古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

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日本古代の数学

2017-04-29 23:19:45 | 歴史
先の投稿
魏志倭人伝に登場する人物(卑弥呼の意味)を読み直して気が付いたのですが
古代日本の数字の発音です。
ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なあ、やあ、こう、とお
物の数を数える時は
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とぅお
ですので、
ひい、ふう、みい・・・ は単に一から順に数字でしょう。

この読み(発音)に使われる文字ですが
古代日本人の発音と大陸の漢字の発音に似ています。
やはり、母音の え はありません。

二文字でセットなのか
ひい、ふう、みい、よお、いい、むう、なあ、やあ、こお、とお
或いは
ひひ、ふふ、みみ、よよ、いい、むむ、なな、やや、ここ、とと
と一音を伸ばして発音したのか(二番目の音が、必ず母音です)

ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、と
一音で数字にしたのかもしれません。
魏志倭人伝に登場する漢字に置き換えると
卑、不、弥、与、已、む(?)、奴、邪、呼、対(都)
で、何度も出てくる漢字が使われています。
古代の日本人が発音しやすい音だったのでしょう。

漢字の一(いち)、二(にい)、三(さん)・・・
大陸から漢字が伝わった時に出来たのではないでしょうか。
十以上の数がありませんでしたから・・・(人の指の数まで)
十、百、千 の表現(算数)が出来たのは飛鳥時代(?)
コメント

魏志倭人伝に登場する人物(卑弥呼の意味)

2017-04-29 01:10:39 | 歴史
先の投稿(古代日本人の発音と大陸の漢字)で、魏志倭人伝に紹介された地名と漢字、発音について考えてみました。
次は、魏志倭人伝に登場する人の名前について調べてみました。

最も有名なのは、邪馬台(ヤマト)国の卑弥呼(ヒミコ)
次に有名なのは、狗奴国の男王 卑弥弓呼(ヒミヒコ) でしょう。

他に登場するのが
対馬 卑狗(彦) 卑奴母離(ひなもり)
一支国 卑狗(彦) 卑奴母離(夷守)
伊都国 爾支(にき) 泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)
奴国 兇馬觚(しまこ) 卑奴母離(夷守)
不弥国 多模(玉または魂) 卑奴母離(夷守)
投馬国 弥弥(耳) 弥弥那利(耳成・耳垂か)

卑狗(彦) 卑奴母離(ひなもり)が幾度も登場しますので、これらの名前は
個人名ではなく、役職の名前でしょう。
卑狗(彦)は男王ではないでしょうか。
対馬、一支国は島でなくと比較するとかなり小さな国です。
一族が長年にわたり支配していました。国王と云うより一族の長と云った具合です。

そして、狗奴国の男王 卑弥弓呼(ヒミヒコ)ですが、実は卑弥卑狗(彦)の間違いではないでしょうか。
読みは同じでも、漢字のイメージがだいぶ違います。
卑弥呼に近いイメージが無くなります。
そうなると、
卑弥呼の呼(こ)は女性を意味している様に思えます。
現代でも、最後に 子 が就く名前は 女 です。

後に、ヤマト王権の氏姓制度があります。それぞれの身分に名前を付けるわけです。
その中に
大王(おおきみ)、臣(おみ) があります。
きになるのが 王 を キミ と発音します。
ひょっとして、卑弥(ヒミ) = 王(キミ)?
それなら
卑弥呼 (ヒミコ) は  ヒミ(王) + コ(子 女性) = 女の王(王子 キミコ)
卑弥弓呼(ヒミヒコ)は、 ヒミ(王) + ヒコ(彦 男) = 男の王(王彦 キミヒコ)
の式が思いつきます。


卑弥(ヒミ)、卑狗(ヒコ)の他にきになるのが、卑奴(ヒナ)、弥弥(ミミ)、母離(モリ)、那利(ナリ)
こちらも、位(身分)として何か意味があるのでは
例えば 君(キミ)、姫(ヒメ)等の言葉も高位なイメージです。

邪馬台国では、更に複雑で
伊支馬(いきま) 弥馬升(みまと) 弥馬獲支(みまわき) 奴佳(なかて)
の役人が登場します。
祈祷師 卑弥呼が役職を決めたのでしょうか?他の人物がいる様に思えるのですが。
臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)の始まりがあるのでしょうか。
或いは、卑奴(ヒナ)、弥弥(ミミ)は、鼻、耳 と顔の名前から?
或いは、1(ヒイ),2(フウ),3(ミイ)・・と順位かもしれませんね。

卑弥呼のヒミ を 1(ヒイ)ならば
卑弥呼 (ヒミコ) は  ヒイ(1) + コ(子 女性) = 女の王(一番目の子 ヒイコ)
卑弥弓呼(ヒミヒコ)は、 ヒイ(1) + ヒコ(彦 男) = 男の王(一番目の彦 ヒイヒコ)
に式にもなります。
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後漢書と魏志倭人伝の相違点

2017-04-23 20:06:24 | 歴史
やはり気になるのが後漢書と魏志倭人伝の相違点です。
作成されたのは、魏志倭人伝が先、
西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれた。
これでも、卑弥呼の死後、半世紀後
後漢書に至っては、編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)で更に100年後
秦の始皇帝の時代に、大船団で倭国へ住み着いた徐福の記事もあります。
後漢書の倭国は
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る。楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。
・魏志倭人伝の対馬から伊都国、奴国、不弥国などは詳しく記載されていません。
倭国全てで百余国、漢と付き合いがある国が三十国、大倭王は邪馬台国
だいぶ、省略してあります。
「桓帝と霊帝の間に倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、主導する者がいなかった。一女子がいて、名は卑弥呼という。高齢だったが、独身で、鬼神道につかえ人々を惑わし操った。各国は共同して卑弥呼を立て王と為した。侍女千人が付き従っている。面会した者はほとんどいないが、ただ男子一人が飲食物を給仕し、言葉を伝える。住まいや宮殿、高層の神を祭る場所は城柵で囲い、みな兵器を持って守っている。法習慣は非常に厳しい。」
卑弥呼と云う名前からして、魏志倭人伝委を流用しています。
「女王国より東、海を渡って千余里で拘奴国に至る。みな倭種であるけれども女王には属していない。女王国より南、四千余里で侏儒国に至る。人の背丈は72cmから96cmである。侏儒国から東南、船で行くこと一年で裸国、黒歯国に至る。交流の可能な国はここで終りになる。」
・女王国の南にあるはずの拘奴国が、東、海を渡って千余里
・出発地点より水行20日かかる投馬(ズマ)国は何処?
・女王国より東、海を渡って千余里には、国名不明の倭種の国は?
范曄が書いた倭国は、漢の時代(1~2世紀)、魏の時代(3世紀)、南朝宋時代(4世紀)を一つにまとめてしまったのです。
魏の時代(親魏倭王の金印が贈られた時代)については、魏志倭人伝の記載が正しいと思います。
漢と交流のあったのは三十国は、4世紀の国々です。
倭国とは、九州全土から山陰、山陽までの国々です。邪馬台国は豊国(台与女王)です。
対馬国、一支国、末盧国は残ったでしょうが、伊都国、奴国、不弥国は一つになり筑紫
女王国の境界に紹介されている国々も纏まったり、無くなったりして、国の数は減っています。
新たに倭国の計算に入った国が豊国、肥国の九州東部、出雲、安芸、吉備など瀬戸内海の国々が集まって30国と表現しました。
・女王国より東、海を渡って千余里で拘奴国に至る。みな倭種であるけれども女王には属していない。
は、山陰の出雲国連合ではないでしょうか。出雲が九州より千里はとは近すぎますが、出雲連合が山口まで広がっていた。
と考えます。

范曄が書いた倭国伝は、長い歴史を魏志倭人伝より短い文書に纏めてしまった為、かなり無理が生じています。

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後漢書の「漢委奴国王」と魏志倭人伝の「親魏倭王」

2017-04-23 17:23:35 | 歴史
後漢書東夷伝倭伝 と 魏志の東夷倭人伝の原文、和訳のサイトを紹介しておきます。

後漢書は、後漢朝(西暦25~220年)の歴史書で
成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)
つまり、後漢の時代に書かれたわけではありません。
陳寿の魏志倭人伝より、かなりの後の時代です。
范曄の後漢書は、漢の時代の事実と魏志倭人伝と范曄の時代の情報がミックスしています。

建武中元二年(57年)倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 と記述があり
西暦57年に印綬「漢委奴国王」が贈られていますが、金印の文字が漢委奴国王とは限りませんが、
後に「漢委奴国王」が発見されますので、間違いはないでしょう。

魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」
西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれた。
范曄の後漢書より早いのです。
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 と記述がわり、他にも 親魏倭王卑弥呼 と卑弥呼の事を表現しています。
「親魏倭王」の金印は発見されていませんが、こちらも「親魏倭王」で間違いはないでしょう。

漢委奴国王は、学校で漢の委(ワ)の奴(ナ)国王の金印 と教えられました。
別説では、漢の委奴(イト)国王で 委奴(イト)国=伊都国 の説もありますが、
委 は ワ行の ゐ、伊都国の伊は、母音の イ なので少し違うように思います。
ならば、何故 倭(ワ) を 委(イ、ゆだねる)の文字にしたのでしょうか。
仮にも皇帝が発行する印綬です。省略したとは思えない。
漢は委ねる、奴国王に と受け取る方がスマートですが、倭国の王が表現されていない。
倭、委、奴の読み方について、先の投稿で少し説明しています。

更に疑問が、奴国王は、金印を何に利用したのか?
本来、金印は、奴国から貢物を漢へ運ぶ際に手紙を添え、「金印」を捺印しておけば
途中で他国の妨害時に、手紙を見せれば襲われない。と使ってください。
残念ながら、奴国では漢字がありません。
国内の諸国に向けて、どうだ、我が国(奴国)が倭国連合のトップに認められたと
金印を見せびらかすしか、使わなかったと思います。

対して「親魏倭王」4文字、四角い印のバランスも良い。
魏と親しい倭の王、邪馬台国の女王卑弥呼 の記述はないです。この金印を持つ者が倭国の王ですね。
漢は、奴国の王に委ねる (だいぶ上から目線)と
魏は、倭国の王と親しい (対等な立場)   で、だいぶ印象が違います。
100余国があり、後に大乱となった倭国の時代の奴国
30国から代表として認められた卑弥呼の国邪馬台国
倭国の印象も違っていたと思います。
こちらも、手紙の最後に朱肉でハンコとして使用してないでしょう。
贈られた織物など衣類と銅鏡などは卑弥呼の祈祷、生活で使用されました。
金印は、どこかに飾られていた、或いは、卑弥呼の手元にはなかったのでしょうか。

 
コメント

古代日本人の発音と大陸の漢字

2017-04-23 15:17:29 | 歴史
以前にも書いた記憶がありますが、再度です。
魏志倭人伝に登場する
国名と読みを50音に当てはめてみました。
※末盧国(マツロ)など一つの感じで、二文字の読みは対象外にしました。
結果
え母音 は、0個(大きく口を開く発音が苦手?)
あ母音 が 23個 圧倒的に多い、続いて い母音 15個
タ行は と のみ、ナ行は な 、ヤ行は り のみ
カ行、ア行、ナ行が多く登場するが、ナ行 は 奴が7回
き も7回登場するが、鬼、支 の二種類がある。

で、結果20音種類しかありません。
一つの音に、複数の漢字当て字が見受けられるのが
い 已 伊 為 一
お 対 呼
き 鬼 支
さ 姐 蘇
と 都 台
わ 百  倭
邪馬台国は、邪馬壹國、台与(トヨ)が壹與(臺與)の記載がありますので
台は壹で、トィ に近いた行ではないでしょうか。
倭国の古い漢字 委(漢委奴国王の金印の委) 委はわ行のゐ(イ)
いと発音する 已、伊、為、一にも、母音のイ以外に、ティ、ニィ、ヤ行のゐなどの発音に対応している。
お の 対、呼
さ の 姐、蘇 もそれぞれ違う発音ではなかったでしょうか。

文字を持たない古代日本人の発音と漢字との対比表は、漢の時代にきちんと(正しく)出来ていたはずです。
当時、倭国は百余国もありますので、同じ名前が重複していた可能性もあります。
魏の時代の魏志倭人伝で30国(奴国が2回登場します)
音数も奴国が一音で、他は2音以上です。それぞれの国がまとまり、やや複雑な国名が登場したのでしょう。
倭国や卑弥呼など、見下げたような意味の悪い漢字を当てたという意見もありますが
馬、鳥、華、蘇など良いイメージの漢字もあります。
異国の国名ですので、大陸(国名に)では使われていない漢字を当てて違いを表現したのではないでしょうか。

卑弥呼の 弥呼 は、弥奴国 や 不呼国 がありますので、決まった通りです。卑弥呼の卑が、先にあったのかは不明です。
もちろん、後に(平安時代)に登場する古事記やひらがなは、当時の漢字とは全く違った漢字を使っています。
唯一、大陸の史記に出てくる国名で 倭国の倭 を使い ヤマト(邪馬台)と読ませているのです。
それほど、馴染んでいた漢字であり、読みだったのでしょう。
古事記も712年に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上したとされていますが、書き始めは神話であり、多分に天皇記など影響あったでしょう。
書き始めと終わりでは、倭が大和になり日本になります。倭が大陸の呼び名であまり良い漢字でないことに途中で気が付いた可能性もあります。

さて、ここまでを理解した上で、二つの金印
「漢委奴国王」、「親魏倭王」の意味を考えてみます。



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卑弥呼の邪馬台国の次に 第二の邪馬台国 が出来た。

2017-04-16 12:29:57 | 歴史
日本で起きたの三国志シリーズで
卑弥呼以後の日本を三つの大国に分けて考えてみました。
しかし、邪馬台国 と ヤマト朝廷 の関係がいまいちです。
諸説あります。
1、魏志倭人伝に紹介される邪馬台国は、近畿にあった。
  卑弥呼の死後、ヤマト王権と呼ばれるようになり栄え、後に西日本を統一
2、邪馬台国は九州中部の国、卑弥呼は狗奴国との戦いで亡くなった。
  邪馬台国も無くなり、近畿のヤマト王権が九州も支配するようになる。
3、卑弥呼に死後、台与を女王として邪馬台国は続いた。
  近畿のヤマト王権から攻撃され、邪馬台国は滅亡する。
4、卑弥呼の死後も女王台与のもと、邪馬台国は栄える。
  後に、瀬戸内海を支配し、近畿で新しくヤマト王権となる。
などあります。
1は、邪馬台国近畿説です。
 確かに、卑弥呼の墓として箸墓古墳が年代、規模共に一致しますし、魏国から贈られたはずの鏡が沢山出土しています。
 魏志倭人伝の、南水行10日、陸行1月を、出発点を九州博多湾の奴国、東に水行10日陸行1月と解釈すれば近畿に到着します。
 しかし、魏志倭人伝では、女王国までトータル12000里で、奴国まで既に11000里以上
 女王国の周囲が5千里とも記述してあるので、女王国は九州北部の域を出る事はないと思います。
2、3ですが邪馬台国とヤマト朝廷が全く関係のない一族の国となります。
 これも魏志倭人伝に紹介される女王国と大和朝廷が作成した「古事記」「日本書紀」の神話が似ているのです。
 他にも、神社と卑弥呼の祈祷文化もにています。
 邪馬台国(ヤヤタイ、ヤマト)の発音と 大和(ヤマト)も似ているのです。
私は4の説に近いですが、決して卑弥呼の死後、邪馬台国は繁栄をつづけたわけではないと思います。
卑弥呼の死後、男王がついたり、13歳の台与を女王にしたりしています。邪馬台国の意思ではなく、他に権力者がいたと思うのです。
大分が豊国(トヨコク)と呼ばれていますので、九州北部から瀬戸内海側に移住を余儀なくされたのではないでしょうか。

以下は、私の勝手な妄想です。
1、古くから(紀元前 漢委奴国王の金印の時代)大陸は、日本の事を ワ と呼び、倭国、委国 と云う漢字をあてた。
  多分に、当時の日本人は、国の名前と云う概念がなかったので、国の名前を聞かれても答えられなかった。
  ワ(わからない?の意味)或いは 自分(ワシ、ワレ、ワイ)などと答えた。
2、西暦100年位から倭国大乱が80年程続き、100国ほどの国々が30国にまとまる。
  魏志倭人伝でも、奴国の2万戸以外は1千戸ほどの国々です。当時の吉野ケ里がその規模ではないでしょうか。
  吉野ケ里は、倭国の30国の一つです。
3、倭国の国々は争いごとの調停を卑弥呼に祈祷に委ねる事として、大乱が終わる。
  つまり、卑弥呼の祈祷は国同士のもめ事を収める裁判の様なもので、小さな建物の中で祈祷を行った。
  しかし、諸国は、自国に有利な判断を望むようになり、多くの賄賂が卑弥呼の元へ集まり、邪馬台国と発展する。
  卑弥呼は、福岡南東、佐賀東部、熊本北部の博多湾(奴国)から少し離れた山奥に宮殿を作り、周囲で農耕を行う国造りを行います。
4、初代卑弥呼の死、卑弥呼は女性、独身で跡継ぎがいません。邪馬台国を続けていくために、卑弥呼は神となり永遠の命をもつ演技を
  します。つまり宮殿内にはいり、周囲の人の前にはでなくなります。180年位に女王になったのであれば、2000年位に
  世代交代があったでしょう。日本神話の天の岩戸がこの時の伝説となったのではないでしょうか。
5、二代目(或いは三代目)の卑弥呼、祈祷により支配から権力に傾倒していきます。何とも厄介ごとは、卑弥呼の祈祷をしんじない
  狗奴国の男王 卑弥弓呼 の存在でした。
  卑弥呼を権力のトップに立つために魏の国へ貢物(賄賂)を贈り「親魏倭王」の金印を得る事に成功します。
6、卑弥呼の死、名実ともに権力のトップに立つ卑弥呼ですが、「親魏倭王」の金印は、九州北部の国(たぶん伊都国)において
  大陸との交易に利用されます。交易で利益を得たのは卑弥呼ではなく、再び、博多湾の国々(後の筑地一族)でした。
  青銅、鉄を使った農耕具、武器の入手を我が物にした筑紫一族は、自国から男王を指名して、卑弥呼の神信仰を改めます。
  永遠の命をもつ卑弥呼が亡くなった事にしたのです。
7、13歳の女王 台与、しかし神信仰を希望する一族が九州北部を離れて大分(瀬戸内海側)に国を造ります(豊国)
  卑弥呼の墓を作ったのも台与ではないでしょうか。3世紀後半(西暦300年前後)の歴史です。
  九州北部の筑紫国、東部の豊国、南部の熊曽国(狗奴国)の時代です。
  宮崎には、上記の3つの国に属さない肥国があり、後に豊国との協力体制の関係となります。(日本神話の天孫降臨)
  北部が交易にによる武力、文化圏、中東部は神信仰を続ける文化圏、南部が古くから独立して卑弥呼信仰を信じない文化圏の
  三つ地域に分けられていました。
8、朝鮮半島=>隠岐の島=>山陰(出雲)の新航路ができて、九州北部、山陰地方は大陸文化、武力、財力で優位な立場なります。
  大陸の恩恵を受けない、瀬戸内海湾岸の国々が集まり、ヤマト王権がスタートします。(4世紀中ごろ)
  九州、山陰(出雲)の国から攻撃を受けない近畿の山中(奈良盆地の明日香)に宮殿を作り、王が住むこととします。
  日本神話の神武東征に秘められています。

概略をまとめると、
弥生時代中期、九州北部から始まった農耕や機織などの弥生式文化圏は瀬戸内海、近畿から日本全土に広がっていた(北海道を除く)
3世紀後半、筑紫は百済、出雲は新羅を支配して交易で制帽、鉄器の武力、財力の文化圏を築く。
中国大陸が戦乱の時代となり、高句麗が朝鮮半島を南下、筑紫、出雲も朝鮮半島での支配力を失う。
大勢の中国、朝鮮人が渡来して来る。近畿のヤマト王権が友好的に引き受ける。
ヤマト王権が氏姓制度など律令国家体制の国造りを始める。
西日本を同じ律令制度の下においたヤマト朝廷は、天皇家を国の始まりとする「古事記」を作成、神代の日本神話とする。
各地に神社を造らせ、朝廷に参加した証としました。
卑弥呼の祈祷文化が神社に引き継がれ、朝廷の名前も倭と云う漢字に邪馬台国の呼び方をあて ヤマト と発音
後に、大和に文字を入れ替え、日本の国名を変更します。
台与の子孫が大和朝廷とは限りませんが、同じ信仰をもつ国々が集まり、2回目の邪馬台国連合が出来たのがヤマト朝廷と
考えています。
その後の権力争いは、物部氏VS蘇我氏の争いの様に闘争が近畿で繰り返されるようになります。
西日本、東海地方が一つにまとまり、平和な時代は更に遅れて平安時代になります。
この時代に、天皇家の三種の神器神社制度古事記が作られます。
  

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「筑紫磐井の乱」に秘められた謎

2017-04-09 22:33:26 | 歴史
日本で起きたの三国志(大和朝廷と筑紫王朝)
筑紫磐井の乱を紹介しましたが
ふと疑問が
筑紫磐井の乱(527年)
・ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。
・この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。
・磐井は挙兵し、火の国と豊の国を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。
Wiki磐井の乱
何となく疑問を感じるのですが
如何でしょうか。
・朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍
何故、ヤマト王権(継体天皇)は、朝鮮出兵を実行しようと思ったのでしょう???
朝鮮支配が目的ならば、筑紫磐井征伐後に、再度、朝鮮半島へ出兵しなかったのか???
筑紫朝廷VS大和朝廷の大乱になることは筑紫磐井もわかっているはず??
今夜も眠れないかも、明日が死後なのに・・・・
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中国大陸の歴史と日本

2017-04-09 19:25:21 | 歴史
先の投稿で、魏志倭人伝に登場する邪馬台国から大和朝廷まの時代を推測しました。
実は、中国大陸の歴史に大きな影響を受けています。
秦の時代 紀元前776~206年 秦の始皇帝で有名です。武力による大陸の統一を果たします。
     この時代に徐福など、自国を捨てて日本へ移住をする渡来人が多く、弥生時代の到来となります。
前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)
     倭国では、九州北部の国(奴国)が朝貢して、漢委奴国王 と称されます。
     九州地方では大陸との関係が重要でした。
三国志(魏蜀呉)の時代、武力衝突の時代です。九州の国々もひやひやです。
     もちろん、大陸北東部の国 魏 との友好関係を倭国は作ります。
     邪馬台国の女王 卑弥呼が朝貢、親魏倭王の金印と鏡などを贈られています。
     朝鮮半島では、楽浪郡、帯方群と大陸に支配されます。
西晋(265年 - 316年)司馬炎によって建てられた中国の王朝、呉を滅ぼして中国全土を統一
     この時代に陳寿が三国志をまとめています。わずか50年程
八王の乱 西晋の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱の時代に突入
     この時代は、中国の歴史書に日本の記載が無くなります。
     朝鮮半島では、高句麗が南下、半島を支配します。
     倭国の朝貢は無くなり、朝鮮半島(百済)より渡来人が日本へ渡ってきます。
     大陸が武力衝突で争う時代に、日本ではヤマト朝廷による日本統一が着々と進みます。
隋(581年 - 618年)魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、300年ぶりに再統一
     聖徳太子が遣隋使を派遣します。
    「日出づる処の天子、書を日没する処の天子にいたす……」始まりの手紙を煬帝に
     大陸では皇帝である、日本では天皇である等、対等以上の記載です。
     国名も倭 から 日本に改名します。
     中国大陸との交易が再スタートするわけです。

西晋滅亡後の大陸動乱の時代に、日本は着々と律令国家の体制を作ります。
幾つかの内乱はありましたが、大陸と比較すると、平和的に国造りを完成
隋の時代には、対等の立場とる。
自分たちのトップは天皇で、皇帝とは違うと自国を主張します。
我が国は日が出る国で、あんたらの国は日没する国と伝えるわけですから、文書を持って行った
小野妹子が無事に帰って来れた事が不思議なくらいです。
邪馬台国以後、300年の大和朝廷の歴史は西洋と比較しても比較にならないほど称賛に価します。
日本が島国であった。大陸の間に朝鮮半島があり大陸からの侵略の緩衝地帯であった。
地理的な条件もありますが、大陸や朝鮮半島で敗者となった渡来人の影響も大きかったはずです。
以後の日本の歴史をみても、西洋、中国大陸、朝鮮半島、中東と比較しても特異な歴史を繰り返します。
・他国からの侵略を受けていない
・宗教紛争、分断がおきていない。
・フランス革命の様に市民革命もおきていません。
常に争いごとになるのが、天皇家から与えられる将軍地位を得るための武力闘争が繰り返されています。
源氏、平氏の源平合戦
鎌倉時代の藤原氏
戦国時代の征夷大将軍(織田、豊臣、徳川)
天皇家に集まる権力の争奪戦の歴史を繰り返します。
中国大陸では、皇帝一族がことごとく滅ぼされていますし、朝鮮半島も侵略と分断の歴史を繰り返しています。
今の日本があるのは、必然的なのか、卑弥呼以後、大和朝廷の指導者があったからなのか
どちらでしょうか、日本の古代史は実に興味津々です。
是非、古代史のファンになってください。


コメント

日本で起きたの三国志(大和朝廷と筑紫王朝)

2017-04-09 16:38:53 | 歴史
時代は、5世紀(400年代)になります。
この時代は、『宋書』倭国伝
七枝刀 と 広開土王碑の資料から大まかにわかります。
4世紀後半、百済は倭国の属民だった。
この倭国は筑紫王朝の事です。
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。
高句麗の侵攻により、倭国は百済、新羅の支配力を失います。

421年 倭の讃王
433年 倭国王の済王(せいおう)が使者を送って朝貢してきた。そこで安東将軍・倭国王と任命
451年 済王が死んで世継ぎの興王が使者を遣わして朝貢
462年 興王が死んで弟の武王が即位
478年 倭国の武王は使者を送った。軍隊を引き揚げる。
倭の五王は、幾度と朝鮮半島支配を試みるが失敗に終わります。
この倭の五王も筑地の王の事だと思います。
大和朝廷は、律令国家づくりの真っ最中、国内の連合国をまとめている時代です。
朝鮮半島へ出兵し支配する意図もありませんし、筑紫王朝の協力なしでは出来ません。
いずれも海外からの情報です。倭国=大和朝廷とは限りません。

韓国の征伐と云えば、14代 仲哀天皇 の皇后 神功皇后(201年~369年在位)の三韓征伐があります。
従って、古事記では倭の五王を
17代 履中天皇 432年没
18代 反正天皇 437年没
19代 允恭天皇 454年没
20代 安康天皇 没年不明
21代 雄略天皇 489年没
多少年代がずれるものの、およそがひて出来る様に記述しています。
神功皇后は、卑弥呼+台与の時代にあたりいます。
魏志倭人伝では、狗邪韓国が日本支配の倭国領土ですので、ちょっと大げさに記載していると思われます。
後に百済を支配したのが筑紫王朝、新羅を支配したのが出雲王国ですが
古事記では、神功皇后は、九州を出発して新羅へ進出ですので、筑紫と出雲の両方を同時に表現したともいえます。
6世紀までの記述は、事実と全く関係ないとは言えませんが、それなりに天皇家に都合よく修正されています。

その後の古事記の記述に 我氏VS物部氏の仏教派と神道派の対立が記述されています。近畿内部での事件ですので、こちらは信ぴょう性があります。
海外の歴史書には登場しません。海外には知られていない事実です。
その後に、推古天皇、聖徳太子の時代に突入します。
筑紫朝廷も大和朝廷に一員になっていたようです。

更に、古事記の記述で目を引くのが 筑紫碧いの乱527年です。
26代継体天皇の命令で6万の兵が朝鮮半島奪回へ出兵するが、筑紫碧いの裏切りの為、失敗する。
天皇家は筑紫碧いを討伐します。筑紫碧いのみ殺害され、筑紫家は残ります。
実質的に、筑紫王朝がヤマト朝廷のいう事を聞くようになったのは、この筑紫碧いの乱後です。
こうして、日本の三国志は、大和朝廷の国造りで終了し、名前も日本と改名します。
日本最古の歴史書 古事記に隠された真実を少しづつ読み取っていけば、真の歴史が見えてきます。
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日本で起きたの三国志(大和朝廷)第二話

2017-04-09 15:47:09 | 歴史
日本で起きたの三国志(大和朝廷)第一話続きです。
卑弥呼の死後、九州で勢力を伸ばす筑紫朝廷 と 出雲王国 共に3世紀後半の出来事です。
旧邪馬台国一派は、行き場をなくし、大分、宮崎で過ごします。
日本神話では、天孫降臨の神話にあたります。
その様な時代に、大陸と朝鮮半島では、もっと大変な時代に突入します。
大陸、265年 魏が滅びる、司馬炎により西晋が出来る
   316年 司馬炎が滅びる。
八王の乱の時代に突入、隋が統一するまでの300年程、内乱、クーデターの時代になります。
朝鮮半島でも、帯方群、楽浪郡も魏から西晋の支配下へ、更に高句麗が南下して朝鮮半島も混とんとした時代を迎えます。
筑紫王朝は、百済応援に当たりますが、後に大敗となります。
大陸との交易も中断、鉄器類も朝鮮半島内で使用され消費されてしまいます。
この時代に、大勢の難民となった一族が日本へ渡来します。
筑紫王朝と出雲王国は、難民を奴隷として受け入れますが、旧邪馬台国連合は、文化人として受け入れたのです。
漢字と律令制度について学びます。また政治には首都の設置が必要であることも気が付いたでしょう。
旧邪馬台国連合(神信仰国連合)が手を付けた政治は、
・奈良の盆地に首都を置く。(地理的に九州、出雲から離れて攻撃されにくい条件が必要でした。)
地名、姓名を漢字二文字に統一
たぶん、最初に連合に加わったのは、日向、安芸、吉備、吉野、熊野など
氏姓制度を発行して、律令国家造を試みます。
渡来人からの情報で大陸から日本は 倭(ワ)と云う漢字で呼ばれていて、神信仰の邪馬台国(ヤマタイ、ヤマト)の存在を知ります。
当初は 倭と云う漢字をヤマトと発音して自国を紹介することにしましたが
倭云う漢字が、あまり良い意味でないことを後になって知ります。
倭 を 和 の漢字に置き換えて、 ヤマトと呼びます。
氏姓制度で漢字二文字にする必要が出てきますので、大和 の二文字で ヤマト と発音するに至ります。
いずれも4世紀中ごろの出来事でしょう。
特に、中国地方の小国家は、出雲王国の配下に入る可能性があります。大和王権の連合国に参加する方向で大和朝廷が出来上がっていきます。
九州は、筑紫王朝VS旧狗奴国との対立が続いていたでしょう。
大和王権は、連合国を増やし大和朝廷へ変貌、大和朝廷では、今まで各豪族の権力の象徴であった古墳の作成をやめます
これが、後の飛鳥時代の到来となります。
3世紀の終わりには、圧倒的、武力と権力を有していた出雲王国ですが、近畿、山陽の国々が、大和朝廷の連合国に加わり孤立化します。
卑弥呼の死から100年以上を経過した時代です。(4世紀後半位)

日本神話の国譲りの神話があります。スサノオの子孫が出雲の国をアマテラスの子孫に譲る話です。
出雲王国が、大和朝廷の連合国に加わったのがこの時代です。それも戦争することなく無血で実行されました。
この結果、出雲の神、スサノオは、アマテラスと兄弟と云う約束事が出来たのでしょう。
出雲大社と伊勢神宮の関係も当時の約束事を証明しています。
天皇家の三種の神器の剣も出雲の神スサノオ、鏡がアマテラスを象徴しています。
大和朝廷に、出雲王国が参加することは、それぐらい重要な事でした。
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