古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

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素戔嗚命と出雲大社

2017-11-19 14:04:52 | 歴史
天照大神と伊勢神宮があれば気になるのが出雲大社です。
日本神話の上では
素戔嗚命と天照大神は兄弟で、天皇家の祖がなぜか女性の天照大神で
素戔嗚命は、分家扱いです。
男系血統の天皇家であれば、天照大神が男性で素戔嗚命が女性で分家のはずです。
すもそも、素戔嗚命は荒っぽく、天照大神とはだいぶ性格も違います。
名前も天照は天(太陽神)で漢字も分かりやすいですが
素戔嗚に使われる漢字は、現在はあまり使われていません。
出雲の歴史を考えてみます。

秦の始皇帝の時代には、黄河下流から船で弥生人の祖となる徐福などは移住しています。
邪馬台国の卑弥呼の時代(3世紀中ごろ)大陸の漢や魏の国と交易して栄えたのは
九州北部(瀬戸内海湾岸)の国で、伊都国に漢の役人、一大卒が権力者です。
朝鮮半島の南端から壱岐・対馬を経由して松浦半島が一番簡単な航路です。
出雲への航路は、朝鮮半島東側、日本海側の国、新羅があり、弥生時代に移住したでしょう。
新羅から船で出向して博多湾を目指しますが、海流に流されてたどり着いた土地が山陰
出雲です。そして魏志倭人伝に出てくる投馬国を作ります。
伊都国と投馬国 の感じですが、他の国、邪馬台国、奴国、狗奴国 とは違い分かりやすい漢字が使われています。
この投馬国が後の出雲国であれば、素戔嗚命は新羅神ではないでしょうか。
日本神話に出てくるやわたの大蛇は、新羅から渡来した弥生人は、山陰にあった八つの国の王を征伐して新しい国出雲を作り出した話ではないでしょうか。

そして、この出雲国は近畿へも力を伸ばします。
先の天照大神と伊勢神宮でも紹介しましたが、奈良の信仰 天照大神 を伊勢への土地へ追い出すわけです。

しかし、その武力政治も武烈天皇が亡くなり、越前国(福井県)から継体天皇に即位して
新たな国造りに変わります。
蘇我氏、聖徳太子の時代には、仏教と漢字が百済から伝わり飛鳥文化が栄えます。
出雲信仰は近畿から姿を消して、出雲に戻っていきます。
権力の頂点に立つ蘇我氏も645年に乙巳の変で滅びて、中大兄皇子による大化の改新となります。
660年には、百済も唐に滅ぼされます。
中大兄皇子は、38代天智天皇
41代持統天皇、43代元明天皇は女性で天智天皇子供です。
この時代に「古事記」「日本書紀」が作成されます。
時代は、奈良時代(平城京)です。奈良の大仏など近畿では日本仏教が信仰されます。
天照大神が伊勢、素戔嗚命が出雲は都合の良い立地でした。

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天照大神と伊勢神宮

2017-11-19 12:30:31 | 歴史
伊勢神宮 と 出雲大社 近畿を中心に東西にあってヤマトの国 を守護してくれています。
実に都合よく出来た二つの神社ですね。
出雲大社
・日本海側で日が沈む方向に、男神の 素戔嗚命
伊勢神宮
・太平洋側で日が昇る方向に、女神の 天照大神
ヤマトのご先祖は、天照大神で主人公、素戔嗚命は、サブ的存在で天照大神とはよくケンカをしています。

この二つの神社の成り立ちをたどって見ました、
天照大神を祀る神宮は大和の地、奈良が一番ですよね。なのになぜか伊勢です。
やはり、物語があります。
「古事記」「日本書紀」によると
10代 崇神天皇 (聖徳太子が31代用明天皇の子供で西暦500~600年程ですのでかなり前です。3世紀後半位ではないでしょうか、卑弥呼の死後直後です。)
伝染病が流行り沢山の人が亡くなったので、天照大神 と 大和大国魂 の二神を奈良の笠縫無邑の御殿に祀りました。
天照大神を自分の皇女 豊鍬入姫命 に祀らせ、巫女とします。
しかし、当時の奈良は出雲の神々を信仰する力が強かったのです。
11代 垂仁天皇は、自分の皇女 倭姫命に「八咫鏡」を託して、奈良の地を離れる様に命令します。
倭姫は、名張、上野、伊賀町、滋賀近江町、岐阜阿南町、愛知、三重と「八咫鏡」共に旅をされます。
三重県多度町には、猿田彦の椿大神社があり、倭姫を迎え入れ、天照大神をお供えされたそうです。

さて、天照大神と「八咫鏡」が伊勢へ移られ後の奈良ですが
・日本武尊の関東征伐、九州征伐
・神功皇后の朝鮮征伐
・16代仁徳天皇の大仙陵古墳、大阪の開拓
・倭の五王による朝鮮半島出兵
・25代武烈天皇崩御で、継体天皇へ
何ともヒーロー達の活躍が目立ちます。
近畿は天照信仰ではなく、
素戔嗚命の様な武勇の神が信仰されていたのではないでしょうか。
(多分、出雲信仰の力が強い時代)
「古事記」「日本書紀」が作成されるのは後の時代ですが
出雲の素戔嗚信仰が切れない関係だったのです。

日本武尊 も 神功皇后 も挿入された架空のヒーローではないでしょうか。
・日本武尊
 一代で九州征伐で近畿・九州を往復、更に、関東を往復して関東征伐
・神功皇后
 身重のお腹を石で冷やしながら朝鮮半島へ討伐して帰り出産します。
素戔嗚と天照大神に似た人物が登場します。
時代は、古墳時代中期で近畿で鉄製品が普及します。

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物部氏VS蘇我氏の物語をDNAを加えてみると

2017-11-14 16:58:34 | 歴史
神道派の物部氏 と 仏教派の蘇我氏の争いは 蘇我氏VS物部氏(1/3)に紹介しましたが、概略を
蘇我氏(弥生系、縄文系不明)と物部氏(添付の右側)の争い
・蘇我稲目は欽明天皇より仏像を賜り、熱心に礼拝した
・物部尾輿はこれに反対し、寺を焼き、仏像を難波の堀江に流す。(552年)

・蘇我馬子は父の志を継ぎ、熱心に仏像を礼拝
・物部守屋は父の志を継ぎ、中臣勝海(たぶん弥生人)と共に仏教崇拝に反対する。

物部守屋は、蘇我馬子や厩戸皇子(聖徳太子)の活躍で蘇我軍に殺される
蘇我馬子が死に、子の蘇我蝦夷がかわって大臣になる(626年)
中大兄皇子と中臣鎌子が蘇我入鹿を暗殺(645年)
と6世紀~7世紀前半の出来事です

この物語に、縄文人、弥生人を追加します。
506年 武烈天皇(縄文人)が後継者を推挙せずに亡くなります。
大連・大伴金村、物部麁鹿火(弥生人)、大臣巨勢男人(縄文人)らが協議して
15代 応神天皇の5世代後の継体天皇(正しければ縄文人)を26代天皇に推挙します。
大伴氏、物部氏、巨勢氏は、15代 応神天皇の時代から天皇家に仕えています。
※まだ蘇我氏は登場しません。
 仁徳天皇、武烈天皇は倭の五王で朝鮮半島の支配に出兵しますが、達成できずに亡くなっています。
 この時代に仏教、漢字、朝鮮文化が伝わり飛鳥文化になります。
 始まりは、九州ではなく、近畿です、倭の五王と朝鮮半島の歴史の移り変わりが大きく影響しています。
 近畿の権力者は河内地方で、仁徳天皇陵等、最大の古墳を作ります。大阪湾岸の一族が力を増しています。
 この武烈天皇から解体天皇以後が、近畿地方で波乱の時代の幕開けになります。

継体天皇の子供、27代 安閑天皇、28代 安閑天皇 、29代 欽明天皇(縄文人)と続きます。
欽明天皇は仏教を信仰し蘇我稲目(大阪湾の縄文人、朝鮮半島から移住した民族?)を大臣として起用します。
この時代に、蘇我稲目(近畿の一族で急に奈良の天皇家に近づく) VS 物部尾輿(弥生人で古くより天皇家に仕えている)の構図が出来ます。
この蘇我稲目(蘇我馬子ら4男3女の父)が
・縄文時代から大阪湾岸に住んでいた一族なのか
・倭の五王の時代に、朝鮮半島から移住してきた一族なのか
不明です。とにかく新参者である事は間違いありません。
たぶん、O系統漢族でしょう。

蘇我稲目の娘、蘇我堅塩媛が欽明天皇(30代)と結婚して、
敏達天皇(31代 欽明天皇の子供であるが母親が蘇我氏ではない)
用明天皇(32代 母親が蘇我氏)
推古天皇(33代 初の女帝、母親が蘇我氏)
崇峻天皇(34代 母親が蘇我氏)と、その子供が天皇となり蘇我氏全盛の時代が続く

用明天皇(32代)崩御の際、物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが
蘇我馬子が先手を打ち穴穂部皇子を殺害、物部守屋を滅ぼす。
(620年 推古28年)聖徳太子と蘇我馬子が「天皇記」「国記」を作成
(622年)聖徳太子死去
(626年)蘇我馬子が死去
(628年 推古天皇崩御
・・・・
蘇我蝦夷(蘇我馬子と物部守屋の妹との子供、男子)
蘇我入鹿(蘇我蝦夷の子供)
斉明天皇(35代、37代の二度即位 女帝)

蘇我入鹿 中大兄皇子は中臣鎌足(連の姓 弥生人)らと大化の改新の前夜
乙巳の変(645年)にて討たれる。「天皇記」「国記」焼失
蘇我蝦夷、翌日自害
これにて、蘇我氏の野望が終了します。
蘇我稲目、馬子の親子が考えた事は難だったのでしょうか。
朝鮮半島で無しえなかった一族の国を日本で再現したかったのでしょうか。
「天皇記」「国記」が残っていれば確認できたかもしれません。
その蘇我氏に加担にしたのが、聖徳太子です。


孝徳天皇(36代)が即位し、中大兄皇子が皇太子となり大化の改新が実行される。
斉明天皇(37代の二度目の即位 女帝)
天智天皇(668年 中大兄皇子)が即位、敏達天皇の子孫で蘇我氏の血統ではない。
大阪湾の縄文人 VS 奈良の縄文人(ヤマト 天皇家)の血統の争いに終止符がうたれます。
但し、蘇我氏の先祖が不明です。
多分、倭の五王の時代に武烈天皇らと共に近畿へ移住した朝鮮半島の王族ではないでしょうか?

その期間、中臣鎌足らは奈良の天皇家側についています。
(多分、物部氏と同様に古くから天皇家に仕えていた弥生人)
後に藤原氏の氏名を与えられます。
(694年)日本で初めての都 藤原京(飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城)が出来ます。
(710年)平城京、奈良時代へ突入します。





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大伴氏、物部氏は弥生人

2017-11-14 14:31:53 | 歴史
前投稿の続きです。氏姓制度で代表的な氏族のDNAは? から読んでみて下さい。

その前に、当時の歴史の流れを簡単に
1、弥生時代
  秦の始皇帝、漢の時代に大陸から漢族が日本に移住して弥生文化が普及します。
  最初は、九州北部の玄界灘湾岸の国です。魏志倭人伝に紹介される奴国(漢委奴国王金印)伊都国(一大卒がいた)
  国々が大陸と交易を続ける一方
  大陸人は、山陰地方へ、瀬戸内海湾岸の国々へ
  近畿地方の淡路、大阪(河内地方)へその文化を広げていきます。
  徐々に東へ広がっていきます。
  この時代の力関係は
  玄界灘湾岸の国々>山陰の出雲>瀬戸内海の吉備など>近畿地方の豪族
2、古墳時代
  魏の国が滅び大陸が乱れる、朝鮮半島を高句麗が支配します。
  大陸との交易が途切れてしまい、日本の諸国で豪族の国が力を付けます。
  弥生人の農耕、建物、食料の保管などに加えて、古墳と言う先祖供養、権力の象徴が始まります。
  この時代
  玄界灘湾岸の国々、山陰の出雲・・朝鮮半島(百済、新羅)支配に力を入れる。鉄製品を入手して
  武力を蓄える。
  瀬戸内海の吉備など、近畿地方の豪族・・・農耕が進みが武器が少なく人口が増える。
3、飛鳥時代
  奈良の大和地方から近畿の統一が実行される。(ヤマト朝廷)
  博多湾の国々は既に、築地氏で統一が出来ていますが、大阪湾の国々はまだいくつかの豪族に分かれています。

氏姓制度のおかげで、各地の地名、豪族名に加えて、近畿の豪族の状況がはっきりしてきます。
やっと、先の投稿の続きです。
近畿地方の豪族
 臣の姓を持つ一族・・葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏
           主に、河内長野など大阪湾周辺の一族です。
           それぞれの豪族でヤマト朝廷に匹敵する一族です。
  
 連の姓を持つ一族・・大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏
           奈良の豪族で天皇家に仕えています。
           このヤマト一族が大阪湾の豪族をまとまて、ヤマト朝廷が始まります。
さて、その奈良地方ですが
 大和地方(明日香)は、奈良盆地から離れた山奥です。
 ここでも、一族の長(天皇)山奥に住み、盆地で栄えている一族を支配しています。
 何となく、魏志倭人伝の倭国の代表に、力のある博多湾の国から離れた邪馬台国の女王 卑弥呼を推薦するのに
 似ていますね。

奈良盆地を縄文時代から
盆地の各地に縄文人が部族を作り沢山の村々があり、お互いに協力しながら生活しています。
そこへ、顔、体形が異なり、衣服も違い文化をもった弥生人が移住してきます。
彼らは、農耕の方法など新しい文化を伝えます。
しかし、弥生人が原住の部族を支配してしまうのを恐れたヤマト王は、明日香の地に王家(都)を作り
弥生人を雇う形で奈良盆地を発展させます。
大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏は、渡来した弥生人で O系統の染色体をもつ一族です。
後に、神道派 物部氏 VS 仏教派 蘇我氏 で有名な
蘇我氏ですが、天皇家へ姫様を送り天皇家と血統を結びます。
蘇我氏は、縄文人系のD系統で、天皇家と顔、体形が似ていたのではないでしょうか。
蘇我氏、物部氏の争いは 蘇我氏VS物部氏(1/3) 聖徳太子こちらです。

臣の姓を持つ一族
大阪湾の国々へも弥生人が移住してきます。それぞれの国で対応は多様化しています。
弥生人に支配された国もあれあ、新しく弥生人の国も出来たはずです。
古墳時代には、瀬戸内海航路が発展して、九州、山陽、大阪湾が複雑な関係になったでしょう。
葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏は元々は縄文人O系統ですが、混血であったり
渡来弥生人である O系統の可能性があり、分ける事が難しいです。

筑紫や出雲より遅れますが、近畿でならのヤマト一族を倭国(先祖・縄文人)の王族とする連合が出来
ヤマト朝廷となり、筑紫、出雲をしのぐ勢力になったのではないでしょうか。
ヤマト朝廷は原住民である縄文人を大切にし、新しい文化を持つ弥生人をうまく活用しました。
九州では、無理やり卑弥呼を女王に担ぎ上げ、倭国統一をはかり、狗奴国と対立した九州とは少し異なりますね。
その後の九州は、地理的にも九重、阿蘇、高千穂を山脈があるので
筑紫、豊国(後の筑豊)、肥国、熊曽国に分かれて、異なる血筋の王、文化を持つ国々で歴史が続きます。
四国も同様でしょう。
大阪湾岸の国々では、国々の境界線が隣接しているため、
奈良盆地のヤマト王を頂点とした連合体制が望ましかったのかもしれません。


しかし、不思議なのが
・国名を ヤマト と 邪馬台国と同じにした。
・神武東征 と言う移住の伝説を取り入れた。

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氏姓制度で代表的な氏族のDNAは?

2017-11-14 11:19:45 | 歴史
先の投稿 日本人のDNA(Y染色体)の分布 について考えていたら
天皇家の他、氏姓制度で名前が出てくる 各氏族の DNA(Y染色体)はどうなのだろうと考えてしまいます。
古墳時代末期~飛鳥時代に、奈良地方のヤマト朝廷が各地の一族に氏名を与える。
弥生人が渡来して数百年を経過していますが、縄文人と弥生人の体格など特徴の違いなどもあって
混血はあまり進まなかったのではないでしょうか。
国内でも一族血統を重んじる考え方もあったはずです。

では、氏名(豪族、一族名)は、大きく
1、地方の有力豪族
2、奈良地方で、天皇家に仕えていた一族
ですが、 2は更に
A、近畿地方の有力豪族で、地名(臣)が与えられます。
B、ヤマト(奈良)一族で
  天皇家での役職、仕事で与えられた役職名(連)が与えられます。
更に
C、武内宿禰(たけしうちのすくね)の末裔で天皇家に仕えていた一族
に分けられるようです。

代表的な氏名では
1、  地方の豪族・・・筑紫氏、出雲市氏、吉備氏、毛野氏など
2-A 近畿(地元)の豪族で天皇家に仕事でつかえていた一族
         ・・・物部氏、大伴氏、安曇氏、海部氏など
2-B 武内宿禰の末裔で天皇家に仕えていた
         ・・・蘇我氏、波多氏、巨勢氏(こせうじ)、平群氏(へぐりうじ)など

では、武内宿禰 とは
8代孝元天皇の末裔で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)に仕えた。


分かりやすい順番に
・天皇家
 縄文時代から日本に住んでいた一族でD系統染色体(縄文人の男系血統)
2-C 武内宿禰の末裔
 同じく天皇家の末裔になるので、D系統染色体(縄文人)
 但し、武内宿禰が実在したのか、蘇我氏などが本当に武内宿禰の末裔なのか疑問が残る。

2-A、B ヤマト朝廷が力をつけ、天皇家に仕えた一族
 近畿の豪族で氏姓制度で
 臣(おみ)・・・奈良周辺の地域の地名を持つ豪族
 連(むらじ)・・奈良の土地でヤマト朝廷から役職を名前として持つ一族
 の二つに分けられます。
 天皇家との血統ではない。
 臣の姓を持つ一族・・葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏
           主に、河内長野など大阪湾周辺の一族です。
           ヤマト朝廷に匹敵する一族です。
 D系統、O系統と分ける事は難しい。
  
 連の姓を持つ一族・・大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏
           天皇家に仕えています。
 天皇家(ヤマト朝廷)に弥生文化を伝えた一族
 O系統の染色体の家系ではないでしょうか。
この部分については、後ほど考察してみます。

1、地方の豪族
 縄文時代、古くから血統が続いている一族もあれば、弥生時代に住み着いた一族もある。
 D系統、O系統と分ける事は難しい。
 筑紫氏・・・伊都国の末裔であれば、漢族 O系統で始まりが漢委奴国王金印の時代
 出雲氏・・・魏志倭人伝に紹介される投馬(ズマ)国であれば、縄文時代から続く一族の可能性もある。
       日本神話では、素戔嗚の国ですので、天照大神(天皇家の祖)とは異なる一族
       大国主神が国造りしている渡来人ではないと思われる。
 毛野氏・・・地域から考えても縄文人と思われる。
 いずれも、天皇家と血縁関係はない。



藤原氏、橘氏、源氏、平氏など後になって天皇家から氏名を与えられるケースも多い。

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魏志倭人伝に紹介される倭人(倭種)とは

2017-11-13 16:53:01 | 歴史
先の投稿で、日本人のDNA(Y染色体)について書いてみましたが
改めて、魏志倭人伝に紹介されている倭人(倭種)とはどんな感じだったのでしょうか。

既に、弥生時代の九州、玄界灘湾岸地方の紹介です。
・秦の始皇帝に、徐福の一団が到着して移住している(紀元前4世紀頃、弥生時代の始まり)
・漢との交易が行われている(漢委奴国王金印、1世紀頃)
・魏の国へ卑弥呼が朝貢(親魏倭王の金印が贈られる、239年、3世紀頃)

Y染色体で日本人のルーツを探ると
・石器時代、日本列島が大陸とつながっていた氷河期に大陸から移住したC系統(数万年前)
・縄文時代に琉球とアイヌから移住したD系統が縄文人(1万年前)
・弥生人、徐福など大陸から船で移住してきた漢民族O系統(紀元前400年頃)

縄文時代が弥生時代と比べて、とても長いです。
但し、縄文時代には農耕など食料の文化も劣っているので人口は少なかったでしょう。
その様な時代に、徐福など黄河下流から大陸人が移住して農耕や高倉式建物など文化を伝えます。
秦の始皇帝は満州人でO系統と思われていますが、徐福は黄河下流の国 斉の国(山東省付近)の出生です。
たぶん、O系統の漢族でしょう。
始皇帝は武力で大陸を統治しますので、多くの民族が移住した事は間違いないでしょう。
黄河下流の民族は朝鮮半島、日本列島へ、揚子江流域の民族は南(タイ、マレーシアなど)と考えるのが普通です。
始皇帝の時代に、日本列島へ漢族が移住した事が弥生時代の始まりに間違いないでしょう。
徐福を含む漢族は、道教の呪術的な文化の土地柄です。徐福は道教の方士です。

魏志倭人伝に紹介されている倭国は、0世紀~3世紀の弥生時代です。
情報元は
・漢の時代の情報
・一大卒など伊都国から
・使難升米・(都市)牛利と同行した人々の身なりなど
です。
そして、D系統の縄文人とO系統の弥生人では、それぞれ特徴があり、現代よりはっきりしていたはずです。
縄文人 弥生人 の特徴
多分に、縄文系の人と弥生系の人で身分や仕事も分かれていました。
吉野ケ里の環濠集落に見られるように、
環濠内では、縄文系の国王一族と弥生系の占いを仕事とする弥生系が住みます。
紀元前に、始皇帝により国を追われた漢民族(O系統)は、縄文人の王家に雇われ
その仕事により役職を得る事ができますが、縄文人との混血はあまり進まなかったのではないでしょうか。

移住した弥生系一族の仕事
・祈祷、建物、道具の管理
・食料の管理
・農耕具など器具の管理
・織物など女性の仕事
原住民の縄文系の仕事
・王族、先祖供養
・農業、狩猟、漁業など食料の取得
・防衛、つまり武人
魏志倭人伝に倭国を紹介したのは弥生系の渡来人で、その内容は縄文系の原住民族の生活です。
漢、魏の国から見た倭人(倭種)は明らかに自分達と違う民族です。
倭人(倭種)は縄文系のD系統の一族の事です。
女王国から東へ船で千里の国は倭種(縄文人)
南にある、小人国、裸国、黒歯国は倭人ではありません。
漢の時代に移住した役人が初めて伊都国を作ります。

魏志倭人伝に紹介される邪馬台国と女王 卑弥呼はどうでしょう。
卑弥呼は、呪術士です。多分、弥生系です。同時に、邪馬台国にも国王(縄文人)がいます。
つまり、弥生系女性を女王に推薦して、魏の皇帝の許可を得ます。
この弥生系女性に反対したのが、狗奴国の男王 卑弥弓呼 
結果は、卑弥呼の死(248年)をもって終焉、
国の代表は、男王は邪馬台国の国王(縄文系)に移ります。
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日本人のDNA(Y染色体)の分布

2017-11-12 13:55:22 | 歴史
ネットで日本人の祖先をDNAで探している投稿を見るのですが、とにかく難しくて良くわかりません。
ちょっと、私なりに勉強してみました。
Y染色体(男性が持つ染色体)分布で、A~Rまで18の系統に分けられていて、更に細かいグループがあるようです。
Aから順番に新しい人種の様です。

・A、B系統
 約20万年前、アフリカに誕生した現生人類
 今でもアフリカ人のほとんどが、この二系統
・C系統 約28000年前にアフリカを出て、ユーラシア大陸の南部(インドなど)で移動した。

何等かの遺伝子異常で産まれた男性が複数の女性と交尾して同じ遺伝子を持つ子孫を産み、同じ遺伝子を持つ者同士が
交尾をして、新種の人類が増えていく流れです。
 そのC系統のY染色体をもつ種族は、温かいインド洋側からインドネシアへ最終地はオーストラリアです。
 ユーラシアでもシベリアなど東北部にも広がったようです。
 そして、日本人にも、このC系統の染色体をもつ人がいます。
 時代から察するに旧石器時代に日本列島へたどり着いた初めての日本人ではないでしょうか。


・次に登場するのがD系統、世界でもチベット方面に見られるわずかなグループですが、何と日本人にも多くの割合で
 発生しています。
 やはりアフリカを起源とする様で、ユーラシア大陸のチベット、華北、朝鮮半島、船で渡って日本への移動です。
 新石器時代ではないかという事です。縄文人がD2系統ではないかと云われています。

・F~K系統 F系統から分岐してK系統まで6系統に分岐したようです。
 F系統はイランなど、K系統がヨーロッパ、ウズベキスタン、インド、オセアニア
・K系統から分岐したL~R系統です。日本人ではO系統が半数を占め、わずかにN系統の方がいる様です。

いずれも、倭の国よりはるかに以前の出来事です。
N系統の分岐が8800年~6800年前
O系統は、私たちが住む東アジアに分布していて、東アジア南部(マレーシアア、フィリピンなど)が発祥地と考えられているようです。
そし、O系統もいくつかのグループに分岐
O2b系統 3300年前に分岐、2800年前に北方向(中国)へ移動
O3系統 5000年前に既に黄河流域まで移住、漢民族、モンゴルの拡張により南下をした。
日本人の系統分布では、O2bが2~3割、O3が約2割程と云われています。
このどちらかが弥生人のルーツと考えられます。

OーM175系統は、朝鮮半島、中国からフィリピンまで広い地域で確認されていますが
日本人のD系統が他の東アジアの地域ではほとんど見られません。
日本が島国であったため、C系統の旧石器時代、D系統の縄文人が長い期間続いています。
男子血統の天皇家もD系統と云われています。
大陸では、O系統に入れ替わっていますので、
秦の始皇帝の時代の徐福
漢の時代の役人 一大卒(伊都国)などは、O系統でしょうから
日本人のルーツは、中国などより古い歴史を持っている事になります。
古事記の日本神話に登場する天照大神から神武天皇もD系統になります。
大陸から農耕文化を伝えた弥生人(O系統)、先住民族であった縄文人(D系統)と共存の三つを選び
縄文人の国が大和朝廷となり倭国の代表としました。
魏志倭人伝に紹介される邪馬台国の女王 卑弥呼を倭国の代表として推薦します。
大陸から見た日本(倭国)は、海を隔てた大陸で日が昇る国です。
島国で太平洋がある事も知らなかったと思います。
日本語という言語、神道、天皇と言うエンペラーと云った独特の文化を長きにわたり継続している国は
他にはないでしょう。




 
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