「13メートル」津波、南三陸町庁舎のみ込む 2011年3月14日 読売
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110314-OYT1T00103.htm
「若い職員が次々と津波にのまれて行った。まさに地獄絵図だった」
宮城県南三陸町の佐藤仁町長(59)は、町庁舎に隣接する防災対策庁舎の屋上に避難し、その庁舎が濁流にのみ込まれた時の様子を振り返った。
防災対策庁舎は、1960年のチリ地震津波の被害を教訓にした鉄筋コンクリート3階建て。災害時には、救助や被災者支援、復興計画の拠点となる施設で、町職員たちも「堅固な防災対策をとった庁舎なら大丈夫」と思っていた。
発生当時約40人が庁舎内におり、このうち約30人が屋上に避難した。ところが、津波は3階屋上をも包み込んだ。町長によると津波の高さは約13メートル。屋上の金網に必死ですがりついた町職員も、金網と一緒に次々とのみこまれた。
津波は何度も何度も、執拗に襲ってきた。第一波ではじき飛ばされて偶然、屋上に出る階段の鉄製手すりにつかまることができた佐藤町長らは、近くに設置されていたアンテナによじ登り、身を守った。
妻を残した家が押しつぶされるのを目の当たりにした町幹部が屋上で男泣きに泣く姿を見て、誰もが胸を締め付けられた。屋上に避難した約30人のうち、生存が確認できたのは10人だけ。町内には「壊滅」した集落も複数あり、町職員のほか、町議にも生存が確認できない人もいる。
13日朝には、がれきと化した街並みから水が引いた。船や家屋が線路に乗り上げていたり、所々で黒い煙が立ち上っていたりと生々しい痕跡があらわになった。今はもう散乱した、笑顔で映っている家族写真を拾い集める人の姿もあった。
町は災害対策本部を体育館に設置したが、機能はまひしたままだ。陣頭指揮を執る佐藤町長は「壊滅した地区も複数あり、米や毛布、水など支援物資の不足が著しい」と緊急支援の必要性を訴え、「生死は紙一重。生き残った私たちは、つらくてもしっかり生きなければならない」と声を震わせた。
東日本大震災:「早く逃げて」命かけた防災無線…南三陸 2011年3月14日 毎日
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110314k0000m040103000c.html
東日本大震災の発生から3日目の13日、明らかになりつつある被害状況は拡大の一途をたどり、死者が1万人単位に及ぶとの見方も出てきた。難航する救出作業、あふれる避難所、行き届かない食料や物資。福島第1原発1号機の爆発事故で、新たに約8万人の住民が避難を余儀なくされ、想像を絶する巨大地震に襲われた被災地は、大きな不安や疲労に包まれた夜を迎えた。
「早く逃げてください」--。街全体が津波にのみ込まれ約1万7000人の人口のうち、約1万人の安否が分からなくなっている宮城県南三陸町は、町役場が跡形もなくなるなど壊滅した。多くの町職員や警察官、消防職員が行方不明となったが、その中に津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけた女性職員がいた。
「娘は最後まで声を振り絞ったと思う」。同町の遠藤美恵子さん(53)は、避難先の県志津川高校で涙を浮かべた。娘の未希(みき)さん(25)は町危機管理課職員。地震後も役場別館の防災対策庁舎(3階建て)に残り、無線放送を続けた。
難を逃れた町職員(33)によると、地震から約30分後、高さ10メートル以上の津波が町役場を襲った。助かったのは10人。庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。その中に未希さんはいなかった。
遠藤さんは「(生き残った職員から)『未希さんが流されるのを見た』という話を聞いた。もうダメだと思う」とつぶやいた。
地震直後、遠藤さんの知人、芳賀タエ子さん(61)は「6メートル強の波があります。早く逃げてください」という未希さんの放送の声を聞きながら、携帯電話だけを持ち、着の身着のままで車で避難所の志津川高校のある高台を目指した。停電で信号が動いておらず、周辺道路は渋滞していた。高台への道路を上がる時、振り向くと渋滞の列からクラクションが鳴り響き、その背後から津波が家屋などをなぎ倒しながら追いかけてくるのが見えた。
芳賀さんは懸命にアクセルを踏み、数十メートルの高さの高台に逃れた。車を降りて避難所の階段を上がった。遠藤さんもたまたま避難していた。
芳賀さんは遠藤さんの手を握って言った。「娘さんの声がずっと聞こえたよ」
高台から見下ろす街は濁流にのみ込まれていた。
妹捜索の男性、がれきの山に「あきらめついた」2011年3月14日 読売
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110313-OYT1T00761.htm
「万が一の可能性を信じて来たんだけど……」。
記者が岩手県山田町の被災現場で出会った会社員、鈴木春蔵さん(64)は、介護士として働いていた妹(55)を捜すため、スコップを手に老人保健施設「霞露(かろ)」を訪れた。
3階建ての屋根まで津波に襲われ、建物内部はがれきの山。目に飛び込んできたのは、搬送されずに放置された複数の遺体だった。
付近一帯は、町の形状が分からないくらいに変わり果てていた。地元の人によると、北は山田湾、南は船越湾に挟まれた小さな集落は、両湾に押し寄せた大津波がぶつかり合い、一瞬でのみこまれた。
鈴木さんは「生きている人の救助が最優先なのは仕方ない。これであきらめがつきました」と、力無く、笑みを浮かべた。
隣の集落に住む男性(52)は、父(78)と母(75)が地震直後、手をつないで避難するのを見たという人の言葉を頼りにやって来た。「足が悪い母に合わせ、父が手を引っ張って歩いていたと思うと……」と、言葉を詰まらせた。
同町内では救援物資が十分に届かず、がれきの中から食料や飲料水のボトルを掘り出すなどして、住民らが物資確保に動いている。
数百人が地元の小学校に身を寄せている大沢地区もそうした地域の一つ。消防団員の箱石寛さん(40)は「体育館にぎゅうぎゅう詰めで人がいるのに、食材も灯油も全く届かない。もうすぐ米もなくなる」といらだつ。
箱石さんたちは13日朝、商店があった場所へ行き、がれきと泥の中から、飲料水やインスタント食品を見つけ出した。家が高台にあって難を逃れたという大石澄子さん(51)は、自宅にあった食料をみんなに提供してきたが、尽きたという。
「避難所には赤ちゃんもいるのに粉ミルクも届かない。紙おむつも何とか見つけなくちゃ」と、がれきをかき分けていた。
ビル屋上に車、駅は土台だけ…女川襲った津波 2011年3月14日 読売
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110313-OYT1T00561.htm
13日午後、宮城県女川町に入った。前日まで津波が運んだがれきや浸水で道路が寸断され、“陸の孤島”だった町だ。
隣接する石巻市から車で入れるようになり、途中からは歩いて向かった。中心部を見渡す高台で、目に飛び込んできた光景は信じられないものだった。
浜辺に近い家や商店が並んでいたであろう場所はがれきの山しかなく、かろうじて、町役場や観光施設などコンクリートの建物が無残な姿をとどめる。真っ二つに割れたビルの残骸や、3階建てビルの屋上にあるひっくり返った車が、津波の怖さを物語る。
高さ十数メートルの高台にある女川町立病院。1階部分がほぼ水没したという。廃虚と化した町を眺めていた勝又良悦さん(47)は地震直後、「1人で逃げられるから」と気丈な父二郎さん(78)と自宅で別れ、会社に戻った。
沖の方でぐんぐんと水位が上がるのを目撃し、急いで走って逃げたが、膝まで達した津波に足を取られて転倒。それでも壁をつかんで起きあがり、山肌をよじ登って避難した。
父を助ける余裕はなかった。目の前に壁のような大波が押し寄せ、町のあらゆるものをのみ込んだ。「父も家も会社もみんな持っていかれてしまった」。「父が生きているとは思えないが、父に生かしてもらった気がする」と途方に暮れる。
病院の玄関の柱には、避難者の名前を書いた紙がはり出されていた。会社の同僚の名前を探していた同町の会社員、阿部美昭さん(67)は、「連絡が全然つかない。名前も載っていない。どこかに逃げていればいいが」とため息をついた。
町民は小中学校や同病院に避難したが、大きな津波が4、5回続いたという。回転する屋根の上につかまって沖合まで流されながら助かった男性がいた一方、高齢者の中には逃げ遅れた人も少なくないとみられる。高台に逃げ、そのまま一晩を過ごしたという女性は「まさに地獄絵図。本当に恐ろしい」と声を震わせた。
中心部にある女川駅は、土台だけを残して跡形もない。レールは大きく曲がり、列車は港から約500メートル離れた高台の墓地まで押し流された。船や車が辺り一面に転がっていた。船の燃料か、潮の香りに重油臭さが混じる。
町総合体育館には約2300人が避難していた。グラウンドには陸上自衛隊などのヘリコプターが救援物資を運んで来るが、食糧や医薬品が不足しており、暖房も利かない。妻と避難してきた佐藤忠雄さん(75)は「サンマの入った汁を茶わん半分飲んだだけ。持病の神経痛も悪化しそう。いつまでこの生活が続くのか」と、冷えた足をさすった。グラウンドの施設には遺体が運び込まれていた。
「津波の前はとてもきれいな町だったよね。でも、みんななくなっちゃった」。そう言って母親の手を握りしめる小さな男の子がいた。未曽有の大災害は、被災者に大きな傷を残した。復旧までどれほどの時間がかかるか想像もつかないが、一日も早い復興を願わずにいられない。
町長ら1万人超不明…岩手・大槌、機能停止の町 2011年3月14日 読売
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110313-OYT1T00306.htm
町の中心部が大津波にのみ込まれた岩手県大槌(おおつち)町。
避難所で所在が確認されている住民約4600人を除き、町長をはじめ1万人以上の行方がわからないままだ。火災にも見舞われ、何もなくなってしまった町に13日、記者がはいった。
所々から火災の残り火や煙が上がり、町中心部は焦げ臭いにおいに包まれている。中心部にあった図書館やガソリンスタンドなどは跡形もない。背後にある山で火事が起きているが、消防機能は完全にまひしている。大槌川にかかるJR山田線の橋は橋脚を残し、落下した。
港から約1キロにある役場は、2階まで津波が押し寄せた。役場では加藤宏暉町長ら幹部が災害対策会議を開こうとしていた、まさにその時だった。東梅政昭副町長は「町長が高いところに避難するよう指示し、約20人が屋上に上がったところで津波が押し寄せてきた。数十人の職員が行方不明となっている。加藤町長は姿が見えなくなった」と話した。町も事実上、機能停止となっている。
同町城山の中央公民館は遺体の安置所になっていた。約20人の遺体が安置されている。各地で遺体の回収が続いている。
災害対策本部も置かれ、13日朝までに40人の死亡を確認したという。町内26か所の避難所に約4600人が、命からがら避難している。
公民館に避難した会社員、阿部正人さん(46)は「もう2日間、何も食べていない。それでも連絡の取れない弟を捜さないといけない」と疲れ切った表情で話した。
不明の町長に代わり災害対策本部長を務める東梅副町長は「何人の町民が亡くなっているのか全く分からない。約1万5000人の町民で、もっと亡くなった方が増えるのではないか」と苦しい表情で話した。
町民たちはがれきに埋もれた自動販売機を壊して、中からペットボトルのお茶や缶ジュースを取り出してのどの渇きをしのいでいた。住民はがれきの中から、泥にまみれた預金通帳や食料など使えそうなものを探していた。
県立大槌病院で、ライフライン(生活物資補給路)が途絶し、医薬品もとぼしい中で、かろうじて診療が続けられていた。岩田千尋院長は「夜は懐中電灯の明かりで診察を続けている。職員も家族と連絡がつかないまま、頑張っている」と話した。
43人の患者が入院している。事務員岡田和也さん(32)は「水、食料、医薬品はほぼ底をついている。医薬品は1階にあったが、水浸し。ライフラインは全滅だ。患者の搬送を頼みたくても電話や無線は全て壊れており、外部との連絡は断絶状態」と話した。
「水、米が足りない」被災地で物資不足深刻 2011年3月14日 読売
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110314-OYT1T00105.htm
東日本巨大地震の発生から3日目となった13日、各地の避難所では物資不足が深刻化し、すでに2晩を過ごした被災者の多くは、寒さと空腹に疲労の色を一層濃くしている。
「水も食べ物も足りない。もう2時間も探し歩いている」。13日午後、津波で街が水没した岩手県陸前高田市内の避難所の一つで過ごす20代の男性がつぶやいた。手には、未開封のペットボトル。避難所から離れた小売店の跡まで歩き、拾ってきたという。
市立第一中にある避難所の対策本部副代表を務める中井力(つとむ)さん(61)は「食料はぎりぎり。手持ちはほとんどなく、救援物資が到着するのを待っている」と切実に話す。同校には13日午前現在、約950人の住民が寝泊まりしているが、物資の不足は深刻だ。「特に米が足りない。野菜をとることも大切だができない」
夜は冷え込むため、温かい食べ物がほしいが、行き届かない。また、ガソリンや暖房具、トイレットペーパー、医薬品などの確保も切実で、特にガソリンは発電機に使うため極めて重要だという。
同校に避難している矢作美保さん(63)は、「そのまま逃げてきたので着替えがなく困っている。もう3日目なので……」と、疲れた表情で語った。
宮城県南三陸町では、志津川小学校の校舎に約1200人が避難している。若い男性らががれきの山から灯油を持ってきたり、壊れた自動販売機からジュースを取り出して配っている。
近くに住む商店経営佐々木長平さん(69)は家族6人で避難。かつての津波の際も同校に避難したが、今回の方が避難所が人であふれていると感じるという。1人1畳ほどのスペースしかなく、すし詰め状態。毛布も足りず、灯油がなくストーブをつけることもできないため、夜はかなり冷え込む。
同県石巻市の市立住吉中学校では、多くの被災者が避難してきた後、津波で周囲が水につかり出られなくなった。食料が届けられたのは12日深夜になってから。13日の朝が被災後初めての食事となった人も少なくない。ただ、量は足りず、ビスケット1枚で我慢した人もいたという。
すみません。コメントは遠慮させてください(何と言っていいか言葉が思いつきません)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110314-OYT1T00103.htm
「若い職員が次々と津波にのまれて行った。まさに地獄絵図だった」
宮城県南三陸町の佐藤仁町長(59)は、町庁舎に隣接する防災対策庁舎の屋上に避難し、その庁舎が濁流にのみ込まれた時の様子を振り返った。
防災対策庁舎は、1960年のチリ地震津波の被害を教訓にした鉄筋コンクリート3階建て。災害時には、救助や被災者支援、復興計画の拠点となる施設で、町職員たちも「堅固な防災対策をとった庁舎なら大丈夫」と思っていた。
発生当時約40人が庁舎内におり、このうち約30人が屋上に避難した。ところが、津波は3階屋上をも包み込んだ。町長によると津波の高さは約13メートル。屋上の金網に必死ですがりついた町職員も、金網と一緒に次々とのみこまれた。
津波は何度も何度も、執拗に襲ってきた。第一波ではじき飛ばされて偶然、屋上に出る階段の鉄製手すりにつかまることができた佐藤町長らは、近くに設置されていたアンテナによじ登り、身を守った。
妻を残した家が押しつぶされるのを目の当たりにした町幹部が屋上で男泣きに泣く姿を見て、誰もが胸を締め付けられた。屋上に避難した約30人のうち、生存が確認できたのは10人だけ。町内には「壊滅」した集落も複数あり、町職員のほか、町議にも生存が確認できない人もいる。
13日朝には、がれきと化した街並みから水が引いた。船や家屋が線路に乗り上げていたり、所々で黒い煙が立ち上っていたりと生々しい痕跡があらわになった。今はもう散乱した、笑顔で映っている家族写真を拾い集める人の姿もあった。
町は災害対策本部を体育館に設置したが、機能はまひしたままだ。陣頭指揮を執る佐藤町長は「壊滅した地区も複数あり、米や毛布、水など支援物資の不足が著しい」と緊急支援の必要性を訴え、「生死は紙一重。生き残った私たちは、つらくてもしっかり生きなければならない」と声を震わせた。
東日本大震災:「早く逃げて」命かけた防災無線…南三陸 2011年3月14日 毎日
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110314k0000m040103000c.html
東日本大震災の発生から3日目の13日、明らかになりつつある被害状況は拡大の一途をたどり、死者が1万人単位に及ぶとの見方も出てきた。難航する救出作業、あふれる避難所、行き届かない食料や物資。福島第1原発1号機の爆発事故で、新たに約8万人の住民が避難を余儀なくされ、想像を絶する巨大地震に襲われた被災地は、大きな不安や疲労に包まれた夜を迎えた。
「早く逃げてください」--。街全体が津波にのみ込まれ約1万7000人の人口のうち、約1万人の安否が分からなくなっている宮城県南三陸町は、町役場が跡形もなくなるなど壊滅した。多くの町職員や警察官、消防職員が行方不明となったが、その中に津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけた女性職員がいた。
「娘は最後まで声を振り絞ったと思う」。同町の遠藤美恵子さん(53)は、避難先の県志津川高校で涙を浮かべた。娘の未希(みき)さん(25)は町危機管理課職員。地震後も役場別館の防災対策庁舎(3階建て)に残り、無線放送を続けた。
難を逃れた町職員(33)によると、地震から約30分後、高さ10メートル以上の津波が町役場を襲った。助かったのは10人。庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。その中に未希さんはいなかった。
遠藤さんは「(生き残った職員から)『未希さんが流されるのを見た』という話を聞いた。もうダメだと思う」とつぶやいた。
地震直後、遠藤さんの知人、芳賀タエ子さん(61)は「6メートル強の波があります。早く逃げてください」という未希さんの放送の声を聞きながら、携帯電話だけを持ち、着の身着のままで車で避難所の志津川高校のある高台を目指した。停電で信号が動いておらず、周辺道路は渋滞していた。高台への道路を上がる時、振り向くと渋滞の列からクラクションが鳴り響き、その背後から津波が家屋などをなぎ倒しながら追いかけてくるのが見えた。
芳賀さんは懸命にアクセルを踏み、数十メートルの高さの高台に逃れた。車を降りて避難所の階段を上がった。遠藤さんもたまたま避難していた。
芳賀さんは遠藤さんの手を握って言った。「娘さんの声がずっと聞こえたよ」
高台から見下ろす街は濁流にのみ込まれていた。
妹捜索の男性、がれきの山に「あきらめついた」2011年3月14日 読売
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110313-OYT1T00761.htm
「万が一の可能性を信じて来たんだけど……」。
記者が岩手県山田町の被災現場で出会った会社員、鈴木春蔵さん(64)は、介護士として働いていた妹(55)を捜すため、スコップを手に老人保健施設「霞露(かろ)」を訪れた。
3階建ての屋根まで津波に襲われ、建物内部はがれきの山。目に飛び込んできたのは、搬送されずに放置された複数の遺体だった。
付近一帯は、町の形状が分からないくらいに変わり果てていた。地元の人によると、北は山田湾、南は船越湾に挟まれた小さな集落は、両湾に押し寄せた大津波がぶつかり合い、一瞬でのみこまれた。
鈴木さんは「生きている人の救助が最優先なのは仕方ない。これであきらめがつきました」と、力無く、笑みを浮かべた。
隣の集落に住む男性(52)は、父(78)と母(75)が地震直後、手をつないで避難するのを見たという人の言葉を頼りにやって来た。「足が悪い母に合わせ、父が手を引っ張って歩いていたと思うと……」と、言葉を詰まらせた。
同町内では救援物資が十分に届かず、がれきの中から食料や飲料水のボトルを掘り出すなどして、住民らが物資確保に動いている。
数百人が地元の小学校に身を寄せている大沢地区もそうした地域の一つ。消防団員の箱石寛さん(40)は「体育館にぎゅうぎゅう詰めで人がいるのに、食材も灯油も全く届かない。もうすぐ米もなくなる」といらだつ。
箱石さんたちは13日朝、商店があった場所へ行き、がれきと泥の中から、飲料水やインスタント食品を見つけ出した。家が高台にあって難を逃れたという大石澄子さん(51)は、自宅にあった食料をみんなに提供してきたが、尽きたという。
「避難所には赤ちゃんもいるのに粉ミルクも届かない。紙おむつも何とか見つけなくちゃ」と、がれきをかき分けていた。
ビル屋上に車、駅は土台だけ…女川襲った津波 2011年3月14日 読売
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110313-OYT1T00561.htm
13日午後、宮城県女川町に入った。前日まで津波が運んだがれきや浸水で道路が寸断され、“陸の孤島”だった町だ。
隣接する石巻市から車で入れるようになり、途中からは歩いて向かった。中心部を見渡す高台で、目に飛び込んできた光景は信じられないものだった。
浜辺に近い家や商店が並んでいたであろう場所はがれきの山しかなく、かろうじて、町役場や観光施設などコンクリートの建物が無残な姿をとどめる。真っ二つに割れたビルの残骸や、3階建てビルの屋上にあるひっくり返った車が、津波の怖さを物語る。
高さ十数メートルの高台にある女川町立病院。1階部分がほぼ水没したという。廃虚と化した町を眺めていた勝又良悦さん(47)は地震直後、「1人で逃げられるから」と気丈な父二郎さん(78)と自宅で別れ、会社に戻った。
沖の方でぐんぐんと水位が上がるのを目撃し、急いで走って逃げたが、膝まで達した津波に足を取られて転倒。それでも壁をつかんで起きあがり、山肌をよじ登って避難した。
父を助ける余裕はなかった。目の前に壁のような大波が押し寄せ、町のあらゆるものをのみ込んだ。「父も家も会社もみんな持っていかれてしまった」。「父が生きているとは思えないが、父に生かしてもらった気がする」と途方に暮れる。
病院の玄関の柱には、避難者の名前を書いた紙がはり出されていた。会社の同僚の名前を探していた同町の会社員、阿部美昭さん(67)は、「連絡が全然つかない。名前も載っていない。どこかに逃げていればいいが」とため息をついた。
町民は小中学校や同病院に避難したが、大きな津波が4、5回続いたという。回転する屋根の上につかまって沖合まで流されながら助かった男性がいた一方、高齢者の中には逃げ遅れた人も少なくないとみられる。高台に逃げ、そのまま一晩を過ごしたという女性は「まさに地獄絵図。本当に恐ろしい」と声を震わせた。
中心部にある女川駅は、土台だけを残して跡形もない。レールは大きく曲がり、列車は港から約500メートル離れた高台の墓地まで押し流された。船や車が辺り一面に転がっていた。船の燃料か、潮の香りに重油臭さが混じる。
町総合体育館には約2300人が避難していた。グラウンドには陸上自衛隊などのヘリコプターが救援物資を運んで来るが、食糧や医薬品が不足しており、暖房も利かない。妻と避難してきた佐藤忠雄さん(75)は「サンマの入った汁を茶わん半分飲んだだけ。持病の神経痛も悪化しそう。いつまでこの生活が続くのか」と、冷えた足をさすった。グラウンドの施設には遺体が運び込まれていた。
「津波の前はとてもきれいな町だったよね。でも、みんななくなっちゃった」。そう言って母親の手を握りしめる小さな男の子がいた。未曽有の大災害は、被災者に大きな傷を残した。復旧までどれほどの時間がかかるか想像もつかないが、一日も早い復興を願わずにいられない。
町長ら1万人超不明…岩手・大槌、機能停止の町 2011年3月14日 読売
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110313-OYT1T00306.htm
町の中心部が大津波にのみ込まれた岩手県大槌(おおつち)町。
避難所で所在が確認されている住民約4600人を除き、町長をはじめ1万人以上の行方がわからないままだ。火災にも見舞われ、何もなくなってしまった町に13日、記者がはいった。
所々から火災の残り火や煙が上がり、町中心部は焦げ臭いにおいに包まれている。中心部にあった図書館やガソリンスタンドなどは跡形もない。背後にある山で火事が起きているが、消防機能は完全にまひしている。大槌川にかかるJR山田線の橋は橋脚を残し、落下した。
港から約1キロにある役場は、2階まで津波が押し寄せた。役場では加藤宏暉町長ら幹部が災害対策会議を開こうとしていた、まさにその時だった。東梅政昭副町長は「町長が高いところに避難するよう指示し、約20人が屋上に上がったところで津波が押し寄せてきた。数十人の職員が行方不明となっている。加藤町長は姿が見えなくなった」と話した。町も事実上、機能停止となっている。
同町城山の中央公民館は遺体の安置所になっていた。約20人の遺体が安置されている。各地で遺体の回収が続いている。
災害対策本部も置かれ、13日朝までに40人の死亡を確認したという。町内26か所の避難所に約4600人が、命からがら避難している。
公民館に避難した会社員、阿部正人さん(46)は「もう2日間、何も食べていない。それでも連絡の取れない弟を捜さないといけない」と疲れ切った表情で話した。
不明の町長に代わり災害対策本部長を務める東梅副町長は「何人の町民が亡くなっているのか全く分からない。約1万5000人の町民で、もっと亡くなった方が増えるのではないか」と苦しい表情で話した。
町民たちはがれきに埋もれた自動販売機を壊して、中からペットボトルのお茶や缶ジュースを取り出してのどの渇きをしのいでいた。住民はがれきの中から、泥にまみれた預金通帳や食料など使えそうなものを探していた。
県立大槌病院で、ライフライン(生活物資補給路)が途絶し、医薬品もとぼしい中で、かろうじて診療が続けられていた。岩田千尋院長は「夜は懐中電灯の明かりで診察を続けている。職員も家族と連絡がつかないまま、頑張っている」と話した。
43人の患者が入院している。事務員岡田和也さん(32)は「水、食料、医薬品はほぼ底をついている。医薬品は1階にあったが、水浸し。ライフラインは全滅だ。患者の搬送を頼みたくても電話や無線は全て壊れており、外部との連絡は断絶状態」と話した。
「水、米が足りない」被災地で物資不足深刻 2011年3月14日 読売
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110314-OYT1T00105.htm
東日本巨大地震の発生から3日目となった13日、各地の避難所では物資不足が深刻化し、すでに2晩を過ごした被災者の多くは、寒さと空腹に疲労の色を一層濃くしている。
「水も食べ物も足りない。もう2時間も探し歩いている」。13日午後、津波で街が水没した岩手県陸前高田市内の避難所の一つで過ごす20代の男性がつぶやいた。手には、未開封のペットボトル。避難所から離れた小売店の跡まで歩き、拾ってきたという。
市立第一中にある避難所の対策本部副代表を務める中井力(つとむ)さん(61)は「食料はぎりぎり。手持ちはほとんどなく、救援物資が到着するのを待っている」と切実に話す。同校には13日午前現在、約950人の住民が寝泊まりしているが、物資の不足は深刻だ。「特に米が足りない。野菜をとることも大切だができない」
夜は冷え込むため、温かい食べ物がほしいが、行き届かない。また、ガソリンや暖房具、トイレットペーパー、医薬品などの確保も切実で、特にガソリンは発電機に使うため極めて重要だという。
同校に避難している矢作美保さん(63)は、「そのまま逃げてきたので着替えがなく困っている。もう3日目なので……」と、疲れた表情で語った。
宮城県南三陸町では、志津川小学校の校舎に約1200人が避難している。若い男性らががれきの山から灯油を持ってきたり、壊れた自動販売機からジュースを取り出して配っている。
近くに住む商店経営佐々木長平さん(69)は家族6人で避難。かつての津波の際も同校に避難したが、今回の方が避難所が人であふれていると感じるという。1人1畳ほどのスペースしかなく、すし詰め状態。毛布も足りず、灯油がなくストーブをつけることもできないため、夜はかなり冷え込む。
同県石巻市の市立住吉中学校では、多くの被災者が避難してきた後、津波で周囲が水につかり出られなくなった。食料が届けられたのは12日深夜になってから。13日の朝が被災後初めての食事となった人も少なくない。ただ、量は足りず、ビスケット1枚で我慢した人もいたという。
すみません。コメントは遠慮させてください(何と言っていいか言葉が思いつきません)