古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

第3の航路(弥生時代後期・古墳時代)で栄える出雲国

2017-09-24 22:02:00 | 歴史
卑弥呼は、倭国の最高権力者ではない?では、弥生時代の九州地方を説明しましたが。
山陰地方でも大陸との交易が始まります。
志倭人伝に紹介されてる投馬国(ズマ国)で、後の出雲国です。
大陸と交易を行う事で、大陸の史記に日本の記事が残りました。
交易が始まるのは、航路の発見があります。
帯方群(現在のピョンヤン)を出発し、朝鮮半島を半周、狗邪韓国に到着します。
1、狗邪韓国(現在のプサン)から壱岐、対馬を経由して松浦半島まで10日の航海が出来た
  漢の時代で紀元前の事でしょう。西暦57年に「漢委奴国王」の金印が送られています。
  多くの農耕具や青銅製品が玄界灘湾岸の国々に届き、国が発展しますが、同時に、国同士の争いも始まります。
  大陸から派遣された役人、一大率が伊都国にいて、諸国に監視役の役人を配置し権力の座に就きます。
2、狗邪韓国(現在のプサン)から直接博多湾へ沖ノ島、大島経由です。
  漢が滅んで三国志の時代です。
  魏蜀呉の争いて、船は大きくなり、沢山作られるようになります。
  その大きな船は朝鮮半島から博多湾までの航海が可能になります。
  船の上で火を焚いて灯りを作ります。夜も航海できるようになりました。
  伊都国の一大率を通りませんので、今で呼ぶなら密輸です。
  一大率は厳しく取り締まったでしょう。
3、朝鮮半島を更に回り、新羅から直接、山陰地方へ航海できるようになります。
  隠岐の島経由、出雲国です。
  卑弥呼と同じ時代です。230年頃の事です。
  帯方群(現在のピョンヤン)を出発し、商船半島を半周と少し、隠岐の島経由、出雲国に到着
  水路20日の投馬国が後の出雲国です。
  
九州北部は、漢の役人一大率の文化の流れ、倭国大乱で使われた銅矛文化圏
筑紫国が中心になり百済との友好関係になり交易を続けます。
出雲は、魏の時代の文化圏で、銅鐸を使った交易文化、つまり銅鐸文化圏が出来ます。
出雲国は山陰地方を統一したでしょう。更に朝鮮半島の新羅を支配し、鉄や青銅を有利な条件で入手します。
こうして、九州と山陰・近畿の銅鐸文化圏の二つができました。
西都原古墳の船形埴輪がある様に、日本でも船が作られています。
宮崎・大分~瀬戸内海~近畿の航路も発展したのがこの時代でしょう。
この時代に、自らの一族に名前を付ける習慣が出来たのではないでしょうか。
・筑紫(中国では紫は高貴な色、金印は紫の布に包まれていた)
・肥国(ヒは卑弥呼?日巫女)
・豊国(台与 トヨ)
・熊襲国(狗奴国 クナ)
・投馬国(ズマコク=>イズモコク)
ヤマト朝廷が発布したとされる氏姓制度ですが
既に一族が自らの名前を付けていた事になります。
この方法でもよくわからないのが ヤマト王権
古代中国が勝手につけた 倭 いう漢字を ヤマト と呼び
後に 和 の一文字で、やはり ヤマト(後に大和になります)
中国語の発音でも日本語の読み方でも ヤマト にはなりません。
手がかりは、邪馬台国の ヤマト しかないのです。
古代より呼ばれた ヤマト には、何らかの意味があると思いますが。
未だに、その理由には届きません。
同じように日本独特の読みに 天(テン)と書いて アマ と読みます。
天の国 アマノ国=>ヤマト国 はい如何でしょうか。
加えて、邪馬台国のヤマト と 大和朝廷のヤマト 同じ名前の国が九州と近畿の二か所に登場する理由も不可思議です。
古事記などの日本神話では、神武東征 と云う物語を挿入して、一族が九州から近畿へ移住する話になっています。

卑弥呼は、倭国の最高権力者ではない?

2017-09-24 14:53:15 | 歴史
魏志倭人伝に中に出てくる身分には
王・大夫・大人・下戸・ が出てきます。
その漢字を見るだけで、上位、下位の位がわかります。
倭国には、身分を呼ぶ名前や制度はまだなかったのでしょう。
大陸との交易を行う中で、中国の国がそれなりに意味のある漢字と呼び方をしています。
倭国大乱の前(西暦57年 親魏倭王の金印の時代)は100余国
卑弥呼の時代(240年位)は、30国ですので、単純に計算しても70ほどの一族が滅んだことになります。
実際は、倭国大乱の以前の大陸が知る倭国とは玄界灘周辺で、有明海側や周防灘方面は含まれていないでしょうから
九州北部で計算すれば2~300の国(民僕)が30へ、十分の一ほどまとまったでしょう。
倭国大乱の80年間ほどの出来事でしょう。
元々、博多湾の島々から内陸部までにも100国(一族)が住んでいて、それが伊都国、奴国、不弥国の三つにまとまったのでしょう。

それぞれの位の意味は
王・  一族の長です。この一族が滅びると国が無くなります。
大夫・ 王の周囲で働く身分でしょう(祈祷師や民に命令と伝える役人、軍人を束ねる役人、外交交渉など)
大人・ 地方で農民など管理して、農作物などを集めて王家へ届ける役目(地方の役人)
下戸・ 一般に水田を耕したい、戦争の時に集められる男たちなど
・ 周囲の国の王家を滅ぼして、その国で働いていた大人・下戸などが奴隷になった。

西暦180年位、大乱を納める為に祈祷師 卑弥呼が女王として両立されます。
邪馬台国には、邪馬台国国王がいます。
卑弥呼は祈祷師集団の長です。中国が呼んだ位では 大夫 でしょう。
その他にも、官に伊支馬、次(官)を弥馬升、その次を弥馬獲支、その次に奴佳の4人の役人もいます。
ここまでが、国単位の上下関係ですが、連合国としては
「女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。」ですので
奴国など玄界灘側の国王の上に、交易の為の役人がいて、その下に複数の役人(大率)諸国に配置されて
監視していました。一大率は、大陸から送り込まれた交易のための役人でしょう。
物々交換の際に、米の量や鉄・青銅の重さを測ったりしたことが始まりです。
実質的には鉄器などの武器欲しさに奴国などが経済的に中国に支配されてた事になります。
一大率は武器商人と云った所ですね。
漢の国が滅び、三国志時代に突入すると、一大率が倭国の一番の権力者になっています。
一大率は、有明海側の国々も含めて倭国統一を考えます。それが、女王卑弥呼の共立です。
卑弥呼を女王に推薦したのは、一大率でしょう。
更に
魏の国へ難升米(なしめ)等を送り、女王卑弥呼を紹介させて、親魏倭王の金印や銅鏡などを受け取ったのも
この一大率です。
難升米・(都市)牛利の位は、大夫ですので倭人ですが、一大率の部下同然です。

卑弥呼の死後は、古墳時代。民族独立の時代です。 
一大率の支配から解放された時代です。(まもなく魏も滅びます)
九州地方は、筑紫(旧奴国連合、一大率支配国)、豊国(旧台与の国)、肥国(旧卑弥呼の国)、熊襲国(旧狗奴国連合)の
4つに分かれた時代です。
大陸との交易は途切れますが、出雲国が朝鮮半島の新羅を支配する等、朝鮮との交易があり
発展したのが、筑紫と出雲です。
そして再度、倭国統一の機運が高まります。
邪馬台国との時と同様に、何故か無名の飛鳥地方のヤマト王権
ここにも、邪馬台国の時と同様に大陸の文化が影響したでしょう。
氏姓制度や漢字がその事を証明しています。

卑弥呼は、邪馬台国の女王なのか、倭国の女王なのか?

2017-09-17 15:45:05 | 歴史
魏志倭人伝に紹介される邪馬台国の女王 卑弥呼
・西暦100年頃から続いた倭国大乱
・諸国は、邪馬台国の女王 卑弥呼を立てる事で大乱が治まる。
・卑弥呼は1000人の侍女(巫女)と共に生活している。
・祈祷を行い、人前には出てこない。この時、既に高齢である。

疑問と謎解き
邪馬台国はいつ出来たのか(卑弥呼が女王となった時につくられたのか?)
どうも、古くからあった国の一つではないか
・魏志倭人伝に紹介される30国(玄界灘、九州北部湾岸の奴国など7国と有明海側の21国、邪馬台国、狗奴国)
・先に発展したのは、伊都国、奴国など大陸と交易を行った玄界灘側の国々
・遺跡は河川沿いの湾岸、盆地にある。川の水は生活に必要で、食料となる魚類は川魚が湾岸の生き物
・山中では人は生活できない。
・吉野ケ里遺跡にみられるような環濠集落であり、環濠内部では王家の館を祈祷師に館がある。
・他に倉があり、環濠の周囲に農耕矢狩猟を行う人が生活、武人が周りを守っている。
・高台に王家の墓があり、周囲に一般の人の墓が集められている。
・魏志倭人伝では、邪馬台国まで帯方群から12000里、水行7日陸行1月とあるが、至るまでの経路の記載がない。
結論 邪馬台国は、奴国(博多湾)から
関門海峡、周防灘と迂回したなら、大分、別府、延岡辺り
鳥栖、佐賀と筑紫川の盆地を南下したなら、佐賀、熊本、水俣辺り
邪馬台国は、吉野ケ里の様な環濠集落の国で、国王がいて、祈祷師 卑弥呼がいた。
倭の国々は、邪馬台国の国王ではなく、祈祷師 卑弥呼を女王とした。

卑弥呼の生活
・諸国は、卑弥呼の為に新しい館を作る。(山奥、或いは山間部で人の出入りが難しい地域)
・日田方面の盆地へ向かう可能性もある。
・卑弥呼は、邪馬台国の男王の集落を離れて、1人の弟と巫女たちとの集団生活を行う。
・諸国の祈祷を止めさせる。巫女を集める。
・王家に女性が生まれると卑弥呼の巫女にする約束も出来たであろう。
徐々に、倭の諸国が卑弥呼に従うようになる。
巫女が1000人になるまでは、数十年はかかったでしょう。
1000人の祈祷師軍団を支えるために、その何十倍もの人数が必要なら
七万戸の表現もあり得る。


卑弥呼の祈祷
・祈祷の様子、祈祷師卑弥呼は一般の人に見られてはいけない。
 多分、人に見られると、その能力が落ちると信じされていたのではないか。
・卑弥呼の元で過ごす巫女は全て処女である(或いは未婚、出産の経験がない)
・巫女にも位があり、高位の巫女が卑弥呼の祈祷を一緒に行い、次世代に卑弥呼になる。

金印「親魏倭王」贈られた卑弥呼(238年)
・難升米・(都市)牛利を送り込んだのは、卑弥呼ではなく、伊都国、奴国など策略(思い付き)
・難升米・(都市)牛利に倭国の王は、女王 卑弥呼と説明させた。
・卑弥呼は、不老不死の祈祷師と紹介した。
内外共に、倭国の代表が卑弥呼となりました。

狗奴国(卑弓弥呼)と戦う卑弥呼
・邪馬台国連合は南へ侵攻を始まる。狗奴国との対立が激しくなる。
・魏の高官が、お互いに争わない様に詔書と黄憧(黄色い旗)を卑弥呼に贈る。
・卑弥呼が、旗を持って人前に出てきてしまう。
・卑弥呼の祈祷の能力が無くなったと事になり、卑弥呼が亡くなる。

卑弥呼の死後の男王と台与(トヨ)
・卑弥呼の宮殿にいた男性が王となるが、諸国が納得せず。宮殿を攻める。
・卑弥呼の墓を作り、葬儀を行ったのは、この男王です。
・新しい宮殿を作り、邪馬台国の巫女 台与 が新しい祈祷師になる。
この時代に、
奴国、伊都国など玄界灘から有明海までを筑紫国(多分、筑後川が境目)
大分側を、豊(トヨ)国 と呼ぶようになった。
有明海側筑後川南、阿蘇山までが肥国(火の国)で(旧 邪馬台国があった)
阿蘇山より南、鹿児島までが後の熊曽国で(旧 狗奴国があった)ではないでしょうか。
筑紫(九州)の四つの顔
・奴国、伊都国など大陸文化連合
・旧邪馬台国(祈祷師が国王以上の高位)
・旧狗奴国(アンチ大陸文化の民族)
・台与(トヨ)の国(国の象徴としての神道の始まり)
の四つではないでしょうか
古墳時代は民族独立の時代ですが、
邪馬台国=>台与(トヨ)国 の思想に似た(但し男系血統を重視する)民族国家が
奈良の大和に発生します。これが大和朝廷です。
不思議にも、先祖の始まりが天照大神(女性)で
神武東征と云う九州からの移住を国の始まりにしています。
邪馬台国とヤマト朝廷は全く無縁ではないはずです。