。
この時代(400年代前半)までに、肥国は
・この手の船を所有していた(大陸の船をまねて自国で造ったのであろう)
・筑紫、関門海峡、豊国の航路があった。
・瀬戸内海航路で近畿と交易があった。

この船形埴輪を参考に古代船を復元した実験もあります。
今城塚古墳(6世紀)では、石室に阿蘇のピンク石が使われていた。
復元した古代船を使って熊本から大阪まで石室を運ぶ実験
船の名前は「海王」、筏に石室をのせて、大阪まで運ぶのに35日かかった。

古代復元船「なみはや号」大阪を出発して、釜山に出港、34日かかります。
瀬戸内海を大阪から周防灘まで航海するのに、20数日と云った所でしょうか。
帯方群からなら水行40日+陸行数日(大阪から奈良まで)になります。

他に『晋書』倭人伝には、台与の朝貢の記述があります。
卑弥呼の死後の宗女台与(臺與)の女王即位、更に男王の即位
そして266年(泰始二年)の西晋王朝への朝貢を伝えるものと理解できる。
台与はおおよそ三十一、二歳であろう、子がいても不思議ではない。
台与の後を襲って「男王」となっていた。
卑弥呼の後継者、台与(トヨ)が移住して出来た国が豊国(トヨ国)
その子孫が饒速日(にぎはやひ)=火明(ほあかりが移住した国が肥国(天孫降臨)
神武東征の出発地が肥国の日向で、周防灘を渡り、一度筑紫へ、その後に瀬戸内海航路で近畿へとのルートになります。

時代の流れ
3世紀後半 台与が国東半島(北側の京都郡、或いは南側の大分市辺り)に移住
266年の台与の朝貢の時代には、大陸の船が朝鮮半島から直接、筑紫(博多湾)へ、更に東の山陰出雲国
同時に、関門海峡を越えて豊国と交易していた、
なので、豊国の台与が大陸へ貢物を贈ることが出来た。

3世紀末、4世紀(300年代)に入ると、交易船は肥国(日向)停泊するようになる。
肥国では、交易船の修復を置こうと同時に、新しく船を創る様になり栄えていきます。
300年代中ごろに、日向の船を使って神武東征が行われる。
日向を出港、関門海峡を渡り筑紫へ、後に瀬戸内海の国々を経由して近畿へ
倭王権が誕生して、瀬戸内海の国々と連合
5世紀(400年代)には、
西都原の肥国以外の瀬戸内海の国々や近畿でも造船が行われる。
加えて朝鮮半島の支配を失うのこの時期です。
出雲、筑紫が交易力を失い、大和王権の瀬戸内海支配が確定し、豊国、肥国との交易が盛んになります。
神武東征の航路が当時の海洋航路図です。
先進国であった、出雲、筑紫もヤマト朝廷の連合に加わったでしょう。

筑紫、豊国、肥国の関係(その3 関門海峡、周防灘の海流)

2017-06-25 15:38:08 | 歴史
筑紫、豊国、肥国の関係(その2 大陸との航路)の続きになりますが
関門海峡は、潮の満ち引きに応じて海流が大きく変わる事で有名です。
月の公転で海面が滿汐、引潮になります。
約6時間に潮の流れの向きが変わります。
関門海峡の一番狭い部分では、最大9.4ノットの潮流です。
みち潮時は西流れ、ひき潮時には東流れとなり、1日4回約6時間ごとに向きを変えます。
周防灘も同様ですが、潮流はさほど早くありませんが、やはり2~3ノットです。
狭い部分で、佐田岬沖でが、更に速い潮流が発生します。
当時の船が手漕ぎで、2~3ノットですので、この潮流をりようすれば、通常の2倍以上の速さが出るわけです。
航海は明るい昼に行われて、夜は危険ですが、昼間でも潮流の向きが一度は変わりますので
現在灘側から周防灘を超えるチャンスは、一日一度で、半日で目的地の港に入る必要があります。
もし、平均5ノット(時速9km位)で6時間進めば、約50kmが一日の航海距離です。
北九州市の関門海峡に近い港で引き潮(東流れ)を待つ、一気に関門海峡を東に抜けて、周防(山口)或いは国東半島の港へ停泊
翌日の引き潮(東流れ)にのって、大分へ、或いは佐田岬を超えて、宮崎へ渡る事になります。
西へ進んで、関門海峡を通る場合も同じでしょう。
奴国からは、豊国まで二泊三日、肥国まで、三泊四日、或いは四泊五日かかります。
関門海峡を渡るのは、潮流が止まった時に一気にわたります。
そこそこ大きな分であれば、玄界灘の沖合で対馬海流をりようしますので、小舟を使った場合の話です。

この関門海峡、周防灘が有効に機能するようになったのが、いつの時代だったのか。
古事記では、何と あの神功皇后が関門海峡を作った事になっています。
関門海峡は太古の昔からありますので、神功皇后の時代にヤマト朝廷が支配権を握ったという程度だと思います。


筑紫、豊国、肥国の関係(その2 大陸との航路)

2017-06-25 14:04:53 | 歴史
帯方群が大陸交易の窓口です。
魏志倭人伝に紹介されているように、朝鮮半島を船で南下して狗邪韓国へ(水行7日)
①対馬国、一支国、末盧国と松浦半島に上陸するまで船(水行3日、合計10日)
 女王国まで、水行十日陸行一月ですので、水行がはここまで、残り一月(27日)は陸行(歩いて)女王国にたどり着きます。
 この航路が一番古く、紀元前からありました。さほど大きな船でなくても航海できます。
②地図を見ると一支国、奴国も比較的近いです。
 対馬国、一支国、奴国(多分沖ノ島)まで水行7日、更に山陰地方を東に向かうと隠岐の島、出雲があります。
 仮に、これが13日の水行であれば、投馬国まで水行20日が計算に合います。
 魏志倭人伝に紹介される倭国の時代、3世紀中頃の時代にはあったでしょう。

③狗邪韓国から新羅へ半島をもう少し迂回、直接、隠岐の島、出雲の航路が航海できる様になったのが3世紀後半
 出雲が朝鮮半島を支配し始めたはずです。
④今回の航路は、奴国=>豊国、肥国についてです。

奴国(博多湾)まで船で来れる。不弥国(北九州市辺り)まで1日(一泊)、関門海峡を渡り国東半島先端まで一気に(二泊目)
大分湾まで三日で到着
肥国(宮崎、日向)までなら +2~3日でいけたでしょう。
出雲への山陰航路の時代、3世紀後半に実用化されていたでしょう。

⑤瀬戸内海航路はかなり古くからありました。
 広島(安芸)=>岡山(吉備)=>近畿(難波)=>淡路島=>高松(讃岐国)=>松山(伊予国)=>広島
 さほど大きな船でなくても、潮の流れを把握すれば航海できます。
 こちらは、卑弥呼の邪馬台国の時代より古くからありました。
但し、近畿や瀬戸内海の国々が大陸との交易の品々を手に出来る様になったのは
④の関門海峡航路を自由に行き来できるようになるまで、待つことになります。
近畿地方に鉄器が登場するのが、3世紀後半(卑弥呼の邪馬台国の後)です。
この時代に、豊国が栄えます。
筑紫国との交易に加えて、瀬戸内海の航路が大分(豊国)=>山口(周防)、松山(伊予国)=>佐田岬=>大分(豊国)と広がります。
時同じに、大分(豊国<=>肥国(宮崎)の航路も栄えたはずです。

三世紀後半に、筑紫+出雲(山陰)の加えて、豊国、肥国+瀬戸内海の国々+近畿 と交易の範囲が広がります。
重要な航路のポイントは関門海峡でした。
一方で、山陰航路も若狭湾位まで広がっていたはずです。


筑紫、豊国、肥国の関係(その1 位置関係の確認)

2017-06-25 11:55:38 | 歴史
古事記の日本神話の国生み(九州の地名)で紹介している様に
古代から九州の島は
4.筑紫島(つくしのしま):九州 胴体が1つで、顔が4つある。
白日別(しらひわけ):筑紫国
豊日別(とよひわけ):豊国
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
建日別(たけひわけ):熊曽国
地図では、現在の県ごとに福岡、大分、宮崎、鹿児島のなどの様に区分けされていますが、当時の実際とは違う事は明らかです。
遺跡の分布地図から見ても、ほとんどが湾岸です。
内陸部に発展しているのは、博多湾と有明海を結ぶ鳥栖市など盆地と北九州から直方市に広がる地方だけです。
九州内陸部分(九重連山、高千穂峡、阿蘇山など)の山岳地域には人が住んでいなかったでしょう。
それぞれの国の国境もこれらの山々です。
紀元前から1~2世紀ごろ、(漢委奴国王の金印の時代) 大陸は、日本の事とを倭国と呼びますが
その地域は、玄界灘湾岸の国々でした。当然一番の大国は博多湾の奴国です。
3世紀ぐらい(卑弥呼が親魏倭王の金印を贈られた頃)  倭国の地域が有明海側に広がります。
倭国の周囲が五千里余です。豊国(大分)、肥国(宮崎)を含んでいたでしょうか。
豊国(大分)、肥国(宮崎)と云っても内陸地には国はありませんので、周防灘の大分県と太平洋側の宮崎県です。
そして、山を越えて陸路で進むのではなく、船を使った海路で発展したと考えるのしっくりします。
筑紫国と豊国の国境は関門海峡です。
豊国と肥国の国境は国東半島から別府湾<=>四国の佐田岬ではないでしょうか。
博多湾の奴国から大分市の豊国へ進む場合
・鳥栖経由で九重連山を横断
・鳥栖経由で有明海まで南下、阿蘇山の北側を横断
いずれもかなりの難路が予想されます。
船で期待九州を経由、関門海峡を横断、海流にのって国東半島先端へ
こちらの方が絶対的に有利です。
筑紫国から豊国へ行くには船が必要です。国境は関門海峡です。

当時の倭国は、北九州から西(玄界灘湾岸)+日田、鳥栖など盆地+有明海沿岸+長脇ではないでしょうか。
今でこそ、福岡、佐賀、熊本 <=>大分間は近い距離ですが、当時では、交通手段など特別な離れた国だったのでしょう。
豊国は、船で瀬戸内海の国々と交易
肥国は、船で、四国の太平洋側経由で近畿までの国々と交易
筑紫は、朝鮮半島、中国大陸との交易ですので、それぞれ異なる文化圏で、九州が、四つの顔に分かれたのでしょう。

古事記の上巻(日本神話)と中巻に登場する人物

2017-06-18 17:45:08 | 歴史
古事記の日本神話と九州、出雲以外の神話で紹介したように
古事記の上巻(日本神話)には、魏志倭人伝など大陸の史記に紹介された事実を挿入しています。
この日本神話の時代は設定は、数億年、数千万年前になります。
※天孫降臨したニニギは、180万歳となっています。
そして、中巻の始まり 初代神武天皇即位が 紀元前660年の設定です。
上巻に弥生時代、古墳時代の事実を盛り込み、次の章 中巻の始まりを弥生時代以前にしてのですから
同じ時代が二度登場する事になります。

時代の新しい天皇から順に確認してみます。
古事記(下巻)
26代 継体天皇 507年即位
 仁徳天皇家系で天皇家後継続きますが、武烈天皇崩御の後、後継者が決まらず。
 応神天皇(仁徳天皇の父)まで遡り、継体天皇が即位する。大きな世代交代が有名です。
 宮内庁は太田茶臼山古墳(茨木市)を継体天皇陵にしていますが、近年の調査で、すぐ近くにある今城塚古墳(高槻市)が有望視されています。
 太田茶臼山古墳は宮内庁管轄なので中に入る事もできませんし、調査もできません。
 今城塚古墳は、高槻市が管理して公園になっています。古墳の前方部分、後円墳部分に上る事も出来ます。
 石室は残念ながろ盗掘されていました。棺の部分が地震で倒壊してむき出しになった様です。
 周囲に多数の埴輪配置されていたり、構築の技術に新旧二つの工法があり、三つの棺があったとされています。
 太田茶臼山古墳より新しく継体天皇活躍の時代になる事から、真の継体天皇陵と呼ばれる様になりました。
 後に、蘇我氏VS物部氏、推古天皇&聖徳太子の時代を得て、38代天智天皇(中大兄皇子)が大化の改新(645年)、古事記の作成を依頼しますので
 その百年ほど前、10代前ですので、年代的には正しいです。

古事記(下巻)の始まり
16代仁徳天皇(父は、15代応神天皇で継体天皇の先祖)~25代武烈天皇(この辺りから即位の年が西暦で不明になります)
 仁徳天皇陵は宮内庁設定で最大の古墳 大仙陵古墳 です。
 築造年代が600年代前半です。
 倭の五王に、仁徳天皇以降、武烈天皇までの五人の天皇とされています。
 『宋書』倭国伝によれば
 421年 倭の讃王の手紙から
 478年 倭国の武王の手紙までの5人の倭王ですので、
 21代 雄略天皇~武烈天皇は5世紀(400年代)の人物になります。
 大仙陵古墳の築造年と差がありますので、宮内庁の設定にも無理があります。
 仁徳天皇は、4世紀中頃の方ではないでしょうか。
 武烈天皇まで倭の五王ですが、近畿の王である必要はあるでしょうか。
 九州の豪族の歴史を、天皇家に挿入した可能性もあります。

古事記(中巻)の終わり
 14代仲哀天皇 と 神功皇后 とその子供15代応神天皇
 神功皇后は、身重の体で石でおなかを冷やしながら朝鮮半島へ出兵し新羅の武力支配を完成させます(三韓征伐)
 在位年数も69年と非常に長いです。卑弥呼 或いは 台与をイメージした架空の人物でしょう。
 七枝刀 と 広開土王碑から
 朝鮮半島を支配が完了したのが4世紀、4世紀後半には高句麗が攻めてきて、5世初めに支配を失っています。
 実際は、新羅本記にある
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
 312年の「新羅の王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。」が三韓征伐完了の真実ではないでしょうか。
 「仲哀天皇が亡くなった後、応神天皇が産まれたばかりで皇后が政治を行った時代があった」かもしれません。
 こちらも近畿の歴史ではなく、出雲の歴史であった可能性があります。

 11代垂仁天皇の子供 12代景行天皇 と 倭姫命 と 日本武尊(倭建命)
 日本武尊(倭建命) は神話の集まりでしょう。
 ・幼い時に、父の命令で兄を呼びに行くが、片手で握りつぶして殺してします。
 ・九州の熊襲建兄弟 伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる
           熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。
           自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。
 ・東方征伐     倭姫命に伊勢神宮にあった神剣、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを貰う。
           関東地方を神がかりの方法で征伐、帰路の途中で亡くなり、白鳥となって大和へ戻る。
 上巻の日本神話の続きが登場します。
 草薙の剣は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の事で、素戔嗚が八岐大蛇を退治した時に尻尾からでてきた神剣
 後に、天照に献上して、ニニギが天孫降臨の際に地上に持って降りる。
 10代崇神天皇が伊勢神宮に移す。
 日本武尊(倭建命) の死後、伊勢神宮に戻ることなく、現在の熱田神宮に祀られる。
 天皇家の三種の神器のひとつですが、壇ノ浦の合戦(源平合戦)で関門海峡に沈んだとされています。
 倭姫命 と 日本武尊(倭建命) も 魏志倭人伝などで紹介される 倭国の名前を貰っています。
 弥生時代の歴史を二人に託して挿入したのでしょう。
 卑弥呼=倭姫命、次に男王=倭建命、台与=神功皇后と神話の人物が二度目の登場です。
 日本書紀で大陸向けに辻褄を合わせるために必要だったのでしょう。
 設定では、11代垂仁天皇の子供 12代景行天皇は、2~3世紀になります。
 近畿のヤマト王権から最初の律令 氏姓制度ができます。この時代の天皇の実績でしょう。

 垂仁天皇陵は、宝来山古墳に宮内庁は設定、全国では第20位の規模の古墳で、4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定されています。
 垂仁天皇、景行天皇は実際に近畿に住んでいた天皇ではないでしょうか。
 邪馬台国(倭国)が近畿にあった事を大陸へ伝えるために、倭姫命 と 日本武尊(倭建命)を挿入したのでしょう。
 第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性も登場します。
 歴代の天皇にはならない皇女、皇子を置き換えたのです。
 実際は、仁徳天皇以下、倭の五王と同じ時期の近畿の王の歴史ではないでしょうか。

 初代神武天皇(神武東征)~9代開化天皇(欠史八代)
 神武天皇即位が紀元前660年以後、100歳を超える長寿の方々です。1世紀位までになります。
 実際の歴史では、徐福船団、弥生時代初期、漢委奴国王の金印、倭国大乱です。
 上巻(日本神話)が九州の紹介で、中巻が近畿の歴史にする為の苦労が見えます。
 神武天皇 神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)も長寿で、神武東征も長年費やしています。
 15歳のときに皇太子となり、吾平津姫(あひらつひめ)と結婚
 45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった東征を決意、出発
 52歳 橿原宮で践祚(即位)
 127歳 76年間即位している。
 一人では無理ですし、一代でも無理です。
 もし、近畿の一族が九州の一族を祖先と表記したのであれば、今流の言葉で「経歴詐称」です。
 神武天皇は、近畿で諸国の控除を后として多数迎えています。
 卑弥呼と一緒に暮らす巫女の宮殿を作り、諸国との関係を強くすることで、近畿に邪馬台国を作ったのではないでしょうか。
 その国の名前は ヤマト と発音して、後に漢字は 倭 と云う漢字を用いたという事です。
 古事記の中巻に登場するのは、邪馬台国 の歴史だけで十分で、第二の邪馬台国の建国が目的でした。
 実際に、倭姫命、倭建命、神功皇后に該当する人物がいて、歴史に合わせて日本の史記、古事記に書き加え編集してのです。

歴史の偽造は、倭の五王 武烈天皇まで続きます。継体天皇が応神天皇の子孫の設定も疑いがあります。
しかし、継体天皇以降が、かなり事実に近く、信ぴょう性があります。
645年の大会の改新前、百年位、既に漢字もありますので近畿での出来事ですので、自らの先祖の事実を知る事が出来たのではないでしょうか。
神武天皇即位を紀元前660年に設定したため、歴史を偽証せざるを得なくなります。
もし、天孫降臨を卑弥呼の死後3世紀後半に設定できていれば、古事記・日本書紀の内容が大きく変わっていたでしょう。

朝鮮半島の史記 三国史記(百済本紀)

2017-06-17 13:36:59 | 歴史
三国史記(百済本紀、新羅本紀、高句麗本紀)があります。
詳しくは Wikiで調べて下さい。
三国史記(百済本紀、新羅本紀、高句麗本紀)に加えて、好太王碑文 と 倭の五王の記載を年代別に並べてみます。
高句麗本紀には、倭国・倭人についての記載は無いようですので登場しません。

(新羅本紀)
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。
※卑弥呼は、173年には、女王になっていたようです。
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
※卑弥呼死亡、台与が新女王になる。

249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
(百済王が七枝刀)
369年では百済王が七枝刀を贈ってきます。

(好太王碑文)
391年に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌にでむいた。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
※高句麗が援軍を出し、朝鮮半島から倭軍を撤退させる。

(百済本紀)
397年 夏五月 王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。
402年 五月 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。
403年 春二月 倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。
405年 腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。
418年 夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。
※百済とは友好的な関係であった。

(新羅本紀)
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
※ここまでは、倭国有利で何度も新羅を攻めています。
 次からは、状況が逆転しているようです。
(宋書 倭国伝 と 倭の五王)
421年 倭の讃王、珍王 百済を含む朝鮮半島を支配したが、高句麗には及ばず
433年 済王、興王、の時代は百済を攻撃するが百済は高句麗に側にあった。
478年 武王が百済から兵を引き上げる。
※倭国軍が朝鮮半島から撤退
後に
663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだが大敗、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させた。

(新羅本紀)
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
※倭の五王の手紙と一致、倭国が新羅支配をなくす。


まとめ
倭国は古くから百済とは友好的な関係であった。
帯方群経由で魏と交易が出来、朝貢、漢委奴国王や親魏倭王の金印を受け取る事ができた。

新羅とも奴国の時代は友好関係であったが、卑弥呼の時代に武力支配移る。
391年に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
には、朝鮮半島の百済・新羅を支配していた。
なぜか、倭国が軍隊を贈るのは春か夏、やはり冬場の朝鮮半島は寒かった。

古事記に登場する神功皇后の三韓征伐がこの時代に行われた。
『日本書紀』において、神功皇后摂政として、晋書の倭の女王についての記述が引用されている
西暦266年になる事から、卑弥呼ではなく台与の可能性がある。
14代仲哀天皇(神功皇后の夫)の2代前、12代 景行天皇の妹(第11代垂仁天皇の第4皇女)が倭姫、こちらに卑弥呼を挿入しています。

卑弥呼と神功皇后の
共通点
・神功皇后の在位年数が69年と長い
・皇后と女王 共に政権のトップ
相違点
・神功皇后は結婚している、子供がいる。
・祈祷師ではない。
・卑弥呼は朝鮮半島へ云っていない、神功皇后は出兵している。
神功皇后は、卑弥呼の年代に半島支配があった事を知っている古事記の編集が架空の女性を盛り込んだのでしょう。
朝鮮半島の史記 三国史記に、神功皇后らしき女性の人物がありません。
但し、三国史記は、1145年完成ですので、古事記の編集者が読んでいたことはありません。

306年 三国時代の抗争の後、ようやく中国を再統一した晋の司馬炎だが、八王の乱が発生
大陸が分裂して支配力を失い、高句麗が力をまし、朝鮮半島を南下する。
多くの百済人が倭国へ渡来します。その時に仏教や漢字が伝わった事でしょう。
537年に新仏派の蘇我稲目が大臣になりますが、先祖は百済人ではないでしょうか。
663年 大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させました。
645年 三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日したに入鹿を暗殺(乙巳の変)ですので
大化の改新にも新しい朝鮮からの渡来人は歓迎されたのでしょし、古事記・日本書紀の編集にも加わったでしょう。
後の遣隋使、遣唐使の派遣では、朝鮮半島を経由せずに、直接大陸へ渡ります。
また成功率は低かったようです。

事記の日本神話に徐福は登場しているのか。

2017-06-17 07:08:11 | 歴史
事記の日本神話のイザナギとイザナミを4更に遡ります。
別天神(ことあまつ神)5柱
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 特別な存在として「別天津神」と呼ぶ
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
神産巣日神(かみむすひのかみ)
3人で「造化の三神」
次に登場する
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)- 活力の神
天之常立神(あめのとこたちのかみ)- 天の神
合わせて5人(全て独り神)が別天神(ことあまつ神)

神世七代(かみのよななよ)天地開闢のとき生成した七代の神の総称
1.国之常立神(くにのとこたちのかみ)
2.豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
2柱は独り神

3.宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
4.角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
5.意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
6.淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
7.伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)
5代(10柱)二柱で一代(夫婦神)

「造化の三神」 3 別天神 5 神世七代 7 の数字は
神社などで使われる七五三の奇数の素数です。
三神で思いつく所が古代中国(秦の始皇帝の時代の言い伝え)
「海中に三神山あり、蓬莱・方丈・瀛洲といい、仙人がこれに居る。」
徐福が秦の始皇帝に伝えて、紀元前219年に童男童女数千人をつけて海上に送りだし仙薬を求めさせます。
司馬遷(しばせん)が紀元前91年ごろ完成させた『史記』の秦始皇本紀に記載されています。
古事記の編集者が読んだ可能性はあります。
別天神(ことあまつ神)5柱とは、徐福が渡来する以前に、倭国に伝説として存在した神々

国之常立神と豊雲野神が独り神ですが
次の5代は夫婦神です。魏志倭人伝に紹介に
伊都国 官を爾支(にき)といい、副(官)を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)
奴国  官を兇馬觚(しまこ)という。副(官)を卑奴母離(夷守)
不弥国 官を多模(玉または魂)といい、副官を卑奴母離(夷守)
投馬国 官を弥弥(耳)という。副(官)を弥弥那利(耳成・耳垂か)
邪馬台国官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。
五つの国に二人(或いは二人の妻で三人)の官と副官が紹介されています。それぞれ夫婦ではないでしょうか。
神様から人に近くなっています。
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)は、
伊邪那岐が伊支馬から名前をかえた、また別の時代、或いは別の国王の官と副官?かも
そして、この二人は
・二人は国生みの際に、間違いなくSEXをしています。
・最初に蛭子を産みます。虚弱児、奇形児、死産を意味します。川に流しています。
・伊邪那美神は火の神を産んだ時に亡くなります。神様なのに死んでします。出産で母親が亡くなる。火の神なので戦争で死んだ。
・伊邪那岐神が亡き妻に会いに黄泉の国へ行きます。夫婦愛があります。
・伊邪那岐神を追ってきた八色雷公は悪霊の類(人間臭い悪霊を閉じ込めているのが黄泉の国)
・伊邪那岐神が黄泉の国から逃げる時に、出入り口に岩で蓋をして、伊邪那岐美が千人殺す。伊邪那岐神が千五百人産むで、性と死が産まれます。
だいぶ人間の生活、思考になっています。
その後の
・天照と一緒の機織の娘が陰部を怪我してなくなる(高天原には、機織工場があった)
・天照が弓矢や槍をもって素戔嗚を迎え撃つ(武装する集団:軍隊があった)
・誓約では、天照は三皇女五皇子を引き取る(いちゃもんもしっかりつけている)
・天の岩戸の前で、桶を叩いて歌う神、裸踊りをする神(音楽や踊りなど娯楽があった)
・素戔嗚の爪をはいで国から追い出す(体罰や島流しの処罰があった)
等々、もはや天空の神様の話ではなく、地上にある卑弥呼の宮殿が舞台となっています。

直径100歩の卑弥呼の墓と100人の殉職者(とにかく100と云う数字が好きです)も
お墓が天の岩戸で、その前の広場で、歌って踊る神々に話を変えます。

卑弥呼の死後、男王が王になりますが、国が乱れて、台与が女王になります。
国を追われた男性がここにも一人います。
追放された素戔嗚は
・卑弥呼の死後に王となった男王
・狗奴国の男王 卑弥弓呼
・魏国に応援を依頼しに行ったのに黄色い旗しか貰えず失敗した難斗米
つまり素戔嗚は、高天原を追放された男性と出雲国のご先祖様の二人です。
天照と喧嘩する素戔嗚 と 因幡の白兎を助ける素戔嗚では、人格が違いすぎます。

古事記の著者は、大陸の史記(魏志倭人伝、秦始皇本紀など)巧みに取り入れ倭国の物語にしています。
秦始皇本紀から徐福の記事を読んだのであれば
神世七代の国之常立神辺りが徐福ではないでしょうか。
豊雲野神は、筑紫国の隣に豊国があるので、そちらの国の神様として挿入された可能性もあります。

古事記の日本神話のイザナギとイザナミ

2017-06-12 21:05:32 | 歴史
古事記の日本神話の国生み(九州の地名)
日本神話に登場する神様が住む天空界(高天原)が九州の筑紫国(九州北部)である事まで想像できます。

設定
天照大神   =卑弥呼
月読(月夜見)=卑弥呼の弟

魏志倭人伝の記述
卑弥呼は、倭国の推薦を受けて女王になる。
卑弥呼は鏡を使った祈祷師だった。
邪馬台国(女王国)は筑紫国(九州北部)にあった。
卑弥呼は、魏の初代皇帝に貢物を贈り、親魏倭王の金印を金印を受ける。
卑弥呼は、狗奴国の男王 卑弥弓呼 と戦った。
卑弥呼の死後、国が乱れて大勢が亡くなった。
卑弥呼と同じ祈祷師 台与(トヨ)が女王になった。

それでは、天照、月読(月夜見)、素戔嗚の先祖であるイザナギとイザナミは誰でしょうか。

古事記の記載
イザナギとイザナミは夫婦
イザナミは火の神産んだ時に亡くなる。
イザナギが天照など三貴神ほか多数の神々を筑紫で産む
イザナギが天照大神を支えていきます。
※素戔嗚は追放されます。月読(月夜見)は黄泉の国に行かされます。
 天照大神のみが高天原に残ります。

イザナギ・イザナミ夫婦は、邪馬台国より古い九州北部大国の王・王女です。
古事記の編集者は、魏志倭人伝に、「漢委奴国王の金印」を贈られた倭国王がいる事を見落としませんでした。
イザナギは、この倭国王です。
つまり、奴国の王と女王がイザナギ・イザナミです。
女王イザナミは倭国の大乱で亡くなったのでしょう。火の神を産んだ時に亡くなると表現します。
倭国王は、卑弥呼を女王とします。
卑弥呼が娘であれば、皇女 です。新しく妻としたのであれば皇后です。
弟がいますので、実の娘と息子でしょう。
倭国王は、新しく宮殿を作り、1000人の侍女をつけて卑弥呼として国を任せたのです。
年齢を考えると、イザナギも亡くなり、初代卑弥呼も亡くなったでしょう。
しかし、邪馬台国と宮殿は残ります。
侍女の中から新しい卑弥呼を選出して、女王卑弥呼の演出が続きます。
世代交代と共に、支えていた男性が難斗米に変わります。
難斗米の提案で、魏国へ貢物を贈り、親魏倭王の金を受けます。
しかし、この事に気が付き反対したのが、南の国 狗奴国の男王 卑弥弓呼
難斗米は、魏国へ応援を求めますが、送られてきたのは、黄色い旗
卑弥呼は武装した上、黄色い旗を卑弥弓呼に見せますが、効果なく殺されてしまいます。
※これが素戔嗚が高天原に立ち寄った時の話です。
倭国は後継者争いて乱れます。新たに女王 台与(13歳 定かではありませんので幼女)の擁立で国がまとまります。
※これが天の岩戸の神話です。
天照が岩戸から出てくると、神々が素戔嗚を追放します。
※実は、倭国が力を合わせて卑弥弓呼を倒します。
この事が原因で倭国の権限は台与からなくなり、祈祷師国家から交易国家に変わります。
この頃、吉野ケ里など環濠集落であった祈祷の連合も崩れていきます。
豊国(トヨ)国が大分に
肥国(ヒコク)が日向と祈祷文化が二つに分かれます。
※天孫降臨の神話です。
大陸との交易は、隠岐の島航路で出雲の移り、出雲は新羅支配に成功します。
日向一派は、東征を実行、これが神武東征です。
九州(筑紫島)は
筑紫国(旧倭国)
豊国(台与の国)
肥国+日向(旧環濠集落の国)
熊襲国(旧狗奴国)の四つに分かれます。
日本神話は意外と歴史を忠実に伝えています。


古事記の日本神話の国生み(九州の地名)

2017-06-12 17:08:15 | 歴史
古事記の日本神話と天照の神話を更に遡り国生みの神話についてです。

古事記の年代で考えると数億年程前の時代です。
イザナギとイザナミの二神は、大八島を構成する島々を生みます。
1.淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島
2.伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国 胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
愛比売(えひめ):伊予国
飯依比古(いひよりひこ):讃岐国
大宜都比売(おほげつひめ):阿波国
建依別(たけよりわけ):土佐国

3.隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島
4.筑紫島(つくしのしま):九州 胴体が1つで、顔が4つある。
白日別(しらひわけ):筑紫国
豊日別(とよひわけ):豊国
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
建日別(たけひわけ):熊曽国

5.伊伎島(いきのしま):壱岐島
6.津島(つしま):対馬
7.佐度島(さどのしま):佐渡島
8.大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州

九州、四国には四つの国がありますが、本州にはまだ国がありません。

年代と共に九州の国名を考えてみます。
魏志倭人伝によると
1世紀位 100余国は九州北部にある。
3世紀(邪馬台国の時代)
 壱岐・対馬の島の他、伊都国、奴国、邪馬台国など30国で周囲が5千里(やはり九州北部)
 南に狗奴国がある。

4世紀頃、氏姓制度、九州に 筑紫氏の名前が登場する。
646年 乙巳の変 中大兄皇子・中臣鎌足らにより蘇我氏暗殺
同年   大化の改新 蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へ移行
681年 天武天皇により律令制定を命令、古事記の編集始める。
701年 大宝律令として完成
九州は 筑前・筑後、肥前・肥後、豊前・豊後、日向、薩摩、大隅の九つに分けられます。

712年 古事記が完成 太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。
国生みの神話の時代と対比すると
筑紫国=筑前・筑後                     現:福岡
豊国 =豊前・豊後                     現:大分
肥国 =肥前・肥後 +日向(建日向日豊久士比泥別 ですので)現:佐賀・長崎 + 熊本 + 宮崎
熊曽国=薩摩、大隅                     現:鹿児島

古事記編集の時代には、既に大宝律令が完成していますので
九州の国名は、大宝律令に従っています。
そして、九州は筑紫島ですので、筑紫氏に委ねた形です。
神武東征の時、神武天皇は、北九州の岡田宮で、一年を過ごしています。
「九州は、お前(筑紫氏)に任せるが、肥国(肥前・肥後 +日向)と豊国と戦争はするな」と云う密約があったかもしれません。
大宝律令の地図に従って、神武東征が行われますので、出発地は宮崎の日向で間違いありません。
となると天孫降臨の地も現在の高千穂で間違いないでしょう。

筑紫の語源については諸説あります。
イザナギが黄泉の国から戻り、禊を行った場所が
 竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)
 ※九州(筑紫)の朝日がさす橘の木の門の先にある草原?(宮崎でない?)のどこかで、黄泉の国の出入り口に近い高天原にあります。
その時に天照、月読(月夜見)、素戔嗚が産まれます。
筑紫国の東端が開けた端っこで天照ら三貴神が産まれ、筑紫島の筑紫国がイザナギなど神様が住む高天原です。

奴国、伊都国の国名は、それぞれの部族が自らの名前の読みで、大陸が勝手に漢字を充てています。
4世紀ごろの氏姓制度でヤマト朝廷が、天照ら神々のふるさとと位置づけして名前を付けた事になります。
その名前をいただいたのが筑紫氏です。
北九州の岡田宮(天・地・人の三ノ宮があります)を統治していた一族です。

魏志倭人伝の国に比定すると
筑紫国=奴国、伊都国など(博多湾:大陸交易の奴国連合)
豊国 =台与(トヨ)の国
肥国 =肥前 + 日向 =邪馬台国を含む祈祷信仰連合+日向
肥後・熊曽国= 狗奴国
でしょうが、卑弥呼の死後に、国境の編成が起きて、筑紫国、豊国、肥国、熊曽国の四つになったのではないでしょうか。

古事記の日本神話と九州、出雲以外の神話

2017-06-12 10:02:04 | 歴史
古事記の日本神話から素戔嗚を省いてみるとで紹介した通り
古事記の上巻で登場する神話は、九州の神話に出雲の神話を加えて編集されているようです。
では、近畿や他の地方には神話は無かったのでしょうか。
古事記の編集者は、無理やり神武東征の話の中に詰め込みます。
神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ:45歳)は遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、日向を出発します。
先に、塩土老翁(シオツツノオジ)と云う神様が近畿の地におられます。
北九州の岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごし
浪速国で長髄彦(ナガスネヒコ)の軍勢に敗れ、兄の五瀬命(イツセ)が亡くなります。
迂回した熊野では高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持って来て現れます。
九州の高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至る。
宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟もいます。
宇迦斯(エウカシ)は自分が仕掛けた罠にはまって死んでしまいます。

聖徳太子と蘇我馬子が、初代天皇の即位を紀元前660年に設定したため、挿入できる年数がたっぷりあります。
倭建命(やまとたけるのみこと)や倭姫命(やまとひめのみこと)の様に、名前に 倭 を入れる事で
天照直系に入れてもらえた神話もあります。

古事記は、天皇家が日本を産んだ神の子孫でる事を証明しますが
同時に、山陰の出雲、山陽や四国など瀬戸内海の国々と近畿の国々を敵に回すことなく西日本をまとめる役目も果たしています。

大和朝廷のご先祖様か。古事記の上巻から中巻の神武東征の話から
九州の祈祷師 邪馬台国の女王 卑弥呼 = 天照大神 と考えるのが正しいようです。
日本神話では、天照大神は数千万年、数億年前になりますが、実は弥生時代後期でした。
文字のない、弥生時代、古墳時代です。ご先祖様の記録は神話となったのでしょう。

歴史は、常に日の上る方向、東へ広がっています。
武力支配の秦の始皇帝から逃げ出した徐福一団
三国志の時代には、朝鮮半島経由の航路が見つかり、交易が盛んになり、渡来人が移住した弥生時代。
その後も船もつ渡来人が山陰方向へ進み出雲
山陽の瀬戸内海に船を進めた一団もいたでしょう。
天孫降臨も有明海側から宮崎側へ、神武東征で近畿へ
倭建命(やまとたけるのみこと)は、関東征伐とやはり東へ話が進みます。
聖徳太子は、自らを日の出国の天使と呼び、後に国の名前を日本とします。
太陽神 天照大神の役目は非常に大きい物でした。
そして、天照大神は弥生時代の卑弥呼を題材に創られて、その祈祷文化が平安時代に神社となります。

しかし、今もどこにあったのかわからない邪馬台国です。
7~8世紀の人たちは「邪馬台国の卑弥呼」について知ることが出来たのでしょうか。
・神話の通り、邪馬台国の一族が宮崎へ移住、その後、近畿へ移住した。
・難斗米など、交易などで卑弥呼を知る人物が大勢した。彼らが「卑弥呼」を神話にした。
・大陸にも「魏志倭人伝」を編集した人たちがいます。編集時の知識をもって渡来したが、邪馬台国が見つからず神話にした。

出雲に素戔嗚の神話、宮崎(西都原)に天照大神神話があったとして
古事記の編集者たちは、何故、天皇家のご先祖と九州と出雲に設定したのでしょうか。
大和朝廷は瀬戸内海を渡って渡来した一族による新興国家です。
弥生時代。難波、淀川河川沿いには既に多数の大きな国がありました。
神武東征時の近畿上陸時の話は事実で、熊野側から奈良盆地にたどり着いたのでしょう。
近畿で最も歴史の浅い大和朝廷は、西方に神様が住む天空の世界「高天原」があり、天孫降臨で地上に降りた神が
天皇家の先祖である。
近畿を統一する為にも、西日本を統一する為にも、もっとも都合の良いストーリーでした。
もちろん、事実の可能性が高いです。