古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

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速報 群(こおり)・倍賀(へか)遺跡調査説明会

2017-01-29 18:13:39 | 歴史
大阪府茨木市松下町
旧パナソニック工場跡地(ダイワハウス、ヤマト運輸基地 予定地)を遺跡調査
今回調査地面積 約16,500平方メートル(遺跡は、更に数倍の地域と思われる)
2016年6月から調査して、2107年1月29日13時より説明会がありました。
今回の公開は、パナソニック跡地の南四分の一程

北側(国道171号線沿い)の半分は既に調査完了、建物が建てられています。
残り南側半分の更に半分が調査完了、既に埋め戻されていました。
南側の四分の一が掘り下げられた状態で、公開されました。

特徴
1、現在の表面から2m程、掘り下げた部分で平安時代の建物跡地が見つかる。
  更に、1~20cmほど下に弥生時代中期~後期(紀元前200年~西暦100年)の遺跡が発見
  平安時代に、弥生時代の墳丘部分など高い部分を削り、平らにして、建物や墓地を新しく作っている
  二重構造でした。
  西側に図書館があります。既に調査後建築されたもので、同様の遺跡があったと云われています。
  東側は大きな物流倉庫の建物、更に東に茨木川と安威川が流れ合流しています。
  今回の調査地域では多くの墓地が発見されており、東側の建物と川の間に更に大きな建物があったのではないかと
  説明されています。
  南側には、農地が広がっていて、川から水をひいていたのでしょうか。
  かなり広域に広がる遺跡であることは間違いないようです。
2、140基の「方形周溝墓」は近畿では、滋賀の服部遺跡についで二番目、更に広い調査が行われれば
  近畿最大級の墓群の可能性がある。
3、高さ6cmほどの人型土偶が弥生時代中期の方形周溝墓から発見されました。
  両方の耳の穴が貫通しています。
4、墓壙内から3個の碧玉製の管玉が発見、近畿では埴輪を埋葬する文化圏であり珍しい。大阪府域で二例目
5、140基の「方形周溝墓」と溝で囲まれた集落跡が発見される。
  溝の中に多数の土器が発見されており、それらは使用された後が無い新品であり溝内に並べた理由が不明
6、「方形周溝墓」98より木棺の底部分が見つかり、人骨の下あごと歯が発掘、周囲は朱が見られた。
  弥生式土器類の他に、薄い石に二か所の穴をあけて紐を通して使っただろう石器もあります。
  生活に使った土器の内側では、食べ物がこすった跡、外側に火をかけた跡があります。
吉野ケ里の様な環濠集落でもないようですし、祈祷文化もなかったようです。
鉄器などの武器類もなく生活用品が出土しています。九州圏とは異なり、もめ事が少なかった地域ではないでしょうか。

7、弥生時代遺跡より上側に、平安時代中期~後期(1000~1200年程)の堀立柱建物や井戸、お墓など
  ムラの跡があります。井戸の中からは下駄も見つかります。
  屋敷近くの墓より白磁碗、短刀が見つかり、他にも緑塗りの器も発見されています。
  ここでも、3世紀ほどから9世紀までの歴史が消えているようです。
周囲の遺跡群
安威川の反対側(東側)に茶臼山古墳(450年頃) 今城塚古墳(530年頃)の大きな古墳が
茶臼山古墳が宮内庁指定に継体天皇陵、今城塚古墳がどうも継体天皇陵ではないかと新説がある古墳です。
埴輪工場跡で、これらの古墳で使われた埴輪が作られたと云われています。

どうも、この安威川流域が弥生時代(300年間)ムラの時代、古墳時代(5~6世紀)に古墳地域
平安時代に、再度、居住地域になったようです。
北側に北摂山系が兵庫、大阪から京都まで伸びており、反対側が亀岡市
皆に側に淀川が流れていて、反対側が枚方市です。
既に、高速道路、国道が通り、大きな工場やマンション、流通倉庫群で、今回、パナソニックが工場を閉鎖したので
大規模な調査が出来ましたが、今後、同じような調査が行われる期待は少ないです。

写真の奥(東側)の倉庫側に、本格的は住居の建物があったのではないかと説明をうけました。
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6世紀の朝鮮半島と日本

2017-01-29 01:03:49 | 歴史
先の投稿、筑紫碧の乱の続きです。
朝鮮半島での出来事と日本を年代と共にまとめておきます。
527年 ヤマト王権が朝鮮半島の支配を取り戻すために6万の兵を出すが
     九州にて筑紫碧が百済と手を組み出兵できず。
528年 ヤマト王権軍が筑紫碧を討伐
585年 父 用明天皇が即位
587年 父 用明天皇が病死、後継争いで蘇我氏と物部氏が戦う。(太子14歳)
     蘇我馬子と共に、物部氏を滅ぼす。崇峻天皇が即位
588年 勝利の証として、蘇我氏は法興寺(飛鳥寺)の建設を始めた
592年 蘇我馬子が崇峻天皇を殺害させる、推古天皇が即位する。
593年 聖徳太子が皇太子となり,推古天皇の摂政となる。(太子20歳)
     四天王寺を建立する。
600年 第一回遣隋使を派遣する。
603年 官位十二階を定める。
604年 憲法十七条を作成する。
605年 斑鳩宮にうつる。
607年 第二回遣隋使として小野妹子を派遣。
620年 馬子と協力して「天皇記」「国記」を編さんする。
645年 三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した際に
     中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼす(乙巳の変)
     この時に「天皇記」「国記」が焼失

660年 唐は新羅からの救援要請を受けて軍を起こし百済を攻める。百済滅亡
     中大兄皇子は百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。
663年 百済復興を支援する倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争(朝鮮半島の白村江の戦い)
     倭国軍が大敗する。
666年 唐が高句麗へ侵攻
668年 高句麗滅亡、唐は、朝鮮半島の
     旧高句麗領を安東都護府
     旧百済領を熊津都督府
     新羅を鶏林州都督府として、半島全域を藩属国に変えて
     羈縻州とし一時的に朝鮮半島に国はなくなった。
     東アジアで唐に敵対するのは倭国のみとなる。
672年 皇位継承紛争、大海人皇子と近江朝廷が支援する大友皇子との争い(壬申の乱)が始まる。
     大海人皇子が勝利
701年 大宝律令 が完成
702年 第7次遣唐使に「この歳、日本国その大臣朝臣真人を遣わし、方物を貢ぐ。日本国は倭国の別名なり」
     国名を日本と変えた事を国外に表明
既に、漢字が普及、多くの事実が現在に伝わっています。
712年 太安万侶が「古事記」を編纂し、元明天皇に献上
720年 舎人親王らが「日本書紀」を完成させる。
787年 奈良より長岡京へ遷都
794年 長岡京を廃し、平安京に遷都(倉幕府が成立するまでの約390年間、平安時代)
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古代九州王朝=筑紫氏の終焉

2017-01-28 17:03:21 | 歴史
古代九州王朝=筑紫氏の国の存在は間違いないようですが
その始まりが不明です。
3世紀前半の九州北部の様子は、魏志倭人伝で想像できます。
奴国、伊都国など30国があるまり、卑弥呼の祈祷を信じた邪馬台国連合が出来る。
朝鮮半島の南端に狗邪韓国があり、倭国が支配している地域であった。
卑弥呼の死後、国が乱れ、女王 台与を立て新しい国作りが始まる。
百済など朝鮮半島と交易はあったはずですが、筑紫氏と思われる一族はまだ見当たりません。

しかし、3世紀後半に、近畿のヤマト王権が発行した氏姓制度では、九州は 筑紫氏の国であり
527年の筑紫碧の乱では、ヤマト王権対抗できるほど権力と武力を持った国になっています。
その九州王朝(筑紫王国)の終焉は、かなり明らかです。
筑紫碧の乱 概略
527年 ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した
磐井は挙兵し、肥前国と豊国を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した
528年、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。

新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復とは、
七枝刀 と 広開土王碑 と倭の五王の手紙があります。
七枝刀には、
「泰和4年(369年)によく鍛えた鉄で七枝刀を造った。
かってこのような立派な刀はなかったが、百済王の太子が倭王のため
にわざわざ造ったものである。後世まで伝え示されたい。」
と刻まれていて、百済と倭国は友好関係がありました。
多分に、筑紫氏の始まりは、この時代ではないでしょうか。
筑紫氏は、百済からの渡来人であったかもしれないです。

しかし、広開土王では
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。
となり、倭国が朝鮮半島での支配を失っています。
倭の五王の最後の武王も478年に、宋の文帝に長年、朝鮮半島の支配が出来す兵を撤退する旨の手紙を出しています。
つまり、高句麗の侵攻で、倭国は朝鮮半島の支配を無くします。
そかし、筑紫氏は、どうもこの時代に朝鮮半島と交易し、蓄財と武力を得て成長した様です。
そして、527年にヤマト王権が6万の兵を朝鮮半島へ送り組む事態になり、反逆の行為を行い、
筑紫氏の九州王朝は破滅します。
九州王朝の蓄財の管理を行ったのは宗像一族だったのでしょう。

ともあれ、卑弥呼死後の3世紀後半から氏姓制度で筑紫氏の姓が出されるまでの、九州北部の実態がまだ不明です。
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筑紫氏と宗像一族、安曇一族

2017-01-28 16:36:05 | 歴史
神社は、天照大神(アマテラス)を祀る伊勢神宮をトップとする神宮と
素戔嗚(スサノオ)など、天照大神の分家に該当する出雲大社など、大社に分けられます。
そして、大社にはもうひとつ、宗像大社があります。
天照大神(アマテラス)の弟 素戔嗚(スサノオ)です。
その二人が誓約の儀式で
アマテラスの勾玉からスサノオが産んだ女神
田心姫神(たごりひめかみ)  沖の島・沖津宮 (長女)
湍津姫神(たぎつひめかみ)  大 島・中津宮 (次女)
市杵島姫神(いちきしまひめかみ)宗像市・辺津宮 (3女)
が祀られているの宗像大社です。
二人の協力で生まれたのですが、スサノオが産んでいますので分家扱い
或いは、女性ですの、男系子孫を血統とする天皇家では分家扱い
という事で大社になります。
スサノオの出雲同様に、宗像一族とその国は、後の天皇家にとって大切な存在であったようです。

宗像大社で気になるのが、神宝です
卑弥呼が魏の武皇帝より贈られた三角縁神獣鏡と同じ3世紀ごろの三角縁神獣鏡があります。
5世紀に朝鮮半島から送られたとする純金の指輪や祭礼に使われたと思われる金銅製の宝飾品の数々
その財力は、当時の他の国々を圧倒しています。
それでも、筑紫氏=宗像氏ではない様です。
壱岐・対馬を航路として対馬海峡を支配した安曇一族と沖の島を航路とし玄界灘支配した宗像一族の二つが海人族だったようです。
歴史的には、安曇一族が古く、後に宗像一族に分かれたのかもしれません。
それに対して、筑紫氏は九州北部(博多湾から有明海)を支配していています。
ヤマト王権から氏姓制度で 筑紫氏 と云う君の姓を受けます
ヤマト王権に貢物を差し出すことなく、交易の利益を我が物として蓄え、財力、武力共に最盛期を迎えます。
筑紫氏は、ヤマト王権側ではなく、朝鮮半島の百済との友好関係でした。
その結果が、筑紫碧の乱となり、ヤマト王権から討伐軍が贈られて、筑紫碧が亡くなります。
筑紫氏一族が滅ぼされたわけではない様です。
その際に筑紫碧の財宝が宗像一族へ渡ったのではないでしょうか。
後に、宗像大社が作られて、財宝は宗像大社の物へ、つまり天皇家の物となります。
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九州王朝とヤマト朝廷

2017-01-28 13:12:56 | 歴史
先の投稿から、九州王朝(朝廷)と云う言葉を使っていますが、
九州王朝(筑紫王国)は、本当に存在しているようです。
吉田武彦氏の「失われた九州王朝」は存在感があります。
筑紫の存在
氏姓制度に筑紫氏の表現があります。
 350年位と思われますが、近畿のヤマト王権が発した氏姓制度で、地方の豪族に与えた君(キミ)の位
 氏名 九州地方は、筑紫氏の名前があります。
・古事記の神話でも、冒頭の国生みの神話で、九州は 筑紫島で、四つの顔、筑紫、豊国、肥国、熊曽国の四つの国名が
 出ています。
 神武天皇か近畿へ東征するより以前
 ニニギが天孫降臨するより以前に筑紫と名前を使っています。
 その名前は、古事記の後段にも幾つも登場しますし、筑紫碧井の乱 が勃発し記載されています。
 意図的か、無意識に書かれたのか?日本神話の時代の流れでは
 イザナミ、イザナギ が国生みで 筑紫島 を産み、後にアマテラスが生まれ、天孫降臨、神武東征 と流れます。
筑紫と云う呼び名は、近畿のヤマト王権側が付けた名前の様ですが、
紫は、中国でも高貴な色であるので、かなり良い意味、漢字をあてがっています。
残りの豊国、肥国、熊曽国と順に悪い印象があるのですが。

・福岡には、都久志(つくし)という地名があります。
 地元、九州では、つくし と自分達の土地を読んでいたのでしょうか。
 氏姓制度では、地名、氏名を感じ二文字に統一したので、その際に 筑紫 に置き換えられたはずです。

中国側の資料に目を通して見ると
・漢委奴国王 の金印の時代(紀元前) 倭国は、最強国が 奴国で100余りの国がある。
・親魏倭王 の金印(卑弥呼の時代)  奴国、伊都国など九州北部の30国が連合する邪馬台国が倭国で
                   東方に、同じ倭種の国がある。
つくしにも筑紫にも該当する呼び名は出てきません。
3世紀前半は
筑紫氏の国はまだ無かった。  或いは 魏志倭人伝出てくる奴国などの国名は中国名で、地元で「つくし」と呼ぶ国があった。

農耕や織物など、文化的な部分も中国の文化が朝鮮半島を伝わって九州北部へ伝わります。
更に鉄器や武器は、お米と交換に朝鮮半島から入手します。九州北部が文化的にも武力的にも優位にあった時代が長く続いた事は
まちがいないでしょう。3世紀、九州王朝>近畿王朝 の力関係は間違いないはずです。
吉田武彦氏の二番煎じで申し訳ないですが、九州朝廷について考えてみたいと思います。
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卑弥呼=アマテラスなら スサノオは誰?

2017-01-22 19:24:54 | 歴史
先の投稿、卑弥呼=アマテラスなら ツキヨミは誰?
の続きになります。

日本神話では、スサノオはアマテラスの弟ですので、魏志倭人伝に紹介される卑弥呼の弟で
卑弥呼の祈祷の結果を周囲の国王に伝えていた人物です。
実際は、時の権力者から送られてきた役人ではないでしょうか。
アマテラスとスサノオの誓約、天岩戸の神話では、アマテラスはスサノオを信用せずに、爪をはぐなど体罰を加えて
天高原を追放します。
実際は、九州北部の国々の援助を受けて出来た邪馬台国が、その国々と断絶した事を意味しています。
卑弥呼が親魏倭王の金印を受けて、狗奴国と戦いに入り、魏の国へ応援を求めるが、黄色い旗しかもらえなかった。
この時代の事ではないでしょうか。
狗奴国との戦いで成果を出せなかった邪馬台国は卑弥呼祈祷時代に終止符を打ち、日向国へ移動します。
これが天孫降臨です。
日本神話も場所を変えて、出雲国でのスサノオの活躍に話になります。
このスサノオは、邪馬台国で弟役だった役人とは別の人物です。

因幡の白兎、八幡の大蛇に登場するスサノオは、出雲の国造りに登場した人物です。
つまり、スサノオは、時の権力者で、当社は九州北部の権力者で
天高原追放後に活躍するスサノオは出雲国の権力者です。
初代スサノオと違い、アマテラスの国譲りの要求も受け入れて、神武天皇との結婚で協力的です。
出雲国からみても、九州北部の筑紫朝廷は最大の敵国で倒しておかなければならない国でした。
両社の利害関係は、筑紫朝廷討伐で一致したのです。

後に起こる筑紫碧の乱で、筑紫碧討伐で目的を達成
ヤマト朝廷が名実共に倭国の代表となりますが、出雲国との協力は忘れずに古事記に残しました。
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卑弥呼=アマテラスなら ツキヨミは誰?

2017-01-22 18:26:15 | 歴史
先の投稿、三貴神の一人 スサノオ(素戔嗚)三貴神の一人 ツキヨミ(月読)関連です。

議事倭人伝で紹介される女王 卑弥呼ですが、私の考えでは
卑弥呼の鬼道とは
卑弥呼は一人ではない陵戸・守戸と呼ばれる職業がありました。
この陵戸・守戸も、深夜に祈祷を行い、決して人前には姿を出さない職だったのです。
日本神話では、この仕事を夜の神(月の神)として、ツキヨミとして表現しました。
ツキヨミも一人でなく、古墳時代には、それぞれの国に存在していたことになります。

実際に、吉野ケ里遺跡を事例に上げても北内郭に塀で囲まれた地区を作り、中に祈祷の宮殿、織物や祈祷の道具作りの場所があります。
そして、隣に北墳丘墓などお墓となる地域が設定されています。
宮殿で行われる祈祷と比較すれば、墓守は地味ですが、それなりに存在の意味がありました。
この二つの職業が太陽神アマテラスと月の神(夜の神)ツキヨミの神話に使われました。
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三貴神の一人 スサノオ(素戔嗚)

2017-01-22 17:28:14 | 歴史
先に投稿した
三貴神の一人 ツキヨミ(月読) の続きです。
イザナギが
左の目を洗って生まれた神は アマテラス
右目を洗って生まれの神が  ツキヨミ
鼻を洗って生まれたの神が  スサノオです。

漢委奴国王の時代からヤマト朝廷に至るまでの国々でも少し説明していますが
どうしても、このスサノオと云う神様が解せないのです。
古代の信仰に、日の神(太陽神)と夜の神(月神)がいれば十分な様に思うのですが
誓約から八幡の大蛇の話までの、アマテラスとの兄弟げんかやスサノオの追放、葦原中国平定と実に
人間味があり、神様らしくないのがスサノオ。
どうみても、国王の様な権力者で、どうも実話に近いのです。

出雲の国造りを達成した大国主神がいて、いつの間にか、大物主神が近畿の山輪山に登場、その子供が
アマテラスの子孫神武天皇と結婚する話となります。
そのおかげで、後にアマテラスを頂点とする伊勢神宮と出雲大社と云う関係も出来ます。
古事記が編集された奈良時代、出雲国の影響が大きかったので無視できず、書き加えたのではないでしょうか。

古墳時代は、筑紫朝廷、出雲朝廷、ヤマト朝廷(旧邪馬台国)の三国時代だった。
武力は、朝鮮半島から輸入される鉄製品で決まります。
隠岐の島=>新羅航路で出雲国が力をつけます。
日向国に住み着いた邪馬台国一族は、力をつけることが出来ません。出雲国との連合が必須でした。
筑紫一族に近い九州日向の地を離れて、近畿へ移住を決行します。
出雲国からは大物主神を迎え入れて、近畿で新しい国造りを始めます。
九州を筑紫朝廷に奪われて、出雲国の協力を得てヤマト朝廷(国譲り)
近畿で国造りを始めた神武天皇と戦略結婚をして勢力をつける。
最後に、邪馬台国を裏切った宿敵 筑紫朝廷を討伐する。
日本神話は、九州を追われた邪馬台国復興の歴史書にも見て取れます。
そして、出雲とヤマト朝廷は切っても切れないほど深い関係だったのです。
スサノオをアマテラスの兄弟として神話に実話を書き加えたのです。
生まれ方も、左目、右目の次についでにみたいに、二つ穴がある鼻から(どちらの穴?)生まれています。
もし、
聖徳太子が編集した「天皇記」や「国記」が残っていたら、神話ではなく実話が記載されていたかもしれません。
スサノオの本当の名前もあったでしょう。
ひょっとしたら、卑弥呼の本当の名前が記載されていた可能性もあります。

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漢委奴国王の時代からヤマト朝廷に至るまでの国々

2017-01-22 13:14:00 | 歴史
なんとも、良いタイトルが思いつかない。
とにかく、漢委奴国王 の時代からヤマト朝廷に至るまでの国々について
以下勝手に、邪馬台国連合、出雲朝廷、筑紫朝廷、ヤマト朝廷と云う言葉を使わせていただきます。
紀元前57年に「漢委奴国王」の金印が奴国王贈られていて、100国があったとされています。
国と呼んでも、小さな村々で、倭国は九州北部の地域の事です。
3世紀になり、「親魏倭王」の金印が卑弥呼に贈られます。
魏志倭人伝を参考にすると
九州北部が30国まとまり、邪馬台国連合という事でしょう。
南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。 女王に属していない。
九州南部は狗奴国である。
・女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭 種である。
日本海を東へ進んだのであれば、出雲国で
瀬戸内海を東へ進んだのであれば、ヤマト朝廷です。
・侏儒(こびと)の国が、その南に(存)在する。・・・女王(国)を去ること四千余里である。
出雲、或いは近畿までの距離の4倍ほど南に小柄な民族が住む国、倭種ではない。
?裸国・黒歯国があり、 またその東南に在る。船行一年でいたることが可(能)であろう。
行けるかどうかもわからないほど遠く(南東方向)に国がある。
この辺りは倭国からの情報ではなく、魏の敵国 呉が交易していた国々事で
沖縄からフィリピン辺りの事でしょう。

ここから古事記・日本書紀の神話の部分です。
国産みで、九州は筑紫島で四つ顔(国)があります。
筑紫国、豊国、日向国、熊曽国です。
卑弥呼の死後、九州北部は筑紫朝廷になり、天孫降臨でニニギが日向国に移り住みます。
九州北部がひとつにまとまり、九州全体で四つの国になっています。
四国も四つの国がありますが、本州では、まだ国の名前は出ていません。

アマテラスの弟スサノオが隠岐の島に降りて、その子孫、大国主神が出雲の国を作りません。
アマテラスは、自分の子供に出雲国を譲る様に迫り、無血開城で出雲国がアマテラスの子孫の支配下になります。
筑紫朝廷と出雲朝廷の2大朝廷の連合国が出来ます。

ニニギの子孫である初代天皇神武天皇が日向の国を離れて、近畿(奈良)に住み着き国造りが始まります(神武東征)。
ここで出来たのがヤマト朝廷(なぜか邪馬台と呼び名が似ています)
ここで神話が終わり、後は歴代天皇の話に変わります。近畿を中心に権力の奪い合いの歴史です。
神武天皇には、日向にアヒラ姫がいましたが、新たに、スサノオの血統である大物主神の子、イスケヨリ姫と
結婚します
。今で言えば戦略結婚ですが、出雲朝廷とヤマト朝廷の連合体制が出来ます。
筑紫朝廷から見ると出雲朝廷の裏切りに見えたでしょう。

後に出てくるのが
倭タケル九州征伐、関東征伐と神功皇后の三韓征伐が神話同様にとてつもなく大掛かりに登場します。
筑紫碧の乱でも、ヤマト朝廷と敵対する筑紫一族が登場します。

卑弥呼の死後、古墳時代の出来事です。ざ~とまとめると
・卑弥呼死後、九州北部は筑紫一族の国となる。
・邪馬台国一族は、日向国(宮崎)移住、新女王台与は、豊国(大分)に住み着く
・狗奴国は、熊曽国 となり九州が4つ国に分かれる。
・邪馬台国(後の日向国)は、出雲国の和睦同盟に成功する。
・日向国が近畿へ移住、ヤマト朝廷造りが始まる。
・出雲朝廷とヤマト朝廷で戦略結婚が成立、近畿から中国を統治する連合国が出来る。
・ヤマト朝廷連合国が筑紫碧を討伐、近畿から九州に至る西日本を統治する。

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三貴神の一人 ツキヨミ(月読)

2017-01-22 10:57:53 | 歴史
イザナミの死後、イザナギが産んだ三貴神
アマテラス(長女)、ツキヨミ(長男)、スサノオ(次男)の三人
最初に、スサノオが地上界におりて、国造りをします。(出雲の国)
スサノオの家系図もあります。
アマテラスの子孫であるニニギも遅れて地上界に降りて(天孫降臨)国造りします。(日向の国)
それに対して、ツキヨミは、父イザナギの命令で 根の国(死者の国)へ行って以来、登場しません。
めちゃくちゃ地味で、その後のどうしたのか?ツキヨミの子孫はいるのか?
そもそも、日本神話にツキヨミを登場させる意味があったのでしょうか。

古代より、昼間は明るく太陽が照らしてくれて、人も動物も活動します。
夜は暗く、月が出ますが、満月であったり三日月であったり、人は家の中に入り、ひっそりと過ごします。
太陽信仰と月信仰はあったはずです。その二つは同時にはありませんので
アマテラスとツキヨミの二人の神を作り、それぞれ違う国に送り出したのでしょう。
夜は暗いので不気味で不安です。安全ではありません。
死者を土に埋める事から地底界が死者の国で暗い世界、つまり夜の国だったのです。
イザナミは、火の神を産んだ時にやけどで亡くなります。(神様は死なないと思うのですが?)
イザナギが死んだ妻に会う為に根の国に行くと、イザナミは肉の塊のような恐ろしい姿になっています。
イザナギが逃げる時に、根の国の出口を大きな岩でふさいで、死者が出てこれないようにします。
根の国(黄泉の国)は、地底界で、暗くて、恐ろしい、醜い死者が住む世界である事は間違いない様です。
その根の国に行って統治しなさいと云うのですが、あまり良い役目でもありません。
ツキヨミは生きたまま根の国へ行って何をしたのでしょうか。
日本神話では、その後登場しなくなります。
ツキヨミの仕事と云えば、死者が出ていかないように出口の岩を守ることぐらいだと思います。
つまり、悪霊が、地上へ戻らないように守ってくれている立派な神様なのです。

天皇家の祖先であるアマテラスと兄弟喧嘩ばかりするスサノオを取り入れた理由の方が不思議ですね。
天皇家の歴史を語る古事記・日本書紀であれば、スサノオの記事を全て削除した方が立派に見えます。
スサノオの方が、後に追記された神であるような気がします。
古事記・日本書紀が作成された奈良時代、平安時代には、出雲の国が無視できないほど大きな影響があったでしょう。
しかし、ヤマト朝廷としては、迎え入れられない何かがあったなずです。
このお話は後ほど致します。
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