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小川城

2017-08-07 23:23:05 | 松阪の城

小川城

城名
 小川城
住所
 松阪市嬉野中川町
築城年
 14世紀後半
築城者
 小牧薩摩守(上小川城城主)
形式
 居館
遺構
 注1
推定規模
 東西130m×南北140m
城主
 小牧薩摩守(白口峠の番頭・矢下の家老)
標高 10m 
歴史
 北畠の家臣小牧薩摩の守の居城で家中には立木重兵衛等がいた。
 一族の小牧頼長は霧山城の戦いで討死している。(北畠物語)
経緯
 小川神社の東付近の水田の下から遺構が出て松阪市の発掘調査(注1)が済み、今は住宅地となっていてその面影はまったくない。
書籍
 松阪市の発掘調査報告書 中川駅周辺区画整理事業に伴う発掘調査報告書Ⅱ 三重の中世城館
環境
 現在でも近畿鉄道が大阪線と名古屋線で分岐するように重要な場所である。
 当時としては初瀬街道が南北に走り、交差するように中村川が東西に流れやはり重要な場所であった。
 特に小牧薩摩守は中村川上流の上小川にも城や邸宅を築き白口峠から中流までを監督していたようである。
 ちなみに白口峠から小川城までグーグルで徒歩23Km4時間半とでた。
注1 松阪市の発掘調査(旧嬉野町)
 平成5年、6年調査 嬉野町教育委員会、埋蔵文化財センター 2004年12月発行纏め本
 遺構の評価
 溝で区画された居館跡が確認された。おおむね15世紀から16世紀代の土師器鍋などが出土する。巾2.5m 長さ26m 深さ1.6mの溝がL字状にある。礎石立ちの建物である可能性も推定される。入り口部分で一部虎口状にクランクし南側では並行する溝。南側部分は小規模な土塁などが存在していた可能性。現在の初瀬街道あたりまで遺構部分が延びる可能性。(平成26年6月10日文化財センター)
 中川駅周辺区画整理事業に伴う発掘調査報告書Ⅱ
 今回の調査を実施した小川城跡も出土遺物から見て、ほぼ14世紀後半~15世紀段階の遺構遺物が確認されていることから15世紀における、北畠支配の拠点を示すものと考えられる。
 又、中村川流域における古代から中世の状況として把握できている史料は吾妻鏡に見られる。須可郷に関するものとして、平治元年(1159)11月17日 須可庄下司為兼(平為兼)息兼真解に「伊勢国須可御庄下司為兼法師子息僧兼真解 申請 殿下政所裁事」の記述があるほか、「吾妻鏡」に元暦元年(1184)9月9日条にも須可庄の地名を見ることができる。
 Ⅲ 調査の概要
 A 小川城跡
 a  調査区の概要
 平成5年、6年の2か年にわたり調査を実施した。
 調査区は水田の耕作が継続的に実施されている。
 調査区は小川神社南側でA~E、2Aである。
 d  室町時代の遺構
 SB1 堀立柱建物 4間×5間 4.2m×5.1m 柱総数18本
 SB2 堀立柱建物 6間×4間 6m×4.1m 柱総数18本
 SB3 堀立柱建物 4間×5間 4.2m×5.1m 柱総数18本
 SB4 堀立柱建物 2間×4間 2.2m×4.2m 柱総数11本
 SB5 堀立柱建物 5間×4間 4.2m×5.1m 柱総数18本
 SB6 堀立柱建物 2間×3間 2.2m×3.1m 柱総数10本
 SB7 堀立柱建物 2間×6間 2.2m×6.1m 柱総数10本
 SB8 堀立柱建物 3間×6間 3.1×6.1m 柱総数10本
 SE1 井戸 長径1.2m 短径1.0m 深さ3m
 SE2 井戸 長径1.6m 短径1.4m 深さ3m
 SE3 井戸 長径1.4m 短径1.2m 深さ2.6m
 溝 幅最大2.6m 南肩部分で石積みによる護岸が実施される。深さ最深0.8m 溝断面形はU字状、池の可能性が想定される。(SD1)
 溝 幅0.6m 長さ11m 深さ0.5m 断面U字状(SD2)
 溝 幅0.4m 長さ15m 深さ0.3m 断面U字状(SD3)
 溝 幅1.6m 長さ6m 深さ0.5m 断面U字状(SD4)
 溝 幅0.5m 長さ4m 深さ0.5m 断面U字状(SD5)
 SD6,SD7,SD9,SD21,SD22,SD23,SD24
 総延長127.5m
 遺構の評価
 東側=奈良時代から平安時代
 西側=室町時代
 性格は大きく異なる。
 東側 明確な堀立柱建物などの遺構は検出されなかったが、柵列などの遺構が存在する事から大規模な堀などの区画を伴う遺構としては正倉や豪族居館等の遺構と考えられる。
 西側 主に溝で区画された居館跡が確認された。おおむね15世紀末~16世紀代の土師器が出土する。方形の区画は南北 m東西 mの溝によって方形に区画された館地である。
 小規模な池跡である可能性が存在するが今後の類例を見る必要がある。
 又、小川城については入り口部分で一部虎口状にクランクし南側では平行する溝によって道路状の遺構が存在することなどからすると南側部分については小規模な土塁などが存在していた可能性がある。
 調査の成果と課題
 中村川流域の中世城館は11か所が確認されている。
今回の小川城跡については森本城周辺の調査で確認されている屋敷田遺跡と同様ないわゆる館的な機能を有する中世の居館跡であることが確認できた。
 16世紀の遺物が集中的に確認されていることからいわゆる北畠氏がこの一志郡域を所領とした時期とほぼ同じ時期にあたる。
 小川城跡に関する記述としては、小牧薩摩守とし、矢下家老と示されているように小川城跡の位置づけが中村川流域の防御的な側面に関係した館であると考えられる。
 こうしたことからすると、中村川流域の中世城館は居館の性格を有する須賀城、小川城、森本城の3つの館と中世山城の6つの山城とで構成されていることが確認できるが、現在、こうした館が確認できる位置については中村川右岸地域に集中するものであり左岸では現在確認することができない。
 こうした事から見ると、北畠の地域支配のあり方が複数の核によってその地域支配がなされていたことが推察できるものであると考えられ、雲出川流域においては木造城を中心とした核による支配阿坂城を中心とした核が存在し、阿坂政所を中心とした支配が、この中村川流域におけるおのおのの居館を中心とした小グループへと細分されるものであると考えられる。
 また、こうした小グループに細分される、各館のあり方については、小川城跡ではその土塁などの防御的施設は残存しなかったが、須賀城や森本城においても高さ2mを超える土塁などが存在する事などからすると、小川城跡においても、東側溝などの区画される部分で土塁などの構造を有していたものと考えられる。
 外部の防御施設としては、、土塁などの構造を有する館跡ではあるが、内部的な構造としては、小川城跡の南中央部に石囲いを有する大型の土杭の存在などからすると小規模な池や庭園を有する館の跡が存在した可能性が高いと考えられる。
 こうした庭園などの遺構が各小グループの館跡に存在する事などからすると、中世後期の武士の館が防御的な機能のみではなく、政治的な機能を取り込んでいたものと考えられ今後の調査事例の増加がまたれる。

 地図;

 

 



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