古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

卑弥呼の墓の真実

2017-08-27 13:28:54 | 歴史
卑弥呼の死後と狗奴国がベースです。
卑弥呼のお墓と云えば、奈良県桜井市の箸墓古墳が最有力候補ですが。
魏志倭人伝では
・大いに冢つかをつくった。径(さしわたし)は百余歩・徇葬者(じゅんそう)の奴婢は百余人であった。
しか情報がありません。
後は、現存する古墳で年代も加えて、該当しそうな古墳を探すことになります。

先の投稿で推測した「卑弥呼の死は突然であった」
大きな古墳を作るには、何年もかかり多くは、生前に横穴式の石室や石棺を準備しておきます。
卑弥呼の場合は、急きょ葬儀を行い、埋葬しお墓を作った事は間違いないでしょう。
当時のお墓は、吉野ケ里の王家の墓の様に
・高台に歴代の王を埋葬する。
・甕棺を使用している。
・王家の墓の手前に、儀式を行う祭壇がある。

卑弥呼の墓と葬儀を推理してみます。
・卑弥呼は多くの巫女(女性)たちと一緒に、内部の生活を秘密にした館の中で生活している。
・周囲は、攻撃から守るための砦の様であった。
・歴史の中では、多くの巫女が亡くなり葬儀を行いお墓群に埋葬されたでしょう。
・初代、2代目の卑弥呼が亡くなって、そのお墓もあるはずです。葬儀の方法も決まっていた。
・247年の卑弥呼の死は、今までとは異なる。
 攻撃による卑弥呼の死亡
 卑弥呼の死亡が公になり、誰もが知る所となる。
・突然であり、石棺の準備は出来ていない、お墓の場所も決められてない。

以上より
1、卑弥呼の遺体を探して、いったんは甕棺に入れられた。
2、急いで、墓を作る場所探しがはじまる。高台で平らな場所で樹木が生えていない。
3、高台の中央に穴を掘って、周囲を石で固めて石室を作る。
4、石室に遺体を伸ばして寝かせる、平らで大きな石で蓋をする。
5、周囲(中央から50歩の円形)に土を持って古墳の形(円錐形)に仕上げる。
6、手前に祭壇を作り葬儀の儀式を行った。ここまで二週間ほど
私たちが想像している大きな前方後円墳とは、だいぶ違っているはずです。
葬儀も、敵国の男王の時代ですので、ひそかに行われたでしょう。
千人もの犠牲者を出す争いの後に、台与が女王となり祈祷文化を再度行います。
この時代に、葬儀の後に時間を掛けて、周囲を前方後円墳の形に掘り下げ、濠を作り
祭壇に仕上げた可能性はあります。
周囲の王族が祈祷の帰りにでも寄ってお墓を見たでしょうから、後の豪族が作る古墳の模範となったでしょう。

・徇葬者(じゅんそう)の奴婢は百余人であった。の記述ですが
実際は、既に亡くなっていた巫女たちの近くに墓を作った。
或いは
狗奴国の攻撃で、卑弥呼以外にも多くの巫女が亡くなったので、卑弥呼の墓の近くに巫女たちを埋葬した。
の事実が「徇葬」という表現になったのではないでしょうか。

難升米はその後、どういたのでしょうか
卑弥呼一族の歴史でわかるのは、二代目の台与までです。
台与は若い女性ですので、どこかの豪族の元へ結婚してしまったかもしれません。
卑弥呼の墓も墓守を失い荒れていった出のでしょうか。
中国地方、近畿地方で大きな古墳が作られます。


箸墓古墳は年代的には近いですが、突貫工事で作った古墳としては大きすぎる様です。
最初の古墳となった卑弥呼の墓ですが
地面に穴を掘って遺体を納める竪穴式で周囲に土を盛った円錐状
他にも方形墳が多数並んでいる。
少し離れたところに四角い形に土を盛って祭壇の場所を作る。
墓守がいなくなった卑弥呼の墓は堀も埋まってしまい、樹木が生い茂り周囲の山々の景色の中に溶け込んでいる。
卑弥呼の墓を探すのは至難の業ですが、近くに卑弥呼が生活した集落があります。
女性1000人と周囲をまもる武人たちがいます。こちらがかなり大きな集落跡の遺跡です。
大きな集落跡、小さな円形墳、周囲にも墳が並んでいる。
こちらが手がかりです。
コメント (2)

卑弥呼の死後と狗奴国

2017-08-27 11:05:05 | 歴史
魏志倭人伝を時代別に分けてみる。
魏志倭人伝は、
魏の時代は、かなり詳しく書かれていても
後漢末期 と 魏が滅びて西晋の時代の情報がかなり少ないです。

後漢末期は、朝鮮半島北部を公孫氏が支配し、国が大陸と交易が出来ない。
大陸も三国志の時代ですので、無理と云えばその通りです。

卑弥呼の末期の時代は
・邪馬台国の南側にある狗奴国(男王 卑弓弥呼)とは、もともと不和であった。
・245年、難升米に黄幢(黄色いはた。 高官の象徴)をたまわり、(帯方)郡に付して(ことづけして)仮授せしめた。
・247年、難升米に拝仮し、檄(召集の文書、諭告する文書)をつくって、(攻めあうことのないよう)告諭した。
・247年(或いは248年)難升米の帰りを待つことなく卑弥呼は死んだ。
・あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し(あっ)た。
・卑弥呼の宗女(一族の娘、世つぎの娘)の壱与(年十三)をたてて王とした。国中はついに定まった。(張)政らは、檄をもって壱与を告諭した。
これだけでも良しとしなければならないのでしょうか、どうしても知りたい所
・卑弥呼の死の原因
・狗奴国とのその後の関係
この部分は想像で補います。
卑弥呼が一代であるなら、その年齢は100歳を超えているはず、いつなくなっても不思議ではありません。
自然死でしょうか?
・卑弥呼は、自分が無くなった後の後継者を決めていない。
・難升米も卑弥呼の死を想像することなく魏の国へ出発している。
・卑弥呼の死後に国が乱れる。
・多分に卑弥呼の墓(古墳)も死後に作られた。
卑弥呼の死が突然であったことを想像します。

そもそも
卑弥呼の館(邪馬台国)は九州北部の南側にあり、その南側に、敵国 狗奴国がある。
卑弥呼の館は、吉野ケ里の環濠集落の様に、防備の濠や壁の内側に祈祷の建物があり、周囲を大勢の武人で防御
難升米が応援を依頼する目的へ魏へ出発している。
卑弥呼も、一人ではない、180年頃、弟と一緒に女王になった卑弥呼と難升米を贈り、親魏倭王の金印を貰った卑弥呼は異なる人物である。
247年の亡くなった卑弥呼は、さほど老婆ではなかった。

卑弥呼の死の原因
狗奴国から攻撃を受けた。ではないでしょうか。
難升米はたびたび魏へ行き魏と友好関係である。
その難升米が再び、魏へ行っている。次は武器等を持って帰ってくる可能性がある。
狗奴国の男王(卑弓弥呼)は、卑弥呼の館の攻撃を決断した。
卑弥呼の館の攻撃で、秘密裏に行われていた卑弥呼の祈祷が多くの人に知られることとなった。
次の男王は、狗奴国の一族から選ばれた。
諸国は納得せず、九州北部 VS 九州南部(狗奴国)戦争となった。
勝利したのは球種北部(邪馬台国)であった、再度、祈祷の巫女 台与(13歳)を女王とすることとした。
九州全体がまとまった。

この推理が最もスッキリするのです。
コメント

魏志倭人伝を時代別に分けてみる。

2017-08-26 11:21:42 | 歴史
魏志倭人伝を魏の時代に絞り込んで読んでみる。についてもう少し詳しくしてみます。
魏志倭人伝の内容を時代別に分けてみます。
1、漢の時代
  秦の時代は、始皇帝の一代で終了します。漢の時代時代になります。
  57年に、倭国が後漢の初代皇帝 武皇帝に朝貢して、「漢委奴国王」金印が贈られます。
  大陸と倭国との交易が盛んにおこなわれ、青銅の農耕具などが日本に伝わります。
  魏志倭人伝に紹介される対馬国から末盧国、伊都国、奴国、不弥国が栄えたのがこの時代です。
  交易の中心は、玄界灘です。
  博多湾の奴国までは、帯方郡から水行十日陸行七日、10700里位でしょう。
  有明海側にも21国があった事実も漢の国に伝わっています。
  農耕や織物などの産業が発展した一方、下戸、大人と云う身分の差が出来ます。
  武力と権力が支配しる形は漢から伝わったのでしょう。
  実は、一時的にも漢字が使われた時代でもあったと思います。

2、倭国大乱と後漢の衰退(100年位から220年)
  西暦100年位から倭国大乱の時代となります。漢との交易も少なくなったでしょう。
  更に、後漢も末期には力を失い朝鮮半島北部を公孫氏が支配します(帯方郡が独立)
  倭国が大陸と交易が出来なくなります。
  238年 魏の曹操、公孫一族を倒して再び、倭国が大陸と交易が始まります。
  実は、100年以上間、大陸に日本の情報が伝わりません。
  魏志倭人伝にも、この時代の事が詳しく記載されていないのです。
  100年頃から80年程続いた倭国大乱、卑弥呼が推薦されて女王に倭国がまとまると表現されていますが
  その後、卑弥呼が親魏倭王の金印を受け取るまで詳しく記載されていないのです。
  この時代に卑弥呼独特の祈祷や占いの儀式が浸透したのでしょう。

3、238年、邪馬台国の卑弥呼が初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の金印と銅鏡100枚等を与えられる。
  再び、大陸(魏)との交易が再開します。この時代の事実はかなり詳しく記載されています。
  魏志倭人伝と魏の時代に事実を記載していますので当たり前ですね。
  邪馬台国が帯方郡から12000里(水行10日陸行一月)が正しい邪馬台国の位置です。
  邪馬台国の人口も博多湾の奴国中心に2万戸、佐賀、福岡、熊本の有明海側で2万戸、大分(周防灘湾岸で2万戸)+少しです。
  既に、伊都国、奴国など名前はなく、邪馬台国ではないでしょうか。
  唯一、登場するのが狗奴国です。邪馬台国の南にあります。
  邪馬台国の東の海を1日(千里)渡ると島があり同じ人種が住んでいる。
  千里は、対馬と壱岐の間程です。九州で東が海で千里ほどで陸地にたどり着くと云えば大分(国東半島)になります。
  周囲5千里は、歩いて回ると50日程と考えます。やはり九州北部の領域でしょう。
  しかし、卑弥呼が祈祷を行った館、卑弥呼の墓の場所が特定できません。
  実は、249年に司馬懿はクーデターを起こし、曹爽一派を誅滅し(高平陵の変)、魏の国から西晋の時代に変わります。
  247年に、狗奴国の争いで苦戦する卑弥呼が紹介されていて、魏へ応援を依頼しています。
  残念ながら、魏の国自体が乱れていて、それ所ではありませんでした。
  まもなく、卑弥呼が亡くなり、男王がたつが国がまとまらず、女性15歳の台与(トヨ)女王となる。
  台与が後に晋や宋に朝貢していますので、台与の国がしばらく続いたようです。
  (15歳で女王ですので、2~30年位は続いたのではないでしょうか)

4、魏が滅亡、西晋(247年)~280年(呉の滅亡)、297年(陳寿の没年)の間)に書かれ分かった事実
  陳寿が完成させたのですから、本人が知りえた事実が必ず書き加えてあるはずです。
  台与の時代ですが、その事には一切触れていません。
  気になるのが、投馬国(ズマ国)、水行20日かかる場所にあります。
  奴国まで水行10日で末盧国(松浦半)陸行6日、不弥国なら陸行7日になります。
  卑弥呼の邪馬台国(卑弥呼の都)まで水行10日(末盧国)、陸行一月(約27日)ですので
  末盧国が陸路の始まりだったのが、水行20日で行ける国の登場です。
  全く新しい航路で新しい国が大陸と交易を始めています。
  投馬国(ズマ国)は出雲(イズモ)ではないでしょうか。
  卑弥呼の死後、台与は何度か贈り物を大陸に贈っていますが、なしのつぶてです。
  出雲は何もしていません。(新羅を征服していたでしょう)
  大陸から見て、九州と出雲のどちらが大きいのか判断が出来なかった時代ではないでしょうか。

四つの時代を一つの史記にまとめたのが魏志倭人伝です。
絶対に正しい記載
・帯方郡の太守劉夏に難升米(なしめ)牛利(ごり)を贈り、男生口(どれい)四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じた。
・親魏倭王の帰任と絳地の織物五匹・絳地の粟十張・絳50匹・紺青十匹・細班華五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹おのおの五十斤
 つまり沢山もらった。
・集会・坐起(立ち居ふるまい)には、父子や男女による区別がない。
・酒をたしなむ。大人の敬をするところをみると、ただ手をうって、ひざまずいて礼拝する。
・その法を犯すや、軽いものはその妻子を没し、重いものはその家、家柄を滅ぼし、親族におよぼす。 
身分の制度があり、主従関係が成立している。大陸から統治する為の方法を学んだのでしょうか。
意外と漢字も使っていたのではないでしょうか。
後には、古墳時代になります。部族の長が多数存在します。
時代が戻ってしまう感じですね。
・弥弥(耳)副(官)を弥弥那利等の他に(耳成伊支馬(いきま)、弥馬升(みまと)など国ごとの役人
・難升米(なしめ)・都市牛利(としごり)は、役人なのか武人なのか
・祈祷を行う女王 卑弥呼 と 世話をする弟
・一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。
奴国、伊都国の時代には、それぞれの国王がいて官(役人)に仕事を任せます。
誰が始めたのかは不明ですが
王を女王 卑弥呼 1人にします。(大王ですね)
それぞれの国に役人を派遣します、これが大率で、地方の役人をまとめるのが一大率だったのではないでしょうか。
中央政権の始まりです。朝鮮半島や大陸を参考にしています。大率と云う役人の呼名も大陸から伝わっています。
西暦0年から250年(卑弥呼の時代が終わるまで)の250年、文字がありませんし、寿命も今よりかなり短いです。
世代の数(御先祖様)は多いです。祈祷師 卑弥呼は諸国の王の先祖などの歴史を記憶したのでしょう。
その記憶の伝承が祈祷師 卑弥呼の強みでした。
当時の巫女の役割は、先祖の歴史を覚えて、現在の歴史を加えて、次世代の巫女に伝承する役割があったのではないか。
漢委奴国王の金印の時代 奴国連合で中央政権化
倭国大乱        部族対立で、政権分散化
卑弥呼の登場      邪馬台国と名乗り、再度、中央政権となる。
古墳時代        大きな国ごとに分かれた、民族主義(?)分散国家
ヤマト朝廷       西日本を一つにまとめる中央政権国家造り
と中央政権つくりと、分断の繰り返しをしながら、その領域が広くなりました。
コメント

魏志倭人伝を魏の時代に絞り込んで読んでみる。

2017-08-20 21:16:52 | 歴史
倭国と邪馬台国の続きです。
魏志倭人伝は、三世紀末に西晋の陳寿によって完成しています。

第一章 倭の国々
第二章 倭の風俗
第三章 政治と外交
で構成されています。
実は、後漢書の内容を引用した部分と
実際に、魏の国と交易した時代と
陳寿の時代に知りえた情報が重なり合っています。

魏志倭人伝を3世紀中ごろの魏の時代に絞り込んで読んでみましょう。
・後漢書から引用した部分
 帯方郡から末盧国を経由した奴国、不弥国まで国々と内陸側にあった21国
・鎮守の時代に情報
 帯方郡から水行二十日かかる投馬国
です。多くは、第一章の部分です。その部分を削除すると
第三章 政治と外交 は魏の時代と思われます。

ヤマト(邪馬台)国は
・帯方郡から水行十日、陸行一月である。博多湾まで水行十日、陸行七日である。
・帯方郡から一万二千里である。博多湾まで一万700里である。
・ヤマト国の周囲は五千里である。
・伊支馬(いきま)、弥馬升(みまと)、弥馬獲支(みまわき)、奴佳(なかて)の交易の役人がいる。
・人口は七万戸ばかりである。
・東に千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。

三世紀中ごろ卑弥呼の時代の日本は
・魏の皇帝へ貢物を贈り、自らの国の名前を ヤマト と伝えた。(日本が始めて自国の名前を主張しました)
・ヤマトの国土は、九州北部全域(東は国東半島の大分辺りまで)
・外交は4人の役人が実権を握っていた。
・卑弥呼の宮殿の場所は、魏の国にも明かさなかった。
・国内のいても、知る者は少ない。
・ヒミコは、ヤマト国の権力者ではなく、国内統一のシンボルであった。
・ヤマトには、女性が行う祈祷(占い)で重要な判断を決めていた。(その方が多くの賛成が得られた)

魏の国への朝貢は、
いきま、みまと、みまわき、なかて の役人が考え付いた。
難升米(なしめ)・都市牛利(としごり)も博多湾の交易の役人
「親魏倭王」の金印は卑弥呼の元へは届いていない。(やはり博多湾にある)

日本史神話に出てくる九州
4.筑紫島(つくしのしま):九州 胴体が1つで、顔が4つある。
白日別(しらひわけ):筑紫国
豊日別(とよひわけ):豊国
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
建日別(たけひわけ):熊曽国

博多湾の交易部門が後の筑紫国
ヒミコ、トヨの国が後の豊国、肥国
ヤマトの敵国 狗奴国は、後の熊曽国(阿蘇山を境に南側、鹿児島まで)

ヤマトは九州北部全域の国の名前である。
ヒミコの宮殿は、玄界灘から離れた、福岡と大分の境(日田辺り)或いは 国東半島ではないでしょうか。
コメント

倭国と邪馬台国

2017-08-20 18:47:43 | 歴史
弥生時代を勘違いしない為にも、基本的な事で
倭国 と 邪馬台国 について考えてみます。
当時、日本に漢字がありません(文字もないです)
いずれも大陸の国(中国)が勝手につけた名前と漢字です。

倭国と呼ばれるようになった時代
・秦の始皇帝の時代
 徐福が東に島国があり、「不老不死の仙人が住み、不老不死の薬がある」と始皇帝に話をもちかけ
 3000人の若い男女と複数の船団を準備してもらい、済州島を経由して、日本に渡来しています。
 まだ、日本については、あまり知られていない、倭国と呼び名もありません。
 徐福が戻ってこなかった事より、東の大海は大蛇が住み渡って行く事は難しいと信じられています。
・漢の時代(西暦57年)
 「後漢書」に光武帝(後漢王朝の初代皇帝)が奴国からの朝賀使へ賜った金印が紹介されている。
 実際に、博多湾の志賀島で、「漢委奴国王」と刻印された純金の印が発見された。
 この時代には、既に大陸と交易を行っていたようです。
 都の洛陽へ奴国の使いが行くのは、この時が初めてではないか。
  朝鮮半島の南側(玄界灘湾岸)の国を「倭国」と名付けた。
 倭国には、魏志倭人伝に紹介される対馬国、一支国から奴国、不弥国の地域であった。
 奴国まで道程、国名が詳しく紹介されている。
 国名は、倭人の発音に応じて漢が漢字をあてた。もともと国と云う言葉は無かった。

 海路(帯方郡から末盧国まで)1万里、陸路(奴国まで600里、不弥国まで+100里)水行10日陸行7日と思われる。
 伊都国が交易の窓口であった。漢の窓口が帯方郡である様に、お互いの交易は帯方郡<=>伊都国で行われた。
 大陸の役人が伊都国より南東(奴国など)に実際には来ていない。
 交易を通じて知りえた情報、新たに21の国が詳記されている。
 場所は不明ですが、対蘇国(とすこく)、蘇奴国(さがなこく)、呼邑国(おぎこく)華奴蘇奴国(かなさきなこく)等の地名から
 長崎から有明海湾岸の佐賀、熊本などが倭国に含まれるようになっています。
 金印を手にした奴国が、西方(長崎)、南方(佐賀、熊本)東方(北九州市)へ領土拡大をはかった。

・倭国大乱の時代(西暦100年から180年位)
 大乱がどの国との争いであったかは不明ですが、遺跡などから矢が刺さった遺体、首がない遺体が発見されている。
 九州北部(玄界灘湾岸から有明海湾岸)の地域で起きたとされています。
 金印を手にした奴国が、西方(長崎)、南方(佐賀、熊本)東方(北九州市)へ領土拡大をはかった。
 吉野ケ里など環濠集落の環濠が大きくなり、武装を強化しています。
 但し、2世紀後半ごろから大陸との交易が途絶える。大陸が知る倭国の情報はここまでとなる。
 後漢の皇帝は、邪馬台国を知らない。

邪馬台国が紹介された魏志倭人伝
・後漢が滅亡して、魏蜀呉の三国志の時代になります。
 魏志公孫淵伝では、238年に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、
 大陸の東北部の魏が楽浪郡(現在の平壌)と帯方郡(現在のソウル)を設置して占拠する。
・魏の初代皇帝にいち早く貢物を贈った、邪馬台国の女王 卑弥呼
 238年(公孫氏政権が崩壊の年)に、卑弥呼が、魏の初代皇帝曹叡に男女奴隷(男4人、女6人)と班布二匹二丈を贈る。
 その見返りに、鏡百枚などの他「親魏倭王」の金印が渡されています。
 邪馬台国の女王 卑弥呼が倭国の代表となります。
・邪馬台国を紹介した二人の役人(或いは武人)難升米(なしめ)・都市牛利(としごり)
二人が紹介した邪馬台国の情報
 国名 ヤマト 或いは アマト と発音(邪馬台 と漢字が充てられる)
 女王 ヒミコ と発音 (卑弥呼と漢字が充てられる)
 倭国が卑弥呼を女王とすることで大乱がおさまった。(多分、大袈裟です)
 人口 7万戸(漢の時代に奴国が2万戸、邪馬台国は九州北部全体であり、人口も増えていた)
 邪馬台国までの距離(帯方郡から)12千里、水行10日陸行一月
・卑弥呼について
 卑弥呼を見たものは少ない(まだ争いは続いていた。卑弥呼の宮殿の場所は明らかに出来ない)
 女性千人が身の回りの世話をしている。(多分、これも大げさ)
その後に邪馬台国と交易して知りえた事実
・南側の国 狗奴国(卑弓弥呼)との対立
・247年 卑弥呼の死
・男王、台与(トヨ)について
・邪馬台国の周囲の国
 東に千余里(船で1日)を渡海すると、また国がある。みな倭種である。(山口、或いは愛媛、高知など四国)
 女王(国)を去ること南へ四千余里に侏儒国(小人の国)がある。(陸路であれば鹿児島、海路であれば沖縄辺り?)


邪馬台国の情報は疑わしい箇所
・180年に80年間続いた大乱が、卑弥呼が女王となり収まる。卑弥呼は既に高齢(長大)
 247年に卑弥呼死亡なので、女王在籍67年になる。当時では考えられない。

魏志倭人伝の事実
魏志倭人伝は、魏が滅亡し西晋の陳寿によって3世紀末に完成しています。
実は、三つの時代情報が重なってしまっています。
1、後漢書の記述
  2世紀前半までの事実が後漢書にあり、後漢書をベースに新しく知りえた情報を書き加えています。
2、238年、卑弥呼が、魏の初代皇帝曹叡に貢物を贈り「親魏倭王」の金印を贈られる
  247年、卑弥呼が亡くなり、男王が立つが、国まとまらず、台与(トヨ)が女王となる。
3、魏が滅びた後、陳寿の時代、台与(トヨ)が貢物を贈る
  帯方郡から水行20日の場所に投馬国があった。

三世紀前半、大陸との交流が再開して、突如登場する 邪馬台国 と 女王 卑弥呼
魏志倭人伝の後漢書の記述の部分を省いて読み解くと事実が浮かび上がってきます。



コメント (1)

ヌードダンサー「アマノウズメ」と「サルタヒコ」

2017-08-13 22:53:43 | 歴史
ちょっと寄り道です。
「古事記」日本神話に登場するアメノウズメ(天宇受賣命)
日本神話の天の岩戸に登場します。

天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れた。
驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。
ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。
そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談した。思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった
天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。
すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。
これを聞いた天照大神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、
「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。

アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と太玉命が天照大神に鏡を差し出した。
鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、
隠れていたアメノタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。

まあ、こんなお話です。古代のアイドルと云った所でしょうか。
しかし、天皇家の歴史を語る「古事記」「日本書紀」に、この様なストーリーを挿入するべきでしょうか。
現代のアイドルでも、裸になる事はご法度です。現在の言葉を使えば、ヌードダンサーです。
江戸時代を除いても、吉原など遊楽はあっても、女性が人前で裸踊りをする事はありませんでした。
鎌倉、戦国時代は、それどころではありません。
平和な平安時代、紫式部、清少納言らの男女のやり取りはあるものの秘め事として扱われています。
時代は、更に遡り、古墳時代、弥生時代です。
まだ、九州、中国地方に多くの国々があった時代です。
儒教、道教は伝わっていたでしょうが、諸国が独特の文化を造った時代です。(仏教はまだ伝わっていません)
この話は、南国九州であり、山国の奈良や京都ではありません。
アメノウズメの服装も着物を一枚に腰ひもです。平安時代の十二一重とは違います(山奥の盆地ですので厚着が当たり前)

このアメノウズメは、ニニギの天孫降臨の際に道案内をしたサルタヒコ(猿田彦)とも交渉しています。
その時も裸を披露しています。そして後にサルタヒコと結婚します。
よほどの美女であったようです。一方、猿田彦は鼻が大きく大柄で美男子ではない様です。
双方とも高齢ですので、晩婚で結ばれたことになります。

明らかに平安貴族の風習とは異なります。
時代の違いだけでなく、近畿の山奥の文化と南国九州の湾岸の国の違いです。
魏志倭人伝には、入れ墨モンモンの民族風習も紹介されています。つまり裸に近いわけです。
卑弥呼の館にも千人の女性(巫女)が集められます。
優秀な女性(つまり美女)は、それぞれの国の王のあこがれであったのです。
卑弥呼が女王になれたのは、多くの美女を集めたからかもしれません。
当時の美女の象徴がアメノウズメです。
1、伏せた桶の上で踊れる小柄で身軽な女性
2、入れ墨はしていない(入れ墨は部族の印です。どの国にも属していない事が必要です)
3、未婚である(幼女で処女である)
4、健康的である事(当時の食糧事業から考えると少し太めで、豊かな胸ではないでしょうか)
5、一般の女性とは一目で違いがわかる(多分、色白で日焼けしていない、肌がきれい、けがなどの跡がない)
6、生活感がない、苦労の後がない、世間知らず(意外と質素でおバカ系であった)
卑弥呼は高齢ですので対象外です。
卑弥呼の死後、女王となる幼女 台与が、当時の美女の象徴だったのでしょう。
今も昔も同じで、日本男児は美女に弱いようです。

古代の日本人には、思想家がいません。人間のあるがままの姿を尊重していたのでしょうか。
対して大陸では、武力と知力(儒教など教え)で多くの思想が広がります。
個人的で申し訳ないですが
キリスト教の聖書やブッダの教え、儒教や道教など思想的な経典より、日本神話の方が人間的で好きです。
意外と現代日本のアニメにも影響があるんかもしれません。

後に平安時代の美女に小野小町がいますが、実は彼女を正面から描いた絵はないそうです。
西洋の美女クレオパトラ(プトレマイオス朝の王女)はその高貴な出生にありますが
小野小町と楊貴妃は、教養の高さが評価されたようです。

コメント

天照大神は、実は男性だった?

2017-08-13 17:08:15 | 歴史
日本神話の神様たちをもう一度(おさらい)
で、天照大神が女性だったのか、男性だったのか疑問が解消できなくなりました。
男性と思われる最大の理由
・家系図が全て男性で繋がっている。女性は天照大神だけです

ネットで検索すると 天照大神の男性説は結構あります。
そもそも、天皇家の正当性を書き上げる目的があるはずの「古事記」「日本書紀」
わずかに、「日本書紀」で、素戔嗚が「姉の天照大神に会いに行く」と記載されているようです。
何故、女性 天照大神を頂点にしたのでしょうか。

神世七代の世代で、神様も徐々に人間に近くなります。
イザナミ・イザナギの代で男女、夫婦、兄妹 になっています。
※夫婦でもあり、兄妹でもあります。近親相姦です。まだ神様が少ないので仕方ないですね。

山の神、海の神など地上の神様を産みます。
イザナギが出産で陰部をやけどして亡くなります。 人間らしい
そこまでは、順調でしたが、イザナミが無くなった後の家系図がものすごいです。
イザナギがイザナミに会いに黄泉の国へ行って、生きて戻ってこれる。 神業です。
1人になったイザナギは、更に神様を産み続けます。
天高原に残った神様は、最後に産んだ、天照大神、素戔嗚、月読 の3人
母親はいません、イザナギの目や鼻から生まれます。

天岩戸で、裸踊りをして、天照大神を誘き出すのは 人間らしい
素戔嗚との誓約で、剣や勾玉を噛み砕いて8人の男女を産む。 神業です。
※この誓約の儀式を、兄弟げんかではなく、結婚儀式と考えてみます。
 両親であるイザナミ・イザナギと同じです。
 違う所は、天照が素戔嗚を嫌っていた事でしょう。
 そんな二人の生活がうまくいくはずもなく
 天照は拗ねて岩戸に隠れたり、素戔嗚はいたずらが過ぎて、高天原を追放される。
 現在流のたとえ話にすると、妻が子供を引き取り、家に残る。夫が家を出る形の離婚劇です。
 急に人間味がでたというか、人に近くなった気がします。
 ※人間の本質は古代も現代も同じなのですね。
 女性は本当は強い、女性は家や家族を守るもの、男は外で仕事しろ なのかもしれません。

素戔嗚のその後
 八岐大蛇を退治する際、櫛名田比売(しなだひめ:大山津見神の娘)に一目ぼれ
 素戔嗚には、もう一人妻がいて、次に妻にしたのが
 神大市比売(かむおおいちひめ)でやまり大山津見神の娘、
 神大市比売と櫛名田比売の姉妹と結婚しています。
多重婚は有でも、姉妹です。何とも生々しい多重婚です。
古代は、人の交流も少なく、同じ国の中での高貴な人間同士の結婚が多いはずです。
近親者同士の結婚は普通だったでしょう。

 素戔嗚は地上で立派な仕事を成し遂げますか、女性にモテないとちょっと不順な動機が含まれています。
 これも男の性を表現したのでしょうか。そうであれば、歴史書ではなく、人文学書に値します。

加えて、誓約で産まれた長男に、地上を平定するように命令しますが、荒れ狂う地上をみて、おびえてしまいます。
何とも弱虫で臆病者です。天照も諦めて、その子供のニニギに天孫降臨を命令するという話です。

この部分を全て削除してイザナギの子供をニニギに書き直し、天孫降臨を命令した方が
天皇家に家系図はよほどスッキリしますし、見栄えも良くなります。

天照大神は女性で間違いありません。
イザナミ・イザナギの子供に男女の兄妹が必須です。
※三貴神には、女性が必要で兄妹で夫婦になる予定でした。
 素戔嗚が追放された後に、月読 と 天照の二人で子孫を増やす物語でも良いです。
夫婦そろって高天原で円満に過ごし、私たちを人間も見守っていただいている。にすれば全てがハッピーエンドです。

所が長男が乱暴で追放されると云う流れになり、高天原に残ったのが女性の天照大神のみになりました。
物語のエンディングは、天照は伊勢神宮で、素戔嗚は出雲で別居生活で締めくくられています。

「古事記」の一巻{日本神話)は、歴史書と云うよりノンフィクションの連載小説です。

一番の理由は、中国の史記と、九州、山陰地方に伝わる伝説にあります。
明らかに、近畿の大和朝廷より長い歴史がある事が解っていました。
大陸との交流も再開しています。
徐福の記事、漢委奴国王、魏志倭人伝に紹介される邪馬台国の卑弥呼など、無視するわけにはいきません。
しかし、先祖が中国から渡来した徐福であるとも邪馬台国が魏の国へ貢物を贈り親魏倭王の金印を貰うなど書くことも出来ません。
全てが弥生時代にあります。
九州で栄えた国があり、その権力は何度も移り変わったはずです。家系図も実は幾度か途切れているのです。
これら全てを引き継いだのが、ヤマト朝廷です。
ヤマト朝廷=邪馬台(ヤマト)国だからです。

以下は私の勝手な妄想です。
徐福船団の渡来
・イザナミとイザナギが日本の国土を作る(国生み)
奴国王
・イザナミの死後、イザナギも無くなった。三貴神を産むイザナギが奴国王
倭国大乱
・倭国大乱の後は、邪馬台国(卑弥呼=天照大神)と出雲国(投馬国の官 弥弥=素戔嗚)の二つが主な国となった。
・黄泉の国は、卑弥呼の鏡を使った祈祷から生まれ、古墳時代に引き継がれた。
邪馬台国と卑弥呼
・邪馬台国が高天原であり、女王卑弥呼が天照大神
・出雲国の男王が素戔嗚で、実は血縁関係はない
卑弥呼の死後
・誓約で産まれた三女神、宗像一族の神、或いは女王、3人姉妹か3代なのかは不明、宗像氏も権力があった。
・誓約で産まれた五男神は、卑弥呼の死後の男王、奴国王、狗奴国王、伊都国王、豊国の台与など当時の権力のある国の王
8人とも天照とも素戔嗚とも血縁関係ではない。長男が卑弥呼の死後の男王(卑弥呼の弟)ではないか
古墳時代(西都原古墳群)の国
・大陸の史記には登場しないが、大きな船を持ち航海できる国があった。ニニギがその国(肥国)の王
 卑弥呼の元には、1000人の巫女が使えていました。周囲の諸国から集められた女性です。
 卑弥呼の死後、西都原の国などへ引き取られた女性も多くいたでしょう。
 ある意味、卑弥呼の後継者がニニギでもある。
神武東征が事実なのか
・年齢的、期間を考えても事実とは思えない。長い期間を通じて邪馬台国の文化が近畿へ伝わった と考えるべき。
 ヤマト朝廷=邪馬台国(ヤマト国)である。卑弥呼の祈祷や邪馬台国の争いをしない国造りの文化を伝えた文化の伝承である。
 その証として、ヤマト(邪馬台)と国を呼んだ。
 古事記に登場する欠史八代はやはり存在しない。正しい家系図は更に後の世代です。
こんなところではないでしょうか。

実際は
・弥生時代、古墳時代に神道の元が出来ていた。
・九州、出雲が文化的に進んでいて、ヤマト朝廷は配慮せざるを得なかった。
・飛鳥時代には、日本神話の原型が出来ていた。
・蘇我氏・聖徳太子が仏教を受け入れたため、神仏分離の目的もあった。
・先に聖徳太子が「天皇記」を書き上げており、その内容を知る人が多くいた。

日本の歴史を伝える歴史書としては   ✖
天皇家の正当性を伝える系図としても  ✖
神道の経典となるような聖書としても  ✖
な書物になっています。
そのおかげで、イスラム教やヒンズー教の様に、国民の生活に宗教が強く影響することはない国民になりました。
但し、戦前、戦中は、この天皇制度と神道が国民の教育に取り入れられましたが・・・


コメント (1)

日本神話の神様と神社

2017-08-12 17:08:06 | 歴史
せっかく、日本神話の神様たちを紹介しましたので
その神様と神社の関係を調べてみました。

天照大神 云わずと知れた 伊勢神宮です。
しかし、天照大神は幾度も引っ越しをしていただいており、伊勢神宮に鎮座していただいたのは平安時代です。

素戔嗚命 出雲大社 天照大神の直系が神宮で、分家に当たる素戔嗚命は大社に当たります。

宗像三女神(天照大神と素戔嗚命の誓約で産まれた三人の女神)
宗像大社
沖津宮 - 多紀理毘売命(たきりびめ)、田心姫(たごりひめ)
中津宮 - 多岐都比売命(たぎつひめ)、湍津姫(たぎつひめ)
辺津宮 - 市寸島比売命(いちきしまひめ)、市杵嶋姫(いちきしまひめ)
誓約では、素戔嗚が産んだことになっていますので、大社です。

同じく誓約で天照大神が産んだ五人の皇子の長男
天忍穂耳命(アメノオシホミミ) 英彦山神宮(福岡県田川郡 北岳・中岳・南岳(主峰の南岳:標高1,199メートル)の3峰)
日本三大修験の霊場と呼ばれるほどの過酷な場所
主祭神
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと) - 北岳。
配神
伊耶那岐命(いざなぎのみこと) - 南岳。
伊耶那美命(いざなみのみこと) - 中岳。
何と、おじいさん、おばあさんに当たるイザナミ、イザナギも一緒です。
やなり神宮です。

ニニギの命(彦火瓊瓊命)
霧島神宮(鹿児島県霧島市)天孫降臨にふさわしいのか結構山の中

彦火火出見尊(ホオリ)、火遠理命(ほおりのみこと)、山幸彦(やまさちひこ)
鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)
主祭神天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)
豊玉比売命 - 天津日高彦穂々出見尊の后神
奥さんと一緒ですね。
海神神社(長崎県対馬市)
主祭神
豊玉姫命
配祀神
彦火火出見命 にもおられます。

鵜戸神宮(宮崎県日南市)
主祭神
日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと、ウガヤフキアエズ)の他
祭神
大日孁貴(おおひるめのむち)(天照大御神)
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)(神武天皇)
結構な有名な神様がずらり。
岩の間にある洞窟と、その先に見える日向灘、何とも自然の神秘を感じます。
近くに西都原古墳群があり舟形古墳で有名です。
古くから大きな船で公開していた海族だったのでしょうか。
鵜戸神宮は、航海の安全を祈願する神社でもあります。

玉依姫命 玉前神社(たまさきじんじゃ)千葉県長生郡一宮町
九州を離れて千葉県に神社の格付けです。(結構厳しいですね)

神日本磐余彦尊 カムヤマトイワレヒコノミコト(後の神武天皇)
宮崎神宮
やはり神宮です。別に奈良県橿原市の橿原神宮も初代天皇 神武天皇が祀られていて
神武天皇陵もあります。

しかし、天照大神以後の神様の神社は九州にあるようです。
天照大神、イザナギ、イザナミが住む高天原は、
九州北部の福岡・大分(日田)辺りか
有明海側の佐賀、熊本辺り
北九州市など関門海峡に近い地域ではないでしょうか。
コメント

日本神話の神様たちをもう一度(おさらい)

2017-08-12 15:19:58 | 歴史
お盆の休みで時間があるので、日本神話の神様について整理しておきます。
こちらのサイトを参考にさせて頂きます。

以下補足の説明です。
イザナミとイザナギは夫婦です。
男女の営みが古事記に記載されていて、イザナミが女性(妻)、イザナギが男性(夫)で間違いないです。
二人は力を合わせて国生み(日本の国土と島々)を産みます。その後
神生みで、多数の神様を産みます。
ここで産まれた神は家宅を表す神および風の神・木の神・野の神といった自然にまつわる神々です。
生活に身近な土や石など建物に感謝したのでしょう。最初の神様は生活の中にある神様です。
次に、山の神、海の神、風の神など、自然の中の神様です。
生活の糧である山の幸、海の幸に加えて、当時の人では、コントロールが出来ない自然現象が神様になります。
名前には 〇〇神 と最後に 神 が付きます。男性女性の区別はありませんが、その行動から男性だと思います。
後に
  山の神 大山津見神 と
  海の神 綿津見大神 の子孫が登場します。
最後に、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)  火の神生んだ時にイザナミは陰部をやけどして亡くなります。
神様でも、病気で亡くなるようです。

残されたイザナギは、一人で神様を産みます。
最後に産まれたのが、天照、月読、素戔嗚の三貴神です。
天照は、天照大神と神の名前が付き、月読、素戔嗚は命の名前が付きます。
命ですの、男性に間違いないでしょう。
天照大神は女性とされていますが、系図の中では唯一の女性となります。
実は、「古事記」の中でも天照大神の性別には触れていない様です。(男性の可能性もあります)
・素戔嗚が地上に降りる前に天照大神に会いにいく時に「姉に会いたいと・・」とあるので女性?
・その時に、天照大神は、弓矢や刀を身につけ武装して待ち受ける(男性っぽい)
・誓約の儀式で、素戔嗚は刀を出して、天照大神は勾玉を出して、神様を産みます。(勾玉を身につけているから女性かも)
・素戔嗚は、3人の女神、天照大神は5人の男神(皇子)を産みます。(意外と男どうして、多数の女性を妊娠させてのでは)
・天の岩戸の神話では、アメノウズメ(女性の神様)が裸踊りをして場を盛り上げます(天照大神は、はやり男)
他の神様や家系図を見ても全て男系ですので、天照大神のみ女性であるのが不思議です。


そんな天照大神が素戔嗚との誓約で産んだ5人の男神(皇子)
天忍穂耳命
天穂日命
天津彦根命
活津彦根命
熊野櫲樟日命
多分、長男:天忍穂耳命(アメノオシホミミ)で、妻が天火明命(アメノホアカリ、その子供が
邇邇藝命(ににぎのみこと):天照大神の孫にあたり、高千穂の地へ天孫降臨します。

地上に降りたニニギが結婚した相手(妻)は、木花佐久夜姫(コノハナサクヤヒメ)
何と、イザナミ、イザナギの神生みで生まれた山の神 大山津見神の子孫です。
大山津見神 と 天照大神は、腹違いの兄弟
ニニギとコノハナサクヤヒメがふた従妹位になるのでしょうか。
大山津見神も地上にいて子供を産んでいます。
物語も宮崎、日向辺りになるので、宮崎が山の神 大山津見神の国だったのでしょうか。

この時代になると、女性には 姫 の名前を入れるので、男女の区別が付きます。
この二人の間に産まれたのが
長男:火照命(ほでりのみこと)後の海幸彦
次男:火須勢理命(ほすせりのみこと)、
三男:火遠理命(ほおりのみこと)後の山幸彦 の3人の男子
名前に 火 が付きます。南国宮崎の生まれ?阿蘇山の影響?

その三男:火遠理命(ほおりのみこと) が 結婚した相手は これまた
海の神 綿津見大神の子孫、豊玉姫 
大分が豊国なので、宮崎と大分の戦略結婚でしょうか。
海の神が、大分なのは周防灘の海の幸、関門海峡など海流変化などが神秘的だったのでしょうか。

この二人の子供が 日子波限建鵜葺草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)何とも長い名前です。
日子波限建鵜葺草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の結婚相手は、
海の神 綿津見大神の子孫、玉依姫 
この二人の子供が
神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)で、後に神武東征で近畿の奈良橿原へ東征して
初代天皇のなる神武天皇です。

ここまでの物語は、霧島、高千穂、日向、大分辺りが登場場面の様です。
イザナギやアマテラスが過ごした、高天原が近くだったことは間違いありませんが
場所を特定できるような地名の表示が「古事記」にも「日本書紀」にもありません。
天空の上坂が住む世界 高天原 です。
そして、もし天照大神が男性ならすべてが男系の家系図になるのですが。
また、わずか6世代です。当時の寿命や結婚年齢を考えると100年以内の出来事ではないでしょうか。
神武東征には、それなりの船が必要です。
西都原考古博に舟形埴輪が登場しています。
この物語は、弥生時代後期(卑弥呼の時代)から古墳時代の伝説ではないでしょうか。
コメント

佐賀県伊万里市「とんてんとん祭り」

2017-08-11 22:47:42 | 歴史
「トン・テン・トン祭り」の流れ
毎年10月に3日間行われます。
南北朝の故事になぞられ、
荒神輿(あらみこし)を楠木方(南朝)
団車(だんじり)を足利方(北朝)に見立てて市内を練りまわります。
必ず、荒神輿(あらみこし)が先で、後を追う様に、団車(だんじり)が担がれて移動します。
交差点など広い場所で、お互いが陣をとり、太鼓の音(とんてんとんの3拍子)に合わせてぶつけ合います。
合戦も官軍の荒神輿が挑発し、朝敵の団車が挑むという、荒神輿が主導するしきたりになっている。
相手方を倒したり、相手方に乗り上げたりした方が勝利だそうです。

最後のクライマックスが、川落としです。
伊万里川の岸壁で、ぶつけ合いそのまま、川の中へ落してしまいます。
早く川から上げて元の陣に戻った方が勝ち。
荒神輿が勝つと豊作、団車が勝てば大漁に恵まれるといい伝えられています。
実際には、布団を重ねて作ってある団車(だんじり)は、川に落ちて水にぬれると重たくなってなかなか上がらないそうです。

歴史の中で、楠木一族と足利尊氏の関係ですが
後醍醐天皇と共に楠木正成も足利尊氏も、鎌倉幕府打倒に貢献します。
しかし、足利尊氏は後醍醐天皇を裏切る。
後醍醐天皇側の新田軍は箱根・竹ノ下の戦いでは敗北し北畠顕家・新田義貞が戦死、
足利尊氏らは京都へ入り、光明天皇を即位させて北朝が出来る。
後醍醐天皇と楠木正成らは奈良に逃げて、南朝が出来る
翌年後醍醐天皇が崩御してしまい軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立つ。

楠木正成や北畠顕家の活躍もあり駆逐さ足利尊氏らは九州へ下る。
絶対的に不利な状況の中、多々良浜(福岡)の戦いに勝利
翌年に、持明院統の光厳上皇の院宣を掲げて東征する。
迎え撃つ宮方は新田義貞・楠木正成が湊川の戦いで敗れ楠木正成は自害した。
1392年、南北朝が合体


この祭りは、九州での足利尊氏の大逆転劇 多々良浜の戦い をまねした物ではないでしょうか。
伊万里川河畔に香橘(こうきつ)神社と戸渡嶋(ととしま)神社の二つの神社があり
香橘(こうきつ)神社は、橘氏の祖である橘諸兄命(たちばなもろえのみこと)を祀り、楠木正成はその橘氏の末裔
戸渡嶋(ととしま)神社、建武の頃、足利尊氏が敗戦の後、筑紫に降り松浦の海上で暴風に遭遇した折りの救いの神を祀っていた。
昭和30年に香橘神社、戸渡嶋神社、岩栗(いわくり)神社の三社が合祀されたらしいです。

戸渡嶋(ととしま)神社は、南北朝時代1300年代に創建されたのでしょうか。
香橘(こうきつ)神社は、何と「古事記」紹介されているようです。
第11代垂仁天皇の代に天皇の命で常世の国から不老長寿の妙薬と称された非時香菓(ときじくのかぐのこのみ、橘)を持ち帰った田道間守命
第11代垂仁天皇ですから、かなり古い話です。
天皇の命で常世の国から不老長寿の妙薬を持ち帰る話は、秦の始皇帝と徐福の話に似ています。
元々、松浦半島には徐福上陸の土地として徐福伝説がありますので、それを引用した可能性が高いとおもいますが
弥生時代初期から続く言い伝え(伝説)が平安時代に神社と云う形になったのでしょう。

田道間守命は、お菓子の神様になっていますが、古代神様の時代にお菓子は無かったでしょうから、この伝説は後に追加されたのでしょう。
コメント