古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

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魏志倭人伝をもう少し詳しく

2016-09-30 22:44:09 | 歴史
話を古くして魏志倭人伝 邪馬台国の時代
魏志倭人伝は、三章に分かれており、最初の大陸から朝鮮半島を経由して日本へ着くまでの道のりが記載されています。
図にすると
帯大群(ソウル)南へ7000里
狗邪韓国(プサン)南へ1000里
対馬国(対馬) 南へ1000里
一支国(壱岐) 南へ1000里
末盧国(松浦半島) 南へ1000里
ここで船を下りて、陸路となります。
山が海にせまり、草木が茂りさかえ、前の人がみえないほどである
伊都国(糸島半島) 東南に陸行すること五百里
ここに一大率がいて、大陸との貨物を検査している。
帯方郡使が往来す るとき常にとどまる場所である。
奴国(倭奴国王の金印が送られた国)東南へ100里
不弥国(共に博多湾)東へ100里
つまり、伊都国が交易の管理をしている(たぶん、金印はここで使われた)
伊都国、奴国、不弥国は博多湾岸で隣り合った国
ここまでは、誰もが疑わない事実でしょう。

ところが
投馬国 南へ水行20日
邪馬台国 南へ水行10日陸行1月
(奴国、不弥国から と 投馬国から更に の二通りの解釈がある)
福岡湾の奴国、不弥国までは距離で表記、邪馬台国までは日数で表記に変わっています。
(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。
不弥国まで10700里なので、残り1300里(博多から130kmほど)
既に9割ほどまで来ているのに、邪馬台国まで更に2ヵ月にかかる事になる。
福岡湾から南へ水行10日は川を上ることになる。
邪馬台国 九州説・近畿説 いずれもこの部分を勝手に変更して解釈します。
近畿説では方向を 南を東に置き換えます。
いやいや、水行10日陸行1月は大陸を出発してから日数だという説も出てきます。
私の解釈ですが、そもそも魏志倭人伝を100%信用することはない。
大陸の役人は、博多湾までしか来ていない。
その他、邪馬台国の事など見てもいないのです。
つまり、人から聞いた話、卑弥呼が送った生口(人質、奴隷)から聞いた話
だったと考えます。
邪馬台国から40日もかかっては国を統治する事など出来るわけはありません。
周旋するこ と(めぐりまわれば)五千余里ばかりであると書いてあります。
せいぜい、九州北部から有明海、大分辺りまでと考えられます。
倭国30余国の中でも伊都国、奴国、不弥国が強力な国です。
そこから数日で行ける所に卑弥呼の王宮があったはずです。
魏志倭人伝も適当な部分があると割り切って読みましょう。
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時代別にみる人口と鉄器の分布

2016-09-30 21:00:49 | 歴史
弥生時代、古墳時代の地方別状況がわかるサイトがありました。
地域別人口の超長期推移
1、縄文時代、人口は東関東と北に集中
  近畿、中国、四国、九州は人口が極めて少ない。
2、弥生時代 大幅な人口の増加
  特に九州、山陽、近畿周辺で増加、機内も増加しているが
  他ほどではない。

地域別にみた鉄器の出土数
1、鉄器は、九州に集中
2、古墳時代に奈良で急に出土するようになるが、他の機内では
  ほとんど発見されない。
3.九州においては、
  弥生中期まで 福岡、佐賀、大分で出土、熊本では少ない
  弥生後期になると、急激に熊本での出土が増える。
結論としていえる事
1、弥生人の移住は
  九州北部から、
  山陰ルート(出雲、若狭湾)
  山陽ルート(吉備、淡路島)と船による航海ルート
2、弥生時前期~中期の鉄器は、佐賀、福岡、大分の九州北部から
  山口、安芸まで
3、弥生後期(AD250年以降)に宮崎で急激な増加
時代背景
1、弥生中期まで(邪馬台国が出来る事位まで)
  九州北部が農耕、武器の面でとびぬけて進んでいる。
  この時期に、倭国の大乱があった。
  倭国の大乱は九州北部の地域の戦争
2、弥生後期(邪馬台国は狗奴国と戦争している)
  宮崎で急激な鉄器の増加、狗奴国は宮崎にあった。
  狗奴国が武器を持ち軍事力を強める。
  邪馬台国VS狗奴国とは、佐賀、福岡、大分VS宮崎
3、機内(奈良、大阪、京都南部)はかなり遅れており
  人口も少ない。
3、古墳時代に、鉄器が増加する。人口の移動が起こり
  人口を支えるための農業と大規模古墳を作るに為に鉄器が必要となった。
  この時期、東方征伐が行われた。
4、古墳時代、九州北部の鉄器出土数が減っている。
  三韓征伐など、鉄器が朝鮮半島で使われる。
5、鹿児島、宮崎では鉄器の出土が少ない(ほとんどない)
  人口が増えているが、争い(戦争)がない(平和な部族)
  天孫降臨は、宮崎日向の地で、新しい国造りを始めた。
6、石川、長野などで鉄器が増える。
  農耕具以外に、翡翠など鉱物の産出や木材の伐採に使われた。
以上、過去に紹介した邪馬台国など歴史に合致します。
2世紀紀後半、吉野ケ里の環濠防衛が強化するように
九州北部では争いが絶えない無法地帯に近かった。
3世紀になる朝鮮半島のもめ事で出兵するなど軍事力が集中した。
鹿児島、宮崎は軍事とは関係のない生活で過ごすことが出来た。
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インディカ米とジャポニカ米

2016-09-29 21:57:59 | 歴史

お米についても知っておきましょう。
稲の種類はアフリカ米とアジア米があり、アジア米にはインディカ米とジャポニカ米に分かれ、 ジャポニカ米には、温帯ジャポニカ米と熱帯ジャポニカ米(ジャバニカ米)があります。日本米は温帯ジャポニカ米に属しています。

ジャポニカ米は、日本以外では中国の一部と朝鮮半島、アメリカなどで栽培されています。インディカ米はインドを中心に中国、インドネシアなどアジア各国で主食として食べられています。ジャポニカ米を好んだ日本ではお米に味付けをせず、「ごはん」と「おかず」を分けて食べる文化が生まれました。一方インディカ米を食べる地域では、舌触りがパサパサしているためか、そのまま食べずにカレーと合わせたり、炒めたりと味付けをして食べることが多いようです。

熱帯ジャポニカが粗放な作業で収穫が得られる品種であることが大体想像できる。
縄文時代の遺跡からジャポニカ米の赤米が見つかっている事から
かなり古くから稲が生息していたと思われます。
元々、日本大陸は中国大陸から分離してできたと云われていますので
朝鮮半島、中国の山東省辺りと一体であり当時から稲が生息しておりそのまま、大陸から分離したと考えると納得できます。
弥生時代には、ジャポニカ米の白米になります(現在の日本のお米の祖先です)
DNA調査の結果でも、現在の山東省から朝鮮半島のお米と同じと云う結果が出ています。
ジャポニカ米も熱帯ジャポニカ米と温帯ジャポニカ米にわかられますが
弥生時代から古墳時代は熱帯ジャポニカ米
その後、水田による稲作が普及して温帯ジャポニカ米に発展した考えられます。
弥生時代の渡来人とは黄河流域からお米の種をもって渡来した民族で間違いないでしょう。
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大陸からの渡来人によるの農耕の始まりを弥生時代と呼ぶ

2016-09-29 21:37:15 | 歴史
紀元前300年ごろに、秦の国から徐福が3000人もの若者と各種の技能者をつれて
日本に来ています。弥生時代の始まりの時期です。
徐福
斉の国(現在は山東省の東部、黄河下流域)の方士(呪術師や祈祷師を行う当時の学者)
秦の始皇帝から大船団をもらい、斉の国周辺で人を集めて、3000人程で渡来
2度渡来しており、二度目は帰国していない。
彼らが弥生時代の基礎となる農耕を日本に持ち込んだと考えられます。
その証拠が、日本のコメにあります。
次に稲の種類について説明します。
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日本列島の成り立ち

2016-09-29 20:54:12 | 歴史
とてつもなく昔の話です。2500万年前
日本列島は影も形もなくユーラシア大陸がありました。
日本列島の成り立ち
徐々に、朝鮮半島より北の部分が離れてきて、間に湖が出来ます。
更に大陸から離れて、日本列島と朝鮮半島の卵が出来ます。
この時には、植物が既にあったと思われます。
一旦は、多くが海に沈みます。
水面が下がり、大陸=>朝鮮半島=>日本が陸続きに(7万年前)
この時に動物と南方の人類が日本大陸に移動してきます。
氷河期には、アラスカからも人類が移動して縄文人の先祖となります。
日本列島が島国になったでまだ数千年と云われてます。
倭国が中国の史記に紹介されるのが、2000年ほど前ですの
その何十倍と云う時間中に、大自然とわずかな人類の時代があった事になります。
中国から農耕の文化をもった民族が移住(渡来)したのが紀元前300年頃で
弥生時代の始まりとされています。


では、目的の弥生時代に始まりについてです。
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古代を知る三番目の手がかり 遺跡(古墳)

2016-09-28 21:13:58 | 歴史
古墳と云えば、「大仙陵古墳・大山古墳(だいせんこふん:大阪府堺市大仙町)」
イメージする方が多いと思いますが、最初は二つの古墳の文化圏を紹介します。
銅矛・銅剣文化圏(九州)と銅鐸文化圏(近畿)


銅鐸
銅鐸文化の消滅の意味するもの

西暦300年頃、日本には、九州北部と近畿を中心に二つの文化圏があった。
これは事実と思います。
摩訶不思議なのが、銅鐸
吊るして打楽器として使った。
雨乞いなど呪術的に使った。
古墳が作られるようになると消滅した。
その多くが居住地区から離れたところから埋められるようにして発見される。
銅鐸は、近畿を発祥地とした日本独特の文化、九州(吉野ケ里)や朝鮮半島でも発見される。
もう少し事実を上げると
青銅は、朝鮮・中国から輸入され、国内で鋳造している。
文様が描かれているものがあるが、農耕の状況や鹿など動物
戦いに関する文様はない。
近畿圏は、農耕や狩猟など生活を大切にする文化圏
九州圏は、武力が権力となった文化圏(これも大陸から伝わった)
と分けられると思います。
古墳の始まりと同時に銅鐸文化がなくなりますが
・近畿圏文化が九州圏文化の国に征服された。
・近畿圏文化が九州圏の武力文化を取り入れた。
等の諸説があります。
コメント

古代を知る三番目の手がかり 遺跡(環濠集落)

2016-09-28 20:25:49 | 歴史
佐賀県吉野ケ里遺跡の歴史が面白い。

吉野ケ里の始まりは、縄文後期(つまりは縄文人)
当時の有明海は、今より広く、吉野ケ里から2~3km位に
海岸があって、潮の満ち引きで魚介類の宝庫であった。
弥生時代前期(紀元前4世紀頃)に大規模集落の形成が始まる。
中期には、環濠が作られ、墳丘に墓を作り埋葬する儀式が始まる。
祭殿のあるムラが出来、神と会話するなどシャーマン的神道の始まり、現代の神社の始まりとも云える。
徐福が渡来したのがこの時代。
後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。
卑弥呼が邪馬台国の女王となったのがこの時代。
古墳時代の始まり、濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまいます。
集落はほぼ消滅して離散してします。

同様の現象が近畿他各地の環濠集落で起きる。
戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設では防御できなくなったと考えられています。
集落に住んでいた人々はどこへ行ったのでしょうか。
古墳時代は、弥生時代にどんな影響を与えたのか不思議ですね。
コメント

古代を知る三番目の手がかり 遺跡(金印)

2016-09-27 20:09:02 | 歴史
金印についてです。中国の史記で、倭国(日本)は、2度、貴方が国王です と云う意味で
金印が送られている事が記述してあります。

最初の金印は、 『漢委奴国王』 漢の武皇帝が西暦57年に倭奴国が貢物のお礼に送った。

縦3行に分かれていて
一行目 漢
二行目 倭奴
三行目 国王

一般的な解釈は 漢 は 倭の奴を国王とする。
奴国は、伊都国の隣で福岡から北九州にあったとされています。
これも諸説あり、倭奴はイトと読み 伊都国の事
当時は 日向を ヒナと呼び 宮崎の事など
折り合えずは、伊都国と奴国が隣り合って北九州にありました。
いします。
実際に、漢委奴国王の金印は福岡湾の先っぽ志賀島で発見されます。(志賀島は奴国の領土内)
奴国は漢へ貢物を贈る際に、箱につめて、金印に泥をつけて箱に印を押します。
伊都国で検査するにも、この金印の跡があれば中を確認することなく、通されます。
帯方郡でも、素通りして中国へ運ばれたはずです。
伊都国としてあまり面白くない時代だったでしょう。
地理的には
奴国は、瀬戸内海や日本海に通じる窓口なので多くの物品を集める事が出来ます。
伊都国は、朝鮮半島に近いので中国の情報などが集まります。
時代が過ぎ、238年に漢が魏に滅ぼされます。
漢委奴国王 の効力がなくなります。

同年すかさず卑弥呼が朝貢します。
そのお礼に『親魏倭王』の金印が送られます。
何とも巧妙でチャンスを生かした卑弥呼(或いは伊都国)の一手でした。
この様に金印は中国との交易に使われました。
その他、周辺諸国への権威の象徴と云う意味もあっでしょう。
しかし、こちらの金印はまだ発見されていません。
日本のどこかにある事は間違いありません。ひょっとしたら古い神社のどこかに、
ひっそりと置いてあるかもしれません。
もし発見したら大金持ちは間違いありませんので、興味のある方はチャレンジしてみて下さい。
コメント

古代を知る三番目の手がかり 遺跡(勾玉)

2016-09-27 19:43:16 | 歴史
これまた不思議、日本独特の文化、勾玉があります
縄文時代より作られていて、卑弥呼は魏への進貢品に
ヒスイ製勾玉2個を送ったとされる。
使われている翡翠は糸魚川産と思われる。
更に、日本書紀で出てくる、天皇の三種の神器 の一つが
八尺瓊勾玉がある。
縄文時代には、女性がネックレス(首飾り)に着けていただろう勾玉が、翡翠など高級できれいに仕上がる材料で作られるようになり
王からの送りもに使われるようになり、天皇である事の証明にも使われるようになる。
しかし、勾玉も古墳の埋葬品に使われるが、古墳が作られなくなると勾玉も作られなくなります。
天皇の三種の神器と云えば、鏡、剣、勾玉ですが、これらは全て古墳時代の埋葬品にありました。
しかし、もう一つの埋葬品 銅鐸は自然消滅します。
勾玉は天皇家の象徴となります。この違いは何だろうかと考えらせられますね。
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古代を知る三番目の手がかり 遺跡(縄文式土器)

2016-09-26 21:04:27 | 歴史
古くは、旧石器時代の矢じり等もありますが、

驚きは縄文式土器
良く知られている土偶には女性人型土偶(目玉が極端に大きいとか 妊婦とか)
それだけでも神秘的ですが、火焔型(かえんがた)土器
http://www.kaen-kaido.com/r_contents/manabu_about01.html
ハート形土偶
紀元前5000年位、縄文式の器の時代に、
ゴージャスで繊細なな火焔型土器 と
女性をデフォルメしたハート形土器
頭には冠、首や肩にも飾り物
精巧な左右対称形
なぜか片足をもいだ物が多い???
もはや宇宙人の仕業とか思えない。

そして、これらの縄文式土器が東北など、関東より北に分布している事も知っておいてください。
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