古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

魏志倭人伝をもう少し詳しく(補足)

2016-10-01 09:43:50 | 歴史
魏志倭人伝で常に議論がぶつかるのが
・邪馬台国へは、南へ水行十日、陸行一月 の文書
そのまま、南へ進んだら鹿児島を飛び出して海の中
南を東へ変えても、瀬戸内海から近畿に上陸、1か月もあるけば関東まで行けてしまいます。
ましてや、倭国は周囲5000里とも書いてあるので、矛盾ですし、既に自爆しています。

これは、他説である様に
1、中国(山東省)を船で出発、ソウル、プサンへ渡り、玄界灘を壱岐対馬を経由して
  倭国へ到着するまで 10日
2、中国(山東省)を陸路で北へ進む、更に朝鮮半島を陸路でプサンへ
  プサンからほかの船に乗せてもらっていくと
  倭国へ到着するまで 1ヵ月かかる。
と解釈するとスッキリ

それと、卑弥呼は女王の名前、固有名詞 と思う人が多いと思います。
そうでしょうか、南に位置する敵国 狗奴国の男王は 卑弥弓呼 
個人名(固有名詞)としたら、たまたまにしろ似すぎています。
例えば、対馬国や一支国では
大官を卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)というあります。
ヒコ が 大官 で、ヒナモリ は副官 と役職や地位を伝えています。
卑弥呼も卑弥弓呼も個人名ではなく、その役職、地位と考えるべきです。
つまり大国の女王 が ヒミコ 男王が ヒメヒコ と呼ばれていのです。
そう考えて魏志倭人伝を読み直してみると、個人名は一つも出てこないのです。
当時の倭国では、漢字はありません、言葉もまだ未熟だったでしょう。
一人一人に名前を付ける事はなかったと思います。
国名も同じで、大陸が勝手に当て字を付けているいるだけです。
初めて、個人名が出てくるのは、卑弥呼の死後に後を継ぐ女王 台与(トヨ)
では、ないでしょうか。
このころ初めて、王家の人々が名前を名乗る様になった。(AD300年前後)


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