古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

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日本各地の神宮・大社・神社

2016-12-31 23:36:28 | 歴史
新年あけましておめでとうございます。
初詣、神社についてです。
古代史豆知識(神社)で説明していますが
イザナギが産んだ三貴神 アマテラス、スサノオ、ツキヨミ
天皇家の祖先はアマテラスですので、天照大神を祀った伊勢神宮を頂点とした神宮
天皇家の分家となるスサノオを祀った出雲大社などが大社です。
神宮と大社では、鳥居や社殿などの作りも違います。
その他にも多くの神社があります。
お正月の休みを使って、是非、勉強してみましょう。
ここでは、各地の有名な神社を紹介してみます。
伊勢神宮(三重県伊勢市) 天照大神が鎮座されていて、日本を守っていただいています。
             式年遷宮でも有名で最も歴史がある神社の本家です。
             天皇家の三種の神器 八咫鏡が納めてあります。
             社格の頂点にあります。
猿田彦神社(三重県伊勢)
             ニニギ一行が天損降臨の際に、道案内した猿田彦大神が祀られています。
熱田神宮(愛知県名古屋) 天皇家の三種の神器 草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社
             もう一つの神器 勾玉は皇居にあるとされています。
             天照の先代、イザナミ、イザナギが祀られてます。
出雲大社(鳥取県出雲市) こちらは大社の総本山
             スサノオが祀られてます。
             伊勢神宮が   高床式の穀物蔵の形から発達した「神明造」
             出雲大社が   古代の住居の形から発達した「大社造」です。
宗像大社(福岡県宗像市) 誓約の神話で、アマテラスの勾玉からスサノオが産んだ女神(宗像三女神)が祀られています。
             田心姫神(たごりひめかみ)  沖の島・沖津宮 (長女)
            湍津姫神(たぎつひめかみ)  大 島・中津宮 (次女)
            市杵島姫神(いちきしまひめかみ)宗像市・辺津宮 (3女)
            スサノオから産まれた為、分家扱いの大社です。
平安神宮(京都市)   平安遷都を行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社
            幾度も焼失しており、現在の建物は明治時代に再建された。
春日大社(奈良県奈良市)旧 春日神社、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀る
厳島神社(広島県廿日市市)宗像三女神を祀る。平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられた。
太宰府天満宮、北野天満宮 天神様信仰で天満宮の総本山、菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
            源氏再興の旗上げをした源頼朝が完成させた。
            三韓征伐の神功皇后と応神天皇が祀られています。
            時の権力者は、スサノオなど強い神々を崇拝した様です。
八坂神社、稲荷神社(伏見稲荷)、住吉大社など多数の支社を持つ神社の形式が出来ます。
古くは、社格の高い神社は高貴な貴族の物だったのが、大衆化した証だと思います。
えびす神社は、七福神とインドの神様まで加わって縁起が良い神社です。
狛犬は、飛鳥時代に仏教と共に獅子の姿で伝わり、平安時代に左右に獅子と狛犬となったようです。
日光東照宮      江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化して祀られています。
幕末、明治維新では、明治神宮が造られます。
初詣に行かれたら、鳥居や社殿の作り、狛犬、しめ縄、ご神体など確認してみては如何でしょうか。

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前方後円墳と天皇家

2016-12-31 14:03:04 | 歴史
古墳が、大王の墓と考えるなら、弥生時代からあったようです。
吉野ケ里では、北墳丘墓 ~歴代の王の墓~があり、墳丘に歴代の王が埋葬され、手前に催事場があり階段があります。
後の古墳時代の古墳と異なるのは、同じ丘に歴代の王(吉野ケ里では14基)が埋葬されている事です。
古墳時代では、一人の王の為に大きな円墳が盛られて中央に王が埋葬されます。
埋葬の儀式や祭りごとを行うために手前に台の部分を配置したのが前方後円墳です。
この古墳時代には、埋葬品として、銅鐸 か 銅剣、銅矛 かで、二つの文化圏に分かれます。
九州北部を中心にした銅剣・銅矛文化圏 と 近畿を中心にした銅鐸文化圏です。
前の投稿で紹介した通り、前方後円墳が天皇家独特の文化でも象徴でもなく、各地で作られています。

天皇陵の古墳と年代をグラフにしてありました。

横軸が、古事記など史記にある年代で、縦軸が実際に古墳を調査して判明した年代です。
45度の直線状にあれば、史記と実際が合う事になりますが
10代 崇神天皇 その子供
11代 垂仁天皇 その子供
12代 景行天皇 その子供
13代 成務天皇 とヤマト尊の子供が
14代 仲哀天皇 で皇后が神功皇后であり、その子供
15代 応神天皇 その子供が
16代 仁徳天皇 と続きます。
ところが、崇神天皇、垂仁天皇、ヤマト尊、応神天皇陵は、史記より100年ほど後
仲哀天皇と神功皇后が夫婦で応神天皇が子供、更に孫にあたるのが仁徳天皇ですが
どうも、天皇陵年代が合わないのです。
古事記の
1.上つ巻(序・神話)
 邪馬台国(卑弥呼)を含む、九州、中国地方の話
2.中つ巻(初代から十五代天皇まで)
 架空の話 或いは 諸国の有名な国王
3.下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)
 近畿(羽曳野、堺)の国王と正確にわかる天皇家のお話
ではないでしょうか。
大陸との交流で文化や鉄製品なで武力で勝る 銅剣・銅矛文化圏
近畿銅鐸文化圏は周囲諸国の同盟を強力にするとともに関東へも文化を広げます。
千葉など関東で前方後円墳が多い理由です。
多分にヤマト尊がこの仕事を実行したのではないでしょうか。
つまり、10代~16代 仁徳天皇ぐらいまでは天皇家とは関係のない近畿の豪族の墓です。
500年代にヤマト朝廷が力をつけると。各豪族の歴史を自分の家系の歴史にしたのが天皇記で
後に、古事記・日本書紀に記述されて。近代において宮内庁が近畿各地の古墳に歴代の天皇の名前を付けたのです。
初代から15代天皇は奈良の地で過ごした天皇家の先祖、或いは仕えた人々、或いは架空の人物で
奈良にあったお墓を勝手に使ったり、後に陵を造ったりしています。
しかし、箸墓古墳(250年)を卑弥呼の古墳とした場合に、神武東征の神話の疑問が残ります。
この答えは、後ほどとして、明日は元旦ですので、やはり神社について語りたいと思います。

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前方後円墳の数

2016-12-30 14:38:15 | 歴史
古墳時代に、卑弥呼の古墳と呼ばれる箸墓古墳が始まりの前方後円墳、その分布と数は
wikiで調べてみると
日本列島に広く分布し、約4,800基が存在する。前方後円墳の存在が明確でないのは、北方では北海道・青森県・秋田県、南方では沖縄県の計4道県にすぎない。
前方後円墳が県別に多い順で
千葉県 685
茨城県 444
・・・
西日本が
岡山県 291基
広島県 280基
・・・
近畿に限れば
奈良県 239基
大阪府 182基
なんと
京都府  12基
ちなみに、天皇陵(天皇、皇后、皇子等を合葬含めて) 85基 
内、天皇陵と治定されている前方後円墳 22基しかありません。
前方後円墳が、天皇家の専売特許ではなかった様です。
近畿、西日本
300年位 奈良の箸墓古墳で前方後円墳が始まる。
     岡山、広島と中国地方へ伝わり、九州北部まで普及
500年代 仏教の伝来とともに古墳が作られなくなる。
     関東地方では、仏教の影響を受けず長い期間造られた。
さすがに、東北、北海道、沖縄には伝わらなかった。
京都は、奈良の文化を受け入れなかった、或いは、古墳を作る様な大王がいなかった。
大坂では、

の様に、大和川を下り、大阪市には向かわず、羽曳野、堺市に古墳が出来ます。
神武東征の際に、この地域は強国があり、神武一派は、紀伊半島へ迂回し奈良へ到着しています。
後の500年代(飛鳥時代)も蘇我氏、物部氏の話、聖徳太子と全てが奈良です。
羽曳野、堺の王が前方後円墳を作った。後に、史記が天皇家の墓とした。
多分に、この犯人も聖徳太子
遣隋使を送るには、倭国の王でなくてはなりませんので、無理やり近畿の諸国の王を天皇家に組み入れる事とで
連合体制を作り上げたのではないでしょうか。



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古代の歴史書をデタラメにした犯人

2016-12-24 18:26:02 | 歴史
日本古代の歴史を知る手掛かりが 古事記・日本書紀 ですが、
その内容と年代があまりにもデタラメです。
何故、この様な事になったのでしょうか。
事の始まりは、初代天皇 神武天皇の即位が 紀元前660年2月11日 に設定したためです。
この年を天皇家(日本国家)の始まりとした理由は
中国古来の考え方で、「革命勘文」にある1260年単位で大きな革命が起きるとされる辛酉(かのとと)の年の思想です。
辛酉の年は60年周期で、西暦年を60で割って1が余る年が辛酉の年になります。
辛酉の年が21回で1260年ごとに大きな変化が起きると云うのです。
古事記・日本書紀は、この思想を取り込んで紀元前660年から西暦601年の1260年を一つの世界として書き上げたのです。
その犯人は、60年周期で現れる辛酉の年で、始まりを紀元前660年、終わりを601年を選択しています。
つまり、犯人は601年の人物です。
601年の人物と云えば、推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子です。
後に、聖徳太子と蘇我馬子で 天皇記・国記の編集を行います。
この様な操作が出来たのは、この二人しかいません。犯人は、聖徳太子と蘇我馬子です。
時代は
神道保守派の物部氏VS仏教革新派の蘇我氏の対立があり
587年 丁未の乱 で蘇我馬子が勝利し、物部氏が滅びます。
聖徳太子も蘇我氏の影響を受けて根っからの仏教信者で大陸思想の勉強も行っています。
600年には、1回目の遣隋使が派遣されます。
聖徳太子は、中国の史記も呼んだでしょうし、倭人伝についても知っていたはずです。
推古天皇が神武天皇から何代目に当たるかも家系図に近いものがあったはずですが
二人は、601年を新しい国の始まりとして天皇記・国記を編集したのです。
当時、天皇家の家系図で判断できたのは応神天皇位までだったでしょうが
それに大勢のご先祖様を加えて歴史を1000年ほど追加したのですから
周囲の天皇家の人々からは喜ばれたでしょう。
しかし、本心は蘇我家一族による新しい仏教国の始まりを意味していたのです。
その蘇我氏の陰謀も
622年 聖徳太子死去
626年 蘇我馬子死去
628年 推古天皇崩御
最後に、642年に乙巳の変(クーデーター)により蘇我入鹿が暗殺されて、蘇我氏の野望は崩れてしまいます。
天皇記も国記も意図的に焼き払われたでしょう。
しかし、その内容は多くの人が知る存在であったため、古事記・日本書紀も利用、神話の世界を加えて
更に壮大な世界観を作り上げたのです。
既に神武天皇以後は出来上がっていますので、それ以前、或いはその他の内容は全て神話の世界で表現せざると得ませんでした。
中国の史記との関連もありますので、所々に 史曰く と云う表現を付け加えます。

余談ですが、601年から1260年後の1861年は幕末の時代です。
大政奉還で1868年で明治政府が出来ています。
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16代仁徳天皇と倭の五王

2016-12-24 10:32:12 | 歴史
歴代の天皇で年代がはっきりする手がかりが『宋書』倭国伝にあります。
仁徳天皇の3人の子供
17代履中天皇 倭王 讃
18代反正天皇 倭王 珍
19代允恭天皇 倭王 済
允恭天皇の子供(仁徳天皇の孫)
20代安康天皇 倭王 興
21代雄略天皇 倭王 武

『宋書』倭国伝によると、この五人(2世代)が活躍したのは
421年から478年です。その内容は
朝鮮半島を長く支配していましたが、状況苦しく、南朝宋の武帝に書面を贈り、425年に特産品を献上し
文帝に安東将軍・倭国王に任命してもらいます。
478年の武王の手紙によると、倭国は
東の方は毛人の55国を征し、西の方は衆夷(しゅうい)66国を征服し、海を渡って北の95国を平らげました。皇帝の王道は広く溶け込み、封土は広大です。
※これは大げさでしょう。東の毛人は関東から北陸、西の衆夷は出雲、九州で、北の95国は朝鮮半島です。
 既に、氏姓制度を各地の王に言い渡してありますので、満更嘘ではありませんが、諸国の王が支配下にあったわけでは
 ありません。

臣下であるわたくしの父済王は実に高句麗が宋国へ通う道を塞ぐことを怒り、弓矢を持つ兵士100万、義憤の声を挙げて奮いたち、大挙して攻めようとしましたが、にわかに父王と兄王が亡くなって後一息で成功する時に、さいごの一撃が出来ませんでした。わたくしは国に居て喪に服しているので兵士たちを動かさないでいます。こうして戦いをやめて兵士を休めて、高句麗に勝たずにいます。
とあります。
高句麗との戦いで敗れ、朝鮮半島の支配を失います。

七枝刀 と 広開土王碑では
369年では百済王が七枝刀を贈ってきます。
百済とも友好で、朝鮮半島の多くを支配していました。

396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。
仁徳天皇 或いは 前代の応神天皇の時代に高句麗の攻撃を受け支配権を失います。
その後も478年まで兵士を贈り続けますが、功績を上げる事が出来ず、撤退しています。

神功皇后による三韓征伐は、369年以前です。
馬韓・弁韓・辰韓の三韓を筑紫氏、宗像市、出雲氏の三つの豪族がそれぞれを実質支配したのではないでしょうか。
天皇家からは物部氏などが向かいますが、筑紫氏の様に交易の利益を蓄える一族もいる状況です。
近畿では、氏姓制度をはじめ律令国家への体制づくりが着々と身を結びます。


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12代景行天皇と日本武尊(ヤマトタケル)

2016-12-24 09:12:21 | 歴史
ヤマト尊の武勇伝です。もう既に神話の世界です。尊の父が景行天皇です。
『古事記』によれば景行天皇には
記録に残っている御子が21人、残らなかった御子が59人、合計80人も御子、寿命143歳です。
皇后、妃が30人を超えています。この方も熊襲征伐を行っています。
この時点で、景行天皇も神話です。
ヤマト尊の神話で有名なのは
その体躯は2メートルにも及んだとされ、その姿は気迫にあふれていた。
幼少の頃より超人的な力を持っていたようで、父親が「お前の兄が反抗的なのでお前から諭してみよ」と軽く命じられると兄の大碓皇子の手足を持ち前の怪力でもぎ取り、掴み潰してむしろに包んで捨ててしまいます。
父親は人知を超えた息子の力とその残忍性に恐れをなし、自分から遠ざける為に戦場へと送り込む事を決めたのでした。

九州ではクマソタケル兄弟を打ち破り、
出雲においてはイズモタケルを討つなど次々と戦功をあげていきます。
戻ったヤマトタケルでしたが、休む暇もなく、今度は東国への出生を命じられます。
東国に向かう前に叔母の倭姫のいる伊勢神宮を訪ね、倭姫は三種の神器のひとつである天叢雲剣と小袋を与えます。
草薙剣は元をたどればヤマタノオロチを倒したスサノオが手に入れ、アマテラスに献上したものであり
それが回りまわってヤマトタケルの手に届いた事になります。
野原で火攻めにあった際には天叢雲剣で周囲の草をなぎ倒し、小袋に入っていた火打石で火をつけ、逆に敵を焼き払って勝利をおさめます。
上総国(房総半島)に渡る途中、海上で嵐に遭って窮地に立たされた際には海神の怒りを鎮める為に妃である弟橘姫が自らの意志で海に入水すると嵐はやみ、ヤマトタケルは最愛の妻を失う事となりましたが無事に上総国に上陸する事に成功します。
東征を終え都へ帰る途中に尾張に寄る事にしたヤマトタケルはそこで出会ったミヤズヒメと結婚し、伊吹山の神を退治にいきます。
護身の呪力を持った草薙剣を妻に預けた事が命取りとなり、祟りにあってそのまま帰らぬ人となります。
亡くなったヤマト尊は、白鳥となり奈良の地へ帰ります。
この怪力ぶりは、スサノオの話にも似ています。
11代垂仁天皇の皇女が倭姫命 がアマテラスとも言われています。

歴代の天皇ですが
仁徳天皇まで全て100歳越え
景行天皇 熊襲征伐
ヤマト尊 熊襲征伐、出雲征伐、東国征伐
仲哀天皇、神功皇后 熊襲征伐
神功皇后 三韓征伐
何度も熊襲征伐が出てきます。近畿から九州へ移動するだけでも大変です。
ましてや地図もない時代、相手の社にたどり着く事さえ無理でしょう。
伊勢神宮が出来たのもかなり後です。
全てが神武天皇をBC660年に設定した為、多くの人物を投入せざるを得なくなります。
2~9代天皇は、欠史8代として実在しないと云われています。
古事記の中つ巻(初代から十五代天皇まで)に、1000年ほどの架空の人物が盛り込まれているなら
神武天皇はAC330年の人物となります。
魏志倭人伝の邪馬台国から古墳時代に移り80年後の話となり、時代背景がつながってきます。
BC660年では、まだ縄文時代ですしね。
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神功皇后と14代仲哀天皇と15代応神天皇

2016-12-23 19:52:16 | 歴史
神功皇后と14代仲哀天皇と15代応神天皇の関係
・仲哀天皇の妻が神功皇后
・この夫婦の子供が応神天皇
その第四子が16代 仁徳天皇となります。
この時代には諸説あります。日本書紀が云うには
199年 神功皇后と仲哀天皇が熊襲討伐のため儺県(奴国)の香椎宮を訪れる。
そこで、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。
託宣では熊襲よりも宝のある新羅を攻めよとされた。
しかし、仲哀天皇は、これを信じず、熊襲征伐を行うが、敗北し、撤退した。
200年 筑紫の香椎宮で崩じた。
皇后らはこれを「神の託宣を聞かなかったためだ」と嘆いた。

時代的には、魏志倭人伝に紹介される卑弥呼であるが
卑弥呼は独身、子供はいないのである。

神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。
齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。
その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。
お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。
新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。(三韓征伐)
身重の皇后が、直接出兵する。出産を遅らせる為、石でおなかを冷やす。
帰国後、九州で応神天皇を出産、神功皇后が長寿ですので、応神天皇が71歳で即位

皇后在籍期間が68年、卑弥呼が180年から248年とすると68年で一致するのですが
5世代子孫の継体天皇が509年、25代武烈天皇までが兄弟で即位しているケースもあるので6世代
1代が40~50年ほどになり、あり得ない。
当時の事は、魏志倭人伝にあり、狗邪韓国(朝鮮半島南端 プサン辺り)が倭国の領土である。
神功皇后は130歳まで生きているともあります。
卑弥呼=神功皇后 はちょっと無理としか言えません。

この問題を解くがカギは紀年です。
年号を120年、或いは60年繰り上げて読み直してみます。
>神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。
神功皇后が261年から269年までの8年間政事を執り行なった。
神功皇后が321年から329年までの8年間政事を執り行なった。
後の仁徳天皇も在位87年、399年に崩御です。


どちらにしても、古事記・日本書紀共にこの時代の記述は信ぴょう性をかなり失います。
古事記の
2.中つ巻(初代から十五代天皇まで)
3.下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)
で表現が変わったと思うのですが・・・
加えて、仲哀天皇は52歳で亡くなり、父 ヤマトタケル(日本武尊)の薨後36年目に生まれ
神功皇后を妊娠させている。
神功皇后が応神天皇を出産する際は仲哀天皇は既に亡くなっており、近畿を離れた九州で出産
下世話な発想だが、仲哀天皇が熊襲征伐の間に不倫したと想像してしまう。
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26代天皇 継体天皇

2016-12-23 17:24:45 | 歴史
33代推古天皇(女帝)から遡る26代天皇 継体天皇は重要人物です。
最大古墳 大仙陵古墳で有名な16代天皇 仁徳天皇の家系で繋がる天皇家
そして、悪逆非道で有名な武烈天皇の死で大きな変換点となるのが継体天皇

506年 武烈天皇が後嗣定めずして崩御
     当時の大臣ら(大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人ら)が協議したしたが後継者が決まらない。
     近畿地方は乱れていて、天皇は暗殺される危険がある立場、地域の一族は怖くて天皇になろうとしない。
507年 応神天皇から5世代子孫となる継体天皇を地方から呼び寄せる。
     男大迹王(をほどのおおきみ)として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
     いわゆる人物主義の人選を行ったのです。既に高齢であったと云われています。
527年 即位後19年経過、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが。
     筑紫碧の乱に突入
     筑紫碧の乱に勝利後、九州から日本海ー琵琶湖ー宇治川ー淀川ー瀬戸内海までを統治を可能にした。
27代  安閑天皇 第一子
28代  宣化天皇 第二子
29代  欽明天皇 第四子 と当時として一族の長期政権となります。
しかし、この長期政権も物部氏と蘇我氏の対立、仏教と神道の取り扱いが原因で内乱になりますが。
16代仁徳天皇から直系血筋で繋がった25代武烈天皇の血筋が切れて、15代天皇子孫とされる継体天皇
実際は、天皇家の血統が一度、途切れているとも云われています。
各地方の9人の女性との間に21人の子供を作ったともいわれています。
古墳は、茨木市の太田茶臼山古墳とされていますが、近年の調査では数百メールと離れたところにある今城塚古墳が有名です。
過去の天皇が河内・羽曳野に古墳を作ったことに対して、茨木・高槻に古墳を作ります。
過去の天皇とは異なる事を示唆しています。
しかし、この古墳時代も仏教の伝来と共に飛鳥時代に突入してなくなります。
古墳時代にヤマト王権が西日本を統一したのが、この継体天皇ではないでしょうか。
中国が倭国と呼んだのは九州北部であったなら、
西日本一帯を大倭と呼び近畿を中心にヤマト王権が権力を付けた時代です。

邪馬台国(卑弥呼)が200年前半とすれば、大倭国が出来るまで250年以上かかりました。
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「天皇記」と「国記」

2016-12-23 16:21:20 | 歴史
古事記・日本書紀より以前に、天皇家の歴史と国の成り立ちを記載した日本の史記がありました。
「天皇記」と「国記」です。
聖徳太子と蘇我馬子がこの時代に共同で編纂しました。
しかし645年の中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼした乙巳の変で焼失したとして現存はしていません。
つまり、聖徳太子は既に、自らの一族を天皇と呼び、大陸の皇帝と比較して国を治めるトップ一族として紹介した。
国記では、天皇家一族が古代から日本を統一していく歴史が書いてあったはずです。
その内容が古事記・日本書紀に引き継がれたでしょう。
日本神話や神武天皇から推古天皇以前までの武勇伝が書いてあったはずです。
古事記では、更に33代天皇推古天皇の記述が加えられます。
672年壬申の乱後、天武天皇が、天皇記・国記に代わる国史の編纂を命じています。
古事記・日本書紀と天皇記・国記の内容が類似ている事は間違いないでしょう。

古事記
1.上つ巻(序・神話)
2.中つ巻(初代から十五代天皇まで)
3.下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)
の3巻より成っている。
中つ巻は15代天皇 応神天皇で終わり
下つ巻は16代天皇 仁徳天皇で始まります。
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皇帝と天皇と国王

2016-12-23 14:51:45 | 歴史
天皇は、日本独特である事は皆さんご存知の通りです。
では、いつから天皇と云う名前が始まったのでしょうか。
古代中国で、秦の始皇帝が初めて、大陸の国々を無力で統合して秦と云う帝国を作り
自らを始皇帝と名乗ります。
既にローマ等で皇帝(エンペラー)がありましたので、大国が周囲の諸国を統治したら
そのてっぺんに立つものが帝王、皇帝という事です。
その後、大陸から 「漢の倭国王」(紀元前57年)と「親魏倭王」(238年)に送られています。
皇帝から諸国の王に贈られていますので、日本は帝国の一部となる国という事です。
しかし、倭国には、古くは100余、親魏倭王の時代には30国で、その集まりが倭国です。

天皇は、600年に聖徳太子が遣隋使を通じて、隋の煬帝にあてた手紙のなかに「日出る処の天子」
皇帝と対等の称号を使い、天武天皇の時代(673年)に律令制度において規定されました。

しかし、古事記・日本書紀では、初代天皇が神武天皇でBC660年です。
出来たのが両方とも平安時代ですので、時の都合によって書き加えられて事は間違いありません。
信ぴょう性が高い部分で
539年 第29代欽明天皇(きんめいてんのう)・・・仏教公伝から
物部尾輿と蘇我稲目の争い
33代 推古天皇と摂政 聖徳太子
乙巳の変(中大兄皇子と中臣鎌子が蘇我入鹿を暗殺)は事実だと思います。
勿論、まだ天皇と云う呼び名はありません。

29代欽明天皇以降は、実存した天皇であることは間違いありません。
では、それ以前の天皇と古代の出来事について考えてみます。
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