先の投稿
魏志倭人伝にみる倭国の人口の続きです。
弥生時代の歴史で信ぴょう性のある部分を並べてみましょう。
大陸から農耕などの文化が日本に伝わり生活が大きく進化した時代です。紀元前600年位から始まった。
・前210年秦の始皇帝と徐福
童男童女3000人と技術者,五穀や数々の道具を船に乗せて、軍人、航海士らと共に20隻の大船団で出航し戻らず。
済州島経由で、長崎の五島列島に到着、船団を玄界灘側と東シナ側に分ける。
徐福伝説が、松浦半島、有明海、鹿児島など湾岸に伝わっています。
・西暦57年 『漢委奴国王』 漢の武皇帝が西暦57年に倭奴国が貢物のお礼に送った。
奴国王 は 奴国の王 とする説と 委奴国王 で 伊都国王 とする説がありますが、
当時の漢の皇帝は、九州北部の玄界灘湾岸の国々を倭国としています。
後の魏志倭人伝に紹介される対馬国から末盧国、伊都国、奴国、不弥国の地域ですが、当時はもっと多くの国々分かれていました。
実際に、漢委奴国王は博多湾から見つかっています。
・西暦120~190年位 倭国大乱 奴国王の支配に対して反乱がおきたのでしょう。
・西暦190年位 卑弥呼が女王になり大乱が治まる。
・西暦239年 卑弥呼の朝貢に対して、『親魏倭王』の金印他、鏡百枚などが贈られる。
漢が滅亡し『漢委奴国王』金印が意味を無くし、志賀島に捨てられた。
魏の初代皇帝・曹叡に貢物を贈った卑弥呼に『親魏倭王』の金印を送る事で
倭国との関係を漢の時代と同じにする意味がある。
これをきっかけに、全ての権力が奴国から邪馬台国へ移ります。
ここまでの考察
西暦120年まで 倭国とは玄界灘湾岸で奴国がトップ
大乱を納める為に、玄界灘湾岸以外の国から女王を立てる、それが卑弥呼で祈祷を行うだけであった。
邪馬台国は、玄界灘以外であるので、有明海湾岸、或いは別府、大分湾側ではないでしょうか。
仮に、奴国連合と同様に、有明湾連合国が出来ていた、それが邪馬台国である。
この時代の倭国は、伊都国、奴国、不弥国など博多湾を中心とした玄界灘側と有明海沿岸の邪馬台国を含む
九州北部の国々である。
倭国の南の境界は、狗奴国(男王卑弥弓呼)、東の境界が門司、別府(出雲は倭国に含まず)
以下が魏志倭人伝の記述です。
(海中洲島 のうえに絶在している。あるいは絶え、あるいは連なり、周旋するこ と(めぐりまわれば)五千余里ばかりである。)
九州北部の領域です。
(女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。)
日本海を東に千里渡海しても山口まで
瀬戸内海を東に千里渡海しても山口、愛媛あたりです。
・西暦247年 卑弥呼が死す(卑弥呼が権力を持つように不満が高まり、卑弥呼政治に終止符が打たれる。
倭国が纏まらず乱れる。
吉野ケ里など有明海側の環濠集落が無くなる。
つまり、有明海湾岸の邪馬台国連合が姿を消します。
13歳の台与[臺與]を祈祷師とすることで、大乱が治まるが
台与[臺與]には、特に大きな権力は与えられなかった。
九州北部一帯を支配するように発展したのが筑紫一族
・西暦280年 呉が滅亡し、陳寿が魏志倭人伝を書き始まる。
朝鮮半島=>隠岐の島経由で出雲国と大陸との交易が始まっていた。
陳寿は、九州北部(奴国連合+邪馬台国)に出雲を投馬国(ズマ国と発音)として記述を変えた。
まとめ
西暦0年から190年 大陸は奴国など玄界灘湾岸を倭国と呼んだ。
有明海側、九州南部、出雲にも奥が当然ありました。
190年から247年 邪馬台国(有明海側)連合地域も含めて、倭国となる。
西暦280年位 九州北部+中国地方日本海側(出雲国)を含めて倭国と呼ぶようになっていく。
卑弥呼や台与などの祈祷政治から、豪族同士の権力者で国造りが始まります。
古墳時代の始まりです。
朝鮮半島から輸入する青銅、鉄器に有利な九州北部の豪族と出雲の豪族が力をつけます。
九州の豪族を百済を出雲国は新羅を支配して鉄の調達を行います。
百済支配で成功したのが筑紫一族で金などを含む沢山の財宝を蓄え九州王朝になります。
後に書かれる古事記の神話に登場する アマテラスを九州王朝の祖(卑弥呼)でスサノオを出雲王朝の祖と仮定すれば
仲が悪いにしろ兄弟であり、後に子孫が国譲りで、アマテラスノ子孫に出雲国を譲り、
初代 神武天皇の后(ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命))に出雲から
迎えるの等、血縁関係を深めていきます。お互いに戦争をするような争い事をせずに発展していきます。
日本では 倭国を ヤマト と呼び近畿で新しい国造りが始まる歴史になっています。
300年代後半ですので、卑弥呼の死後から100年程の期間ですが
倭国(ワコク)と邪馬台(ヤマト)国を合わせた様に思えます。
日本神話の国生みで九州を4.筑紫島(つくしのしま)と呼んだのも意味があると思います。
魏志倭人伝にみる倭国の人口の続きです。
弥生時代の歴史で信ぴょう性のある部分を並べてみましょう。
大陸から農耕などの文化が日本に伝わり生活が大きく進化した時代です。紀元前600年位から始まった。
・前210年秦の始皇帝と徐福
童男童女3000人と技術者,五穀や数々の道具を船に乗せて、軍人、航海士らと共に20隻の大船団で出航し戻らず。
済州島経由で、長崎の五島列島に到着、船団を玄界灘側と東シナ側に分ける。
徐福伝説が、松浦半島、有明海、鹿児島など湾岸に伝わっています。
・西暦57年 『漢委奴国王』 漢の武皇帝が西暦57年に倭奴国が貢物のお礼に送った。
奴国王 は 奴国の王 とする説と 委奴国王 で 伊都国王 とする説がありますが、
当時の漢の皇帝は、九州北部の玄界灘湾岸の国々を倭国としています。
後の魏志倭人伝に紹介される対馬国から末盧国、伊都国、奴国、不弥国の地域ですが、当時はもっと多くの国々分かれていました。
実際に、漢委奴国王は博多湾から見つかっています。
・西暦120~190年位 倭国大乱 奴国王の支配に対して反乱がおきたのでしょう。
・西暦190年位 卑弥呼が女王になり大乱が治まる。
・西暦239年 卑弥呼の朝貢に対して、『親魏倭王』の金印他、鏡百枚などが贈られる。
漢が滅亡し『漢委奴国王』金印が意味を無くし、志賀島に捨てられた。
魏の初代皇帝・曹叡に貢物を贈った卑弥呼に『親魏倭王』の金印を送る事で
倭国との関係を漢の時代と同じにする意味がある。
これをきっかけに、全ての権力が奴国から邪馬台国へ移ります。
ここまでの考察
西暦120年まで 倭国とは玄界灘湾岸で奴国がトップ
大乱を納める為に、玄界灘湾岸以外の国から女王を立てる、それが卑弥呼で祈祷を行うだけであった。
邪馬台国は、玄界灘以外であるので、有明海湾岸、或いは別府、大分湾側ではないでしょうか。
仮に、奴国連合と同様に、有明湾連合国が出来ていた、それが邪馬台国である。
この時代の倭国は、伊都国、奴国、不弥国など博多湾を中心とした玄界灘側と有明海沿岸の邪馬台国を含む
九州北部の国々である。
倭国の南の境界は、狗奴国(男王卑弥弓呼)、東の境界が門司、別府(出雲は倭国に含まず)
以下が魏志倭人伝の記述です。
(海中洲島 のうえに絶在している。あるいは絶え、あるいは連なり、周旋するこ と(めぐりまわれば)五千余里ばかりである。)
九州北部の領域です。
(女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。)
日本海を東に千里渡海しても山口まで
瀬戸内海を東に千里渡海しても山口、愛媛あたりです。
・西暦247年 卑弥呼が死す(卑弥呼が権力を持つように不満が高まり、卑弥呼政治に終止符が打たれる。
倭国が纏まらず乱れる。
吉野ケ里など有明海側の環濠集落が無くなる。
つまり、有明海湾岸の邪馬台国連合が姿を消します。
13歳の台与[臺與]を祈祷師とすることで、大乱が治まるが
台与[臺與]には、特に大きな権力は与えられなかった。
九州北部一帯を支配するように発展したのが筑紫一族
・西暦280年 呉が滅亡し、陳寿が魏志倭人伝を書き始まる。
朝鮮半島=>隠岐の島経由で出雲国と大陸との交易が始まっていた。
陳寿は、九州北部(奴国連合+邪馬台国)に出雲を投馬国(ズマ国と発音)として記述を変えた。
まとめ
西暦0年から190年 大陸は奴国など玄界灘湾岸を倭国と呼んだ。
有明海側、九州南部、出雲にも奥が当然ありました。
190年から247年 邪馬台国(有明海側)連合地域も含めて、倭国となる。
西暦280年位 九州北部+中国地方日本海側(出雲国)を含めて倭国と呼ぶようになっていく。
卑弥呼や台与などの祈祷政治から、豪族同士の権力者で国造りが始まります。
古墳時代の始まりです。
朝鮮半島から輸入する青銅、鉄器に有利な九州北部の豪族と出雲の豪族が力をつけます。
九州の豪族を百済を出雲国は新羅を支配して鉄の調達を行います。
百済支配で成功したのが筑紫一族で金などを含む沢山の財宝を蓄え九州王朝になります。
後に書かれる古事記の神話に登場する アマテラスを九州王朝の祖(卑弥呼)でスサノオを出雲王朝の祖と仮定すれば
仲が悪いにしろ兄弟であり、後に子孫が国譲りで、アマテラスノ子孫に出雲国を譲り、
初代 神武天皇の后(ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命))に出雲から
迎えるの等、血縁関係を深めていきます。お互いに戦争をするような争い事をせずに発展していきます。
日本では 倭国を ヤマト と呼び近畿で新しい国造りが始まる歴史になっています。
300年代後半ですので、卑弥呼の死後から100年程の期間ですが
倭国(ワコク)と邪馬台(ヤマト)国を合わせた様に思えます。
日本神話の国生みで九州を4.筑紫島(つくしのしま)と呼んだのも意味があると思います。