■素晴らしき世界(上・下)/マイクル・コナリー 2022.1.24
ボッシュとバラードは、ディジー・クレイトン未解決事件の手がかりをファーマーの書いたシェイク・カードに探す。
哀愁を帯びたストリート・レポートは、ふたりを捉えて放さない。
要約セクションには、ハリウッドの通りとこの特定の住人に関するファーマー独自の見解が含まれていた。
“イーグル”と我々の道が交差するのはこれが最初でも最後でもないだろう。
憎しみと暴力の、深くて癌を患ったような川が彼の血管を流れている。
わたしにはそれが感じられる、それが見える。
彼は待っている。彼は憎んでいる。彼はあらゆる希望を裏切っているのはこの世のせいだと考えている。
わたしは自分たちのことを心配している。
バラードはファーマーの見解を二度読んだ。デイジー・クレイトンの殺害事件から五年後に書かれていた。ファーマーがイーグルトンのなかに見た、脈動し、この先に待ち構えている暴力が二〇〇九年にすでに解き放たれていたというのはありうるのか? 未来を見るだけでなく、ファーマーは過去も見たのか?
バラードは、事件解決のために自らの人脈を使う。
女性判事、ヘリの観測員、ポルノの映画監督。
過去の貸しは、遠慮なく返してもらう。脅してでも。
ウィックワイアは、司法制度のなかで長いキャリアを積んだ元警察官であり、次に検事になり、いまは判事となっていた。そのどのステップでも、ミソジニーや差別を彼女なりに味わってきたのだろう、とバラードは推測した。バラードは、自分自身が出会い、克服してきた障害をけっして口にしたことはなかったが、その一部は法執行共同体のなかで知られており、ウィックワイア判事はそれに気づいて、共感してくれているものとバラードは信じていた。そこには親近感があった。
「オーケイ」
「最初の名前は、カート・パスカル。ポルノ俳優ということになっている。少なくとも九年前はポルノ俳優だった。」
「九年まえ、うへ、業界はそれだけの時間で二回は様変わりしているよ。人は来て、行く・・・・・・冗談のつもりはない」
「じゃあ、彼のことは知らないんだ」
「あのさ、あたしが知っているのは芸名でなんだ。」
エリザベスのその後が気になっていたのだが、やはりという結果を聞かされる。
人は、おおきな悲しみを乗りこえることが出来ないのか。
エリザベスのニュースにあまり驚きはしなかったが、それでもショックを受けていた。
過剰摂取は意図的なものだろうか、と考える。空の薬壜は、手に入れたものをすべて摂取したことを示唆していた。
そうした詳細はボッシュにはどうでもよかった。なぜなら、彼女の死は殺人だとボッシュは見なしていたからだ。九年がかりの殺人だった。デイジーの命を奪った人間はだれであれ、エリザベスの命も奪ったのだ。殺人犯がエリザベスと、一度も会ったことがなく、あるいは一度も見たことがなかったとしても関係なかった。犯人はエリザベスから大切なものをすべて奪ったのだ。犯人は彼女の娘を殺したのとおなじように明白に彼女も殺したのだ。ひとつの行為でふたりの殺人。
ボッシュは自分に誓った。エリザベスはいまや逝ってしまったが、ボッシュは殺人犯の名前を挙げる努力をつづけるつもりだった。そいつを見つけだし、代償を支払わせるつもりだった。
エリザベスの薬を抜くためにした、シスコの献身を懐かしく思い出す。
強面のシスコの優しさを。
「もしもし?」
「シスコ、ボッシュだ。エリザベスの悪い知らせがある」
「話せ」
「彼女は乗り切れなかった。ハリウッドのモーテルの客室で彼女は見つかった。過剰摂取のようだ」
「クソ……」
「ああ」
ふたりは長いあいだ黙っていたが、やがてシスコがその沈黙を破った。
「強くなったと思ってたんだ。彼女といっしょに過ごしたあの週----彼女が薬を抜いたとき----おれは確かなものを見た。彼女は乗り切れたと思った」
「ああ、おれもだ。だが、だれにもほんとうのところはわからない、そうだろ?」
「そうだな」
それから数分間、雑談を交わしてから、ボッシュはエリザベスにシスコがしてくれたいろんな世話に対して礼を述べ、電話を終えた。
ボッシュに、私的制裁を踏みとどまらせたものは..........
ベンダーにサティコイ・ストリートの住所を伝えたあと、ボッシュはそれ以上なにもいわずに電話を切った。公衆電話を離れ、がらんとした大通りを横断して、自分の車に戻ろうとした。
頭のなかでさまざまな思いがぶつかりあっていた。さまざまな顔も去来していた。
エリザベスの顔。そしてエリザベスの娘の顔----写真でしかボッシュは知らなかった。ボッシュは、自身の娘のことを考え、愛娘を失ったジョージ・ペンダーと、娘の死がもたらすであろう分別を失わせるような悲しみのことを考えた。
すると、裁きと復警を求めるつかのまの衝動と引き換えにあらたな種類の後悔と悲しみがやってくる道をベンダーにたどらせようとしているのに気づいた。自分たちふたりのために。
大通りのまんなかでボッシュは踵を返した。
コンビを組んだ、ボッシュとバラード。今後の活躍が楽しみだ。
うつらうつらしながら父親のことを考え、彼がお気に入りのサーフボードにまたがり、ヴェトナムについて、人を殺したことについて自分に話したのを思いだした。ボッシュが口にしたように口にし、やらなければならなかったんだと言い、その事実とともに生きていかねばならなかったんだと言った。父はヴェトナムでの経験のすべてを一言にまとめた。「シン・ローイ」と。ヴェトナム語で、「お気の毒様」という意味だ。
「そうする」バラードはささやいた。
ボッシュは歩いていく。バラードは彼を呼び止めた。
「ハリー」
ボッシュはバラードを振り返った。
「ありがとう」
「それはさっき聞いたぞ」
「さっきのはそのまえのことに対して。いまのは重荷を引き受けてくれたことに対してのお礼」
「なんの重荷だ? おれにはそよ風みたいなものだ」
ボッシュは自分の車に向かった。バラードは彼が歩いていくのを見つめた。
バラードはポケットに両手を入れていた。自分に関するいろんなことをボッシュが話しているあいだ、彼女はアスファルトを見おろしていた。本当のことだとバラード自身わかっていることを。とりわけ傷について。
バラードはうなずいた。
「オーケイ、ハリー。いっしょに事件を調べましょう。だけど、わたしたちは規則を曲げることになる。規則を破るんじやなくて」
ボッシュはうなずき返した。
「それでいいだろう」ボッシュは言った。
「どこからはじめるの?」バラードは訊いた。
「わからん。そのときが来たら、おれに連絡してくれ。おれはその辺にいるよ」
「わかった、わたしから信号を送る」
ふたりはそれに関して握手をし、それぞれ別の道にわかれた。
『 すばらしき世界(上・下)/マイクル・コナリー/古沢嘉通訳/講談社文庫 』
ボッシュとバラードは、ディジー・クレイトン未解決事件の手がかりをファーマーの書いたシェイク・カードに探す。
哀愁を帯びたストリート・レポートは、ふたりを捉えて放さない。
要約セクションには、ハリウッドの通りとこの特定の住人に関するファーマー独自の見解が含まれていた。
“イーグル”と我々の道が交差するのはこれが最初でも最後でもないだろう。
憎しみと暴力の、深くて癌を患ったような川が彼の血管を流れている。
わたしにはそれが感じられる、それが見える。
彼は待っている。彼は憎んでいる。彼はあらゆる希望を裏切っているのはこの世のせいだと考えている。
わたしは自分たちのことを心配している。
バラードはファーマーの見解を二度読んだ。デイジー・クレイトンの殺害事件から五年後に書かれていた。ファーマーがイーグルトンのなかに見た、脈動し、この先に待ち構えている暴力が二〇〇九年にすでに解き放たれていたというのはありうるのか? 未来を見るだけでなく、ファーマーは過去も見たのか?
バラードは、事件解決のために自らの人脈を使う。
女性判事、ヘリの観測員、ポルノの映画監督。
過去の貸しは、遠慮なく返してもらう。脅してでも。
ウィックワイアは、司法制度のなかで長いキャリアを積んだ元警察官であり、次に検事になり、いまは判事となっていた。そのどのステップでも、ミソジニーや差別を彼女なりに味わってきたのだろう、とバラードは推測した。バラードは、自分自身が出会い、克服してきた障害をけっして口にしたことはなかったが、その一部は法執行共同体のなかで知られており、ウィックワイア判事はそれに気づいて、共感してくれているものとバラードは信じていた。そこには親近感があった。
「オーケイ」
「最初の名前は、カート・パスカル。ポルノ俳優ということになっている。少なくとも九年前はポルノ俳優だった。」
「九年まえ、うへ、業界はそれだけの時間で二回は様変わりしているよ。人は来て、行く・・・・・・冗談のつもりはない」
「じゃあ、彼のことは知らないんだ」
「あのさ、あたしが知っているのは芸名でなんだ。」
エリザベスのその後が気になっていたのだが、やはりという結果を聞かされる。
人は、おおきな悲しみを乗りこえることが出来ないのか。
エリザベスのニュースにあまり驚きはしなかったが、それでもショックを受けていた。
過剰摂取は意図的なものだろうか、と考える。空の薬壜は、手に入れたものをすべて摂取したことを示唆していた。
そうした詳細はボッシュにはどうでもよかった。なぜなら、彼女の死は殺人だとボッシュは見なしていたからだ。九年がかりの殺人だった。デイジーの命を奪った人間はだれであれ、エリザベスの命も奪ったのだ。殺人犯がエリザベスと、一度も会ったことがなく、あるいは一度も見たことがなかったとしても関係なかった。犯人はエリザベスから大切なものをすべて奪ったのだ。犯人は彼女の娘を殺したのとおなじように明白に彼女も殺したのだ。ひとつの行為でふたりの殺人。
ボッシュは自分に誓った。エリザベスはいまや逝ってしまったが、ボッシュは殺人犯の名前を挙げる努力をつづけるつもりだった。そいつを見つけだし、代償を支払わせるつもりだった。
エリザベスの薬を抜くためにした、シスコの献身を懐かしく思い出す。
強面のシスコの優しさを。
「もしもし?」
「シスコ、ボッシュだ。エリザベスの悪い知らせがある」
「話せ」
「彼女は乗り切れなかった。ハリウッドのモーテルの客室で彼女は見つかった。過剰摂取のようだ」
「クソ……」
「ああ」
ふたりは長いあいだ黙っていたが、やがてシスコがその沈黙を破った。
「強くなったと思ってたんだ。彼女といっしょに過ごしたあの週----彼女が薬を抜いたとき----おれは確かなものを見た。彼女は乗り切れたと思った」
「ああ、おれもだ。だが、だれにもほんとうのところはわからない、そうだろ?」
「そうだな」
それから数分間、雑談を交わしてから、ボッシュはエリザベスにシスコがしてくれたいろんな世話に対して礼を述べ、電話を終えた。
ボッシュに、私的制裁を踏みとどまらせたものは..........
ベンダーにサティコイ・ストリートの住所を伝えたあと、ボッシュはそれ以上なにもいわずに電話を切った。公衆電話を離れ、がらんとした大通りを横断して、自分の車に戻ろうとした。
頭のなかでさまざまな思いがぶつかりあっていた。さまざまな顔も去来していた。
エリザベスの顔。そしてエリザベスの娘の顔----写真でしかボッシュは知らなかった。ボッシュは、自身の娘のことを考え、愛娘を失ったジョージ・ペンダーと、娘の死がもたらすであろう分別を失わせるような悲しみのことを考えた。
すると、裁きと復警を求めるつかのまの衝動と引き換えにあらたな種類の後悔と悲しみがやってくる道をベンダーにたどらせようとしているのに気づいた。自分たちふたりのために。
大通りのまんなかでボッシュは踵を返した。
コンビを組んだ、ボッシュとバラード。今後の活躍が楽しみだ。
うつらうつらしながら父親のことを考え、彼がお気に入りのサーフボードにまたがり、ヴェトナムについて、人を殺したことについて自分に話したのを思いだした。ボッシュが口にしたように口にし、やらなければならなかったんだと言い、その事実とともに生きていかねばならなかったんだと言った。父はヴェトナムでの経験のすべてを一言にまとめた。「シン・ローイ」と。ヴェトナム語で、「お気の毒様」という意味だ。
「そうする」バラードはささやいた。
ボッシュは歩いていく。バラードは彼を呼び止めた。
「ハリー」
ボッシュはバラードを振り返った。
「ありがとう」
「それはさっき聞いたぞ」
「さっきのはそのまえのことに対して。いまのは重荷を引き受けてくれたことに対してのお礼」
「なんの重荷だ? おれにはそよ風みたいなものだ」
ボッシュは自分の車に向かった。バラードは彼が歩いていくのを見つめた。
バラードはポケットに両手を入れていた。自分に関するいろんなことをボッシュが話しているあいだ、彼女はアスファルトを見おろしていた。本当のことだとバラード自身わかっていることを。とりわけ傷について。
バラードはうなずいた。
「オーケイ、ハリー。いっしょに事件を調べましょう。だけど、わたしたちは規則を曲げることになる。規則を破るんじやなくて」
ボッシュはうなずき返した。
「それでいいだろう」ボッシュは言った。
「どこからはじめるの?」バラードは訊いた。
「わからん。そのときが来たら、おれに連絡してくれ。おれはその辺にいるよ」
「わかった、わたしから信号を送る」
ふたりはそれに関して握手をし、それぞれ別の道にわかれた。
『 すばらしき世界(上・下)/マイクル・コナリー/古沢嘉通訳/講談社文庫 』