古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

儒教(おまけ)性善説・性悪説

2017-07-29 19:26:17 | 歴史
おまけという事で、ご存知の方も多いかと思いますが
生まれ持って人は持つ性格は善である 性善説
生まれ持って人は持つ性格は悪である 性悪説

性善説
孔子の死後、その思想を継いだのが孟子が唱えた。
人が生まれつき持つ4つの心「四端」
・人の不幸をほっておけない心
・自分のした悪い行動を恥じる心
・お互いに譲り合える心
・善悪を見分けることができる心
人間は生まれながらに善の存在ではあるが、後天的に学ぶ事で悪に汚染される事もある。

性悪説
孟子と同時期に活躍した思想家 荀子が唱えた。
人の心は生まれつき悪であり、人はその悪に心が傾こうとするのを理性をもって留めなければならない。
悪に傾く修正があるからこそ、正しい教育を受けて、正しい思想や礼儀、人間性を持つことが必要である。

あなたは、どっち派? 性善説と性悪説について調べてみました。
さて、あなたはどちらを信じますか?
難しいですね。

現在流な回答では
人のDNAで、性善説の人もいれば、性悪説の人もいる。
いやいや
産まれたばかりの赤ちゃんは、どちらでもない
親や環境で、性善になったり、性悪になったりする。
いやいや
子供の成長でどうしようもないのが、容姿 や 財力(裕福か貧乏か)
人は生まれながらに不平等だから、性善・性悪は生まれながらに背負っている。

昔の思想家の凄い所
孟子も荀子も「人は皆誰でも善人になってほしい」と願っています。
さて、今の日本、貴方の会社、住んでいる地域 は昔の思想家の希望社会になっていますか?
「はい」の回答が多いことを願っています。

「老荘思想」 と 徐福

2017-07-29 15:24:48 | 歴史
徐福も紀元前3世紀の人物です。
中国北東部(黄河下流)の国 斉国の生まれで、方士(学者)でした。
「老荘思想」や他の思想も学んでいたでしょう。
しかし、斉国も始皇帝に滅ぼされてしまいます。
武力支配の統一を行う始皇帝と方士である徐福が意気投合する事はなかったでしょう。
始皇帝が老いてきて、死の恐怖に悩まされいる事を知った徐福がとった行動が
「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申
本来なら全員を軍人にして出兵すると始皇帝は思ったでしょうか、実際は
3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出
もう、国を捨てて、新しい土地に自分たちの新しい国を作るつもりである事は間違いありません。

徐福は、最初の航海で九州北部位までたどり着いたはずです。
その国では、まだ農耕をしていない この事を熟知していたので
五穀の種を持って出港したのです。
二度目の航海ですので、かなり効率よく日本へたどり着けました。
その場所は九州北部で間違いないでしょう。
徐福の理想とする国造りを始めます。国は栄えて、子孫 或いは 一段の一部が更に東へ(山陰地方)
南(鹿児島から静岡)へ移住をしたのでしょうか、各地に徐福伝説があります。

徐福が目指した理想郷は、稲作を中心にした文化的国家で間違いありませんが
その基盤は、秦の始皇帝が行った武力での支配ではありません。
仙人思想である道教でもなかった様です(修行思想はありません)
儒教の教え
仁、義、礼、智、信の「五常」ではないでしょうか。
魏志倭人伝に紹介されている倭人の風習なども
上下の関係を重んじて、礼を尊重していると表現されています。
勤勉で誠実な日本人はこの時代が始まり、今も大事にされています。
縄文時代にあった八百万の神様への信仰(自然崇拝)も滅ぼすことはなく組み入れます。
それが、現在の神道の祖となったのです。
天照大神が天上界(天高原)に住んでいて、地上界に森や海など神様、精霊を産むんだと云った形です。
こうなると既に宗教になりますね。
古代日本伸銅(宗教)に思想(哲学)を組み合わせて新しい神道国家を作ったのです。

時代が流れて、奴国の時代、朝鮮半島を経由して交易がはじまりますが、
青銅などの武器が伝わります。本来は狩猟の為の武器が
武力闘争となり人を殺すための武器となった時代が 倭国大乱 の時代です。
卑弥呼の両立は、もう一度、神への信仰を取り戻す文芸復興を期待するものだったのですが
狗奴国との対立が収まらず、最終的には武力闘争となり、卑弥呼時代に終止符を打つことになります。

古代中国の思想 「老荘思想」

2017-07-29 12:36:43 | 歴史
ちょっと中国の古代史です。時代が紀元前5世紀ごろ(秦の始皇帝の時代です)
中国は、沢山の国々に分かれていて、それぞれの思想があった様です。
その中に「老荘思想」の二つの思想があります。
老子を祖とする道教
孔子を祖とする儒教 です。

簡単に説明すると
儒教
仁、義、礼、智、信の「五常」
「仁」とは、人への思いやり。愛。儒教の根本をなす。
「義」とは、損得にとらわれない、人のすべきこと。情に流されやすい仁を抑える。
「礼」とは、仁を行動で表す、具体的な慣習、礼儀作法。
「智」とは、学問に励むこと。是非善悪を判断する能力。
「信」とは、約束を守ること。誠実であること。

道教
道(タオ)
 宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。
 修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となる。
 ※仏教の悟りを開く(解脱、煩悩からの解放)に似ていますね。
  仙人になるのか、仏様(如来)になるのかです。

しかし、始皇帝は武力による大陸統一です。
諸国にばらばらの思想があっていは統一が出来ません。
当然、これらの思想を弾圧し、書を燃やしたそうです。
一方で、国家統一に必要な書物を集めて集大成を試みます。
その始皇帝も老いてくると 死 の恐怖に悩まされるようです。
大陸は支配した物の海を越えて東の国(日本)については無知でした。
太陽が昇ってくる国で、そこには不老不死の仙人がいると云われて信じてしまいます。
そして、徐福に、何千人もの男女と複数の船、五穀の種、武器等を与えて
不老不死の薬を取って帰る様に命令します。
何ともわがままですよね。道教では、修行をして仙人になりなさい と教えているのに
不老不死の薬を飲んで、死なない体になろうと云うのですから。
そのわがままに費やす財力も半端ではありません。
まだ、朝鮮半島の存在も知りませんから、東には永遠に海が続いていて
小さな島に、亀仙人がいて、天空に向けてカメハメ波を毎日発射して、太陽となっているくらいでしょう。
逆に西方向へ支配を伸ばしても、太陽が落ちる所は更に向こう側でした。

道教の太極図の

白い部分が光、昼、大陸で黒い部分が影、夜、海でしょうか。
黒い部分に中央にある白い丸が東の島(日本)だったのかもしれませんね。

同じ時代に、インド北西部では
ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)が釈迦族の王子として生まれて、バラモン教支配の元
仏教が生まれます。

西洋では、2000年前になりますが、ユダヤ教の時代に、イエスキリストが生まれて
キリスト教が生まれます。

儒教も道教も宗教ではありません。神様になるような人は存在しません。
思想と云うか、現在では哲学の様なもので、幸福の人生感みたいなものです。
ブッダの仏教も同じで、バラモン教(ヒンズー教)の時代に悟りを開き幸福な人生を送りための教えでした。
中国へ伝わる時代には、ブッダは、釈迦如来となり宗教となっています。
イエスキリストは生まれたあ時から神の子とされています。
まだ、地球や宇宙について知らない(科学がない)時代で
遠くの国々との交流も出来ない時代です。
そして、権力を維持する為の宗教が支配していた時代
遅れて、預言者たるムハンマドの教えをまとめたコーランが出来、イスラム教が生まれたのは7世紀の事です。



渡来人が支配する為に使用した手法「天孫降臨」その2

2017-07-29 08:49:42 | 歴史
渡来人が支配する為に使用した手法「天孫降臨」その1の続きです。
時は、縄文時代から弥生時代に移り変わりの時代です。
大陸から船を使って移住してきた渡来人(弥生人祖先)と既に住んでいた原住民(縄文人)
・農耕、建築など文化的にも進んでいる。
・言葉も違い大陸の状況を説明しても理解してもらえない。
・八百万の神々(山の神、海の神など)自然崇拝があった。
渡来人(弥生人祖先)がとった手法
八百万の神々を産んだのは、私たちの先祖の神であった。
私たちは、その神様の子孫である。
その神様の命令で、この地に来た。
つまりは「天孫降臨」です。
紀元前5世紀頃、九州北部から徐々に西日本へ広がり東北地方まで広がっていくのが弥生時代(弥生文化)
この時代に、天高原、黄泉の国の思想やイザナミ・イザナギの国生みの信仰が出来たのではないか。

大陸では、始皇帝が無くなり、秦帝国が一代で滅びます。中国大陸内部が乱れた時代です。
前漢紀元前206年 - 8年)が長安を都として大陸東側を統一、朝鮮半島へ支配を伸ばします。
この時代に、倭国は朝鮮半島を経由して交易を行うようになります(九州北部が主体)
農耕で蓄えて穀物が交易の材料であり、財力が支配です。神様信仰から、財力、武力支配へ移行します。
九州北部の国「奴国」などが、有明海側へ、宮崎など南東へ、出雲など山陰地方へ支配を広げようとします。
再度、「天孫降臨」を使って支配します。
奴国(九州北部)が天高原で、支配を広げていく国々が 葦原中国の関係です。
出雲も、スサノオが天高原を追放されて、山陰地方の隠岐の島へ降り立ち、国造りをします。
これも、一つの天孫降臨です。
アマテラスの孫にあたるニニギが、アマテラスの命令で高千穂の地へ降臨、日向の地(宮崎)に国造りです。

古事記などに記載されている日本神話は、弥生時代中期の九州北部から支配が広がっていく時代の出来事を神話にしています。
しかし、古事記は太安万侶らによって奈良時代に編集されました。
7~8世紀ですので、5百年ほど前の歴史です。彼らは、この時代の出来事を知ることが出来たのでしょうか。
・古墳時代から伝わる各地の言い伝え(神話)に共通点があった。
・遣隋使、遣唐使の派遣など大陸から古代の倭国の歴史書を読むことが出来る様になった。
 (徐福、奴国、邪馬台国、卑弥呼などの存在は否定できない)
・蘇我氏の仏教信仰で起きた神仏習合から神仏分離へ移行、日本古来の神道復活をまとめる必要があった。
日本神話をまとめる注意点は
・先祖が大陸からの渡来人では ダメ
・先祖が大陸の国へ朝貢しては ダメ です。
そこで、時代設定を変更
ニニギの天孫降臨は数千年前
神撫東征は、紀元前600年
大陸の秦の時代より古い時代設定にします。

大陸の史記を一部取り入れたのが
自国の名前に 倭 の漢字を用いた。
自国の名前を ヤマト(邪馬台)と呼んだ。
しかし、聖徳太子が大陸へ送った手紙「・・・日出る国の天子より・・」の強烈な一言で
自国の名前を 日本 と改名します。
さすがに、この時代の出来事は、誰もが知る事実ですのでやむ得なかったのでしょう。



渡来人が支配する為に使用した手法「天孫降臨」その1

2017-07-26 19:49:24 | 歴史
さて、まずはイメージです。
小さな国で何十年、何百年と同じような生活をしてる民族の所へ
新しい文化と技術をもった民族が移住してきます。
一例で、大きな船で、稲の種や青銅などの金属の装具をもった人たちが
木と石の道具で狩猟を行っていた国に渡来して、共に住むことになります。
当然、先進文化を持つ渡来人は、原住民族を労働者として支配したいと考えます。
古代において、もっとも都合の良い支配の手段が「神様」になる事でした。

しかし、現代においては無理です。
江戸幕府末期、ペリーが黒船で来航しても、驚きはしますが「神様」が来たと思いません。
既に、黒船が神業でないことは理解できるまで文化は進化していますから。

時代を遡り、蘇我氏、聖徳太子の時代(4~5世紀)
中国大陸から直接、日本へ航海してくる航路ではなく、朝鮮半島を経由して交易が行われています。
高句麗が力を増して、百済から国を捨てて渡来して来る人(民族)が増えます。
朝鮮半島から多くの渡来人が来ます。漢字や仏教が伝来します。
しかし、支配は日本側にあり、「神様」になる事はありませんでした。
仏教も最高神「大日如来」=「天照大神」として神仏習合の形で日本に馴染みます。

古墳時代
日本の諸国が、それぞれが力をつけ、近畿勢力(銅鐸勢力)と九州勢力(銅矛勢力)に二分化した時代です。
中国大陸も三国志の時代から十六国の時代とまとまりが見えない内戦の時代です。
日本が朝鮮半島を支配していた時代です。

弥生時代後期(卑弥呼の邪馬台国の時代)
漢委奴国王の金印でもわかる様に、倭国と呼ばれた時代です。
大陸の王に貢物を贈り、友好関係を築きます。
交易は、青銅器から鉄器に変わり、多くの武器が日本へ伝わります。
九州北部が交易の窓口ですの、特に大陸が神的な存在ではありません。
但し、出雲(山陰地方)では、かなり文化の違いに大きな驚くがあったでしょう。

弥生時代初期(徐福の航海の時代)
原住民族と云えば、縄文人、狩猟民族です。
そこへ大きな船で渡来、異なる言葉で会話し、稲を植えて稲作を行う事で食料を得て見せます。
見たことも無い道具を使い、見たことも無いような大きな建物たてます。
まさに「神業」に見えた事は間違いないでしょう。
弥生文化の普及が九州から東へ広がります。弥生渡来人が神的存在で古代日本人を支配して
新しい文化が登場した時代です。
支配する側とされる側(格差)の歴史の始まりです。
「天孫降臨の大技」を使ったと思います。

しかし、日本神話で天孫降臨と云えば、ニニギ(アマテラスの孫)になります。
アマテラスは、中国大陸の女性(魏に滅ぼされた斉の国の女王でしょうか。
続いて考えてみたいと思います。

1世紀頃、80年も続いた倭国大乱とは

2017-07-23 19:19:45 | 歴史
紀元前5世紀頃、徐福など大陸から船で移住した渡来人により
稲作が始まり、九州北部の沢山に国が出来ます。
子孫が増えると徐々に中国地方、近畿地方から関東、東北へ弥生文化が広がります。
大陸では、秦の始皇帝が無くなり、大陸が乱れます。
この時代は、日本列島へ移住してくる人はいなく、弥生人の発展の時代でもあります。
この時代を弥生時代初期と呼びます。

しかし、紀元前208年 漢王朝が大陸を統一(前漢)漢帝国の時代となります。
紀元前108年には、朝鮮半島北部の衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪郡(らくろうぐん)を設置、植民地とします。
朝鮮半島を経緯して大陸から人が往来します。
九州北部の国々は、漢帝国へ貢物を贈り、友好的な交易を行います。
この当時に大陸から伝わったのは、青銅製の矛や楯など武器です。
結果、博多湾に沢山の水田を持つ奴国が最大の武力国家となり、
57年に後漢の光武帝より漢委奴国王の金印を贈られた奴国の国王が倭国の王となります。
奴国の武力支配による九州北部の統一が出来上がるはずであったはずですが

歴史は、1世紀後から始まる倭国大乱の時代に突入します。
・漢帝国の文化、武力派閥 VS 反漢帝国派、旧弥生時代の農耕文化派閥
があったのでしょう。
当時の国々の風習がが吉野ケ里遺跡に見て取れます。
周囲に環濠を築いて、内部で祈祷を行うのです。
稲作の成功は、やはり自然の力に大きく左右されたでしょう。
この祈祷文化は九州だけでなく近畿などでも起きています。
それぞれの国に、国王がいて、祈祷師がいました。

奴国、伊都国など大陸文化圏の祈祷師の結果と周囲の農耕文化の祈祷師の結果が異なります。
同じ文化圏でも祈祷の結果が異なる事もあったでしょう。
倭国大乱の収めるには、祈祷師を1人にするしかなかったのです。
女王 卑弥呼の誕生の秘話です。
たぶんに、卑弥呼は奴国、伊都国など強国出身の祈祷師でしょう。
吉野ケ里の様な弱小国の祈祷師は、卑弥呼に下で働くか、国を捨て逃亡する事になります。
これが、環濠集落の国が消えて理由です。
100余国あった国が30国にまとまりますが、祈祷師は、卑弥呼一人に絞られます。
倭国がひとつにまとまり成長する一方、大陸では、220年に漢帝国が滅び
魏・蜀・呉の戦国時代となります。
そして、倭国の王は朝鮮半島に最も近い魏国へ貢物を贈り友好関係となります。
これは、魏国にも有利と判断されて「親魏倭王」の金印や鏡などが贈られます。
この時に役目を果たしたのが、難升米(ナシメ)です。難升米は次の様に紹介します。
国の名前は 邪馬台国(ヤマト国)・・・倭国ではありません。漢の時代まで使われた倭と云う呼び名を捨てます。
日本が始めて自分の国の名前を決め改名した事を対外的にアピールしたのです。
輪と云う漢字を ヤマト(邪馬台)と発音するが、当時の名残です。
国の政を最終的に決めるのは・・・・・・国王ではなく、女性祈祷師 卑弥呼と紹介します。
卑弥呼は、神とも通じる力があり、嵐など自然も左右する。災いを排除する力があると話します。
更に話は大きくなり、卑弥呼は永遠に命を持ち老婆であるが、年齢すらもわからない。
結果、金印を贈った相手は、国王ではなく、邪馬台国の女王 卑弥呼になります。

大陸の権力をバックに権力の座に上りつめる祈祷し卑弥呼ですが、大きな過ちを犯します。
248年 南の敵国 狗奴国との争いで苦戦をし入れられ、大陸へ応援を求めるのです。
当時の卑弥呼がほしかったのは、鉄器など武器だったはずですが、送られてきたのは黄色い旗でした。
永遠の命を持ち、気象を操る卑弥呼の化けの皮がはがれてしまいます。
卑弥呼が本当になくなったは不明ですが、卑弥呼神話に終止符が打たれます。
時代は、諸国の国王がそれぞれ権力を付ける古墳時代に移ります。
但し、卑弥呼の思想を受け継ぐ 台与(トヨ)が豊国で新しい国造りを始めます。
諸国が国王の墓を作る時代ですので、台与も卑弥呼の墓を作ったでしょう。
卑弥呼の墓は、先祖崇拝の儀式を行う場所と使用するようになり、前方後円墳 の形となります。
この祭壇付きの前方後円墳で行われた儀式が諸国へ広がり近畿や関東にまで伝わります。
この時代を古墳時代と呼びます。

この永遠の命をもつ祈祷師 卑弥呼と先祖崇拝の文化が近畿のヤマト朝廷まで引き継がれて
日本神話のアマテラスとなり、神社で行う神道の儀式となりました。
アマテラスは、卑弥呼が題材となっています。
三種の神器の 鏡と勾玉も卑弥呼の時代の儀式に使ったものです。
剣は、出雲の国でスサノオが八俣の大蛇退治して、尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち)ですので
別途、出雲の文化が加わっています。

三世紀の九州での出来事と出雲での出来事が、後の飛鳥時代、奈良時代(5~6世紀)に近畿で神話となり
後に「古事記」「日本書紀」に文字となります。
伊勢神宮や出雲大社が1700年の歴史と云われていますが、遡ると卑弥呼の邪馬台国に時代にたどり着きます。
倭国大乱の後に現れた卑弥呼がここまで影響を残したのは
中国の史記「魏志倭人伝」に書き残された事が大きいと思います。
遣隋使、遣唐使の時代に、自国の事を紹介するのに一番手っ取り早いのは
中国の史記に紹介された邪馬台国が我々であると主張するのが一番楽だったでしょう。
王朝の名前も ヤマト朝廷=邪馬台国を使いました。





古神道から日本神話の世界へ

2017-07-23 09:29:43 | 歴史
現在の神社における神道と更に古い古神道の歴史を考えてみました。
数千年前の出来事です。
旧石器時代、縄文時代と呼ばれる時代です。氷河期で大陸と日本列島が陸続きになり人が移住してきます。
氷河期が過ぎると日本列島は大陸から切り離されて、日本独特の文化が産まれます。
当時の宗教(?)は
雨や嵐、台風など自然の災害にたいする自然崇拝と
山や川の恵みへの精霊崇拝でした。
恵みをもたらしてくれる山々にある大きな岩や大木を守り神として自然の災害から守ってくれるように拝みます。
八百万の神々と呼ばれるように多数に神様を信仰していました。
西暦が始まって2000年程ですが、その男十倍もの長い歴史が古代日本にあります。
黒曜石など鋭利な石を探して、木の枝に結んだ斧や槍を道具としていた時代です。
雨風を避けるために岩穴で火をおこして生活します。
雨でぬれた土を集めて器を作り乾かす。それを火にかけると固くなることで縄文式土器が生まれます。

大陸では、大きな船が作られるようになり
徐福一団が黄海を渡り日本列島へ移住したのが紀元前5世紀頃
九州北部に国が出来て、奴国が朝鮮半島を経由して交易したのが紀元前1~3世紀
漢委奴国王の金印が贈られるようになります。
大陸から多くの移住者が日本列島へ来て、弥生時代が始まります。
木製の鍬や青銅製の道具を使って稲作が始まり、建物も高床式となります。
大陸から移住してきた民族が古代から住んでいた民族を支配する形で身分の上下が出来ます。
同時にもたらされたのが、先祖崇拝 と 祈祷・占い(シャーマニズム)です。
先祖崇拝は、お墓の風習の始まりであり、後に古墳となります。日本神話の黄泉の国(死者の世界)もあったはずです。
祈祷・占いは、支配者の世界です、日本神話では、神の国(高天原)が出来ました。

この時代の言い伝えをまとめたのが「古事記」「日本書紀」の神話の部分で、現在の神社制度の始まりです。
神話では
イザナギとイザナミの二人の男女の神様が、日本列島の国々を産み、続いて数々に自然の神様や火の神などを産みます。
自然崇拝、精霊崇拝の原始日本人(縄文人)を支配するには、都合の良い発想だったでしょう。
つまり、縄文人も八百万の神々もイザナギとイザナミの神様が作ってくれたもので
大陸からの渡来民族は、その神様の子孫であるという形です。
道具を使って、たんぼを耕し、種を植えると実りが生まれます。
大きな木を切って、家を建てたり倉庫を作ったりします。
青銅製の鏡を使って光を反射させるなど、神業にしか見えなかったのです。
歯向かう人、従わない人には、祈祷師は災いを与えて殺してしまいます。
これで権力の上下関係が成立して、大きな国造りとなったのが
卑弥呼の邪馬台国です。
この時代の信仰が、アマテラスなどの神々を信仰する先祖崇拝と
神社で行われる災いの駆除の祈祷儀式が、現在に神社制度で神道と呼ばれています。






古事記と仏教 壬申の乱

2017-07-09 18:27:51 | 歴史
古事記と仏教 蘇我入鹿暗殺 に続いてです。
再度、歴史をまとめてみると。
5世紀には、朝鮮半島は高句麗が南下して百済を支配、多くの百済人が倭国へ移住
538年 百済の聖明王から仏教が伝来した。
552年 百済が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上
神道派の物部氏 と 仏教派の蘇我氏の争いとなり、結果は
587年 丁未の乱、物部氏が滅びる。(蘇我馬子が物部守屋を倒す)
592年 蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺させ,蘇我稲目の孫にあたる推古天皇を即位させます。
593年 聖徳太子が皇太子となり,推古天皇の摂政となる。(太子20歳) 四天王寺を建立する。
605年 飛鳥の大仏(飛鳥寺の御本尊の「釈迦如来坐像」)
     聖徳太子や蘇我馬子や皇子とともに発願し、鞍作鳥(百済の仏師)によって造られた日本最古の大仏。
607年 法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町 )創建

645年 中大兄皇子と中臣鎌子による蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)が起きます。
     蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』を焼いて自殺し、蘇我本宗家は滅びた。
     同年に大化の改新

672年 中大兄皇子(天智天皇)の二人の子供 大友皇子(弘文天皇の称号を追号)VS大海人皇子(後の天武天皇)の争い
     壬申の乱(近江朝廷軍が応援する大友皇子軍 を 周囲の国々が支援する大海人皇子に勝利)
     始めての大和朝廷の都 飛鳥京(奈良県高市郡明日香村)が作られた。

694年 藤原京(奈良県橿原市と明日香村にかかる地域)唐(中国)の長安をモデルにした。
710年 平城京(奈良県奈良市及び大和郡山市近辺)唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣
712年 古事記完成
720年 日本書紀完成
744年 難波京(大阪府大阪市)に都をうつす
745年 再び、平城京
747年 東大寺大仏の鋳造開始
752年 東大寺大仏の開眼供養がおこなわれる
784年 長岡京(京都府向日市、長岡京市)に都をうつす
794年 平安京(京都府京都市)に都をうつす

文化的には、645年の蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)の前と後で大きく変わります。
5世紀~645年 蘇我氏の保護を受ける百済人にとる仏教の普及、寺院、仏像の建築
645年以降   大陸、唐の都「長安」など真似した都(遣隋使、遣唐使など、大陸へ直接の航海)
まもなく「古事記」の編集が始まります。
天照大御神崇拝、天孫降臨の神話は既にあります。
前方後円墳と云う古墳を使った先祖崇拝もあります。
近畿奈良に百済人街が出来て仏教(大乗仏教)が普及します。
蘇我氏滅亡以後は百済人が権力座から離れていきます。
交易が大陸の国(隋、唐)へ変わります。当然、魏志倭人伝など大陸に史記も読みます。
倭国、邪馬台国、卑弥呼などの記載は無視できなかったでしょう。
そこで、国内、海外へ向けて天皇制度の正当性を示すヤマト朝廷の歴史書「古事記」を作成するわけです。
神仏習合を支持する権力者はいません。
大乗仏教の宇宙観に負けないもの仕上げる必要もあります。
既にあった天照大御神に先代イザナギ・イザナミを加え、更にその先祖も加えます。
天孫降臨したニニギや神武東征も仏教の御釈迦様をイメージした挿入部分の様な気がします。
国生みなどが追加されたのも。大乗仏教の影響でしょう。
中巻は、聖徳太子らの「天皇記」の影響が大きい
下巻は、既に知る人が多い身近な歴史です。蘇我氏も聖徳太子も本当は記述したくなかったでしょう。
蘇我氏全盛の645年前と古事記編集開始の時代のほんの少し前です。
その影響は必ずあったでしょう。

古事記と仏教 蘇我入鹿暗殺

2017-07-08 07:25:27 | 歴史
古事記と仏教 仏教伝来で紹介した通り
蘇我氏の保護の元、仏教がヤマト朝廷で普及します。
大きな寺院、奈良 法隆寺、東大寺、大阪の四天王寺などが建立されます。

しかし、
645年 蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)が起きます。
同年に大化の改新が行われ、神仏分離に向かいます。
平安時代に建立された神社
出雲大社、平安神宮など神社の時代になります。
「古事記」「日本書紀」の完成もこの時代です。
以下の事がわかっています。
・中国の史記「魏志倭人伝」も読んで知っていた。
・大陸=>朝鮮半島から伝わった大乗仏教も知っている。
・先の時代の「天皇記」「史記」の内容も知っていた。
・古代より倭の国々は、多くの存在していた。
・天照信仰は仏教伝来よりかなり前から存在していた。
・ご先祖様を天孫降臨とする国も複数あった。

魏志倭人伝の影響
倭国の漢字を採用
邪馬台国の読みを採用(ヤマト国)など

同様に大乗仏教の壮大な宇宙観と時間空間を日本神話に取り入れます。
天地創造や国生みなども、ヒントにしたでしょう。
ニニギの天孫降臨や神武東征の理由が、国の平定としています。
御釈迦様の救済を参考にしたのではないでしょうか。

ブッダも大日如来も記することはありません。
大陸に朝貢した卑弥呼など存在しません。
天皇家の正当性示す様に日本神話を編集します。

聖徳太子らが建立した法隆寺なども既にあります。
古事記に編集に入る数年前の出来事です。
日本人は古来から、二つの異なる宗教を認める寛容的な民族です。
日本神話も仏教の宇宙観に負けない内容に頑張りました。
法隆寺に負けない神社の創建が橿原神宮や平安神宮など必須でした。


天孫降臨、神武東征が実際は、どの様な物だったのでしょうか。
神話の記事とは、かなり違うでしょう。神武天皇が実際に存在したとも思えません。
理由が国の平定も事実でしょうか。
・九州北部の国々と対立して、東へ移住せざるを得なかった。
・瀬戸内海連合国に飲み込まれた。
・武力を蓄え、東の国々の侵略を行った。
※九州の国が武力で近畿を侵略支配したのであれば、都は九州においたでしょう。
九州が筑紫VS豊国、肥国の関係となり、豊国が瀬戸内海連合を作り、近畿へ展開したのではないでしょうか。


平安時代後期になって、比叡山延暦寺など
鎌倉時代になると鎌倉新仏教(浄土宗、禅宗など)となり寺院も出来ますが
時の権力者は鶴岡八幡宮を建築します。
一方で 高徳院の鎌倉大仏も有名です。


古事記と仏教 仏教伝来

2017-07-06 22:11:52 | 歴史
古事記と仏教 仏教伝来で紹介した通り
仏教伝来は
538年 百済の聖明王から仏教が伝来した。
552年 百済が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上
ですが、近畿のヤマト朝廷での出来事です。
九州や出雲にはもう少し早い時期に伝来したでしょう。
しかし、仏教を保護してくれる人材がいませんでした。
ヤマト朝廷に使える 蘇我氏が仏教を支持してくれた事が仏教の普及と百済との友好関係ができました。

当時の仏教は、私たちが知る仏教ではありません。
現代の仏教
・ご先祖様の供養
・仏陀(ブッダ)の教えによる悟り
6世紀(仏教伝来時)の仏教
・災いからの「護国、守護」の呪術的なものでした。
蘇我氏と物部氏の討論
蘇我稲目
「むこうではみんなが敬っているのですから、どうして日本だけが一人これに背くことができましょう」
物部尾輿
「我が国では、王たるもの常にあまたおります神々に一年中祭りをなすのを仕事としているのであって、いまさら蕃神(外国の神)などを礼拝したら恐らく国の神々が怒ることでしょう」
日本の神が「地域性」をもっていて「氏子」以外の者に祭られるのを喜ばない、という性格をもっていることからある意味で正当な答えでしょう。
困った天皇は、「稲目が願っているのだから、試みに礼拝させることにしよう」ということにさせました。
その後も色々と物議をかもすのですが、そこでの行動が「神仏習合」
仏教界では
如来(悟り済)>菩薩(修行中)>明王(民衆を守る)>天部(仏界を守る
その如来でも最高神であり宇宙である「大日如来」=「天照大御神」と云う発想
当時の社会の中で、もの凄い思い付き「神仏習合」です。
・既に天照信仰があった。(6世紀)
※魏志倭人伝の時代(卑弥呼の時代3世紀)は、特に天照信仰の表現はありません。卑弥呼の祈祷が紹介されています。
 4~5世紀の時代に、卑弥呼の祈祷が天照信仰にかわっていた。
 もちろん、出雲や九州など大きな古墳(前方後円墳)を作っていた国々でも信仰されていました。

近畿の大和朝廷の蘇我氏のみが仏教を受け入れ、最高神 大日如来=天皇の祖先神 天照
の発想に至ります。
共に、国を守ってくれる「護国、守護」神様です。創建された四天王寺も護国が目的です。

仏教の伝来・普及と共に伝わったのが 漢字 です。
卑弥呼に時代には、漢字が書けなかったため、倭国、奴国に加えて 卑弥呼、邪馬台国など、何とも意地悪な漢字が使われます。
ヤマト朝廷の発展は、漢字を使える、大陸の律令政治を学んだ。この事が出雲や九州の国々と違う点です。
もちろん多くの百済人を受け入れます。

この時代に、蘇我馬子、聖徳太子によって書かれた「天皇記」と「記紀」、後に焼失しますが
一体、どの様な内容だったのでしょうか。
天皇のご先祖様は、天照大神 として書かれていたのか、大日如来だったのか
ニニギの天孫降臨から神武天皇の日向出発まで179万年、神武東征の理由は乱れた国の救済
神武天皇即位が、紀元前660年 いずれも大陸の信仰、仏教の影響が見えてきます。