古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

七枝刀 と 広開土王碑

2016-10-11 08:34:41 | 歴史
いずれも朝鮮半島の国からの情報です。
七枝刀は、百済が倭国に献上した刀、奈良県石上神宮に奉納されており国宝です。
一説では、物部氏の倉から発見されとなっています。重要なのは、刀に掘られた文字
「泰和4年(369年)によく鍛えた鉄で七枝刀を造った。
かってこのような立派な刀はなかったが、百済王の太子が倭王のため
にわざわざ造ったものである。後世まで伝え示されたい。」

百済が倭国の属国であったか、対等の立場で友好関係にあったでしょうね。

広開土王碑(好太王碑とも言う)は
朝鮮半島のだいぶ内陸にあった高句麗の第19代の王 広開土王 の話です。
現在の北朝鮮の中ほどに好太王陵と云う高句麗歴代の王のはかがあります。
その中で、英雄 広開土王の活躍を記録した石碑が建てられています。
その内容は
そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が391年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。

つまり、300年後期に倭国が朝鮮半島へ出兵
新羅、百済は高句麗の属国であったが
391年 倭国の属国になった。
新羅から応援の依頼があり、5万の兵隊を出して、倭軍を朝鮮半島南端まで追い払った。
404年 倭国は直接、高句麗へ攻めてきたが、撤退した事になります。
ここにある倭国が 九州北部の倭国(九州朝廷)なのか、ヤマト王権なのかの疑問のあります。

倭軍は、広開土王軍を見ると、おびえて戦わずに逃げた と
何とも、神功皇后と同じですね。
広開土王碑もでっち上げとの説があります。
やなり、中国の史記を知りたいですね。
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