古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

各地の遺跡を歴史ごとに(弥生時代末期、終末期)

2017-05-28 17:19:02 | 歴史
各地の遺跡を歴史ごとに(弥生時代中期)の続きです。
魏志倭人伝に紹介される倭国大乱から邪馬台国の時代、卑弥呼の死までです。その後を古墳時代と呼びます。
倭国大乱は、著者陳寿が後漢書の記載を参考にしたと思われますが
大国奴国の支配に周囲の国々(多分、伊都国)との争いではないかと思います。
原因はやはり、鉄器などの武器の普及ではないでしょうか。
奴国の丘 須玖岡本遺跡(福岡県春日市) には、その歴史が見て取れます。
更に気になるのが王の墓、大きな石で甕棺へ蓋をしています。遺体と共に埋葬されているのが
剣、鏡、玉 の後の天皇家の三種の神器と同じです。
吉武高木遺跡(福岡市)の様に、伊都国 或いは 奴国に滅ぼされた国もあります。
ここでも、既に剣、鏡、玉が埋葬されています。
鏡は大陸から伝わった三角縁神獣鏡ではなく、裏面に紐を通す穴が開いた突起のある朝鮮半島の物の様です。
さらに、鏡だけが割られた状態で埋葬されるケースも多い事が不思議です。
縄文時代からあった勾玉を埋葬し、朝鮮半島から伝わった鏡を割って埋葬する事がご先祖様信仰に意味がったかもしれません。

邪馬台国、卑弥呼は、魏の国へ朝貢していますし、親魏倭王の金印を贈られて事も記録になったでしょうから事実でしょう。
当時の国を復元しているのが
九州では、平原遺跡 と 吉野ケ里遺跡です。
ここでも吉野ケ里の環濠の入り口にある鳥居があります。神社の始まりの基でしょう。

時代は、卑弥呼の死をもって弥生時代が終わり、古墳時代に突入します。
それだけ卑弥呼は大きな影響力があり、卑弥呼の死で何かが解放されたのでしょう。
既に、出雲や近畿など力のある豪族は古墳を作っています。

第305回 「平塚川添遺跡と邪馬台国」の最後の方に
弥生時代の遺跡の推定分布の地図と邪馬台国時代の遺物の出土状況があります。
伊都国、奴国、不弥国の博多湾の国よりも佐賀の有明海から久留米までの地域に大きな国があります。
これが邪馬台国でしょう。
それ以外にも、北九州から直方までと周防灘側に国がありました。
有明海でも南側(熊本)に大きな国があります。これが卑弥呼のライバル 狗奴国ではないでしょうか。
国と国の境目は背振山の様な大きな山脈に変わります。
例外ですが、有明海の邪馬台国と熊本の狗奴国は山が無く川で国境です。争いが起きやすかった地形でもあります。
北九州市小倉区の城野遺跡も同じ時代でしょう。

卑弥呼が夢見た九州を統一して倭国にする夢は邪馬台国との対立で夢破れます。
古墳時代は、逆に豪族の独立で多国の存在を認める形で時代が流れます。
魏志倭人伝にも卑弥呼の死後、大きな墓を作った事が書かれています。
もし、この墓が前方後円墳の古墳であれば邪馬台国も一豪族国家として古墳時代の流れに沿っていった事になります。
卑弥呼の墓は、卑弥呼の意思ではなく、このされた国の都合だったかもしれませんね。
古墳時代は、九州の銅矛文化圏と中国、近畿の銅鐸文化圏に分けられるようです。
しかし、銅鐸は、吉野ケ里や博多湾の奴国エリアでも発見されています。
古墳の矛を埋葬する九州は争い事が多かったのでしょうか、銅鐸文化圏は、工業国として成長したのかもしれません。
歴史の主導権は、九州から近畿へ移ります。
時は流れて、大和朝廷、聖徳太子の時代には、仏教が伝わり、新仏集合の時代、平安時代には逆に、新仏分離で神社が出来で
古事記・日本書紀が作られます。
数百年の年月が過ぎた時代に、弥生時代の鏡・勾玉・剣が天皇家の三種の神器になり、鳥居が入り口で、内部に祈祷を行う神殿で巫女が
神技を行うのです。
日本で天皇家主導の元、ルネサンス(文芸復興)が起きたのです。
日本神話の神武東征の話など、弥生時代の九州と平安時代の天皇家はやはり関係があるのですね。

各地の遺跡を歴史ごとに(弥生時代中期)

2017-05-28 14:57:01 | 歴史
弥生時代中期も私の勝手ですが、倭国が大陸と交易を行うようになり漢委奴国王の金印が贈られるようになるまで
紀元前の2世紀ごろから西暦57年という事にします。
博多湾の村々は一つにまとまり奴国になります。当時最大の国の完成です。
一方では、菜畑遺跡 と 板付遺跡の様に、人が住まなくなり滅んでしまった村もありました。
朝鮮半島経由で伝わった文化に 支石墓 があります。
佐賀県背振山の支石墓西新町遺跡の支石墓から明日香村の石舞台古墳 (巨大古墳)など意外と早く全国へ広がります。
1世紀頃には、九州北部の玄界灘湾岸は、魏志倭人伝に紹介される、末盧国、伊都国、奴国、不弥国の4国にまとまり、最大の国は奴国です。
大陸の文化は、絹などの織物、青銅、鉄を使った農工具、高床式の建物や倉が作られていきます。
建物には、祭事や祈祷を行う建物が出現しています。
お墓も山奥の支石墓から墳丘を使った甕棺墓になり、吉野ケ里の様に王家の墳丘と他の人の集合甕棺墓と身近にお墓が出来ます。
祈祷は、ご先祖様の意思を聞く事が出来る巫女が行ったのでしょう。
八百万の神々を信仰する自然崇拝の古代神道から徐々にご先祖を崇拝するご先祖様への信仰に神道が変化した時代であったと思います。
小さな村が滅びて、力をつける国が出来るのですから、吉野ケ里の様な環濠集落もこの時代に発展します。
環濠内部では、王家一族の他役人や祈祷師、織物や鋳造などを行う先端技術者が生活し、周囲では、護衛や農耕に従事する人たち身分格差がはっきりしてきます。
支配者層が国をまとめるための数々の決まり事を作ったはずです。
魏志倭人伝には
下戸が、大人(身分の高い人)と道路にあい逢えば、逡巡(ためら)いながら 草(叢)に入る。
辞をつたえ、ことを説くには、あるいは蹲(うずくま)りあるい は跪(ひざまず)き、両手は地に拠せる(平伏する)。
と紹介されています。

博多湾の村々を一つにまとめた奴国は、確かに 倭国の代表として大陸からみとめられますが、
大陸が知りえたのは、玄界灘湾の地域でした。
有明海側、山陰地方、山陽地方や近畿でも大きな国がありましたが、大陸への交易の窓口が伊都国だったので、その情報は伝わらなかったのでしょう。
明らかに、弥生時代初期の村々とは異なる時代と云えるでしょう。

各地の遺跡を歴史ごとに(弥生時代前期)

2017-05-28 13:07:06 | 歴史
YouTubeで古代史日和(うららさん)の投稿に気が付きました。(私が気づくのが遅かったかもしれません)
勝手ですが、参考にさせていただきます。(うららさん ごめんなさい、お許しください)
・弥生時代は、大陸から稲作など大陸の文化が伝わった時代が始まりです。
・稲作は、河川がある平地に小さな村々単位で行われていました。
・大陸の文化は、九州に伝わり時間をかけて東へ広がっていきます。
弥生時代も、前期・中期・後期 に分けられていましたが、今では、早期 と 終末期が加えられているようです。
その区分も諸説あるようですが、勝手ながら、小さな村々が稲作で生計を行っていた時代を前期位と考えてみます。
当時の遺跡を再現したのが
菜畑遺跡 と 板付遺跡です、日本最古の水田跡とされています。
共通点は、河川沿いに水田を広げて、高台に居住の地域を作っています。
水田を広げるために河川の近くの土地を広げて、その土を盛土にし、居住地域を作ったのではないでしょうか。

大陸から稲作の伝来ルート
1、華北から朝鮮半島を経由して北九州へ(北回りルート)
2、華北から山東半島を経て、黄海を渡り、抽選半島の南西海岸に伝搬し北九州へ(徐福ルート)
3、華南の揚子江流域から東シナ海を渡って、直接、朝鮮半島南部と北九州へ
4、華南から台湾、南西諸島を経て、南九州へ(南回りルート)
があり、2、3が有望視されているとの事です。
私も歴史的にみると
1は、3世紀に大陸が帯方群、楽浪郡を朝鮮半島に設置して支配した時代で、稲作の他にも鉄器など伝わった時代。
2が、紀元前5世紀位、徐福など渡航したルート、徐福に時代に「東に仙人が住む島がある」と伝わっている事から既に倭国の存在が伝わっていた。
3、4は、更に長い航路で帰ってくることは無理だったでしょう。しかし、三国時代など大陸が乱れた時代であれば、一族が国を捨てて大海原に出港した可能性はあります。
弥生時代の初期の主なルートは 2 ではないでしょうか。

九州北部の有名な遺跡では、平原遺跡 と 吉野ケ里遺跡があります。
遺跡(歴史公園)は、繁栄期の弥生時代後期、終焉時を復元しています。 
この二つの遺跡も歴史は長いので始まりの次期は、菜畑遺跡、板付遺跡と似たいた時代もあったはずです。

菜畑遺跡は16の地層からなり、縄文前期から弥生中期に亘る複合遺跡の様です。
かなり古くから縄文人が生活していて、後に弥生人が住むようになっています。
16層の地層は、火山の活用ではなく、洪水などで大量の土砂が河川を埋めてしまい、その上に新たな川が出来たのでしょう。
その上から8層目の時に、弥生人が住み着き、新しい文化を持つ村が出来たようです。

魏志倭人伝には、倭国大乱の前には、100余国があったと書かれていますが、この規模の村々が九州北部に多数あったでしょう。
特に奴国があった博多湾は沢山の河川があります。川を村の境目としてかなりの数の村が存在していたと思います。
せっかく作った河川沿いの水田も幾度と洪水にあり、埋められて、人々は更にその上に或いは別の土地に水田を作りを繰り返す中
幾つか村同士が合併したり、争って滅亡したりしながら国へ発展したはずです。


魏志倭人伝の真実と間違い(難升米の大嘘)

2017-05-14 17:34:51 | 歴史
魏志倭人伝の真実と間違い(戸数)の続きです。
魏志倭人伝の記述には、難升米からの情報が沢山あります。
特に、卑弥呼、邪馬台国については、難升米情報が全てです。
難升米は、武皇帝に認められるために沢山の嘘の情報を伝えます。
以下が倭国の実態と難升米の嘘と倭人伝の記述です。

1、倭国の国々が卑弥呼を女王とたてた。
  諸国のもめ事を祈祷師 卑弥呼に委ねる事で争いが少なくなった。(女王と認めたわけではない)
  倭国の国々が卑弥呼を女王として立てた と伝えたのは、難升米です。
  難升米は、238年の卑弥呼の朝貢の時はまだ若いです。(多分、10代、20代)倭国大乱の時代を知りません。
  つまり、真実は知りえません。
2、邪馬台国は存在していなかった。
  女王国の国名は 台国(トコク)或いは 臺国(イコク)でした。
  ※奴国と同じ発音も一音で、古くからある国です。
3、難升米は、女王の国 台国(トコク) を 天空にある台国(トコク) と紹介
  天(アマ)の台国(トコク)がヤマタイ(邪馬台)国と記述された。
4、女王国までの道程
  自らが帯方群までたどり着くまで、水行十日陸行一月 と伝えた。
  魏志倭人伝には、既に知っていた奴国まで道程の後に、そのまま書き加えた。
5、女王国の規模 七万戸
  奴国が二万戸なので、七万戸と大嘘をこく。そのまま倭人伝に記述される。
6、大陸がまだ知らない21の国名を伝えた。難升米は、一生懸命に暗記したはずです。
  但し、この時は狗奴国の存在は伝えていません。
  結果、難升米は大陸から知識人としての信頼を得る。(難升米は多少の漢字も書けた、読めた
7、倭国を周旋すると五千里も難升米情報です。難升米が国々を回るのに月の満ち欠けが二回ほどあったのでしょうか。
  五千里は、50日ほどかかるという事です。
  朝鮮半島の三韓より大きいと実感させたはずです。

これらの結果、卑弥呼は、倭国最大の国 邪馬台国の女王となり、「親魏倭王」の金印を贈られます。
難升米・(都市)牛利にも銀印が贈られます
この「親魏倭王」の金印が邪馬台国の女王卑弥呼を倭国の代表にしてくれます。
一方、納得しなかったのが狗奴国の男王 卑弥弓呼 
狗奴国 VS 邪馬台国 の関係は、親魏倭王の金印が引き金です。
結果は卑弥呼の死亡で狗奴国の勝利ですが、その後、狗奴国が九州北部へ支配を広げる事はありませんでした。
よほど、卑弥呼が気に入らなかったのでしょう。卑弥呼がいなくなればそれで良かったのでしょう。

卑弥呼の死後、伝わった情報に 台与の記事があります。
台与は女王の名前では無く、台(臺)国と邪馬台国の元の名前です。
邪馬台国は存在せずに、台国が大分(後の豊国トヨコク)にありました。
卑弥呼の祈祷の宮殿も豊国(但し、福岡側)ではないでしょうか。
卑弥呼も台与も固有名詞の様に伝わりますが、実際は
卑弥呼 = 姫 巫女
台与  = 台国の女 の様に、その役名でした。
※倭国には、人に名前を付けると習慣がありませんでしたので、その部分が大陸にうまく伝わらなかったのでしょう。

陳寿は、当時の知りうる情報を元に魏志倭人伝を書き上げました。
残念ながら、難升米が伝えた嘘や裏事情を察する事が出来なかったのです。

魏志倭人伝の真実と間違い(戸数)

2017-05-14 13:34:55 | 歴史
魏志倭人伝の真実と間違い(卑弥呼の年齢)に続いて
魏志倭人伝に記述されている国々の戸数についてです。
対馬国 千余戸           方(域)は、四百余里
一支国 三千(戸)ばかりの家    方(域)は、三百里ばかりである
末盧国 四千余戸
伊都国 千余戸(そこは帯方の郡使が往来する時、常にに留まる所である。)
奴国  二万余戸
不弥国 千余戸
投馬国 五万余戸(距離表示が水行二十日と日数表示)
邪馬台国七万戸 (距離表示が水行10日陸行1月と日数、月数表示)
国名のみ、場所、戸数の表記がない国が21国

・伊都国までが、帯方の役人が行き来できる範囲ですので、戸数も実際に近い。
・単位が千余戸 意外とおおざっぱ、実際に数えたわけではない。
・一支国 三千余戸、末盧国 四千余戸 他は、千余戸
・対馬国 周囲四百余里、一支国 周囲三百里 と実際と地図と大きく異なる。
謎解き
・千戸 は、そこそこ大きなムラ、或いは 港 の事
・対馬国には、港街が一つ、毎回同じ港に宿泊、島を探索することなく出向していた。
・一支国には、港街が三つあった。(大きな町が三か所あった)
・末盧国には、港街が四つあった。交易の荷物を降す、積む、伊都国まで陸路で輸送の期間に船を留めておく必要があった。
・伊都国では、帯方の役人が泊まる街は常に同じ場所であった。
戸数は実際の建物の数ではなく、そこそこ大きな町の数でしかなかった。
つまり、町がひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ・・・の数え方

・奴国、不弥国は交易の商人からの情報
奴国は、漢委奴国王の金印を与えられた国、博多湾の広い平野と周囲に複数に島々がある。
他の国とは比較にならないほど大きな国であった事は事実ですが、実際の建物の数を数えたわけではない。
博多湾に注ぐ河川ごとに平地に十個ほど大きな町があり、博多湾内外に十個ほどの島々があり、奴国の領土であった。
湾の反対側に、伊都国と同じ規模の不弥国がある。


投馬国 五万余戸(距離表示が水行二十日と日数表示)
邪馬台国七万戸 (距離表示が水行10日陸行1月と日数、月数表示)
交易の情報ではない。
邪馬台国は、180年に卑弥呼が女王になった時代、他の21国と同じレベルの国
238年に、卑弥呼が魏へ貢物を贈り、親魏倭王の金印を贈られて事で大陸が知るところとなる。
情報は、難升米など倭の役人や生口が伝えたものである。
難升米は、邪馬台国の建物の数を聞かれるが、当時に最大国 奴国を みっつ、よっつ合わせた国と同じと大嘘をこいた。
実際は、吉野ケ里ほどの国で祈祷を行っていたのが卑弥呼である。

邪馬台国七万戸 (距離表示が水行10日陸行1月と日数、月数表示)
国名のみ、場所、戸数の表記がない国が21国
の情報も難升米が伝えた。
「水行10日陸行1月」は、難升米が女王国を出発して周囲の国々を回り、帯方群にたどり着くまでの日数です。あえて、伊都国を避けて、女王国=>有明海側=>武雄=>末盧国より水行10日
陸行一月は、かなり遠回りをしています。

投馬国 五万余戸(距離表示が水行二十日と日数表示)の情報は、更に後の事で
朝鮮半島経由、沖ノ島から山陰出雲の航路が発見されます。
280年前(陳寿の時代)の事が新たに書き加えられています。

魏志倭人伝の真実と間違い(卑弥呼の年齢)

2017-05-13 18:58:23 | 歴史
やはり、魏志倭人伝の間違い?
についてです。
西暦100年位から180年程まで続いた倭国大乱
ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼(女王)という。
卑弥呼ファンには、残念なお知らせになりますが
鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。
です。当時の寿命が30歳ぐらい
独身で妊娠・出産の経験のない卑弥呼 かなり老けて見えるのですから
既に4~50歳ではないでしょうか。
卑弥呼の死が247年(或いは248年)ですから、政権トップに70年ほど在籍
40歳で女王なら110歳になります。
絶対にありえない年齢です。
※仮に、倭国大乱の終了が190年、女王になったのが30歳でも90歳、あり得ません。
手がかりは
・名づけて卑弥呼(女王)という。
つまり卑弥呼は、その女性の名前ではなく、祈祷を行う女王の位に付けた名前です。
・(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。
の記述もあります。実は宮殿内で卑弥呼(女王)は世代交代しています。

では、247年の卑弥呼の死とは?
・実際に、当時の卑弥呼が亡くなり、次の卑弥呼への世代交代を許さなかった。
・狗奴国対応がうまく進まないため、邪馬台国内部で卑弥呼暗殺がおこった。
・狗奴国の攻撃で卑弥呼が殺されて、邪馬台国連合が男王を立てた。
のいずれかでしょう。
しかし、その男王の元でも狗奴国との争いは収まらず、新たに女王 台与[臺與]となるもの年十三をたてて王とした。
年齢13歳と記述してあるので、台与は、女王の呼称ではなく固有名詞(女性の名前)であるかの様に記載されています。
卑弥呼の国が邪馬台(臺)国、次の女王が、台与[臺與]ですので、国の名前の可能性もあります。
仮に、邪馬台(臺)国の邪馬(連合)の意味で、台(臺)国があったとすれば、台(臺)与は単独国の女王?
元々、玄界灘側に 奴国、有明海側に台(臺)国(トコク、或いはイコク)があった。
台(臺)国は周囲の国々との連合国となり邪馬台国と名乗る。
卑弥呼の死後、連合は解体される。
後に、大分側に、再び台(臺)国が出来る。女王を台(臺)与 と呼ぶ。
古事記では、大分に豊国(トヨコク)名前が付けられます。
九州は、北部の筑紫国、台与の豊国、宮崎付近の肥国、阿蘇より南の熊曽国 の四つに分かれて住み分けが出来た。
国の境には、阿蘇、高千穂など山々があり争い事を避けることが出来た。


後に晋の時代(266年)に、台与が朝貢した記事があるので、陳寿の時代(280年~)位まで生きていた可能性があります。
249年で13歳なら266年は30歳ですので、あり得ます。

その後は、大陸も内乱で乱れてしまい、朝鮮半島も高句麗の進出で、倭国側も交易が出来なくなり、歴史が瀬戸内海中心の東方への進出の時代となります。
大陸の歴史書から倭国の記載が無くなります。
次に歴史の登場するのが600年の遣隋使、遣唐使の時代になります。
後に日本で作られた古事記・日本書紀の527年 筑紫磐井の乱などが信用性あります。
この200年代後半から500年までの300年ぐらいの間に、倭国がヤマトトなり近畿を含む西日本一帯に広がっています。

魏志倭人伝の間違い? 卑弥呼を一人として記述した事
倭国大乱の跡に女王となった卑弥呼と親魏倭王の金印を贈られた卑弥呼は別の人物です。

魏志倭人伝の真実と間違い(倭国の国々)

2017-05-13 15:45:43 | 歴史
魏志倭人伝に記述されている内容に嘘が?
常に矛盾と挙げられている「南(行)して・・・女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。」
この記述が奴国(投馬国)の跡に記述されてい為
奴国より更に南へ水行十日、陸行一月と訳してしまうので邪馬台国は沖縄に(?)なってしまいます。
南へ水行は、東の間違いと受け取りますが、本当に間違いでしょうか。

答えは、出発地 帯方郡から女王国は 南へ水行十日、陸行一月 と解釈すると全てがつながります。
行程の説明より
帯方郡から対馬・一支国・末盧国まで 水行1万里余
末盧国から伊都国・奴国・不弥国まで 陸行700里
帯方郡から女王国(邪馬台国)まで12000里余
帯方郡から女王国(邪馬台国)まで  南へ水行十日、陸行一月
帯方郡から投馬国      まで  南へ水行十二十日
奴国などの他に21国
倭国を周旋すると五千余里ばかりである。
その南に、狗奴国(男王 卑弥弓呼の国)がある。
ここで気が付くのが、水行が1000里単位(1500里も600里もありません)
陸行が100里単位です。
これを水行1日=1000里、陸行1日=100里 と仮定します。
帯方郡から対馬・一支国・末盧国まで 水行1万里余=水行10日
末盧国から伊都国・奴国・不弥国まで 陸行700里=陸行 7日 です。
陸行一月 は 28日 と仮定
女王国(邪馬台国)は奴国から、
残り陸行1300里=13日 或いは 陸行21日 で誤差 8日が出ます。
もし
・奴国などの他に21国         の全ての国を回っていたら21日
・倭国を周旋すると五千余里ばかりである。半周で2500里(約25日)
・末盧国から陸行で女王国に至る、幾つかの国を回って遠回りした。
 ※松浦半島(末盧国)=>伊万里湾=>武雄=>有明海=>鳥栖、久留米(或いは熊本・阿蘇方面)=>???
陸行28日(2800里)かかると解釈すれば如何でしょうか。
帯方郡から奴国まで 17日(末盧国から7日)
帯方郡から女王国まで38日(末盧国から28日)
帯方郡から投馬国まで20日(末盧国から10日)かかります。

大陸と交易するにも女王国は不利、南に狗奴国との対立がありますので、やはり不利な地域です。
邪馬台国は、敵国 狗奴国に対抗するためにも 奴国連合と一緒になる必要があった。
奴国側も狗奴国を防波堤として邪馬台国を利用できると考えたので、女王 卑弥呼を擁立したのです。

投馬国の南へ水行20日も 末盧国まで、南へ水行10日+更に水行で10日の位置です。
※山陰であれば出雲、山陽であれば吉備辺り?
 投馬(ずま)国 の発音が出雲(いずも)と思います。

魏志倭人伝の内容が 
・漢の時代の情報(倭国大乱など180年以前の記事)
・魏の時代の情報(卑弥呼の貢物、死など)
・著者 陳寿の時代(280年~) 奴国までの距離の表記
魏の時代まで、奴国などの距離も日数表示だったが、陳寿の時代には、距離表示が出来る様になっていた。
しかし、その時代には女王国は既に亡くなっていて、日数表記のままになった。
と考えてみては如何でしょうか。
この倭国の国々(邪馬台国を含め)の位置表示は真実だと思います。

弥生時代(九州限定版) 卑弥呼の発展と終焉

2017-05-04 16:50:06 | 歴史
弥生時代(九州限定版) 倭国大乱と卑弥呼の台頭に続きます。
まずは、180年頃に女王になった邪馬台国の発展です。
諸国から卑弥呼に祈祷をお願いするために贈り物があつまります。
中でも国同士(或いは一族の中のもめ事)では、自分に有利な祈祷を願う為、いわゆる賄賂が集まります。
宮殿には、財宝が蓄えられますので、周囲の兵士も増えていき規模も大きくなります。
その様な時代の中、漢が滅び、大陸は三国時代に突入
倭国にもっとも近い魏の国が大陸をまとめます。
卑弥呼は、魏国へ朝貢、「親魏倭王」の金印他、銅鏡100枚など沢山の贈り物を得ます。
西暦238年の出来事です。
卑弥呼が女王になって60年近く経過しています。当時の寿命を考えて、卑弥呼は一人ではありません
既に4~5代目の卑弥呼だったでしょう。
宮殿内部で秘密裏に世代交代をしています。
卑弥呼は、時の流れと共に権力を付けて、実質的にも倭国の女王となります。

しかし、そんな卑弥呼に試練が訪れます。
邪馬台国の南の国、狗奴国の反乱です。
九州北部へ有利な政治を行う卑弥呼、ないがしろにされた南の国(狗奴国)の男王 卑弥弓呼 との戦争が始まるのです。
大陸との交易が栄えても何の利益もある事がない狗奴国、親魏倭王の金印も卑弥弓呼には効力がありません。
その様な中、卑弥呼は、魏から贈られた鏡を使って、人前で祈祷を行うようになります。
247年に贈られた黄幢(黄色いはた)をもって戦場に出ていきます。
仙人 卑弥呼の神秘性が失われます。
最後の卑弥呼が、卑弥弓呼との争いで死んでしまうのか、倭国からの使者に殺されたのか、老衰で亡くなったのかは不明です。
祈祷師 卑弥呼が不要となりました。卑弥呼が亡くなった事が公になります。
247年(或いは248年)とされています。
この卑弥呼の死を境(3世紀の中頃)に色々な事が起きます。
・吉野ケ里など環濠集落が国を捨てて人がいなくなります。
・各地で豪族が古墳を作ります。(この時代を境に、弥生時代か終わり、古墳時代に分けられています。)
・出雲国が新羅を支配、交易勢力に加わります。
・倭国は男王を立てますが、まとまりませんでした。
・朝鮮半島の支配が弱くなります。
 (※卑弥呼から七枝刀(369年) と 広開土王碑(404年)にある様に4世紀後半には朝鮮半島の支配が無くなっています。)
大陸でも265年に魏が滅び、晋になります。倭国も大陸と交易ができなくなりますので
大陸の歴史書から姿を消します。

祈祷政治が終焉を迎えますが、その後も争い事が続いたり、天災等の災い起きたのではないでしょうか。
或いは、些細な災いも卑弥呼の祟りと言い出す人がいたのかもしれません。
倭国は、卑弥呼の墓を作る事を許可し、100人の殉職者を捧げます。
卑弥呼に仕えていた一族は、卑弥呼の墓の近くに住み着き、墓守として新しく国を作ったでしょう。
一方で、大分の離れた場所に、台与 を女王として祈祷の宮殿を造りました。
残念ながら、両国とも九州北部の支配するには至りませんでした。
伊都国、奴国も滅びて、筑紫国が出来たのもこの時代でしょう。
倭国の歴史は、朝鮮半島支配を失い大陸交易型から、瀬戸内海の山陽地方を通じて東へ向けられたようです。
旧邪馬台国一族は、九州を離れて(神武東征)近畿の奈良にヤマト朝廷を作り上げていきます。
卑弥呼が亡くなってから100年程の年月を要しています。
ヤマト国は、邪馬台国の移住が行われてたと考えています。

弥生時代(九州限定版) 倭国大乱と卑弥呼の台頭

2017-05-04 14:02:00 | 歴史
弥生時代(九州限定版) 二つの国造りの続きです。

西暦57年に「漢委奴国王」の金印を受け取った奴国王は権力の座につきますが、それから数十年後
たぶん、国王では3~4代目交代後です。倭国大乱の時代となります。
倭国大乱は西暦100年から180年ほど長い年月とされています。
原因は定かではありません。
奴国の王が力をつけて、伊都国など周囲の国々へ攻め込んだ
或いは、能無し国王が王座につき、奴国内で内乱がおこり、周囲の伊都国などから攻め込まれた。
いづれかでしょうが、倭国大乱は玄界灘湾岸の国が中心でした。
武力で勝つためには大陸から青銅矛など武器を入手する事が必要です。
奴国軍は、久留米、大分方向へ支配を勧め、生口(奴隷)や穀物を入手して、玄界灘航路で壱岐対馬へ行き交易します。
伊都国軍は、朝鮮半島へ軍力を広げ狗邪韓国を支配し青銅を入手します。
どの国の王が倭国の王なのか、決まらないまま80年ほど過ぎるわけです。
諸国でも王家は10人ぐらいは交代したでしょう。
争いで疲弊していったことは間違いありません。

一方、有明海側(佐賀、熊本 或いは 大分側)では、国王と住み家を分けて起動宮殿の一族が栄えます。
当然、玄界灘側の大乱の事実はしっていますので、祈祷氏一族が話し合いをして連合を進めていきます。
祈祷連合国(仮に 邪馬台国連合)は、疲弊していく玄界灘側の国々へ仲裁を申し出ます。
「祈祷師 卑弥呼に任せよう」卑弥呼は国王ではありません。
倭国の王族が受け入れたのです。
こうして、女王 卑弥呼が西暦180年頃に誕生します。
奴国、伊都国などと吉野ケ里など有明海側の国々が人力を出し合って
新しく 卑弥呼の宮殿を作りました
これが邪馬台国の都で卑弥呼の宮殿です。
卑弥呼は、諸国にあった祈祷一族をまとめる長老です。それなり高齢だったでしょう。
卑弥呼の下には1000人の若い女性が集められます。
卑弥呼の宮殿は、年ごとに大きくなります。
吉野ケ里の北内郭 ~まつりごとの場所~に似ていますが
規模は、一回り大きいでしょうか。
大きく異なるのが環濠内で暮らすのが女性のみ、周囲を警備する兵士がいます。
卑弥呼は、人前に出ることなく、環濠内の生活も秘密のベールに中です。
永遠の命をもつ仙人 卑弥呼が徐々に出来上がっていきます。

弥生時代(九州限定版) 二つの国造り

2017-05-04 12:07:08 | 歴史
先の投稿 弥生時代(九州限定版) 弥生時代の始まり の続きです。
時代は、紀元前2世紀位から、「漢委奴国王」の金印が贈られる西暦57年の九州を考えてみます。
当時の生活をうかがう手掛かりは、吉野ケ里遺跡になります。
・二つの環濠が出来ます。
 南内郭 ~王や支配者層が住んでいた場所~
 北内郭 ~まつりごとの場所~
王家や高貴な人が住む村と祈祷を行う村は分かれて作られたようです。
図をみると、祭りごとを行う北内郭の方が建物も大きく、防衛もしっかりしているようです。
入り口が一つで、かぎ型をしていて、外側から中が覗けない構造です。
祈祷の為の祭具を作る織物工場などもあったようです。
環濠内部で生活する人が最初から吉野ケ里に住み着いた一族です、
吉野ケ里は近くに河川があり農耕にも適していたため、周囲の村々から人々が集まってきたんでしょう。
環濠集落は、後に移住した一族と元から住んでいた一族の境界線でもあります。
周囲に住み着いた一族は、王家の一族に農耕などで得た食べ物など収めます。
権力が発生しています。何故、環濠外の人は、王家に従うのか。
もちろん、武力の面で違いがあったでしょう。
その他に、王家には周囲の土地の権限を持っています。より良い地域に住みたいと他にも移住してくる一族がいます。
せっかく住み着いた土地を他の一族に譲りたくはありません。
王家にすり寄るためにも、作物を贈ったいのでしょう。
もうひとつが、水害、干害など天災と一族間での争いがあります。
その際に、力を発揮したのが祈祷師です。干害で作物の出来が悪かった。祈祷をお願いする。
貢物を贈る、と云う流れです。
こうして、北内郭の祈祷氏一族が国王以上に力をつけていきます。

・甕棺の墓群に加えて、王家の葉が作られます。
北墳丘墓 ~歴代の王の墓~
紀元前1世紀ごろの14人の王が眠っているようです。
当初は、王の為に大きな墓を作るまでの力はなかったのでしょう。
紀元前1世紀ごろに王家がだいぶ力をつけていたことになります。
土を盛って丘を作り、手前に祭壇を、大きな木柱を建てる。ちょっとした古墳(前方後円墳)の元祖ではないでしょうか。
しかし、その風習も紀元前1世紀に亡くなっているようです。(北側にまだ、未調査の地域がありまので、そちらに王家の墓がある可能性はあります)


一方、伊都国、奴国、不弥国など玄界灘側の国々も発展していきますが、吉野ケ里とは異なります。
博多湾の海の幸、平野に耕して農耕、河川も沢山ありますので、住み着く人々が増えていきます。
当然、王家が力をつけていきます。一方で、朝鮮半島を経由した交易が盛んになります。
交易の主体は、最初は青銅性の農耕具でしたが、後に矛なの武器になります。
吉野ケ里の祈祷とは異なり、武力と財力が支配する国造りになります。
魏志倭人伝に紹介される国で、対馬から伊都国、奴国、不弥国までは、方向と距離が詳しく記載されています。
この時代に大陸が把握していた倭国は、この玄界灘湾岸の国々まででした。
その結果、西暦57年に、漢委奴国王の金印 が贈られます。
この時の倭国は、有明海側の吉野ケ里や大分などは含まれていません。
大陸(漢)から倭国王と認められた奴国王ですから、交易を中心として倭国では強い権力基盤を作った事になります。
しかし、1世紀ごろから倭国大乱の時代になります。