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古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

和製の銅鏡と銅鐸

2018-03-25 15:52:47 | 歴史
銅鏡と一緒に考えてほしいのが
銅鐸・銅矛文化です。
銅鐸・・朝鮮半島に原型があり日本へ伝わる。
1世紀末ごろを境にして急に大型化する
近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産された。
近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地方に、
三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、
例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布する。
2世紀末葉になると近畿式のみとなる。
3世紀になると突然造られなくなる。
つまり、弥生時代の後期の200年程間に普及して突然と無くなります。

銅矛・銅剣
弥生時代初期より、農耕、建築と共に青銅製の道具が大陸より持ち込まれる。
1世紀に倭国大乱にて青銅製の矛、剣が使われる、鉄製の武器が持ち込まれる。
大乱後は、巨大化し祭祀として、或いは権力者の埋葬時の葬飾品として使われる。
こちらも平原遺跡では、素環頭太刀となり葬飾品も鉄製の剣になり終焉となります。

青銅文化は、銅矛、銅剣、銅鐸共に3世紀(卑弥呼の時代)に無くなります。
同じ時代に吉野ケ里の様な環濠集落も突然に国を捨ててなくなります。
大陸で魏、呉が滅亡して大陸から鏡職人が倭国へ移住
三角縁神獣鏡を使われなくなった青銅器から作成します。

大陸でも三国志の時代が終わり乱れてしまます。
倭国でも、九州のみでなく
山陰、山陽(吉備)、近畿で大きな変化が繰り返された時代だったようです。
後のヤマト王権も大陸、朝鮮半島から人材を取り入れ律令制度、漢字、仏教が取り入れられます。
しかし、大化の改新以後は新仏分離など、神道国家体制へか舵取りを変換
日本神話を含む「古事記」伊勢神宮、出雲大社など神道制度の確立を行います。

卑弥呼の鏡とは

2018-03-25 15:17:49 | 歴史
邪馬台国の場所を確定する物的証拠の一番にあげられる
・魏の皇帝から贈られた百枚の鏡

今回は、卑弥呼が受け取ったとする百枚の銅鏡について調べてみると面白いサイトが沢山ありました。
古代の鏡(銅鏡)でも
紹介しましたが、古墳と一緒に発見される三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡ではない様です。
九州北部-畿内 出土鏡比較のサイトに
古代の遺跡から出土する銅鏡の一覧がありました。
古いものでは、吉武高木遺跡(福岡)

矛(剣)、勾玉、鏡と三種の神器の三点セットが既にありました。
弥生時代前期ですので、大陸から農耕など文化が伝わり交易が始まった頃、紀元前の事です。

次に目を引いたのが
古代、伊都国の遺跡と考えられている平原遺跡(福岡)
もちろん、剣、勾玉、鏡が出土しますが、かなり形は変化しています。
剣・・・素環頭太刀
勾玉・・ガラス勾玉など
鏡・・・方格規矩鏡などで全て破壊されている。
四神四獣鏡
東 青龍 流水 青 春
西 白虎 大道 白 秋
南 朱雀 湖沼 朱 夏
北 玄武 丘陵 玄 冬
キトラ古墳で有名になった玄武、朱雀、青龍、白虎と架空の動物を使って
方角や四季を表現した漢の時代の宇宙観です。
漢の役人、一大卒が常駐した伊都国、大陸文化の影響は大きかったようです。
更に、高貴な女性のお墓も出土しているので、卑弥呼の母親の墓?天照大神の墓?と話題も豊富です。
年代は、卑弥呼が女王になった位、三世紀始めとされています。
同じ時代、近畿の遺跡、石塚古墳、勝山古墳がありますが出土品は土器類の様です。

後の古墳時代の遺跡から発見される三角縁神獣鏡は和製ですので、魏の国から贈られた鏡ではありません。
しかし、漢字で文が彫ってあり、年の表記にも「景初三年」239年、魏の皇帝が卑弥呼に金印、鏡を贈った年まで
意図して精巧に作られたレプリカです。
近畿の箸墓古墳などで多数出土します。

卑弥呼が受け取った鏡百枚は、後漢の時代の銅鏡だと思います。
この時代の鏡の序分で「見日之光、天下大明」と彫られた鏡が多数登場します。
その意味は(日の光を見よ、天下大いに明らかなり。
又は、日の光が現れ、天下は大い に明らかとなる)
らしいです。
倭国の女王 卑弥呼を応援する言葉としてふさわしいと思いませんか。
その意味を卑弥呼につたえたかもしれませんし、天照大神が太陽神となる一因であったと思います。
卑弥呼の鏡は「後漢鏡」説、「古事記」の日本神話、天皇家の三種の神器に一票です。

古代のお墓

2018-03-24 16:13:22 | 歴史
古代の遺跡を分けると
・住居跡(建物など)
・農耕跡(水田など)
・お墓 (集合墳、古墳など)
です。お墓は古代より重要な物であったようです。
ここからは多くの推測を含みます。
土坑墓(どこうぼ)
穴を掘って遺体を埋めるお墓です。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代と結構長い期間があります。
一方で、貝塚から人骨が出てくる事例もあります。
お墓に葬ってもらえるのはそれなりに権力があった人で
多くの遺体は、山など見えない場所へ放置
川や海に流される。
食されてしまい骨が貝塚に捨てられる。
葬儀を行い文化が広まるには結構な時代が必要だったのでしょうか。
日本神話でも、遺体から穀物が埋めれる神話は多数あります。
土葬した後から草木が生える事を人が食物に生まれ変わると考えたのでしょう。


集合墳
縄文時代・弥生時代、やはり住居地域に遺体を埋めるのは恐怖だったのでしょうか。
住居の生活地域と遺体を葬るお墓の地域が分かれます。
弥生時代の遺跡には、必ずと言ってよいほど、集合墳(お墓の地域)が見つかります。
同時に棺が登場します。
・土坑墓・・・穴を掘って遺体を寝かせて埋める(伸展葬)
       埋めた場所がわかるように、或いは死体が生き返らない様に不明ですが
       上部分の大きな石を置いたりします。
・箱式石棺・・掘った穴の周囲を石で囲んで遺体を寝かせて埋める(伸展葬)
       遺体を大切に扱い始めます。
・木簡・・・・弥生時代に発展した建物の建築が始まり木材の加工も進んだのでしょう。
       やはり、伸展葬です。
・甕棺・・・・弥生式土器が発展して、遺体が入る位の土器が作れるようになります。
       高貴な衣類を着て屈葬です。弥生時代の九州で多いですが
       後に無くなります。遺体を大切に保存する意図があったと思われますが
       屈葬が嫌われたのでしょうか。
       魏志倭人伝に、上下関係など身分の格差があった事も記載されています。
       人が亡くなると喪に服す様な儀式も既にありました。
       日本独特の葬儀の形の始まりがあったようです。
・古墳・・・・弥生時代の集合墳から王家など権力者が大きな墓を作る基本1人のためのお墓です。
       当初は、縦穴式で、土を山上に盛って中央に竪穴を堀、遺体を入れて土を盛って行きます。
       次は、横穴式で、石で石室を作り土を盛っていきます。
       手前に儀式を行う場所を作って前方後円墳となります。
       装飾品に埴輪が使われます。殉死のしきたりがあったのでしょうか。
       卑弥呼の墓では、100人の殉死者がいたと記載されています。
        646年大化薄葬令が規定され、前方後円墳の造営が停止され、古墳の小型化が進むが、
        この時に人馬の殉死殉葬も禁止されている。
       という事は、稀であっても殉死を行う古墳もあったのでしょう。
       遺体は、石室に入れて、横穴式から入れていきます。夫婦など複数の遺体が入る様になります。
       権力者が生前に作り始める。死後もその権力を保持させる欲望からでしょうか。
・火葬・・・・弥生時代に仏教伝来と共に日本に伝わったようですが、普及することはありませんでした。
       現在の火葬は明治時代が始まりとされています。
       鎌倉新仏教が広りますので、お経をあげる葬儀はあったでしょう。
       土葬ですが墓石・墓標を立てるお墓の始まりです。

お墓で気になるのが、魏志倭人伝に紹介に紹介されている卑弥呼のお墓
 径百歩で殉死者が百人 と表現されています。
 卑弥呼の死は、突然であったでしょうから生前から準備されたものではないはずです。
 卑弥呼は女王の座に60年以上(180年~248年)いた事になりますので、王家の墳丘があったわけでもないはずです。
 卑弥呼の周りには千人の侍女、周囲には戦士がいますので、卑弥呼の宮殿の近くに集合墳があったでしょう。
 卑弥呼は、その近くに埋葬されたのではないでしょうか。
 百人の殉死も生きた人間が埋められてのはなく、既にあった集合墳の近くに大きな墓を作ったとも考えられます。
 古墳時代に多数つくられて大きな前方後円墳
 だから、卑弥呼のお墓が前方後円墳の原型と考える人も多いです。
 卑弥呼は既に老婆でありながら、南の敵国狗奴国と争いの真っただ中、魏国へ応援を依頼したりしています。
 自分の死後を考えるゆとりはありませんでした。
 後継者の指名もできないまま亡くなっています。
 私たちがイメージする近畿の大きな前方後円墳とはかなり異なるお墓ではないでしょうか。
私のイメージ、丘の集合墳の上部にある高台の頂点に穴を掘って卑弥呼のお墓にした。
石室、石棺ではなく、木棺、甕棺だと思います。

古代の人は、神話の神々を信用した?

2018-03-21 11:00:46 | 歴史
古墳時代、飛鳥時代そして、神道、古事記が完成した平安時代
当時の人々(貴族、豪族、庶民)は、日本神話の神様達の神話を信用したのでしょうか。

現在人であれば
・日本の島々は、神様が矛の先で海を混ぜて出来た。
・神様の耳や鼻、凄い所では墳からも子供を産む。
・天照大神が拗ねて岩戸に隠れると世の中が真っ暗になる。
そして、伊勢神宮に天照大神様が鎮座されていて倭国の繁栄を見守ってくれている。
日本列島は、何千億年も前に大陸から離れて現在のプレートの上にある。
草や木も細胞からできていて光を浴びて、土から栄養をとって成長している。
雨や風など気象現象、病気の原因や治療も知っています。
神話だからと流し読みするのが普通でしょう。

しかし、当時は
・草や木が成長して実がなる。
・雨や風で災害や疫病などが起こる。
全ての自然現象の原因も知りませんし、対処の方法も知りません。
天照大神様にお願いして、悪いことがおきない様に祈祷する事を
本当に信じていたはずです。
現代人の私たちが読む日本神話の印象とは、大きく違っています。
それこそ、自分の人生、家族の人生、国の将来全てに大きく影響します。
古代の世界を感じながら読む必要があります。

もちろん、神様の信仰は日本だけではありません。
古代、エジプトなど世界中に神話の神様が信仰されています。
意外と、中国大陸の方が
儒教、道教と云ったように人の教え「道」について発展した様です。

天照大神の様な太陽神のお話も世界中にあります。
そして、気になるのが
稲や麦など食料となる穀物の神話で

アマテラスがウケモチの所にアメノクマヒトを遣すと、ウケモチは死んでいた。
ウケモチの亡骸の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。
アメノクマヒトがこれらを全て持ち帰ると、アマテラスは喜び、
民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。

と云った神様の自害から食物が産まれた云う神話は世界中にあります。
ハイヌウェレ神話型と呼ぶようです。
日本神話の中でも、天照以外に素戔嗚やイザナギ、イザナミの神話でも登場します。

飛鳥時代に始まり、辺案時代に完成した「古事記」「日本書紀」
伊勢神宮や出雲大社の神道の体系と日本神話
いずれも古代の貴族や各地の豪族たちには本当に信仰されていた考えるべきです。
ヤマト朝廷の日本統一(実際は、西日本統一)には
・神道が必要不可欠だった。
・当時の勢力国であった九州や出雲の神様もうまく取り入れた。
律令制度と共に神道による体制づくりがヤマト朝廷の基盤です。

古代の鏡(銅鏡)

2018-03-18 18:43:30 | 歴史
日本古代の鏡についての歴史を追ってみると
1、魏の明帝から、貢物のお礼に、卑弥呼へ「親魏倭王」の金印、鏡百枚、刀、白絹など織物、真珠、鉛丹(化粧)などが贈られた。
2、古墳時代に、死者と一緒に鏡が埋葬されている。(殆どが三角縁神獣鏡)
3、天皇家の三種の神器が剣、鏡、勾玉
と鏡は女性が化粧をする道具ではなく、祈祷を行う道具、死者の邪気を払う徐霊、王家の後継者を意味するなど
特殊な意味合いがあったようです。

さて、ここでいくつか疑問を
1、弥生時代、卑弥呼がもらった100枚の銅鏡の以前には、倭国に鏡はなかったのか
2、卑弥呼は、もらった鏡を祈祷に使用したのか
3、近畿の古墳から見つかった多数の銅鏡(600枚以上)は、卑弥呼がもらった鏡なのか
4、そもそも、卑弥呼がもらったのは三角縁神獣鏡なのか
5、卑弥呼がもらった鏡の一つが三種(鏡・玉・剣)の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣)の八咫鏡なのか
色々と疑問の目線で考えてみると面白いです。

1、弥生時代に、農耕、高倉式建物、青銅製の農耕具、矛など倭国へ伝わります。
  当然、青銅製の鏡を伝わっていたでしょう。
  実際に、弥生時代の中期の遺跡(福岡県春日市)から鏡の鋳型が発見されています

2、魏の明帝も祈祷用であれば、100枚も贈らないでしょう。沢山の織物や鉛丹が贈られています。
  1000人の侍女がいた事も知っているようです。普通の鏡に使ったのではないでしょうか。
  織物と同じで、「皆で使ってね。」みたいな。
  もちろん、鏡を持っている女性は高貴な身分という事です。
  天照大神が太陽神なので、卑弥呼も鏡の反射を使った祈祷を行ったと思い込みがあるのではないでしょうか。

3、古来中国では、徐霊の意味で死者と一緒に鏡を入れています。(儒教、道教の教え)
  古墳時代に、大きなお墓を作る風習と鏡を入れる風習が伝わったのではないでしょうか。
  265年に晋に魏が滅ぼされて、280年に呉が滅びます。ちょうど古墳時代の出来事です。
  大陸から難民として倭国へ逃げてくる大陸人がいたはずです。
  大陸の影響は常に周囲の国々に影響します。
  朝鮮半島では、高句麗がここぞとばかりに朝鮮半島支配に乗り出します。

4、卑弥呼がもらった鏡=三角縁神獣鏡
  そもそも、これが大間違いなのです。
  機内で発見された三角縁神獣鏡の多くは倭製です。ただ周囲に漢字が書かれているために中国製を思い込んでいます。
  書かれている漢字には、存在しない年号や魏の国を中傷するような文言もあるようです。
  加えて、魏には三角縁神獣鏡を作る文化がないのです。三角縁神獣鏡は呉の文化です。
  卑弥呼がもらった鏡 <> 三角縁神獣鏡 が正しい答えです。
  三世紀後半、265年に魏が晋に滅ぼされます。280年には、呉も滅ぼされます。
  晋の奴隷となった旧魏、呉の職人たちが朝鮮半島へ亡命、倭国へ移住して、大陸の文化を伝えた。
  古墳や三角縁神獣鏡の鋳型を作り、死者と一緒に棺に入れる事で徐霊になる(道教の教えを広めた)のです。

5、天皇家の正当な後継者の証である三種(鏡・玉・剣)の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣)も古代中国の道教の影響です。
  道教では、正統な後継者の証に鏡と剣を二種の神宝を用いていましたが、秦の始皇帝が伝国の玉璽という印鑑を使ったことから
  鏡と剣、玉を三種の神器を持つ者が正当な後継者と云うようになります。
  この教えが日本へ伝わったのは5世紀頃と言われています。
  つまり、聖徳太子以降、「古事記」「日本書紀」の作成に合わせて、日本神道(伊勢神宮や出雲大社)の制度を確立
  同時に、当時の天皇の正当性を決めるために、三種(鏡・玉・剣)の神器を八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣としたのです。
  八咫鏡は、天の岩戸の日本神話で、天照が岩戸から少し顔を出した時に、自分の顔を映し出した鏡です。
  祈祷や徐霊ではなく、単純に鏡として使われています。
  玉璽という印鑑も印鑑ではなく縄文時代から倭国に伝わる勾玉です。
  剣は、素戔嗚がヤワタノオロチを成敗した時に尻尾から出てきた剣です。
  尻尾を切った時に、自分の剣が折れて、中から草薙剣が出てきます。
  後にヤマトタケルが襲われた時に、草薙を切り倒して火を点けてことから草薙剣と呼ばれています。
  官位十二条など律令制度を造る一方、神道と天皇制の正当性をしっかりと盛り込んだ日本神話を「古事記」に載せませす。
  既にヤマト朝廷が倭国統一を成し遂げた後であったからこそ出来たのです。
  実際の歴史とは、かなり異なる部分が多数あります。

間違っても
・古代の王(卑弥呼など)が大陸へ貢物を贈って金印をもらった。
・大陸から米など農耕が伝わった。
などは記載されません。
代わりに挿入されたのが、神功皇后などで、「史曰く」と云う文言を加える事で大陸の史記と帳尻を合わせようとしています。
ヤマト朝廷、恐ろしい程の知恵者です。

  

邪馬台国は九州しか考えられない。

2018-03-18 10:02:20 | 歴史
過去の投稿で、邪馬台国九州説を唱えてきましたが、今一度、まとめておきます。
邪馬台国とは、魏志倭人伝に紹介されている倭国にあった大国です。
もし、魏志倭人伝がなかったら、見つからなかったら
邪馬台国の存在もわからなかったでしょう。
当時の倭国を大雑把に
・57年 漢より金印「漢委奴国王」が贈られる。
 実際に博多湾で発見されている。
 大陸の皇帝は周囲の国々や役人に、金印、銀印、銅印などを送っていた。
・倭国が乱れて大乱の時代が続いた。
 100年から180年位
・卑弥呼が女王となり祈祷で国をまとめる。
・238年(或いは239年)に、卑弥呼は魏へ貢物を贈り、金印「親魏倭王」を贈られる。
 その後も朝献は続いた。
・247年 敵対する狗奴国(男王 卑弥弓呼)との和睦のために文書(文)を贈る。
・248年 卑弥呼死す。
ざっとこんな感じです。

魏の国皇帝が、邪馬台国の女王卑弥呼へ金印など多数の贈り物をしています。
邪馬台国、卑弥呼が実在した事は事実でしょう。
しかし、残念柄、倭国には文字が無いので、卑弥呼も邪馬台国も大陸が充てた漢字です。
さて、魏志倭人伝から邪馬台国が九州である理由です。
1、(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。
  帯方郡から伊都国、奴国(博多湾)までの道程も書いてあり、
  
  帯方郡~博多湾は、合計10,600里
  残り、1400里で邪馬台国
  ※近畿まで1400里では近すぎます。
2、南(行)して、邪馬台国の女王の都まで水行十日、陸行一月かかる。
  博多湾まで、水行十日、陸行6~7日 残り陸行20日ほどで邪馬台国です。
  陸行20日で近畿までたどり着けないでしょう。
  方向も東です。
3、女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。
  伊都国、奴国など玄界灘湾岸の国々は一大率が権力者で、その南に邪馬台国
4、女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。
  東側が海で、千余里(水行1日)で陸地があり、倭人が住んでいる。
  ※周防灘を船で渡り、四国、或いは山口、広島(安芸)では
5、その南に狗奴国がある。男王に狗古智卑狗(菊池彦か)がある。女王に属していない。
  邪馬台国の南に、狗奴国がある。
6、侏儒(こびと)の国が、その南に(存)在する。女王(国)を去ること四千余里である。
  ※現在の鹿児島より南、屋久島、沖縄ではなかろうか。
7、裸国・黒歯国があり、 またその東南に在る。船行一年でいたることが可能であろう。
  フィリピンなど赤道に近い南国の国でしょう。
8、周旋すること(めぐりまわれば)五千余里ばかりである
  松浦半島(末盧国)から糸島半島(伊都国)まで500里ですので、周囲は、その10倍ほど

邪馬台国近畿説では
邪馬台国は南へ12000里は、奴国を東へ向かって12000里と南を東に置き換えて解釈します。
南を東に、東を北に置き換えると
東方の海にある国が、北にある倭種の国となるので日本海上になります。
南にある小人国、裸国が関東方面に
船を使わずに陸でいけますし、関東、東北で裸族の国は寒すぎです。

日本神話の国産みでは、九州は
筑紫国(玄界灘の一大卒が支配した国)
豊国(大分など周防灘側の国)
肥国(有明海側の国、たぶん邪馬台国があった)
熊曽国(男王 卑弥弓呼の狗奴国)

3世紀中ごろまであった邪馬台国は九州で間違いないでしょう。
5~6世紀に登場するヤマト王権との関係があるのか
「倭」と云う漢字を使い、ヤマトと発音(邪馬台もヤマトと読めます)
ここに空白の4世紀(古墳時代)が存在しているのです。
もちろん、卑弥呼の時代(弥生時代)に
山陰には出雲、山陽の安芸、吉備、大阪湾岸の国々、奈良盆地の国がありました。
ただ、魏志倭人伝に紹介されていないだけです。

弥生時代に起きた日食

2018-03-18 06:42:15 | 歴史
地震活動以外に、はっきりしている事実に、皆既日食があります。
現在の天文学の技術を使えば、古代日本でおきた日食が計算されます。
247年、248年に福岡で起きた日食
ちょうど、卑弥呼が亡くなり、倭国が乱れて、台与が次の女王になる247年、248年に
福岡で日食がおきています。248年の日食は近畿でも観測られたと考えられます。
日本神話の「天の岩戸」の伝説と重ねて考えるのは無意味ではないと思います。
考えられる事
1、天照大神は卑弥呼で、弥生時代の女王
2、247年、248年の日食でその権力を失う。
3、天の岩戸の物語が伝えている。
4、天の岩戸から出てきた時は、次の女王、台与である。
まぐれの様ですが、
魏志倭人伝の記述と日食の年が一致してしまうのです。
日本神話に取り入れられた可能性は高いです。

古事記の記述で驚かされるのが
神功皇后
・あの関門海峡を作った。
・武雄温泉を作った。
とても人間業ではありませんよね。
同様に、ヤマトタケルがいます。
神話は、古事記の上巻だけではなく、中巻にも挿入されているようです。
神功皇后、ヤマトタケルのお話は、また次の機会があれば・・・

卑弥呼=天照大神で弥生時代の可能性は高いです。
・天照の神話「天の岩戸」で鏡が登場する。(後の三種の神器のひとつ)
・素戔嗚のいたずらで織物の女性が亡くなる。(機織がある)
・屋根のある建物がある。(高倉式建物)
一方、アマノウズメの裸踊りや宴会の様子は庶民的ですね。

古代の火山・温泉

2018-03-17 21:45:18 | 歴史
前投稿で、古代と変わらない物で
古代の樹木について
九州の地形から倭国を考える。
を紹介しましたが、もう一つ、日本の火山と温泉について、九州と近畿を比較してみます。

の様に西日本に限ると九州は火山地帯
近畿には、火山が無い事がわかります。
これは、現在でも2000年前でも変わっていない事実でしょう。
温泉でみても、九州北部では
武雄温泉、嬉野温泉などから、別府の地獄温泉などがあります。
しかし、魏志倭人伝には、地震、火山、温泉に関する記事が見当たりません。
魏志倭人伝に紹介される時代(1~3世紀)には、倭人の生活を変えるような大きな火山活動、地震はなかったようです。
温泉についても、古い記述が出てくるのは平安時代位
1300年の歴史を持つ武雄温泉や万葉集に出てくる別府温泉です。
やはり、弥生時代の人々にとっては、湯けむりを上げる温泉は不吉なのだったのでしょうか。
当時の事を想像すると、体を癒す温泉より、魚介類など食料を提供してくれる河川が重要でした。
人口の分布も湾岸、河川に集中していますし、農耕に有利な平地での生活が優先されたのでしょう。
温泉の普及は平安時代まで待つことになるようです。
元々、お風呂の代わりに温泉で裸で入る文化も日本独特の様です。
火山の噴火や地震に常に気を配らなくてはならないのも日本の特徴です。
ちょっと残念ですが、これも日本の文化であると受け止めましょう。

古代の樹木について

2018-03-17 16:24:43 | 歴史

「魏志倭人伝」、「古事記」など書物からちょっと離れて
古代と変わらない物シリーズで
九州の地形から倭国を考える。
に続いて樹木を考えてみました。

ご存知の通り、日本は
・南北に2500kmと長く伸びている。
・周囲が海である。
・山岳、山脈があり、長い川、きれいな水脈がある。
・春夏秋冬と四季の変化がある。
世界でも稀な環境地代です。
これらが、日本の樹木の大きく影響しているようで、日本独特の樹木が多数あります。
ネットで検索してみると
日本の森林分布
が参考になります。
西日本
低地・・・照葉樹林(樫の木、椎の木、椿類)
高地・・・落葉広葉樹林(ブナ、ミズナラ、ケヤキなど)
東日本
低地・・・落葉広葉樹林(ブナ、ミズナラ、ケヤキなど)
高地・・・常緑針葉樹林(松類、シラソビ、コメツガなど)

この状況は、現在も2000年前も変わらないでしょう。
倭人、日本人による伐採、植樹での変化はあったでしょうが。

では、古代の人が樹木をどの様に使ったか想像してみます。
・石器時代
道具と云えば、黒曜石など鋭い石を探して、枝に結び付ける(?)斧
大きな木の根元を切る事は出来ません。
枯れ木や低木の木、枝を切り落として、火をおこして燃やす材料に使い始めた時代でしょう。
・縄文時代
焼物ですので、火も必要です。料理もしますので、燃える樹木の需要が増えたでしょう。
・弥生時代
大陸から高倉式の建物、農耕、織物など伝わります。
建築に使用する木材を切り倒したでしょう。鉄製の斧など道具が普及した時代です。
杉やヒノキなど太く背が高い樹木を木材として使いますし、樹皮が屋根などに使われます。
「古事記」のスサノオ神話の中で、ヒノキを建材として使うことが示唆されている様です。
素戔嗚も弥生時代の人物像かもしれませんね。
・古墳時代
 大きな古墳が作られ、焼物には埴輪などがあります。
 王家の屋敷などが更に大きくなったでしょう。
・飛鳥時代
あの有名な法隆寺(五重塔など)がヒノキで作られているようです。
とにかく、高度な木材の加工がなされていて木造建築の建築技術は現在でも使われています。

他にもちょっと調べてみると
ヒノキ(檜、桧)ヒノキは日本と台湾にのみ分布する。日本では本州中部(福島県)以南から九州まで分布する。
杉(杉の木)
松(アカマツ)
と日本独特、九州、西日本に多い樹木が建材に古くから使われています。
中国、朝鮮半島、日本それぞれの建築文化は、自国にある樹木が影響している部分も多いと思います。

長野県諏訪市の御柱祭りで、切り出される柱は、樅(もみ)の大木の様です。
あれだけの大木を切り倒して運ぶのですから、古代の人は凄いですね。

ちなみに、朝鮮半島は日本より北側にある為か、アカマツなど松類を使った建物、仏像などに使われてるようです。
古代中国、三国志の時代には、木造の大きな船が活躍しています。
紀元前4世紀位に、徐福一団が船で日本まで渡航しています。
大陸で起きた魏蜀呉の戦争は木造の大きな船を作る技術を高めたのでしょう。

「神武東征の神話」必要だったのか。

2018-03-11 16:34:31 | 歴史
一応、神武東征の意味する所 の続きになりますが
「古事記」「日本書紀」は天皇家の正当性を主張する為に都合よく書かれた歴史書で
「古事記」は上巻、中巻、下巻の三つに分かれていて、上巻の部分が
・イザナギ、イザナミによる国産みや神産み
・天照大神と素戔嗚の誓約
・ニニギの天孫降臨
・出雲の国造
・山幸彦、海幸彦などの日本神話です。
最後に
神武天皇が、九州日向の土地を出発して、近畿を制圧、奈良(橿原)で初代天皇に即位します。

イザナギ、イザナミによる国産み、天孫降臨などは、さすがに天皇家のご先祖様と思われるような
壮大で、通常の人間では出来ない様な内容です。
天照大神と素戔嗚の兄弟げんかもそうですが、
九州日向を出発して近畿を制圧する神武東征の物語は必要だったのでしょうか。
考えられる理由は
・ご先祖様が九州から移住したことが事実である。
・その歴史が漢字のない時代に、きちんと伝えられていた。
・その事実を知る人が多くいた。
一方
・実は、ヤマト朝廷は元々、近畿の一族が発展した国
・或いは、朝鮮人が新たに移住して出来た国
しかし、西日本統一には、西日本統一にマイナスの印象がのこるので
あえて、九州から移住した物語を作成した。
この二通りが考えられると思います。

ヤマト朝廷は元々、近畿の一族が発展した国なら
天孫降臨を奈良盆地にして、山陰、山陽、最後に九州を制圧する物語の方が立派になります。
朝鮮半島など他国から移住して出来た新興国家であれば、自分たちのご先祖は
九州から移住して来たと作り話を作成、正当性を主張した可能性は強いです。

弥生時代(ヤマト朝廷が出来る3~400年前)は確かに、文化が九州から西日本へ伝わった時代です。
弥生時代末期、古墳時代前期は、魏の国が滅び大陸が混乱の時代に突入します。
朝鮮半島では、高句麗が支配力を強め、倭国の支配が弱まる、軍を引き上げた時代です。
朝鮮半島から沢山の移民が倭国へ来ます。
九州北部(筑紫など玄界灘湾岸)が朝鮮半島から攻撃される危険性も増えた時代です。
大宰府を中心に倭国防衛の任務が増える一方、大陸との交易で栄える事はありません。
九州にあった国の王が朝鮮半島から離れた安全な地域で新しい都を作る計画を立てても不思議ではありません。
新しい国造りは、氏姓制度を始まりにした律令国家です。
もちろん、文化は大陸を参考にします。中国大陸、朝鮮半島からの移住した民族を活用したでしょう。
各地の豪族が大きな古墳を競い合って作る時代ですから、全く新しい思想であった事は間違いないでしょう。
飛鳥時代には、漢字や仏教が伝わります。
神武天皇の祖先が九州出身であったかどうかは、わかりませんが
氏姓制度も九州から西へ伝わり、都を奈良に決めて連合国体制から始まった事は間違いないと考えています。
もちろん、飛鳥時代に始まる聖徳太子の遣隋使の派遣、冠位十二階や十七条憲法などで急速に進んだ事は
間違いありません。
倭国の皇帝(天皇家)が遠く東(九州、大陸に近い場所)から移住して近畿で新しい国造りを行ったストーリーが
必要で、且つ、諸国の信頼を得る唯一の方法であったのです。