いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

自分で自分を知るための自己観察の方法 上

2004-12-01 18:13:19 | 自分探し 無意識の意識化 自己観察
 以下の文は、上・中・下の3つに分けた上に当たる文です。

自分探しの冒険で命を落とさないために

○自分探しは自分を自分でよく知ることから
 自分探しは、自分自身を、自分でよく知ることの結果として達成できます。
 しかし、現実には、多くの方々が、ご自分のことをよくご存じではありません。
 そこで、まだ自分自身でもよく知らない自分を、自分でよく知る実際の方法について、
これから説明します。

○自分が何者かを他人任せにして知ろうとする人達
 世の中には、自分で自分のことを直接知ろうとはしないで、他人が自分についてどう言
っているのかによって自分とは何かを知ろうとする人達が少なからずいます。
 しかも、他人が自分について言っていることが自分の思い通りでは無いと、怒って、抗
議をし、人を馬鹿にした、名誉棄損だ、人権侵害だ、と騒ぐ人達さえいます。
 自分がどういう人間でどう行動するのかは、世間の人が自分のことをどう思っているの
かという事一つに懸かって決まる、という訳です。
 しかし、これは、「自分のことは自分で始末を付ける」という人間常識に反するもので
す。
 しかも、人間の創造主である神は、一般法則論的理解によれば、神自らの化身であり分
身である全ての人間に相応しいように、自助自立して生きる能力を生得的に与えているの
です。

○自分のことは自分自身で知ろう!
 本当は、まず自分自身で、自分を直接よく知ることです。
 自分が今やろうとしていること、自分が現に今やっていることを、自らが自覚すること
が、自分の行為を他人の所為にせずに、「自分のことは自分で始末を付ける」という人間
常識に則った、自分で自分の行動の仕方を正しくまた適切に制御した行動にします。

 しかし、人と話しをしていて、次のように思う事が、度々あります。
 「ご自分のことを、ご自身で未だまるっきりご存じでないなぁ」
 「自己観察が足らないなぁ」

 これが意味することは、ご自分がやっていることが、ご自分でも分からず、当然、他人
に自分がやったことを筋道を立てて説明することが出来ない、ということになります。
 これを他人が見れば、理解出来ないことは納得し受け入れることが出来ないという訳で
すから、まったくその行動もその動機も不可解で、強く不安を覚える不気味な行動、とい
うことになります。
 この元はと言えば、繰り返して言えば、当の御本人の自己観察がまるっきり足らず、こ
の結果は、ご自分の事を知らず、知らないからご自分の行動をご自分で制御することも知
らず、それが出来ないことになります。

 自分が今何をやっているのかを全く意識せずに無我夢中で行動するというのは、スポー
ツ選手の神業のような行動例に顕著に見られるように、場合によっては望ましい理想的な
行動の仕方です。
 しかし、終始、無我夢中だけで行動するというのは、人間行動の正しい在り方ではなく
て、人間以外の生物一般の、理性の働きを必要としない本能的な行動の仕方です。
 終始、無我夢中だけで行動する人は、社会にとってそれだけで大迷惑な存在です。
 事実、ご自分でご自分の行動を自覚的に制御できず、その動機も説明できない人の行為
は、しばしばそれが社会に衝撃を与えるような犯罪行為です。
 なお、上の話は、それをする正しい方法を探してする試行錯誤の行動を許さない、とい
う意味ではありません。試行錯誤とは何か、これを支えるこの世界の仕組みについては、
別の所で説明。

 人間は、男女の性行為の結果機械的に生まれてくるのが原則のようなので、こうして、
「初めて人間に生まれて、未だ(生まれ変わり死に変わりしてする)人間修行が足らず、
人間の生き方をご存じでは無いようだなぁ」という感想を抱くこともあります。
 しかし、これは見掛け上の話。本当の所は、人間として初めて生まれても、常に完全完
璧な人間存在として生きることを可能にする全ての能力を持っているのです。

○こんな方法では如何でしょう
 自分でも未だ無意識の状態にある自分自身について、自覚的な知識を持つ。
 まずは、自分の手で、自分自身について直接よく知ることです。
 そこで、私が悟りの体験をする前の準備体操にもなった、「自分を自分でよく知る」た
めの実際の方法を説明します。

○自己観察をする対象となる自分
 自己観察の対象にする自分は、5つあります。
 一 意識のある心で何かをその時にその場で思っている(自分の)ことの自覚化
 二、自分の無意識の心で思っていることを意識化すること

 ここでの話の自己完結性を確保するために、意識と無意識について再確認。

・人の心は、意識(目が覚めている状態の心/自意識/個体意識/自我等複数の言い方が
ある)と無意識(潜在意識/意識下/意識外/サブリミナル・マインドなど、複数の言い
方がある。時には「神」そのものと言われることもある)の心とで出来ています。
 なお、意識のある心は大脳の左脳側、無意識の心は右脳側ではないようです。
・普通、物を考えるのは、意識のある自分の心だ、と理解されています。
 しかし、意識のある心で自分自身とこの世界の事を観察したり考えたりしていることが
その全てでは無いことを、もう百年近く前に、G・フロイトが発見したことを、あなたも
ご存じでしょう。
・フロイトは、意識する心が全くその存在を知らない無意識の心があって、無意識の心で
も、この世界と自分自身を色々と独自に観察し、考え、判断していることを発見していま
す。この事実は、催眠術を使っても確認できますね。
 また、意識で知ったことは、結局その全てがやがて無意識の心の内容の一部になること
も、明らかになりました。
・無意識の存在をフロイトが発見した後、ユング心理学のユングが、個人がこの世に生ま
れてからその人が個人的に知ったことが無意識に情報化されて蓄積されている以外に、全
ての人に共通する生得的な無意識的情報、即ち、自分の家族の記憶、民族的な記憶、人類
的な共通意識、宇宙意識などがあることを発見したことも、あなたはご存じでしょう。
・無意識にある情報とは、よく考えてみると、結局、この世界と人間に関する全ての情報
です。
・一般法則論的に言えば、無意識にある情報は、創造主である神(の心とその存在及びそ
の働きに関する情報)+神の化身/分身の人が生きた情報+自然法則+エネルギーに関す
る情報です。尚、エネルギー=神の身心。自然法則=神の天地創造の原理。
・注意すべきことは、(神の化身/分身である筈の)人が生きた情報の中には、創造主で
ある神+自然法則+エネルギーには一切含まれてはいない妄想観念も多数含まれているこ
とです。例えば、この世を生きることは苦痛だとか死後の世界に天国があるなど。
 このことは、座禅の修行中に、「魔境」の名で知られている、様々な妄想観念で悩まさ
れることでも知られていますし、向精神性薬物を使った時の幻想体験も同じです。

 三、自分の皮膚の外側の世界に対する自分の反応の仕方(習慣的で無意識化されている
   部分もある)の意識化
 四、自分を観察している自分の発見
 これは、行動する自分を見ている自分の話。
 見る自分と見られている自分とは、しばしば分裂しています。
 五、これら四つの自分の姿は全て一人同じ自分だ! と気付く発見をすること
 この五つの自分を意識しながら自己観察をしてください。

○親・成人・子供の三つの側面
 何とか言う精神分析の方法を簡略化して普通の人向けにしたという交流分析学では、人
の心は、親・成人・子供の三つの心の働きからなっていて、この三つの心のどれかを主に
使って或いはこの三つの心を一つに統合して使って、自分と他者や生きている世界と相互
交流的に反応している、と分析します。
 私が自己観察を最初にしていた当時(1963年)は、これを知りませんでしたので、
この考え方を自己観察には使いませんでした。
 知った後の今でも、私はこれを組織的に体系的に使っているとは言えません。
 それでも、時々役に立ちます。

○自己観察の目───チェックリスト
 人を見る目があるとか無いとかいう話があります。
 これは、自己観察においても当て嵌まります。
 自分に人を見る目がなければ、自分を不当に過大評価したり過少評価してしまうことに
なるでしょう。
 自己観察で自分を発見することの結果として、自分を見る目も養われるし、一緒に他人
を見る目も養われることになります。
 で、自己観察の過程では、自分がどういう人間かについて、即断を下さないことが必要
で大事です。
 ここでは人を見る目があるとか無いとかいう観点では無くて、観察対象をまずは主観を
交えずに客観的に見る文化人類学者が野外調査でやっているように、自分の行動を一つの
システムとして、突き放して見ることをお勧めします。
 もちろん、自己観察という行為自体も、一つのシステムとして構造的に/システム的に
/体系的に/組織的に行われて初めて意味のある結果が得られます。
 ここの話しは、その自己観察システムの一つの実例になる物を作る話。

・システムとは何か、という未だ解けて無いと一般に言われている問題がありますので、
いきなり、「自分の行動を一つのシステムとして見る」と言われると困ってしまう方がお
られるかも知れません。

・ここで一般法則論的なシステム論を1から10まで説明すると長くなりますので、ここ
での話に限って、結論的なことだけを簡単に説明しておくと(元々簡単な話)────
 この世界に在る全ての存在物は、常に必ず、それをそれにする原理的仕組みを基にして
造られた/作られたシステムや構造物の形になります。神の天地創造の理法=自然法則が
こう決めている訳です。なお、自然法則は、同時に原因=結果の因果必然の法則でした。
 同様に、人(生物)の全ての行為/行動(見る、聞く、考える、理解する、記憶する、
判断する、選択する、決断する、また、掃除をする、更には芸術のような何かを創発的に
創造する行為さへ)も、常に必ず、「それをそれにする原理的仕組み」に基づいて造られ
た(例は、目や耳、大脳システム)/作られるシステムを道具にして行われます。これを
無視して或いは使わずに行動しても、例えば掃除はうまく出来ません。
 これは、言い換えると、原因=結果の因果必然の法則に則った行為です。
 当然に、ここでする自己観察においてもこのことが当て嵌まります。
 閑話休題。

 自分の行動をシステム的に見るというここでの話は、もっと簡単なことです。
 新聞記者が、社会現象や事件を観察し、記録して、文章にしようとするときには、常に
5W1Hの視点で、これをチェックリストにして、その全体を見落としが無いように観て
記録し文にする訓練を受けると聞きます。
 5W1Hとは、次のようなことでしたね。
・何時(When)
・何処で(Where)
・誰がまたは誰に(Who/Whom)
・何故/どういう思惑、動機、目的で/何を切っ掛けに/何に反応して(Why)
・何を(What)
・どのように/如何なる手段・方法で(How)

 文化人類学者は、5W1Hに、次のものを付け加えます。
・行為全体に付けられている固有の名前(例えば結婚式。豊作祈願の○○祭り)の確認
・行為の動機/行為の切っ掛け(表向きと裏の真の動機がある)
・行為の目的や意図(表向きと裏の真の目的や意図とがある)
 以上の2つは、Whyをジャーナリストでは無い文化人類学者的に言い変えたもの。
・(行為した)その結果は、結局どうなったのか(目的/意図/動機は満たされたのか)

 これに、一般法則論的な観点を2つ加えます。
・その行為がもたらした、良いまたは悪い、肯定的または否定的、誇りになり自信になっ
たまたは後ろめたくて自信をなくしたなどの影響
・この行為の結果が、そうと意図して或いはそうとは全く自覚せずに、次の行為の動機付
け(もう懲りた、同じ失敗はしたくないし、早く忘れてしまいたい/もっとやってみよう
とか)や原因設定になったかどうかを後で確認

 その行為に付けられている固有の名前の確認のことですが、自分の行動では、それは、
通勤/通学、愛する、怒る、嫉妬、意趣返し、眠る、遊び、楽しむなどや、交流分析が教
えてくれる親/成人/子供の目というレッテル/ラべル/見出し/分類名を付けることで
す。
 「ああ、今、私は、5W1H+文化人類学者の視点+一般法則論の視点+交流分析の視
点で観て、嫉妬しているのだ」という訳です。
 それが自分にとって、例えば後々の教訓となることだと思うことについては、私はよく
「私の○○事件」という特別の名前をつけます。

 これが自己観察をしているその瞬間に完全に出来なくても、後から思い出したときにや
ると思わぬ発見をします。

○自分を知るための方法の鍵言葉
 「自分を知る」ための方法に関する「鍵言葉」は、次のようなものです。
・ 無意識の意識化。そして悟りの世界へ。
・ 自分との対話で、自分自身を発見する(自己発見は自分で)
・ 自分で、自分自身の言動を、リアルタイムで、一日中、よく観察すること(リアルタ
  イムの自己観察)
・ 何を観察し意識化し発見し確認したのかを必ず口に出して言葉で表現する(口に出し
  ての言語化)
・ 自分大から宇宙大にまで自分の意識を自覚的に拡大しまた反対に縮小する練習(意識
  の及ぶ範囲の自由自在化と宇宙大化)

 以下にこれらのことを説明。

○無意識の意識化を通して悟りの世界へ
 自分を知る行為は、この世界を知るための大原理である、「無意識の意識化の原理」に
則って行われます(この世界の成り立ちそのものが、「絶対的無意識の意識化の原理」に
則っていることは別の所で説明)。
 また、無意識の意識化に当たっては、言語/言葉が持つ、気付かずにいるもの/無意識
のもの/未知のものを、名前を付け、言葉で表現することで、気付かたれたもの、意識化
されたもの、自覚化されたもの、既知のものにする機能/作用を、自覚的に、意図的に活
用します。

 言語の機能を自覚的に意図的に活用した、自分自身に関する無意識の意識化。
 これは、単にこれまで自分でも知らなかった自分を発見するこに止まらずに、私自身の
体験でもある、禅などでいういわゆる悟りの体験にさへ導いてくれます。
 このことについてこれ以上の詳しい話は別の所ですることにして、自分で自分を知るた
めの実際的な方法と技術・ノウハウについての説明をしましょう。

 実際のことは、あなたご自身で試してみて、そのコツを発見し体得してください。

○いつやるのか
 自己観察は、自分が居るところで、1日24時間、少なくとも数カ月、毎日、寝ていて
夢を見ている中でもすることです。
 自己観察は、習慣になるまで、少なくとも最初は、自覚的に、意図的に行うこと。
 できたら、自己観察は、一生涯続けることです。

○どこでやるのか───臨機応変に
 これを自分が存在し活動している様々の場面の現場で、臨機応変にすることです。
 ここで勧める自己観察の方法は、定型化された場面でのみ行うのではないことです。
 人は、振る舞う環境や条件が異なると、これに伴って、また別の振る舞い方をするもの
です。これは、新しい自分の発見の機会になります。これを逃さないように!

 ついでに言えば、知り合いになった者同士で理解を深める方法も、出来るだけ異なる様
々の場面で、お互いの振る舞い方を見せ合うことです。
 ここでも、その目的に合わせたシステムを自覚的に作って構造的に/システム的に振る
舞っています。

○リアルタイムの自己観察
 自己観察は、リアルタイム/即時でやるのが、大事な原則です。
 後になって思い出す式のやり方では、その瞬間にしか観察できない自分の行動を見落と
す恐れがあるからです。
 これは、一度に沢山の買物をすると、後になると何と何を買ったのか、その全部を思い
出せなくなる体験のある方ならすぐにお分かり頂けると思います。

 自分が、今、この瞬間、意識や無意識で考えたり、感じたり、行動(習慣化され自動化
された無意識的な行動もある)したり、自分の体を覆う皮膚の外側にある世界に反応した
りしている様子を、その場で、自分でその瞬間に即時に/リアルタイムに意識化し、自覚
化して、「今、この瞬間、自分は何をどうしているのか」をちょっと確認すること。
 そして、これをその場で即座に口に出して言語化し、自分の何に気が付いたのかを記憶
しておくと決めること。

 これを行うことが、自己発見、自分発見を確実に行うための中心の技術です。
 これ抜きでは、自分のありの儘の現状の姿が見えて来ません。
 成りたい自分、かくありたい自分は、この先に初めてハッキリと見えて来ます。
 成りたい自分、かくありたい自分を発見したいと思わなくても、自分のありの儘の現状
の姿が見えて来ると、それが自然に分かることが少なくありません。

 ところで、あなたは、今、何をされていますか?
 その自分はどんな感じ?
 何を思って(感じて)いますか?

○自動的かつ必然的に働く記憶の仕組み
 記憶しておきたいことは、その瞬間に、「これを記憶する」と決めるだけで充分です。
 こう決めると、後は、人に生得的に備わっている「記憶の仕組み」が自動的かつ必然的
に働いて、脳/身体が記憶してくれます。この生得的な記憶能力を信頼しましょう。

 以上で、(上)終わり。
 次は、「発見は必ず言葉で口に出して言うことの大切さと必要性で始まる」(中)