■五辨の椿/山本周五郎 2017.8.22
『ミステリ国の人々』(有栖川有栖)紹介の古典、その4は、山本周五郎作
『五辨の椿』 を選びました。
『ミステリ国の人々』の紹介文。
『五瓣の椿』の方は復讐をモチーフにした時代小説で、推理による謎解きの興味は薄く、クライム・ノベルと呼ぶのがふさわしい。「わざわざ横文字を使わなくても、おとっつあんの仇討ちを描いた時代ものだろ」と言われたら、まあそうなんですけれど、ミステリ国の言葉を使ってみました。
読んだのは、『五辨の椿/長編小説全集/第十三巻/新潮社』です。
ルビ、脚注が豊富です。
煩わしいのか、分かりやすいのか、言葉の解説があるのは、重宝しましたが。
例えば、こんな言葉です。
「あのときはあんなふうに消えてしまうし、それっきり鼬の道で、いくら逢いたくっても逢うてだてはなし、罪なひとだ、おりうさんというひとは」
(鼬の道 鼬の道切り。 往来や交際が途絶えるたとえ。鼬(いたち)はその通路を遮断されると、同じ通路を二度と通らないという俗信から。)
「そういうのをかったいのかさ恨みって云うらしいぜ」
(今日の観点からみると差別的表現ないし........)
第四話で、町方与力の青木千之助が登場して、やっとミステリらしくなってきます。
いよいよ探偵登場ですね。
あなたにも読んでいただきたくて、いつものごとく、このミステリの雰囲気をつかんでみましょう。
喜兵衛は話した。
家のうしろに小さな丘があり、その丘を越したところに、竹藪に囲まれて小さな池があった。藪の中にも山椿の若木が幾本か伸びていたが、池畔にある古木はその太い根の一部を池に浸し、枝も池の上まで伸ばしてい、花期になると、落ちた花で、池の水が見えなくなるくらいであった。
「眼をつむると、いまでもそのけしきがありありと見える」と喜兵衛は云った、「私は子供のじぶん、親に叱られるとか、友達と喧嘩をしたあととか、悲しい、たよりないような気持になるとかすると、よく独りでその池の側へいって、ぼんやりと時をすごしたものだ」
ほかの季節は知らない、記憶に残っているのは椿の咲いているときのことだけである。
あんたの云うとおり、あの人は道楽も知らず朝から晩まで雇い人といっしょに働いたわ、まじめで、正直で、むさし屋を先代より繁昌させたし、油屋の店も出すようになったわ、それはそのとおりだけれど、良人としては味もそっけもない、退屈でつ まらない人だった、女の気持もわからないし、これっぽっちも面白味のない人だったわ」
「もうちょっと云わせて」とおそのは頭をぐらぐらさせながら続けた、「----女というものはね、おしのちゃん、自分のためにはなにもかも捨てて、夢中になって可愛がってくれる人が欲しいものよ、あたしのためならむさし屋の店も、財産もくそもないというほどうちこんでくれたら、あたしだってもう少しはあの人に愛情を持てたと思う」
おしのは静かに眼をあいて、父のほうを見た、「小さな池の側に、椿が咲いていたのね、お父つぁん、その池の側へいっていて下さいな、あたしもすぐにゆくわ、あたし道がわからないから、迎えに来てちょうだいね」
この世には御定法で罰することのできない罪がある。
世間はこんなものなのだろうか、とおしのは思った。
幸福でたのしそうで、いかにも満ち足りたようにみえていても、裏へまわると不幸で、貧しくて、泣くにも泣けないようなおもいをしている。世間とは、本当はそういうものなのかもしれない。----そうだとすれば、おっ母さんのような人はいっそう赦すことができない。心では救いを求めて泣き叫びたいようなおもいをしながら、それを隠してまじめに世渡りをしている人たち。そういう人たちの汗や涙の上で、自分だけの欲やたのしみに溺れているということは、人殺しをするよりもはるかに赦しがたい悪事だ。
「その人の罪は、御定法で罰せられないとすれば、その人自身でつぐなうべきものだ」
読みやすく、分かりやすい文章。深い人間洞察。市井の人々への温かな眼差し。
久しぶりの山本周五郎作品でした。読んで良かった。
ずっと昔、夢中で読み耽った作品は
『樅ノ木は残った』
『赤ひげ診療譚』
『さぶ』
これらの作品から、人としていかに生きるべきかを学びました。
人が生きていくためには、お互いに守らなければならない掟がある。その掟が守られなければ世の中は成り立ってゆかないだろうし、人間の人間らしさも失われてしまうであろう。
『 五辨の椿/山本周五郎/新潮文庫 』
『ミステリ国の人々』(有栖川有栖)紹介の古典、その4は、山本周五郎作
『五辨の椿』 を選びました。
『ミステリ国の人々』の紹介文。
『五瓣の椿』の方は復讐をモチーフにした時代小説で、推理による謎解きの興味は薄く、クライム・ノベルと呼ぶのがふさわしい。「わざわざ横文字を使わなくても、おとっつあんの仇討ちを描いた時代ものだろ」と言われたら、まあそうなんですけれど、ミステリ国の言葉を使ってみました。
読んだのは、『五辨の椿/長編小説全集/第十三巻/新潮社』です。
ルビ、脚注が豊富です。
煩わしいのか、分かりやすいのか、言葉の解説があるのは、重宝しましたが。
例えば、こんな言葉です。
「あのときはあんなふうに消えてしまうし、それっきり鼬の道で、いくら逢いたくっても逢うてだてはなし、罪なひとだ、おりうさんというひとは」
(鼬の道 鼬の道切り。 往来や交際が途絶えるたとえ。鼬(いたち)はその通路を遮断されると、同じ通路を二度と通らないという俗信から。)
「そういうのをかったいのかさ恨みって云うらしいぜ」
(今日の観点からみると差別的表現ないし........)
第四話で、町方与力の青木千之助が登場して、やっとミステリらしくなってきます。
いよいよ探偵登場ですね。
あなたにも読んでいただきたくて、いつものごとく、このミステリの雰囲気をつかんでみましょう。
喜兵衛は話した。
家のうしろに小さな丘があり、その丘を越したところに、竹藪に囲まれて小さな池があった。藪の中にも山椿の若木が幾本か伸びていたが、池畔にある古木はその太い根の一部を池に浸し、枝も池の上まで伸ばしてい、花期になると、落ちた花で、池の水が見えなくなるくらいであった。
「眼をつむると、いまでもそのけしきがありありと見える」と喜兵衛は云った、「私は子供のじぶん、親に叱られるとか、友達と喧嘩をしたあととか、悲しい、たよりないような気持になるとかすると、よく独りでその池の側へいって、ぼんやりと時をすごしたものだ」
ほかの季節は知らない、記憶に残っているのは椿の咲いているときのことだけである。
あんたの云うとおり、あの人は道楽も知らず朝から晩まで雇い人といっしょに働いたわ、まじめで、正直で、むさし屋を先代より繁昌させたし、油屋の店も出すようになったわ、それはそのとおりだけれど、良人としては味もそっけもない、退屈でつ まらない人だった、女の気持もわからないし、これっぽっちも面白味のない人だったわ」
「もうちょっと云わせて」とおそのは頭をぐらぐらさせながら続けた、「----女というものはね、おしのちゃん、自分のためにはなにもかも捨てて、夢中になって可愛がってくれる人が欲しいものよ、あたしのためならむさし屋の店も、財産もくそもないというほどうちこんでくれたら、あたしだってもう少しはあの人に愛情を持てたと思う」
おしのは静かに眼をあいて、父のほうを見た、「小さな池の側に、椿が咲いていたのね、お父つぁん、その池の側へいっていて下さいな、あたしもすぐにゆくわ、あたし道がわからないから、迎えに来てちょうだいね」
この世には御定法で罰することのできない罪がある。
世間はこんなものなのだろうか、とおしのは思った。
幸福でたのしそうで、いかにも満ち足りたようにみえていても、裏へまわると不幸で、貧しくて、泣くにも泣けないようなおもいをしている。世間とは、本当はそういうものなのかもしれない。----そうだとすれば、おっ母さんのような人はいっそう赦すことができない。心では救いを求めて泣き叫びたいようなおもいをしながら、それを隠してまじめに世渡りをしている人たち。そういう人たちの汗や涙の上で、自分だけの欲やたのしみに溺れているということは、人殺しをするよりもはるかに赦しがたい悪事だ。
「その人の罪は、御定法で罰せられないとすれば、その人自身でつぐなうべきものだ」
読みやすく、分かりやすい文章。深い人間洞察。市井の人々への温かな眼差し。
久しぶりの山本周五郎作品でした。読んで良かった。
ずっと昔、夢中で読み耽った作品は
『樅ノ木は残った』
『赤ひげ診療譚』
『さぶ』
これらの作品から、人としていかに生きるべきかを学びました。
人が生きていくためには、お互いに守らなければならない掟がある。その掟が守られなければ世の中は成り立ってゆかないだろうし、人間の人間らしさも失われてしまうであろう。
『 五辨の椿/山本周五郎/新潮文庫 』
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