古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

神武東征が、何故 奈良(橿原)なのか?「結論」

2016-10-16 11:33:43 | 歴史
繰返しですが、卑弥呼は一人ではない と思います。
ここで、二人の卑弥呼を紹介します。
①親魏倭王の金印を貰った卑弥呼
237年の卑弥呼
②魏志倭人伝でなくなったとされる卑弥呼
248年の卑弥呼

①の卑弥呼は権力最大です。死後、遺体は棺に入れられて、大勢の巫女や家来と共に
奈良の盆地へ運ばれて、箸墓古墳を作り上げ、その子孫は橿原の地で先祖の供養を行ったでしょう。

②の卑弥呼の死は、政権を男王に奪われたことを意味します。
残された卑弥呼一族は九州北部を捨て、日向の地へ移住します。
天孫降臨の神話となります。移住のリーダーは、ニニギでアマテラス(卑弥呼)の孫ですね。

しかし、九州北部(たぶん筑紫一族)は、朝鮮半島との交易で財力を蓄え、武力も広大となります。
彼らは祈祷など信仰を信用せず、交易と武力に頼っていきます。
その権力は徐々に日向の地へも及んできます。
ニニギは、その子孫へもう一人の卑弥呼の埋葬の土地を話します。
ひ孫にあたる神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと 後の神武天皇)は移住の決意をします。
これが神武東征です。

もちろん、日向の卑弥呼一族と橿原の卑弥呼一族はお互いに知り合った仲でした。
神話では、神武東征は6年もの年月をかけていますが、実際は一族の移動で数か月だったでしょう。
協力した一族は、宗像一族、出雲一族、熊野一族です。後に大社扱いの神社が出来ます。
全ては順調でしたが、生駒山を経て中州へ入ろうとした際に、この地を支配する長髄彦が軍衆との戦いになり
ます。争いを避けて紀伊半島(熊野)から上陸して橿原へ到着します。
これが、神武天皇が奈良橿原を目指した理由です。

真実と妄想で沢山の投稿をいたしましたが、楽しんで頂けましたでしょうか。
古代のロマンへ興味を持って頂いた方、下のボタンをポチッと押してください。
ありがとうございました。
最後に、今までの投稿の目次でも作っておきます。
ジャンル:
文化
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 最澄と空海 | トップ | 神武天皇一族のその後 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。