古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

奴国連合 と 邪馬台国 と 出雲王国

2017-02-25 18:52:58 | 歴史
先の投稿
魏志倭人伝にみる倭国の人口の続きです。

弥生時代の歴史で信ぴょう性のある部分を並べてみましょう。
大陸から農耕などの文化が日本に伝わり生活が大きく進化した時代です。紀元前600年位から始まった。
・前210年秦の始皇帝と徐福
 童男童女3000人と技術者,五穀や数々の道具を船に乗せて、軍人、航海士らと共に20隻の大船団で出航し戻らず。
 済州島経由で、長崎の五島列島に到着、船団を玄界灘側と東シナ側に分ける。
 徐福伝説が、松浦半島、有明海、鹿児島など湾岸に伝わっています。
・西暦57年  『漢委奴国王』 漢の武皇帝が西暦57年に倭奴国が貢物のお礼に送った。
 奴国王 は 奴国の王 とする説と 委奴国王 で 伊都国王 とする説がありますが、
 当時の漢の皇帝は、九州北部の玄界灘湾岸の国々を倭国としています。
 後の魏志倭人伝に紹介される対馬国から末盧国、伊都国、奴国、不弥国の地域ですが、当時はもっと多くの国々分かれていました。
 実際に、漢委奴国王は博多湾から見つかっています。

・西暦120~190年位 倭国大乱 奴国王の支配に対して反乱がおきたのでしょう。
・西暦190年位     卑弥呼が女王になり大乱が治まる。
・西暦239年      卑弥呼の朝貢に対して、『親魏倭王』の金印他、鏡百枚などが贈られる。
             漢が滅亡し『漢委奴国王』金印が意味を無くし、志賀島に捨てられた。
             魏の初代皇帝・曹叡に貢物を贈った卑弥呼に『親魏倭王』の金印を送る事で
             倭国との関係を漢の時代と同じにする意味がある。
             これをきっかけに、全ての権力が奴国から邪馬台国へ移ります。
ここまでの考察
西暦120年まで 倭国とは玄界灘湾岸で奴国がトップ
大乱を納める為に、玄界灘湾岸以外の国から女王を立てる、それが卑弥呼で祈祷を行うだけであった。
邪馬台国は、玄界灘以外であるので、有明海湾岸、或いは別府、大分湾側ではないでしょうか。
仮に、奴国連合と同様に、有明湾連合国が出来ていた、それが邪馬台国である。
この時代の倭国は、伊都国、奴国、不弥国など博多湾を中心とした玄界灘側と有明海沿岸の邪馬台国を含む
九州北部の国々である。
倭国の南の境界は、狗奴国(男王卑弥弓呼)、東の境界が門司、別府(出雲は倭国に含まず)
以下が魏志倭人伝の記述です。
(海中洲島 のうえに絶在している。あるいは絶え、あるいは連なり、周旋するこ と(めぐりまわれば)五千余里ばかりである。)
九州北部の領域です。
(女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。)
日本海を東に千里渡海しても山口まで
瀬戸内海を東に千里渡海しても山口、愛媛あたりです。

・西暦247年      卑弥呼が死す(卑弥呼が権力を持つように不満が高まり、卑弥呼政治に終止符が打たれる。
             倭国が纏まらず乱れる。
             吉野ケ里など有明海側の環濠集落が無くなる。
             つまり、有明海湾岸の邪馬台国連合が姿を消します。
             13歳の台与[臺與]を祈祷師とすることで、大乱が治まるが
             台与[臺與]には、特に大きな権力は与えられなかった。
             九州北部一帯を支配するように発展したのが筑紫一族
・西暦280年      呉が滅亡し、陳寿が魏志倭人伝を書き始まる。
             朝鮮半島=>隠岐の島経由で出雲国と大陸との交易が始まっていた。
             陳寿は、九州北部(奴国連合+邪馬台国)に出雲を投馬国(ズマ国と発音)として記述を変えた。

まとめ
西暦0年から190年   大陸は奴国など玄界灘湾岸を倭国と呼んだ。
             有明海側、九州南部、出雲にも奥が当然ありました。
190年から247年   邪馬台国(有明海側)連合地域も含めて、倭国となる。
西暦280年位      九州北部+中国地方日本海側(出雲国)を含めて倭国と呼ぶようになっていく。
             卑弥呼や台与などの祈祷政治から、豪族同士の権力者で国造りが始まります。
             古墳時代の始まりです。
             朝鮮半島から輸入する青銅、鉄器に有利な九州北部の豪族と出雲の豪族が力をつけます。
             九州の豪族を百済を出雲国は新羅を支配して鉄の調達を行います。
             百済支配で成功したのが筑紫一族で金などを含む沢山の財宝を蓄え九州王朝になります。

後に書かれる古事記の神話に登場する アマテラスを九州王朝の祖(卑弥呼)でスサノオを出雲王朝の祖と仮定すれば
仲が悪いにしろ兄弟であり、後に子孫が国譲りで、アマテラスノ子孫に出雲国を譲り、
初代 神武天皇の后(ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命))に出雲から
迎えるの等、血縁関係を深めていきます。お互いに戦争をするような争い事をせずに発展していきます。
日本では 倭国を ヤマト と呼び近畿で新しい国造りが始まる歴史になっています。
300年代後半ですので、卑弥呼の死後から100年程の期間ですが
倭国(ワコク)と邪馬台(ヤマト)国を合わせた様に思えます。
日本神話の国生みで九州を4.筑紫島(つくしのしま)と呼んだのも意味があると思います。

魏志倭人伝にみる倭国の人口

2017-02-25 16:31:53 | 歴史
魏志倭人伝と云えば、狗邪韓国を出発して、方向と距離が記載してあるので
諸国の国の位置と女王国邪馬台国の場所を探す手がかりと皆が注目していますが
他にも、重要な情報が書いてあります。
戸数(家、建物の数)ですが、これが、どこまで信用できるのか。
記載のある国で
・狗邪韓国 残念ながら記載なし、元々、朝鮮人の国があった場所を倭人が征服したのか
      或いは、誰も住んでいない土地に、倭国が人々(住民)を送り込んで作った国なのか
      大陸との交易が重要だったので、いつでも安全に上陸出来る港が必要でした。
・対馬国  千余戸(方(域)は、四百余里ばかりとかなり大きな島であるが、良田がない)
・一支国  三千(戸)ばかりの家がある。(やや田地がある。田をたがやしても、なお食に不足である)
・末盧国  四千余戸がある
・伊都国  千余戸がある
・奴国   二万余戸がある(漢委奴国王の金印を贈られたであろう国、さすがに大国である)
・不弥国  千余戸がある。
ここまでは、距離が 里を単位で表示してある。ここまでが大陸の役人が行き来していた限界
・投馬国  五万余戸ばかりである。(奴国の倍以上あるが、距離が日数表示になっている為、場所が特定が難しい)
・邪馬台国 七万戸ばかりである(奴国、投馬国を上回る、これまた場所の特定が難しい)
他に、21国の国の名前が紹介してあるが、戸数などの紹介はない。
 倭の地(理)を参問するに、海中洲島 のうえに絶在している。あるいは絶え、あるいは連なり、周旋すること五千余里
つまり、多くは、聞き情報である。
周囲5千里は広く見積もっても、長崎(五島列島)、佐賀、福岡、大分、熊本北部)程
 女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。
倭国の周囲が5千里で、その東に1千里なので、さほど離れてもいない船を使って航海する土地に倭国以外の国あり。

他の情報をまとめてみると
吉野ケ里遺跡
最盛期(ちょうど魏志倭人伝の時代)に環濠内部に1000人程、環濠外加えて全体で5~6000人程と云われています。
環濠内部は、かなり大きな建物があり、大勢が集まり、役職や仕事単(職業)位で集団生活をしています。
外部から内部見る事も難しいでしょうから、周囲の家族が4~5人で小さな小屋で生活していたなら、千戸ほどでは?

古代の人口の推移でも
・紀元前 600年    59万人   稲作農耕の普及と国家の形成で人口大幅増
・古墳時代           不明
・飛鳥時代           不明
・奈良時代725年    451万人  この時代に戸籍も出来ているので精度は上がっています。
弥生時代初期に、農耕が九州地方から始まり全国へ普及していますので
3世紀程には、奈良時代に匹敵する人口であったと思われますが、2~300万人程で
九州北部では、数十万人がやっとではないでしょうか。

ここまでの情報で考えてみると
対馬国から奴国、不弥国まで、九州北部間違いとして 合計約3万戸もし
もし、その他の21国が吉野ケ里規模で千戸としたら、+2万1千戸 合計 約5万戸
一戸 4~5人で計算したら、20~25万人
既に、九州北部の予想人口を上回ってしまいます。更に
・投馬国  五万余戸
・邪馬台国 七万戸
を加えると、この計算式が成り立ちません。

・伊都国 千余戸、不弥国 千余戸は、半島で、農耕には適さず漁業に食料を頼っていた。
 面積も吉野ケ里程度で、20~40ha程度の国ではなかったでしょうか。
一方、奴国 二万余戸は、博多湾の漁業と河川を利用した農耕の栄えていた
面積も博多湾から内陸部まで広域な領土があり、冬場など食料不足時に他国より優位であったと考えると
博多湾を支配した奴国が2万戸(約10万人)は食料自給、周囲の国から貢物(奴隷など含む)で可能な人口で
周囲の国々を従わせるに十分な大国であったと考えます。

では、奴国の2倍以上の戸数をもつ投馬国、3倍以上の邪馬台国とは
当時の人口推移から見て、邪馬台国 七万戸は、かなり誇張した数字を伝えたでしょう。
既に、奴国までは、多くの交易や役人が確認していて、魏の国も承知していたはずです。
そこへ邪馬台国からの使いが来て、親魏倭王の金印を与えるに十分な国と判断します。
奴国の2万戸をはるに越える7万戸と大嘘をかましたのです。
投馬国 五万余戸については、過去投稿でも紹介していますが
魏志倭人伝は、、280(呉の滅亡)~297年、西晋の陳寿により書かれています。
倭国大乱や卑弥呼については、魏の歴史書などを参考にしたでしょう。
投馬国は、陳寿の時代にわかってきた国です。
つまり、
女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある = 投馬国 で 出雲国 の事です。

次に、この奴国など玄界灘連合国 と 邪馬台国連合 と 出雲王国 の関係を年代的に考えてみます。
あくまでも、私の勝手な考えです。

魏志倭人伝から考える 投馬国の比定地

2017-02-05 19:56:19 | 歴史
魏志倭人伝から考える 伊都国、奴国、不弥国の比定地
魏志倭人伝から考える 邪馬台国の比定地
に続いて、投馬国です。
投馬国は
・南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日
これも帯方郡から水行二十日
・帯方郡から狗邪韓国 七千余里(水行)7日
ですので、狗邪韓国から、更に水行13日(一万三千里余)になります。
帯方郡から狗邪韓国までの距離に2倍弱です。

奴国  二万余戸
投馬国 五万余戸
邪馬台国 七万戸 ですので、かなり大きい(権力のある)国です。

ヒントは、狗邪韓国から対馬へは渡りません。
隠岐の島 経由 出雲国 です。
狗邪韓国から出雲までは、対馬海流があり、13日もかからないと思いますが
逆に、帰り道は、相当大変だったはずです。
卑弥呼の時代には、この航路はありませんでした。つまり投馬国も
・女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭 種である。
の中にしかありませんでした。
但し、陳寿が倭人伝をまとめるころには、投馬国(出雲国)までの新しい航路が出来たのです。

・南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日
を不弥国を出発点とすると、
末盧国から奴国、不弥国まで陸路で、博多湾に中国の船があり、水行20日となり
中国の船が博多湾の駐留しているか、倭国の船を借りた事になります。
帯方郡から投馬国まで、奴国を経由せずに、直接船で行ける。20日かかる。
と理解すると全てがスッキリします。

日本神話に出てくる アマテラスとスサノオの兄弟喧嘩と誓約国譲り は
邪馬台国 と 投馬国 の話です。

漢委奴国王の金印の時代(紀元前57年)は 奴国がNo1で、倭国とは九州の玄界灘湾岸
親魏倭王 の金印の時代(238年)は、有明海側に、邪馬台国の力を付ける。倭国は九州北部
陳寿の時代(280~297年)は、出雲に投馬国が勢力を付けてくる。
倭国とは、出雲、隠岐の島などの中国地方の日本海側の国々も含む様になり、広がりを見せます。
この時代(247年 Or 248年)には、卑弥呼は亡くなっており、台与が13歳で女王になります。
『晋書』起居註に266年に、倭の女王の使者が朝貢したとの記述があるのは、台与(42歳)までは
台与の国がありました。
日本神話の国生みでは、九州は 筑紫島で
筑紫国、豊国、肥国、熊襲国の4つの国が出来ています。この豊国(トヨコク)が台与の国ではないでしょうか。
邪馬台国はありません。近畿にヤマト国があります。
魏志倭人伝でも場所を特定できない邪馬台国
古事記・日本書紀にも出てこない邪馬台国、逆に、似たような名前で出てくるのが ヤマト王権
その歴史書(古事記・日本書紀)では、ニニギの天孫降臨が日向で、神武東征で近畿へ移住する話
初代天皇 神武天皇の皇后は、スサノオの子孫でまさに戦略結婚で国をまとめていく歴史書です。
これらが、3世紀後半から4世紀の出来事とまとめるしかない状況です。


更に、100年ほど経過すると、近畿にヤマト朝廷が生まれています。
この100年が空白の4世紀です。

魏志倭人伝から考える 邪馬台国の比定地

2017-02-05 18:12:17 | 歴史
前回の投稿、魏志倭人伝から考える 伊都国、奴国、不弥国の比定地
をベースに、いよいよ 邪馬台国に迫ってみます。

ここまでの行程を整理します。
・帯方郡から伊都国、奴国、不弥国まで、水行10、陸行 5~7日を有しています。
・帯方郡から女王国にいたるのに一万二千余里
・南(行)して、邪馬台国まで水行十日、陸行一月
・倭国は、周囲の島々を合わせて周旋するこ と五千余里余
とあります。
倭国は、30国があり、全ての国(30国)を見て回るには50日かかるという事です。

狗邪韓国、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国まで10日かかっています。
残りの23国を40日で回れる事になります。
博多湾からは、久留米、鳥栖、吉野ケ里など有明海側へ
更に、武雄、有田へ
※ひょっとしたら、蘇奴国(さがなこく)が長崎なら五島列島など含み)
唐津へ戻る。
やはり九州北部が倭国の領域であるとしか思えません。
その範囲の中に 邪馬台国があります。

・邪馬台国まで水行十日、陸行一月です。
・帯方郡から女王国にいたるのに一万二千余里
一月は、中国の陰暦ですので29日でしょう。
既に、末盧国まで水行10日かかっていて、一万理あります。

つまり、邪馬台国は、
末盧国から29日(二千里ほど)
伊都国から24日(1500里ほど)
不弥国から22日(1300里ほど)かかる。いずれかになります。
仮に唐津=>今宿までが、30km程で5日(500里)だとすれば
末盧国から東へ29日(二千里ほど)は、門司、下関を超えるでしょう。
 門司から大分へ進めば豊前市、宇佐市になります。
 唐津から南へ山道、多久市をこえたとすれば、佐賀から熊本辺りまで行けるでしょう。
伊都国から24日(1500里ほど)南東へ山道に入れば
 馬見山、英彦山の霊山があります。
南へ平地を進めば
 基山、小郡、久留米には八女古墳群、岩戸山古墳など、東なら朝倉市、日田市
 更に南なら大牟田、熊本市
 西に戻れば、佐賀、武雄に向かいます。


更に、魏志倭人伝では
 (卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。婢千人をもって、自(身)にはべらしている。
 ただ男子がひとりあって、(卑弥呼に)飲食を給し、辞をつたえ、居拠に出入りしている。
 宮室・楼観(たかどの)、城柵、おごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち、守衛している。
つまり、周囲を柵で囲い、中に高い建物が幾つもあり、千人の女性らと共に卑弥呼が生活している。
周囲は、兵隊が警護している国です。
イメージとしては、吉野ケ里遺跡の環濠集落です。
気になる所が食糧問題です。
穀物、山の実などは、保存が効くので遠くの国からでも貢物が可能です。
肉も羊や猪などを生きたまま貢ぐことが出来ます。
問題は、水と魚介類です。
1000人の女性がいますので、洗濯にも水を使ったでしょう。
近くに川がある事は必須条件です。


さて、もう一度、魏志倭人伝にもどると
対海国 千戸余
一大国 三千許
末盧国 四千余戸
伊都国 千余戸 ?
奴国  二万余戸
不弥国 千余戸
投馬国 五万余戸
邪馬台国 七万戸 です。これも大げさすぎます。
古代に人口の推移をみれば、
邪馬台国の時代で全国で60万人~100万人
九州に集中していたと云えでも倭国だけでは、10~2万人でも大袈裟ですね。
一戸 4人暮らしなら7万戸は28万人です。
吉野ケ里が全盛期(卑弥呼の時代)に環濠内部1200人、周囲も含めて5~6000人です。
伊都国 千余戸、不弥国 千余戸 は、ちょうど吉野ケ里の規模となります。

奴国  二万余戸、投馬国 五万余戸、邪馬台国 七万戸 は、一番大きい(権力がある)国の順番程度でしょう。
博多湾側の 奴国 VS 有明海側の邪馬台国 のイメージが頭から離れないのですが。
但し、卑弥呼の宮殿は、1000人が暮らせる環濠集落で、食料などは貢物で済みます。
しかし、吉野ケ里は男性も生活しています。
卑弥呼の宮殿(都)は、もう少し小ぶりの環濠で槍などは配置してない集落が
広い邪馬台国の領土にあるだけではないでしょうか。
筑紫川、矢部川、菊池川上流が濃厚ではないでしょうか。
邪馬台国は、有明海側の広い領土の事で、その中にポツンと卑弥呼の宮殿があります。
すぐ南には、敵対国 狗奴国の男王卑弥弓呼がいます。


絞り込めずに申し訳ありません。

魏志倭人伝から考える 伊都国、奴国、不弥国の比定地

2017-02-05 14:43:07 | 歴史
何度も登場しますが、やはり手がかりが魏志倭人伝です。
諸国の地理関係をまとめると
・帯方郡から女王国にいたるのに一万二千余里
・倭国は、周囲の島々を合わせて周旋するこ と五千余里余
・帯方郡から狗邪韓国 七千余里(水行)
・狗邪韓国から対馬国 千里余(水行)
・対馬国から一支国  千里余(水行)
・一支国から末盧国  千里余(水行)
合計 水行 10千里余
これが、対馬=>壱岐=>松浦半島 は疑うところは無いようです。
しかし
狗邪韓国から対馬国=対馬国から一支国=一支国から末盧国=千里余(水行)
地図を見ていただくと分かる様に、かなりおおざっぱです。
一支国から末盧国 と松浦半島の呼子であれば、もう目と鼻の先
唐津湾の砂浜でもかなり近いです。
出てくる距離も7千里と千里しかなかく、それより小さい単位はありません。
大さっぱである事は間違い無いです。
水行 千里余 は、一日という事ではないでしょうか。
狗邪韓国から対馬国=対馬国から一支国=一支国から末盧国=それぞれ1日 
狗邪韓国から末盧国まで三日かかる。
帯方郡から狗邪韓国 七千余里(水行)も七日かかるので
合計 帯方郡から末盧国まで 水行で10日かかる計算になります。


更に、問題を厄介にしているのが
・南(行)して、邪馬壹国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月
記述されている順番から
奴国、不弥国から更に、南へ水行十日、陸行一月 と解釈する説と
帯方郡から南へ水行十日、陸行一月 の事を意味しているとする説があります。
私は後者で考えています。
水行十日、陸行一月の水行10日の終着点が末盧国になります。残りは陸行(陸路)のみです。

・末盧国から伊都国 五百里(東南陸行)
・伊都国から奴国  百里 (東南陸行)
・奴国から 不弥国 百里 (東 陸行)
ここでも、五百里と百里しかありませんので、これも実際に測ったとは思えません。
百里が1日で、五百里は5日かかったと云う事ではないでしょうか。
伊都国を糸島半島の東側 今宿あたりとして、唐津湾から30km程、呼子から50kmほどです。
人の背より高い草藪の道と表現していますので、かなりの難路です。
但し、唐津湾から今宿ならほぼ東です。
呼子からなら一度南へ向かい、東へという事になります。
伊都国、奴国、不弥国はそれぞれ百里ですので、一日で行ける範囲になります。
博多湾の周辺 或いは、わずかに内陸部である事は間違いないでしょう。
この位置関係を否定する説は無いようです。
伊都国に交易品が集められ交換していたようですので、奴国、不弥国は上級役人が倭国見物か
今後の交易の約束など話し合いではないでしょうか。
ここまで、水行10日と陸行7日を有していますので、往復で約40日ほどかかっていたでしょう。


他に、頭に入れておく必要があるのが、最終目的地(出発地)は中国の都 洛陽 です。
河南省で、洛河、黄河が流れています。山東省から朝鮮半島(ソウル)までは黄海を横断したでしょう。
つまり、山東省東端からソウルまでは、一日(昼間)に渡ることが出来る船がありました。
プサンから博多湾や松浦半島へ一日で渡る事も可能でしたが、対馬、壱岐を経由します。
一回り小さい船だったのでしょうか、或いは、倭国側が出入りの航路指示していた可能性もあります。
洛陽を出発した交易品が帯方郡に着くまでも10日ほどかかったのではないでしょうか。
一回り小さい船で帯方郡から狗邪韓国まで 7日です。
伊都国、奴国に届くまでは20日程かかっていた計算になります。



魏の国が倭国に付けた名前

2017-02-04 14:33:32 | 歴史
魏志倭人伝にでてくる名前について考えてみました。

対馬国
大官を卑狗(彦:ひこ)、副(官)を卑奴母離(夷守:ひなもり)
一支国
官(吏)をまた卑狗(彦)、副(官)を卑奴母離(夷守)
伊都国
官を爾支(にき)といい、副(官)を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)
奴国
官を兇馬觚(しまこ)という。副(官)を卑奴母離(夷守)
不弥国
官を多模(玉または魂)といい、副官を卑奴母離(夷守)
投馬国
官を弥弥(耳)という。副(官)を弥弥那利(耳成・耳垂か)
邪馬台国
官に伊支馬(いきま)、次(官)を弥馬升(みまと)、つぎを弥馬獲支(みまわき)、つぎを奴佳(なかて)
女王 卑弥呼 弟 ?
狗奴国
官に狗古智卑狗(男王 卑弥弓呼)
倭国(委国) 親魏倭王の金印
次の女王 壱(台)与(トヨ、イヨ)
これらの起源については、こちらでも紹介されていました。
1、狗邪韓国をはじめ、倭国の30国などの国々名前が記述されています。
  大陸側(魏)は、国と表示していますが、その規模は部族と云った所ではないでしょうか。
2、卑狗(ひこ)、副(官)を卑奴母離(ひなもり)などが何度も登場します。
  これは、人名(固有名詞)ではなく、役職の呼名でしょう。
  卑狗は男性、卑奴母離は女性の印象もありますが
  卑奴母離は、国を守る軍人の呼名だったのではないでしょうか。
  後の天皇と皇后による血統を重視する文化があった様です。

3.卑弥呼、卑弥弓呼も敵対する両国のトップですが、あまりにも似た名前です。
  これを女王の名前が卑弥呼ではなく、当時の祈祷を行う役職の事を女性を卑弥呼と呼んだのではないでしょうか。

200年代(3世紀)の倭国、まだ漢字はありません。
魏志倭人伝に出てくる名前は、全て大陸(魏)が漢字を当て字したものです。
国名は、倭国を紹介するにあたって必須ですので、部族の名前、或いは国の特徴を元に名前を付けたでしょう。
卑狗、卑奴母離、卑弥呼、卑弥弓呼もすべて個人の名前ではなく、地位や仕事で呼んだのです。
弥生人(弥生文化)が徐福など古代の大陸からの移住で持ち込まれた文化です。(農耕や弥生式土器など)
徐福の船団でも、徐福をトップとする体制で、それぞれの技術者の集団です。
吉野ケ里の遺跡でも、古くから職業や役職ですむ場所が決まっています。
弥生人は、王家(官や副官)による役職や職業役を決めて、その下に呼名もない奴隷に近い人々の集団で国造りが始まります。
既に、諸国が同じような氏姓制度の始まりの様な国造りが出来ていました。
のちのヤマト朝廷に律令制度(氏姓制度など)と同じなのです。
この時代には、誰も(王でも)個人の名前はなかった。
最初は国王や部族の長が名前を持つようになりますが、これも後の時代です。


最後に、きちんと整理しておかなければならない事は
魏志倭人伝は、
1、中国から見た目線で倭国を紹介している。
2、九州での出来事、国々の様子を紹介している。
3、倭国には漢字が無いので、中国側の印象で名前を付けている。
後に作成された、日本の歴史書、古事記・日本食は、
1、近畿のヤマト王権の目線で書かれている。
2、近畿での出来事は詳しく紹介されているが、九州での出来事は神話になっている。
3、各地に伝わる先祖の話、失われた「天皇記」「記紀」や残っていた歴史書などが参考に400年程遅れて編集

魏志倭人伝と古事記・日本書紀の記載には、大きな違いが発生していて
それぞれを結びつける事を難しくしています。
失われた4世紀(300年代の日本の様子)は有名ですが、
4世紀以前の近畿の様子、
5世紀頃の九州も歴史も謎の中にいます。
ましてや関東や東北の歴史は全く出てこない状況です。
それぞれの地域にも人は住んでいますので、歴史は必ずあります。